桜月庵の奥座敷。障子を開けると、庭の桜の木がまだ淡い若葉をつけて揺れていた。
 美咲は、椿大女将に呼ばれ、一人でその部屋を訪ねていた。

「お入りなさい、美咲さん」
 柔らかな声。けれど、その眼差しには長年店を守ってきた厳しさも宿っている。

 美咲は正座をし、静かに頭を下げた。
「大女将、お呼びいただきありがとうございます」

 椿は一呼吸置いてから、机の上に古びた帳面を置いた。
「これはね、私が若い頃から書きためてきた菓子の記録帳。……あなたの母・春香さんも、何度かここを開いたのよ」

「え……?」
 美咲は思わず顔を上げる。

「春香さんは桜月庵に来ると、私の横で熱心に菓子を見ていた。『和菓子は人の心を和ませるものだから』とね。……あなたの手の動きには、その血が流れている」

 美咲の胸が熱くなる。
自分の記憶には存在しない母の姿を、椿の言葉が静かに蘇らせてくれた。

 椿は続けた。
「美咲さん。あなたには、この店の未来を担うだけの力がある。……ただし、それには覚悟が必要よ」

「覚悟……」

「ええ。和菓子は技術だけではなく、心そのものが映し出されるもの。迷いや恐れを抱いたままでは、本当に人の心に届く菓子は作れない」

 美咲は拳を膝の上でぎゅっと握った。
思い浮かぶのは、悠人の姿。彼の言葉、彼の支え。
そして母の手紙──『どんな未来でも、この子が笑顔でありますように』。

「……私、覚悟を決めます。母の思いを継いで、この場所で菓子を作りたい。……そして、悠人さんと一緒に歩んでいきたいです」

 思わず口にしてしまった最後の言葉に、美咲の頬が赤く染まる。だが椿は驚くどころか、静かに目を細めた。

「そう。ようやく素直になれたのね」

「えっ……」

「悠人はね、あの事故以来ずっと心に傷を抱えてきた。でも、あなたと出会って少しずつ変わっていった。……あの子の笑顔を取り戻せるのは、あなただけかもしれないわ」

 美咲の胸に、温かいものが満ちていく。
大女将の言葉は、祝福にも似ていた。

 障子越しに差し込む春の光が、二人を包み込む。
美咲は深く頭を下げ、はっきりと答えた。

「はい。必ず……応えてみせます」