プロローグ
「見ろよ。あのデブが茉莉絵さんの妹だぜ」
「まじか。あんなのが」
「遺伝子って残酷だよな」
2つ年上の姉、茉莉絵は才色兼備、容姿端麗。あらゆる褒め言葉が似合う可憐な女性だ。茉莉絵の美しさや可愛さは外見だけでなく内面にも及ぶ。好きな色はパステルカラーで特にピンク。花を愛でることが趣味で料理や裁縫も得意。そんな彼女の魅力は尽きることがない。
そして私、望月海月は完璧な姉と比較され続けた。
スナック菓子や炭酸飲料を手に取ると、母は私と茉莉絵を見比べ、深いため息。
バトルマンガに熱中すれば、クラスメイトは「茉莉絵さんの妹がそんなものを?」と嘲笑した。皆んなはあからさまに態度を変る。私がどれほど傷つこうがお構いなしだ。
そんな日々の中で、私は気づいてしまった。世の中「可愛い」だけで多くのことが許される。反対にそうでない者は苦労を強いられる。その歪んだ偏見を、心のどこかで受け入れていた。
✳︎✳︎✳︎✳︎
「じゃあねー」
「また明日な」
大学のサークル仲間と遅くまで飲み、ようやく店を出た。店先で別れの挨拶を交わしながら時間を確認する。
終電まであと20分。店から駅までは徒歩で10分ほどだった。
「今日、すっごく楽しかった。ありがとー」
満面の笑みで皆に告げ、駅へと歩き始めた。5分ほど歩き続けたところで、背後から声が響いた。
「ねえ、望月さん! ちょっと待って!」
振り返ると、サークルの村田くんが立っていた。
「村田くん、どうした?」
尋ねながら腕時計を確認した。終電まで15分。ここから駅まで5分もかからないはずだが、余裕はない。
村田くんは私の焦りに気づかず、頬を指で掻きながら気まずそうに口を開いた。
「えっとさ、実は、望月さんに話したいことがあって……」
「ごめん、ちょっと急いでるんだよね」
眉をハの字にし、申し訳なさそうな声を出した。両手を顔の前で合わせ、内心の苛立ちを隠した。
私は村田くんが正直苦手だ。
終電間際に私を呼び止める彼は、人の都合をあまり顧みない。
しかし185センチの長身に、細身ながら筋肉質な体型。彼が身につけるブランド物の服やバックは常に艶を放つ。さらに彼からは香水の香りが微かに漂う。そんな村田くんはサークルで人気者だ。冷たくすれば今後の活動が気まずくなる。
「すぐ済むから。お願い」
村田くんの強引な性格はサークル内の女子には人気らしい。けれど私は苦手だった。
「え、でも、急いでて……」
「頼むよ」
ため息を抑え、笑顔を貼り付けた。
「うん、分かった。なに?」
「実は前から望月さんのこと、気になってて……」
どうやら告白のようだ。けれど終電への焦りが頭を支配する。また時計を見ると、あと10分。
「望月さんの全部好きなんだ。野菜とかフルーツ、ケーキとか甘い物が好きなとこ、めっちゃ可愛い。服やバッグ、ネイルまで気遣ってるのも尊敬する。恋愛マンガに夢中で楽しそうに話すとこも、めっちゃ好きで……」
彼は大きく息を吸い、言葉を続けた。話が長い。「すぐ済む」と言ったはずなのに。
「俺と付き合ってください!」
深々と頭を下げ、村田くんが想いをぶつけてきた。
心の中で盛大にため息をついた。私と村田くんが付き合うなどありえない。だけど今後のサークル活動に悪影響が出ないように断らなくては。角が立たない断り方を必死に考える。
✳︎✳︎✳︎✳︎
少し口を開きかけて、ためらう素振りを見せた。言葉を慎重に選びながら、ゆっくり話し始めた。
「村田くんが私なんかを好きになってくれて嬉しいよ。ありがとう」
傲慢に思われないよう「私なんか」と自分を下げる。声のトーンを落とし、申し訳なさそうにうつむいた。
言葉に詰まるふりをして、ゆっくり話した。相手を気遣いつつ断る意図が伝わるように。変な期待は持たせないように気をつける。
こういう時「村田くんのこと好きじゃないから」とストレートに言えたら、どんなに楽だろう。
「でも私、村田くんのことをよく知らないんだ。ずっと頼れる友達だと思ってたから、恋人になるのは想像できないよ」
「じゃあさ」
村田くんが私の言葉を遮る。私の反応を気にせず、ぐいぐい話し続けた。
「これから俺のこと男として見てよ。断るのはそれからでも遅くないだろ?」
ほんと、強引すぎる。頭を抱えたくなる。この憂鬱な告白を一刻も早く終わらせたいのに。
「でも村田くんを異性として好きになるか分からないよ。なのに、告白を保留にするなんてできない」
「好きになるかなんて気にしなくていい。俺がまだ諦めたくないだけだから」
かっこよく聞こえるけどただの自己満足じゃない?
