翌朝、美咲は目覚めると同時に、昨夜の電話の記憶が胸に押し寄せてきた。

「お兄さん……田中悠人……私が、さくら……?」

自分の名前が、美咲ではなくさくらだったという事実。そして、長い間行方不明になっていた兄との再会。すべてが信じられないような出来事だった。

だが、心の奥にある“何か”が静かにざわめいていた。

幼い頃の記憶。柔らかな桜の花びらが舞う公園。優しい手に引かれて歩いた桜並木。桜餅の香り。あたたかな笑顔。

「ゆうにい……」

その響きが、懐かしく、心地よく、そして少しだけ切なかった。

母・恵子のいるリビングに行くと、彼女は新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。

「おはよう、美咲。眠れた?」

「うん、少しだけ……」

ぎこちなく答えると、恵子は顔を上げ、美咲を見つめた。

「……昨日の夜、悠人さんと話したのね?」

「……知ってたの?」

「ええ。あの方、以前にお店に来たことがあるの。あなたがいないときに」

「……どうして?」

恵子は少し俯き、言葉を選ぶようにゆっくり話し出した。

「あなたが五歳のとき、事故に遭って記憶を失っていた。そのとき、病院から紹介された施設で暮らしていたの。でも、あまりに混乱していて、親族の身元もわからなかった。そんなとき、私がボランティアでその施設に通っていて、あなたと出会ったの」

美咲の目が大きく見開かれた。

「じゃあ……お母さんは…?」

「うん。私は“育ての母”よ。けれど、あなたを本当に大切に思って育ててきた。愛してるわ、美咲」

恵子の目には、涙がにじんでいた。美咲もまた、心が揺れていた。

今までの生活が偽りだったわけではない。けれど、自分にはもう一つのルーツがあり、血のつながった兄がいた。

「なんで、今まで教えてくれなかったの……?」

「何度も話そうとしたの。でも、あなたが幸せそうに笑っているのを見るたびに……もう一度傷つけたくなかったの」

恵子の手が、美咲の手にそっと重ねられた。その温もりは、これまでと変わらずやさしかった。

「ありがとう……お母さん。私、本当に感謝してる。育ててくれて……大好き」

美咲の瞳から、一筋の涙がこぼれた。

その日の午後、美咲は静かに部屋にこもり、手帳を取り出した。

そこには、これまでの想いがびっしりと綴られていた。仕事の悩み、日々の出来事、そして──京都で出会った悠人への気持ち。

「私は……恋をしていた。でも……」

兄だと知ってしまった今、その感情はどう処理すれば良いのか分からなかった。

恋ではなかったのかもしれない。ただ、どこか懐かしさに惹かれていただけかもしれない。

いや、それでも胸が痛い。

そんな時、スマートフォンが鳴った。画面には「田中 悠人」の名前。

ためらいながらも、美咲は通話ボタンを押した。

「もしもし……」

「美咲さん……いや、さくら……。ごめん、混乱させてしまったよね」

「ううん……お兄さん、ありがとう。話してくれて……私、色々なことが少しずつ繋がってきてる」

「京都に来ませんか。もう一度、会って話したい。写真や、思い出の場所……一緒に巡ろう」

美咲は一瞬、迷った。だが、ゆっくりとうなずいた。

「うん、行く。私、知りたい。自分のこと、家族のこと、そして……お兄さんのこと」

電話の向こうで、悠人の安堵した息が聞こえた。

「ありがとう、さくら。待ってるよ」

通話が切れた後、美咲は小さく呟いた。

「私は誰……そして、何を選ぶんだろう」

桜の季節は終わったはずなのに、心の中でそっと花びらが舞っているような、そんな感覚だった。