桜月庵の厨房には、夜の静けさが広がっていた。閉店後、皆が帰ったあとも、美咲はひとりで作業台に向かっていた。

 目の前には、何度も失敗を繰り返した試作品の菓子が並んでいる。



 母が大切にしていた記録を越えて、自分の「味」を見つけたい。



 そう思えば思うほど、指先は固くなり、手順もぎこちなくなっていく。



 ふと、背後で声がした。

「まだやってたのか」



 振り返ると、悠人が立っていた。彼の手には、コンビニで買ったお茶とおにぎりがある。

「集中してると、夕飯も抜くだろ。少し休めよ」



 差し出された温かいお茶を受け取りながら、美咲は小さく笑った。

「ありがとう。でも……どうしても形にしたいの。母の味をなぞるだけじゃなく、私自身の和菓子を」



 悠人は黙って美咲の隣に腰を下ろした。試作品を一つ手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。

「……うん。悪くない。でも、お前らしくない」



「……え?」

「美咲の作る和菓子って、人をほっとさせるんだ。だけどこれは、うまく作ろうとして肩に力が入ってる。俺は、もっとお前らしいのを食べたい」



 その言葉に、美咲の胸の奥で何かがほどけていくような感覚があった。

自分らしさ──それはずっと探していた答えだった。



「悠人は……本当に、ずるいね」

「なんで」

「そんなふうに言われたら、また頑張りたくなる」



 笑いながらも、目頭が熱くなる。

彼の存在が、どれほど自分を支えているかを痛感する瞬間だった。



 しばし沈黙が流れる。悠人は真剣なまなざしで美咲を見つめ、言葉を選ぶように口を開いた。

「美咲。お前がどんな菓子を作っても、俺は信じる。だって……俺はお前を見てきたから」



 胸が高鳴る。何かを伝えたくても、言葉にならない。

ただその想いを、菓子に込めるしかないと美咲は思った。



 ──次こそ、自分らしい菓子を。



 夜更けの厨房に、再び木べらの音が響き始めた。

隣で悠人が黙って見守ってくれている。その存在が、何よりの支えだった。