でも、ここまで言われたら断りづらい……。
「分かった。じゃあこれから村田くんのこと、異性として意識してみるよ」
「マジ? ありがとう。それとさ、これから望月さんのこと名前で呼んでもいいかな」
「いいよ」
本当は嫌だった。でも話を早く終わらせたい一心で頷く。
「ありがとう。えっと……海月」
「ふふ、名前で呼ばれると照れるね」
面倒くさいと思いながらも村田くんが喜ぶであろう反応を返した。それから申し訳なさそうな顔を作る。
「ごめんね。急いでいるからもう行くね」
「分かった。話を聞いてくれてありがとな。じゃあバイバイ」
元気いっぱいに手を振る村田くんに控えめに手を振り返す。
それから駅に向かって歩き出した。
角を曲がり、村田くんの姿が見えなくなった瞬間に腕時計を確認した。終電まであと2分。
「うそ、ヤバい!」
小さく叫び駅まで全速力で駆けた。
今日の靴は7センチヒールのサンダル。走るには不向きだった。靴擦れしないことを祈りながら、必死に足を動かす。
息を切らせて駅に辿り着く。改札を抜け、階段を駆け下りる。ホームに滑り込んだ瞬間、無情にも電車が走り去っていく。
「はぁ……!」
盛大にため息をつき、近くのベンチに腰を下ろした。俯いたまま座っているとイライラしてきた。
急いでいると告げたのに時間を気にせず告白してきた村田くん。彼は近所で一人暮らしをしているから終電など関係ないのだろう。
それに、村田くんが私のことを「好き」と言った理由。
——野菜やフルーツが好きで可愛い。
——服やバック、ネイルまで気を使っている所。
——恋愛漫画を夢中で話す所。
だけど私は野菜やフルーツを特に好まない。高カロリーなジャンキーフードが大好きだ。
ヒールの高いサンダルやヒラヒラのワンピースは動きづらいだけ。今もちょっと走っただけで足が痛い。
恋愛マンガやドラマは好きだが、きっかけは「恋愛好きは女の子らしくて可愛い」という不純な動機だった。
本当は、バトルマンガやアクションゲームが何の打算もなく好き。だがサークルの誰も、私がそんなものにハマっていることを知らない。
落ち込んでいても始まらない。スマホを取り出し、近くのネットカフェを検索した。いくつか候補を見つけ場所を確認して立ち上がる。
最寄りの改札口を調べ歩き始める。
ふとホームのベンチに座る男性が目に入った。ぱっと見た感じ20代前半だろうか。
やや大きめのTシャツにジーンズを履いている。肩までかかりそうな髪は男性にしては長めだ。
彼も私と同じく終電を逃したのだろう。そう思うとどこか親近感が湧いた。
何気なく見ると、彼はスマホでゲームに没頭していた。
それは、私も熱中しているアクションゲームのアプリだった。
海外製で、グラフィックは日本のゲームに比べると粗い。敵キャラに愛嬌はなく、攻撃すると血が飛び散り、悲鳴のような音がリアルでグロテスクだ。
だが多彩なスキルを習得する楽しさや、自分に合うスキルを探す過程に心を奪われる。
どんなプレイスタイルなのか気になり、つい後ろから覗き込んだ。
バレないよう1、2メートル離れて、すぐに立ち去るつもりだった。
彼は近接攻撃を好むらしい。私のように遠距離技を選ぶのとは正反対だ。
近接攻撃では敵の攻撃を避けにくいのではないか、と疑問が湧いた。
いつの間にか、近づきすぎていたらしい。
「え、ちょっと、なんですか?」
見知らぬ女に画面を覗かれ、男性が怪訝そうに振り返った。眉間に深い皺が寄っている。
「ごめんなさい。 このゲーム、私も好きで、つい気になっちゃって」
「え、マジ? このゲーム、マイナーじゃない」
「うん、でもハマってる。 今やっと4面までクリアしたとこ」
そこから、ゲームの話で一気に盛り上がった。
彼は私よりずっとやり込んでいて、隠し通路やレアアイテムの場所を次々と教えてくれた。
どのスキルが好きか、どのボスで苦戦したかを熱心に語り合った。
だが、そこで——。
「ハックション!」
私の盛大なクシャミが会話を遮った。
「はは、めっちゃ豪快なクシャミ」
「ごめん、普段はもっと可愛くするんだけど」
言った瞬間、凍りついた。「可愛く」だなんて。自分の発言に自分で驚く。
こんなことは、誰にも言ったことがない。私の一挙一動が演技だとバレかねない発言だった。
「クシャミに可愛いってあるんだ?」
彼はケラケラ笑い、気にした様子はない。ほっとため息をついた。
「でもさ、ここ寒いよね」
彼は私の顔をちらりと見て、言葉を切った。
「もしよかったら、場所変えて話さない?」
話し方や視線から、私の反応を気遣っているのが伝わった。その気遣いが私の胸を温かくする。
「うん、ぜひ! 貴方と話すの楽しいし、終電逃しちゃったから始発まで時間潰さなきゃ」
「俺も終電逃したんだよね」
「仲間だね」
彼の顔を見て笑うと、クスクス笑い返してくれた。
他愛もない会話なのに、なぜか楽しくてたまらなかった。
✳︎✳︎✳︎✳︎
それから、近くの居酒屋に移動した。
お店に入り、ビールを二人分注文した。
「かんぱーい!」
ジョッキをカチンッとぶつけると、澄んだ音が響いた。それから一気にビールを飲み込む。
サークルで演じていた「お酒は飲めるが得意ではない」という設定も今夜はいらない。
「すげえ飲みっぷり」
彼も愉快そうに笑い、自分もビールを豪快に飲んだ。
「そういや今さらだけど、俺、坂口秋人」
「望月海月、よろしくね。」
互いに軽く頭を下げ、自己紹介を交わした。深夜の居酒屋でのやり取りに、どこか新鮮な響きがあった。
「海月ちゃんって呼んでいい?」
「うん、いいよ。じゃあ、私、秋人さんって呼ぶね?」
秋人は黙って頷いた。
「海月ちゃん、ゲーム以外でハマってる趣味ってある?」
「マンガかな」
「へえ、例えば?」
「『鬼⚪︎の刃』とか『ワ⚪︎ピース』とか。」
秋人の前では、好きな物をためらいなく口にできた。
「マジ? 俺も好きだよ」
秋人が大きく頷く。目が輝いた気がした。
「もうすぐ『鬼⚪︎の刃』の映画公開じゃん。めっちゃ楽しみ」
「うん、私も! 待ち遠しいよね」
「公開日に観に行く?」
「うーん、その日はサークルの予定が……」
サークルの話題を口にすると、村田くんの顔が脳裏をよぎった。あの告白以降、彼からの新たなアプローチを想像し気分が重くなる。憂鬱を振り払うようにビールを飲み込んだ。
「そっか。サークルの人と映画行くの?」
「いや、1人で」
サークルでは誰も私のバトルマンガ好きを知らない。その事実が、胸に重くのしかかった。酔いのせいか、普段抑えていた葛藤が、秋人に自然とこぼれていた。
「私、サークルじゃ『可愛い子』ってキャラで通してるんだよね」
秋人はじっと私を見てから首を傾げた。
「俺から見ても海月ちゃんは可愛い女の子だよ」
ストレートな言葉。純粋で飾らないその口調は胸に深く響いた。
「でも、サークルじゃもっと『可愛く』してる。お酒は弱いことにしたり、アクション映画とかアニメは見ないことにしたり」
そう言いながら、ビールを再び口に運んだ。ジョッキは3分の2ほど空になっていた。空腹を感じ、メニューを手に取ると、チキンやポテトなど高カロリーな料理が目に入った。
「じゃあ、ゲームもサークルじゃできないんだ?」
「うん。あんな血が噴き出るゲーム『可愛く』ないでしょ」
初対面の相手に、なぜこんな話をしているのか。引かれるのではないかと不安がよぎった。
「ずっと誰かと比べられてきたの? もしくは『可愛く』いることを強要されたの?」
秋人は心配そうな、だが優しい目で尋ねてきた。初めての問いかけに戸惑いを覚える。
「なんでそう思うの?」
秋人は私の質問には答えずスマホを操作する。1枚の写真を見せてきた。
「この人、誰?」
見知らぬ人だった。整った顔立ちをしている男性だ。
「イケメンだろ」
「うん、イケメンだね」
同意しつつなぜこの写真を、と疑問が湧いた。秋人は構わずもう1枚、別の男性の写真を見せてきた。こちらも整った顔立ちで、先の男性と似ていた。
「この人もカッコいいだろ?」
「うん、そうだね」
興味が薄いまま答えた。
「この2人、俺の兄貴」
「え」
兄弟なら目や鼻、骨格や顔立ちなど似てそうなものだ。だが秋人と見比べて写真の2人と共通点は見出せなかった。
「兄貴二人は顔そっくりなのに、俺だけハズレ」
「ハズレって」
自らを卑下する言葉に違和感を覚える。だがその気持ちは痛いほど理解できた。幼い頃、母から「茉莉絵は当たり、海月はハズレ」と何度も言われた記憶があったからだ。
「ほら、兄弟3人で撮った写真。俺の顔のデカさと身長の低さが目立つだろ」
確かに、小顔で高身長の兄2人と並ぶと、秋人の特徴が際立った。
「あとさ、兄貴たちは運動神経バッチリ。インキャな俺と大違い」
その言葉に茉莉絵と比べられて傷ついた自分の過去が重なる。
「秋人さんは自分が辛い経験をしたから私のことも否定しないでくれるの」
秋人はキョトンとして顔をした。感情表現が豊かな人だ。
「海月ちゃんに否定する所なんてないよ」
私はスマホを取り出し、ゲームの画面を表示して見せた。
「女の子のくせに、こんなグロいゲームやってるよ」
「好きなもんに性別は関係ないでしょ」
今まで私の周りにそんなこと言ってくれる人はいなかった。胸がきゅっと締め付けらる。
「お酒も大好き」
中身がだいぶ減ったジャッキを持ち上げる。
「俺も。お酒大好き」
秋人もジョッキを上げ笑った。改めて乾杯するようにジャッキをぶつけてくる。
「あと、今からチキンとかポテト頼もうかなって」
「ナイス! お腹減ってたんだ」
秋人の無邪気な笑顔に、目尻のシワが刻まれた。
「じゃ、頼んじゃうね」
「うん、ガッツリ食おう」
満面の笑顔に、こちらも笑みがこぼれた。
今の時間は深夜1時。こんな時間に高カロリーな食事を摂るなど、普段なら考えられない。
ビールを追加し、好きなものを食べ、好きな話題で盛り上がった。この気楽な時間は隠れて腕時計を何度も確認するサークルの飲み会とは全く違う。心地よいひとときだった。
居酒屋は深夜2時に閉店。始発は朝4時。目的もなく、夜の街を彷徨うように歩き始めた。
✳︎✳︎✳︎✳︎
「夏とはいえ、夜は少し肌寒いね」
「そうだね」
「あの、嫌じゃなかったら」
秋人がトートバッグから薄手のカーディガンを取り出した。街灯の柔らかな光が、彼の手元を優しく照らす。
「え、嬉しいけど、秋人さんが着なよ」
「大丈夫だよ。ほら、俺、太ってるから」
自分のお腹をポンポンと叩き、秋人が自嘲的に笑う。その悲しげな笑顔に胸がチクリと痛んだ。こんな時、気の利いた言葉を返せない自分の不器用さがもどかしい。
「ありがとう。えっと、借りてもいい?」
「どうぞ」
カーディガンを羽織ると、柔軟剤のほのかな香りが漂った。秋人の温もりに包まれているような錯覚を覚える。夜の街を歩きながら、胸に温かなざわめきが広がる。
「あ、カラオケがあるよ」
「本当だ。入る?」
「うん」
いくらか歩いて時間を潰したが、始発まではまだ1時間半以上あった。迷わず2人でカラオケ店の扉をくぐった。
薄暗い店内で、秋人が最初に選んだのは切ないバラードだった。サークルのカラオケでは、誰もこんな曲を歌わない。皆で盛り上がるアップテンポでリズムの速い曲を選ぶのが暗黙のルールだ。
秋人の歌声は驚くほど澄んでいた。忘れられない元恋人を想う歌詞が、静かなメロディに乗り胸を締め付る。秋人には、この曲に深い思い入れがあるのだろうか。あるいは想い続ける誰かがいるのだろうか。そんな考えが理由もなく私の心をざわつかせた。
「お、いいねー!」
胸のモヤモヤを振り払うように、大好きなアニメソングを入れた。サークルでは決して選ばない本当に好きな曲。テレビ画面に曲名が映ると、秋人は拍手しながら選曲を誉めてくれた。
サビでは2人でデュエットし、曲に合わせて体を揺らした。歌い終わりハイタッチで弾けるような喜びを分かち合った。
それから夢中でアニメソングを歌い続けた。どの曲もお互いに知っていて、名シーンや好きなキャラが映るたび、歓声を上げた。時には手を握り、熱い興奮を共有した。互いの笑顔が薄暗い部屋に小さな光を灯すようだった。
歌い終えた余韻の中、胸の高鳴りを抑えつつ、今日の記念に2人で写真を撮った。
「いやー、もうすっかり朝だね」
カラオケ店を出ると、空は淡い青に染まっていた。秋人が空を見上げ呟く。街のネオンが朝焼けに溶けていく。
「ねー、こんな時間まで遊んだの初めて」
終電を逃すなんて初めての経験だ。
「俺も」
「一緒だね」
他愛もない会話に、顔を見合わせてクスクス笑う。寝不足のせいか、二人とも妙にハイテンションだ。秋人がカラオケの余韻でアニメソングを鼻歌で歌い始め、私はそれに合わせて体を揺らす。歩きながら体を揺らしているため酔っぱらいみたいにフラフラと歩く。
この時間がなぜかとても愛しい。
楽しい時間はあまりにも早く、あっという間に駅のホームに辿り着いた。ここでお別れだ。まだ一緒にいたい。
けれど私と秋人の電車は別だった。
「あ、あの、良かったら連絡先交換しない?」
断られたらどうしよう。緊張と気恥ずかしさで、服の裾をギュッと握った。心臓が高鳴る。
「え」
秋人が驚いたように私を見た。近距離で見つめられたため彼の瞳に私の姿が映る。
「いや、だって、カーディガン返さなきゃだし、今返すと寒いし」
タイミングを逃して今だに借りたままのカーディガン。返せなくて良かったと密かに思う。
「そうだよね。交換しよう」
秋人の連絡先がスマホに登録された瞬間、胸にじんわりと喜びが広がった。口元に抑えきれない笑みが浮かぶ。
「あのさ」
今度は秋人が服の裾をギュッと握る。頬がほのかに赤く、朝の光に照らされている。
「良かったら、18日以降にカーディガン返してもらってもいいかな」
18日以降。それは『鬼⚪︎の刃』の映画公開日以降だ。心がふわりと軽くなる。
「いいよ。それで、良かったらその後、映画一緒に観ない?」
勇気を振り絞り、はっきりと提案した。声が少し震えた。
「ぜひ!」
秋人がやや前のめりに快諾する。その勢いに驚きながらも胸が温かく膨らんだ。
やがて電車がホームに滑り込み、別れの挨拶を交わした。
「またね」
次に会う約束があるから、「さよなら」でも「バイバイ」でもなく「またね」。そんな些細な事実が嬉しくてたまらない。
「またね」
秋人も同じ言葉を返してくれた。
電車のドアが閉まり動き出す。けれど秋人の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。窓の外の景色は朝焼けが静かに広がっていた。
✳︎✳︎✳︎✳︎
楽しみな予定があると、時間が経つのは早い。秋人との再会を心待ちにしているせいか、サークル活動の日も以前ほど憂鬱ではなくなっていた。
今日もいつもより明るい気分でサークルに参加していた。
「機嫌いいね」
声をかけられ、振り返ると村田くんが立っていた。部室には今、私たち以外誰もいなかった。
告白の返事を保留にしたままの彼に、秋人のことを伝えるなら今がチャンスだ。
「ごめん、村田くん。私、好きな人ができた」
「え、どんな人?」
問われ、スマホで秋人と撮った写真を見せた。
「え、マジ? 全然かっこよくねえじゃん。海月と比べて顔デカすぎだし」
「うん、そうかも。でも、私の好きな人なんだ」
村田くんの目を見つめ、はっきりと告げた。彼は一瞬、目を大きく見開いた。
「海月がこんなハッキリ自分の気持ち言うの、珍しいな」
その通りだった。かつて母から「気が強い女は可愛くない」と言われずっと本心を隠しつづけた。相手に好かれるように振る舞ってきた。
「その人のこと、本当に好きなんだな」
村田くんが静かに呟いた。いつも陽気な彼のどこか寂しげな表情。意外に思い、じっと見つめた。
「海月がいつも周りに合わせて愛想笑いしてたの、気づいてたよ」
「え、本当に?」
村田くんは鈍感で、人のことなど気にしないと思っていた。
「ハハ、確かに俺、洞察力ないってよく言われるけどさ。好きな人のことくらいちゃんと見るよ」
その割には終電間際に引き留めて告白してきた。思い出しつい苦笑いを浮かべた。
「まぁ、あの時はちょっと空気読めなかったけどな」
村田くんもニヤッと笑う。その笑顔に、初めて彼と心を通わせた気がした。
「彼の前では素の私でいられるんだ」
「素の海月って、どんな子?」
聞かれ、どこまで話すべきか一瞬迷った。すべてをさらけ出すのは難しい。だが、興味を示してくれた相手をはぐらかしたくなかった。
「本当はお肉やお酒が大好き」
「マジ? いつも『カロリーが~』とか言ってなかった?」
驚いた顔で、だが笑いながら村田くんが答えた。否定されなかったことに安堵し、私も笑みを浮かべた。
「後、恋愛漫画も同じくらいバトル漫画も読むよ」
「たとえば何読むの?」
「『ワ⚪︎ピース』とか『鬼⚪︎の刃』とか」
「マジで。俺も好きだよ。言ってくれたら語れたのに」
村田くんは悔しそうに口を歪める。
「言ったら引かれるかと思った」
「引かないよ。なんでそう思うの?」
「だって前に言ってたから。ガチオタクはないなって」
サークルに入ったばかりの頃、大学内でカバンにアニメのマスコットを大量につけた男子を見かけた。メイド服や露出の多い女の子のマスコットだった。
「うわー、ガチオタクはないわー」
村田くんは軽蔑の色を隠さず言っていた。
「マジか。全然覚えてない」
そうだろう、と思った。私には印象深い言葉だったが村田くんには日常の一言に過ぎなかった。
「今日は暑いね」と天気を語るのと大差ないのだろう。
「そっか。俺が何も考えずに言った言葉のせいで、海月は自分が好きなこと話せなかったんだ」
「うん」
「ごめんな」
「ううん。もう気にしてないから」
清々しい気持ちでそう告げることができた。本当の自分を少しだけさらけ出し、受け入れられたことで、解放感が胸に広がる。
「でも俺、悔しいよ。もしあの時、男子生徒を否定しなけりゃ、俺の告白は上手くいってたのかな?」
「分からない」
「たられば」を語っても意味はない。あの時こうだったらと、どれだけ想像しても現実は変わらない。
それでも、ふと頭をよぎる。村田くんと好きなマンガを語り合う姿。彼がサークルで人気の理由の一つは話が面白いことだ。そんな彼と共通の趣味で盛り上がれたなら、きっと有意義な時間になっただろう。
「まぁさ、残念ながら俺の告白はうまくいかなかったけど、良かったらこれからも仲良くしてよ」
「うん。私も村田くんと色々話したい」
今まで苦手だった村田くんに、初めて心を開きたいと感じた。
「良かったら、海月が心から好きだと思える趣味をこれからも教えて。共通の趣味で盛り上がれるような友達でいたいから」
村田くんとそんな関係になれたなら、サークル活動はもっと楽しくなるだろう。
より充実した大学生活が待っている。そう思うと、自然と口元に笑みが浮かんだ。
「見ろよ。あのデブが茉莉絵さんの妹だぜ」
「まじか。あんなのが」
「遺伝子って残酷だよな」
2つ年上の姉、茉莉絵は才色兼備、容姿端麗。あらゆる褒め言葉が似合う可憐な女性だ。茉莉絵の美しさや可愛さは外見だけでなく内面にも及ぶ。好きな色はパステルカラーで特にピンク。花を愛でることが趣味で料理や裁縫も得意。そんな彼女の魅力は尽きることがない。
そして私、望月海月は完璧な姉と比較され続けた。
スナック菓子や炭酸飲料を手に取ると、母は私と茉莉絵を見比べ、深いため息。
バトルマンガに熱中すれば、クラスメイトは「茉莉絵さんの妹がそんなものを?」と嘲笑した。皆んなはあからさまに態度を変る。私がどれほど傷つこうがお構いなしだ。
そんな日々の中で、私は気づいてしまった。世の中「可愛い」だけで多くのことが許される。反対にそうでない者は苦労を強いられる。その歪んだ偏見を、心のどこかで受け入れていた。
✳︎✳︎✳︎✳︎
「じゃあねー」
「また明日な」
大学のサークル仲間と遅くまで飲み、ようやく店を出た。店先で別れの挨拶を交わしながら時間を確認する。
終電まであと20分。店から駅までは徒歩で10分ほどだった。
「今日、すっごく楽しかった。ありがとー」
満面の笑みで皆に告げ、駅へと歩き始めた。5分ほど歩き続けたところで、背後から声が響いた。
「ねえ、望月さん! ちょっと待って!」
振り返ると、サークルの村田くんが立っていた。
「村田くん、どうした?」
尋ねながら腕時計を確認した。終電まで15分。ここから駅まで5分もかからないはずだが、余裕はない。
村田くんは私の焦りに気づかず、頬を指で掻きながら気まずそうに口を開いた。
「えっとさ、実は、望月さんに話したいことがあって……」
「ごめん、ちょっと急いでるんだよね」
眉をハの字にし、申し訳なさそうな声を出した。両手を顔の前で合わせ、内心の苛立ちを隠した。
私は村田くんが正直苦手だ。
終電間際に私を呼び止める彼は、人の都合をあまり顧みない。
しかし185センチの長身に、細身ながら筋肉質な体型。彼が身につけるブランド物の服やバックは常に艶を放つ。さらに彼からは香水の香りが微かに漂う。そんな村田くんはサークルで人気者だ。冷たくすれば今後の活動が気まずくなる。
「すぐ済むから。お願い」
村田くんの強引な性格はサークル内の女子には人気らしい。けれど私は苦手だった。
「え、でも、急いでて……」
「頼むよ」
ため息を抑え、笑顔を貼り付けた。
「うん、分かった。なに?」
「実は前から望月さんのこと、気になってて……」
どうやら告白のようだ。けれど終電への焦りが頭を支配する。また時計を見ると、あと10分。
「望月さんの全部好きなんだ。野菜とかフルーツ、ケーキとか甘い物が好きなとこ、めっちゃ可愛い。服やバッグ、ネイルまで気遣ってるのも尊敬する。恋愛マンガに夢中で楽しそうに話すとこも、めっちゃ好きで……」
彼は大きく息を吸い、言葉を続けた。話が長い。「すぐ済む」と言ったはずなのに。
「俺と付き合ってください!」
深々と頭を下げ、村田くんが想いをぶつけてきた。
心の中で盛大にため息をついた。私と村田くんが付き合うなどありえない。だけど今後のサークル活動に悪影響が出ないように断らなくては。角が立たない断り方を必死に考える。
✳︎✳︎✳︎✳︎
少し口を開きかけて、ためらう素振りを見せた。言葉を慎重に選びながら、ゆっくり話し始めた。
「村田くんが私なんかを好きになってくれて嬉しいよ。ありがとう」
傲慢に思われないよう「私なんか」と自分を下げる。声のトーンを落とし、申し訳なさそうにうつむいた。
言葉に詰まるふりをして、ゆっくり話した。相手を気遣いつつ断る意図が伝わるように。変な期待は持たせないように気をつける。
こういう時「村田くんのこと好きじゃないから」とストレートに言えたら、どんなに楽だろう。
「でも私、村田くんのことをよく知らないんだ。ずっと頼れる友達だと思ってたから、恋人になるのは想像できないよ」
「じゃあさ」
村田くんが私の言葉を遮る。私の反応を気にせず、ぐいぐい話し続けた。
「これから俺のこと男として見てよ。断るのはそれからでも遅くないだろ?」
ほんと、強引すぎる。頭を抱えたくなる。この憂鬱な告白を一刻も早く終わらせたいのに。
「でも村田くんを異性として好きになるか分からないよ。なのに、告白を保留にするなんてできない」
「好きになるかなんて気にしなくていい。俺がまだ諦めたくないだけだから」
かっこよく聞こえるけどただの自己満足じゃない?
でも、ここまで言われたら断りづらい……。
「分かった。じゃあこれから村田くんのこと、異性として意識してみるよ」
「マジ? ありがとう。それとさ、これから望月さんのこと名前で呼んでもいいかな」
「いいよ」
本当は嫌だった。でも話を早く終わらせたい一心で頷く。
「ありがとう。えっと……海月」
「ふふ、名前で呼ばれると照れるね」
面倒くさいと思いながらも村田くんが喜ぶであろう反応を返した。それから申し訳なさそうな顔を作る。
「ごめんね。急いでいるからもう行くね」
「分かった。話を聞いてくれてありがとな。じゃあバイバイ」
元気いっぱいに手を振る村田くんに控えめに手を振り返す。
それから駅に向かって歩き出した。
角を曲がり、村田くんの姿が見えなくなった瞬間に腕時計を確認した。終電まであと2分。
「うそ、ヤバい!」
小さく叫び駅まで全速力で駆けた。
今日の靴は7センチヒールのサンダル。走るには不向きだった。靴擦れしないことを祈りながら、必死に足を動かす。
息を切らせて駅に辿り着く。改札を抜け、階段を駆け下りる。ホームに滑り込んだ瞬間、無情にも電車が走り去っていく。
「はぁ……!」
盛大にため息をつき、近くのベンチに腰を下ろした。俯いたまま座っているとイライラしてきた。
急いでいると告げたのに時間を気にせず告白してきた村田くん。彼は近所で一人暮らしをしているから終電など関係ないのだろう。
それに、村田くんが私のことを「好き」と言った理由。
——野菜やフルーツが好きで可愛い。
——服やバック、ネイルまで気を使っている所。
——恋愛漫画を夢中で話す所。
だけど私は野菜やフルーツを特に好まない。高カロリーなジャンキーフードが大好きだ。
ヒールの高いサンダルやヒラヒラのワンピースは動きづらいだけ。今もちょっと走っただけで足が痛い。
恋愛マンガやドラマは好きだが、きっかけは「恋愛好きは女の子らしくて可愛い」という不純な動機だった。
本当は、バトルマンガやアクションゲームが何の打算もなく好き。だがサークルの誰も、私がそんなものにハマっていることを知らない。
落ち込んでいても始まらない。スマホを取り出し、近くのネットカフェを検索した。いくつか候補を見つけ場所を確認して立ち上がる。
最寄りの改札口を調べ歩き始める。
ふとホームのベンチに座る男性が目に入った。ぱっと見た感じ20代前半だろうか。
やや大きめのTシャツにジーンズを履いている。肩までかかりそうな髪は男性にしては長めだ。
彼も私と同じく終電を逃したのだろう。そう思うとどこか親近感が湧いた。
何気なく見ると、彼はスマホでゲームに没頭していた。
それは、私も熱中しているアクションゲームのアプリだった。
海外製で、グラフィックは日本のゲームに比べると粗い。敵キャラに愛嬌はなく、攻撃すると血が飛び散り、悲鳴のような音がリアルでグロテスクだ。
だが多彩なスキルを習得する楽しさや、自分に合うスキルを探す過程に心を奪われる。
どんなプレイスタイルなのか気になり、つい後ろから覗き込んだ。
バレないよう1、2メートル離れて、すぐに立ち去るつもりだった。
彼は近接攻撃を好むらしい。私のように遠距離技を選ぶのとは正反対だ。
近接攻撃では敵の攻撃を避けにくいのではないか、と疑問が湧いた。
いつの間にか、近づきすぎていたらしい。
「え、ちょっと、なんですか?」
見知らぬ女に画面を覗かれ、男性が怪訝そうに振り返った。眉間に深い皺が寄っている。
「ごめんなさい。 このゲーム、私も好きで、つい気になっちゃって」
「え、マジ? このゲーム、マイナーじゃない」
「うん、でもハマってる。 今やっと4面までクリアしたとこ」
そこから、ゲームの話で一気に盛り上がった。
彼は私よりずっとやり込んでいて、隠し通路やレアアイテムの場所を次々と教えてくれた。
どのスキルが好きか、どのボスで苦戦したかを熱心に語り合った。
だが、そこで——。
「ハックション!」
私の盛大なクシャミが会話を遮った。
「はは、めっちゃ豪快なクシャミ」
「ごめん、普段はもっと可愛くするんだけど」
言った瞬間、凍りついた。「可愛く」だなんて。自分の発言に自分で驚く。
こんなことは、誰にも言ったことがない。私の一挙一動が演技だとバレかねない発言だった。
「クシャミに可愛いってあるんだ?」
彼はケラケラ笑い、気にした様子はない。ほっとため息をついた。
「でもさ、ここ寒いよね」
彼は私の顔をちらりと見て、言葉を切った。
「もしよかったら、場所変えて話さない?」
話し方や視線から、私の反応を気遣っているのが伝わった。その気遣いが私の胸を温かくする。
「うん、ぜひ! 貴方と話すの楽しいし、終電逃しちゃったから始発まで時間潰さなきゃ」
「俺も終電逃したんだよね」
「仲間だね」
彼の顔を見て笑うと、クスクス笑い返してくれた。
他愛もない会話なのに、なぜか楽しくてたまらなかった。
✳︎✳︎✳︎✳︎
それから、近くの居酒屋に移動した。
お店に入り、ビールを二人分注文した。
「かんぱーい!」
ジョッキをカチンッとぶつけると、澄んだ音が響いた。それから一気にビールを飲み込む。
サークルで演じていた「お酒は飲めるが得意ではない」という設定も今夜はいらない。
「すげえ飲みっぷり」
彼も愉快そうに笑い、自分もビールを豪快に飲んだ。
「そういや今さらだけど、俺、坂口秋人」
「望月海月、よろしくね。」
互いに軽く頭を下げ、自己紹介を交わした。深夜の居酒屋でのやり取りに、どこか新鮮な響きがあった。
「海月ちゃんって呼んでいい?」
「うん、いいよ。じゃあ、私、秋人さんって呼ぶね?」
秋人は黙って頷いた。
「海月ちゃん、ゲーム以外でハマってる趣味ってある?」
「マンガかな」
「へえ、例えば?」
「『鬼⚪︎の刃』とか『ワ⚪︎ピース』とか。」
秋人の前では、好きな物をためらいなく口にできた。
「マジ? 俺も好きだよ」
秋人が大きく頷く。目が輝いた気がした。
「もうすぐ『鬼⚪︎の刃』の映画公開じゃん。めっちゃ楽しみ」
「うん、私も! 待ち遠しいよね」
「公開日に観に行く?」
「うーん、その日はサークルの予定が……」
サークルの話題を口にすると、村田くんの顔が脳裏をよぎった。あの告白以降、彼からの新たなアプローチを想像し気分が重くなる。憂鬱を振り払うようにビールを飲み込んだ。
「そっか。サークルの人と映画行くの?」
「いや、1人で」
サークルでは誰も私のバトルマンガ好きを知らない。その事実が、胸に重くのしかかった。酔いのせいか、普段抑えていた葛藤が、秋人に自然とこぼれていた。
「私、サークルじゃ『可愛い子』ってキャラで通してるんだよね」
秋人はじっと私を見てから首を傾げた。
「俺から見ても海月ちゃんは可愛い女の子だよ」
ストレートな言葉。純粋で飾らないその口調は胸に深く響いた。
「でも、サークルじゃもっと『可愛く』してる。お酒は弱いことにしたり、アクション映画とかアニメは見ないことにしたり」
そう言いながら、ビールを再び口に運んだ。ジョッキは3分の2ほど空になっていた。空腹を感じ、メニューを手に取ると、チキンやポテトなど高カロリーな料理が目に入った。
「じゃあ、ゲームもサークルじゃできないんだ?」
「うん。あんな血が噴き出るゲーム『可愛く』ないでしょ」
初対面の相手に、なぜこんな話をしているのか。引かれるのではないかと不安がよぎった。
「ずっと誰かと比べられてきたの? もしくは『可愛く』いることを強要されたの?」
秋人は心配そうな、だが優しい目で尋ねてきた。初めての問いかけに戸惑いを覚える。
「なんでそう思うの?」
秋人は私の質問には答えずスマホを操作する。1枚の写真を見せてきた。
「この人、誰?」
見知らぬ人だった。整った顔立ちをしている男性だ。
「イケメンだろ」
「うん、イケメンだね」
同意しつつなぜこの写真を、と疑問が湧いた。秋人は構わずもう1枚、別の男性の写真を見せてきた。こちらも整った顔立ちで、先の男性と似ていた。
「この人もカッコいいだろ?」
「うん、そうだね」
興味が薄いまま答えた。
「この2人、俺の兄貴」
「え」
兄弟なら目や鼻、骨格や顔立ちなど似てそうなものだ。だが秋人と見比べて写真の2人と共通点は見出せなかった。
「兄貴二人は顔そっくりなのに、俺だけハズレ」
「ハズレって」
自らを卑下する言葉に違和感を覚える。だがその気持ちは痛いほど理解できた。幼い頃、母から「茉莉絵は当たり、海月はハズレ」と何度も言われた記憶があったからだ。
「ほら、兄弟3人で撮った写真。俺の顔のデカさと身長の低さが目立つだろ」
確かに、小顔で高身長の兄2人と並ぶと、秋人の特徴が際立った。
「あとさ、兄貴たちは運動神経バッチリ。インキャな俺と大違い」
その言葉に茉莉絵と比べられて傷ついた自分の過去が重なる。
「秋人さんは自分が辛い経験をしたから私のことも否定しないでくれるの」
秋人はキョトンとして顔をした。感情表現が豊かな人だ。
「海月ちゃんに否定する所なんてないよ」
私はスマホを取り出し、ゲームの画面を表示して見せた。
「女の子のくせに、こんなグロいゲームやってるよ」
「好きなもんに性別は関係ないでしょ」
今まで私の周りにそんなこと言ってくれる人はいなかった。胸がきゅっと締め付けらる。
「お酒も大好き」
中身がだいぶ減ったジャッキを持ち上げる。
「俺も。お酒大好き」
秋人もジョッキを上げ笑った。改めて乾杯するようにジャッキをぶつけてくる。
「あと、今からチキンとかポテト頼もうかなって」
「ナイス! お腹減ってたんだ」
秋人の無邪気な笑顔に、目尻のシワが刻まれた。
「じゃ、頼んじゃうね」
「うん、ガッツリ食おう」
満面の笑顔に、こちらも笑みがこぼれた。
今の時間は深夜1時。こんな時間に高カロリーな食事を摂るなど、普段なら考えられない。
ビールを追加し、好きなものを食べ、好きな話題で盛り上がった。この気楽な時間は隠れて腕時計を何度も確認するサークルの飲み会とは全く違う。心地よいひとときだった。
居酒屋は深夜2時に閉店。始発は朝4時。目的もなく、夜の街を彷徨うように歩き始めた。
✳︎✳︎✳︎✳︎
「夏とはいえ、夜は少し肌寒いね」
「そうだね」
「あの、嫌じゃなかったら」
秋人がトートバッグから薄手のカーディガンを取り出した。街灯の柔らかな光が、彼の手元を優しく照らす。
「え、嬉しいけど、秋人さんが着なよ」
「大丈夫だよ。ほら、俺、太ってるから」
自分のお腹をポンポンと叩き、秋人が自嘲的に笑う。その悲しげな笑顔に胸がチクリと痛んだ。こんな時、気の利いた言葉を返せない自分の不器用さがもどかしい。
「ありがとう。えっと、借りてもいい?」
「どうぞ」
カーディガンを羽織ると、柔軟剤のほのかな香りが漂った。秋人の温もりに包まれているような錯覚を覚える。夜の街を歩きながら、胸に温かなざわめきが広がる。
「あ、カラオケがあるよ」
「本当だ。入る?」
「うん」
いくらか歩いて時間を潰したが、始発まではまだ1時間半以上あった。迷わず2人でカラオケ店の扉をくぐった。
薄暗い店内で、秋人が最初に選んだのは切ないバラードだった。サークルのカラオケでは、誰もこんな曲を歌わない。皆で盛り上がるアップテンポでリズムの速い曲を選ぶのが暗黙のルールだ。
秋人の歌声は驚くほど澄んでいた。忘れられない元恋人を想う歌詞が、静かなメロディに乗り胸を締め付る。秋人には、この曲に深い思い入れがあるのだろうか。あるいは想い続ける誰かがいるのだろうか。そんな考えが理由もなく私の心をざわつかせた。
「お、いいねー!」
胸のモヤモヤを振り払うように、大好きなアニメソングを入れた。サークルでは決して選ばない本当に好きな曲。テレビ画面に曲名が映ると、秋人は拍手しながら選曲を誉めてくれた。
サビでは2人でデュエットし、曲に合わせて体を揺らした。歌い終わりハイタッチで弾けるような喜びを分かち合った。
それから夢中でアニメソングを歌い続けた。どの曲もお互いに知っていて、名シーンや好きなキャラが映るたび、歓声を上げた。時には手を握り、熱い興奮を共有した。互いの笑顔が薄暗い部屋に小さな光を灯すようだった。
歌い終えた余韻の中、胸の高鳴りを抑えつつ、今日の記念に2人で写真を撮った。
「いやー、もうすっかり朝だね」
カラオケ店を出ると、空は淡い青に染まっていた。秋人が空を見上げ呟く。街のネオンが朝焼けに溶けていく。
「ねー、こんな時間まで遊んだの初めて」
終電を逃すなんて初めての経験だ。
「俺も」
「一緒だね」
他愛もない会話に、顔を見合わせてクスクス笑う。寝不足のせいか、二人とも妙にハイテンションだ。秋人がカラオケの余韻でアニメソングを鼻歌で歌い始め、私はそれに合わせて体を揺らす。歩きながら体を揺らしているため酔っぱらいみたいにフラフラと歩く。
この時間がなぜかとても愛しい。
楽しい時間はあまりにも早く、あっという間に駅のホームに辿り着いた。ここでお別れだ。まだ一緒にいたい。
けれど私と秋人の電車は別だった。
「あ、あの、良かったら連絡先交換しない?」
断られたらどうしよう。緊張と気恥ずかしさで、服の裾をギュッと握った。心臓が高鳴る。
「え」
秋人が驚いたように私を見た。近距離で見つめられたため彼の瞳に私の姿が映る。
「いや、だって、カーディガン返さなきゃだし、今返すと寒いし」
タイミングを逃して今だに借りたままのカーディガン。返せなくて良かったと密かに思う。
「そうだよね。交換しよう」
秋人の連絡先がスマホに登録された瞬間、胸にじんわりと喜びが広がった。口元に抑えきれない笑みが浮かぶ。
「あのさ」
今度は秋人が服の裾をギュッと握る。頬がほのかに赤く、朝の光に照らされている。
「良かったら、18日以降にカーディガン返してもらってもいいかな」
18日以降。それは『鬼⚪︎の刃』の映画公開日以降だ。心がふわりと軽くなる。
「いいよ。それで、良かったらその後、映画一緒に観ない?」
勇気を振り絞り、はっきりと提案した。声が少し震えた。
「ぜひ!」
秋人がやや前のめりに快諾する。その勢いに驚きながらも胸が温かく膨らんだ。
やがて電車がホームに滑り込み、別れの挨拶を交わした。
「またね」
次に会う約束があるから、「さよなら」でも「バイバイ」でもなく「またね」。そんな些細な事実が嬉しくてたまらない。
「またね」
秋人も同じ言葉を返してくれた。
電車のドアが閉まり動き出す。けれど秋人の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。窓の外の景色は朝焼けが静かに広がっていた。
✳︎✳︎✳︎✳︎
楽しみな予定があると、時間が経つのは早い。秋人との再会を心待ちにしているせいか、サークル活動の日も以前ほど憂鬱ではなくなっていた。
今日もいつもより明るい気分でサークルに参加していた。
「機嫌いいね」
声をかけられ、振り返ると村田くんが立っていた。部室には今、私たち以外誰もいなかった。
告白の返事を保留にしたままの彼に、秋人のことを伝えるなら今がチャンスだ。
「ごめん、村田くん。私、好きな人ができた」
「え、どんな人?」
問われ、スマホで秋人と撮った写真を見せた。
「え、マジ? 全然かっこよくねえじゃん。海月と比べて顔デカすぎだし」
「うん、そうかも。でも、私の好きな人なんだ」
村田くんの目を見つめ、はっきりと告げた。彼は一瞬、目を大きく見開いた。
「海月がこんなハッキリ自分の気持ち言うの、珍しいな」
その通りだった。かつて母から「気が強い女は可愛くない」と言われずっと本心を隠しつづけた。相手に好かれるように振る舞ってきた。
「その人のこと、本当に好きなんだな」
村田くんが静かに呟いた。いつも陽気な彼のどこか寂しげな表情。意外に思い、じっと見つめた。
「海月がいつも周りに合わせて愛想笑いしてたの、気づいてたよ」
「え、本当に?」
村田くんは鈍感で、人のことなど気にしないと思っていた。
「ハハ、確かに俺、洞察力ないってよく言われるけどさ。好きな人のことくらいちゃんと見るよ」
その割には終電間際に引き留めて告白してきた。思い出しつい苦笑いを浮かべた。
「まぁ、あの時はちょっと空気読めなかったけどな」
村田くんもニヤッと笑う。その笑顔に、初めて彼と心を通わせた気がした。
「彼の前では素の私でいられるんだ」
「素の海月って、どんな子?」
聞かれ、どこまで話すべきか一瞬迷った。すべてをさらけ出すのは難しい。だが、興味を示してくれた相手をはぐらかしたくなかった。
「本当はお肉やお酒が大好き」
「マジ? いつも『カロリーが~』とか言ってなかった?」
驚いた顔で、だが笑いながら村田くんが答えた。否定されなかったことに安堵し、私も笑みを浮かべた。
「後、恋愛漫画も同じくらいバトル漫画も読むよ」
「たとえば何読むの?」
「『ワ⚪︎ピース』とか『鬼⚪︎の刃』とか」
「マジで。俺も好きだよ。言ってくれたら語れたのに」
村田くんは悔しそうに口を歪める。
「言ったら引かれるかと思った」
「引かないよ。なんでそう思うの?」
「だって前に言ってたから。ガチオタクはないなって」
サークルに入ったばかりの頃、大学内でカバンにアニメのマスコットを大量につけた男子を見かけた。メイド服や露出の多い女の子のマスコットだった。
「うわー、ガチオタクはないわー」
村田くんは軽蔑の色を隠さず言っていた。
「マジか。全然覚えてない」
そうだろう、と思った。私には印象深い言葉だったが村田くんには日常の一言に過ぎなかった。
「今日は暑いね」と天気を語るのと大差ないのだろう。
「そっか。俺が何も考えずに言った言葉のせいで、海月は自分が好きなこと話せなかったんだ」
「うん」
「ごめんな」
「ううん。もう気にしてないから」
清々しい気持ちでそう告げることができた。本当の自分を少しだけさらけ出し、受け入れられたことで、解放感が胸に広がる。
「でも俺、悔しいよ。もしあの時、男子生徒を否定しなけりゃ、俺の告白は上手くいってたのかな?」
「分からない」
「たられば」を語っても意味はない。あの時こうだったらと、どれだけ想像しても現実は変わらない。
それでも、ふと頭をよぎる。村田くんと好きなマンガを語り合う姿。彼がサークルで人気の理由の一つは話が面白いことだ。そんな彼と共通の趣味で盛り上がれたなら、きっと有意義な時間になっただろう。
「まぁさ、残念ながら俺の告白はうまくいかなかったけど、良かったらこれからも仲良くしてよ」
「うん。私も村田くんと色々話したい」
今まで苦手だった村田くんに、初めて心を開きたいと感じた。
「良かったら、海月が心から好きだと思える趣味をこれからも教えて。共通の趣味で盛り上がれるような友達でいたいから」
村田くんとそんな関係になれたなら、サークル活動はもっと楽しくなるだろう。
より充実した大学生活が待っている。そう思うと、自然と口元に笑みが浮かんだ。



