春の風が優しく桜月庵の庭を撫でる中、美咲は一人、母・春香が遺したレシピ帳を手にしていた。

「これが、私の出発点なんだな……」

和菓子展で披露した「風音」が多くの人に認められたことで、美咲の中に新たな自信と責任が芽生えていた。母の記憶に縛られるのではなく、自分自身の足で、和菓子職人として歩む覚悟が整ってきた。

厨房では、椿が静かに練り切りの生地を手際よくこねている。

「椿さん、少しお時間いただけますか?」

美咲の真剣なまなざしに、椿は微笑んで手を止めた。

「どうしたの、美咲さん?」

「実は、私、自分の名前で和菓子を作ってみたいんです。春香の娘としてではなく、“佐藤美咲”として。」

しばらく沈黙したあと、椿は頷いた。

「……そうね。それが本当の一歩かもしれないわ」

美咲は、春香の記録の中にあった“未完の構想”を一つ思い出していた。けれど、それをそのままなぞるのではなく、自分なりの感性と経験で仕上げたい。春香の想いを受け継ぎながらも、自分自身の色を加えた、新しい和菓子。

「名前は、決めているの?」

「『桜紡(さくらつむぎ)』にしようかと思っています」

「……いい名前ね」

椿は頬を緩めながらも、どこか感慨深げな瞳で美咲を見つめた。

「春香も、あなたのように強くて優しい子に育ってくれて、きっと誇らしいはずよ」

その言葉に、美咲の胸がじんわりと温かくなる。

その夜、悠人が閉店後の桜月庵にやって来た。

「聞いたよ、次の企画で新作を出すって」

「ええ。ようやく、自分の言葉で語れる気がするから」

「……じゃあ、俺もようやく言っていいかな」

「え?」

「もう一度、君と向き合いたい。妹じゃなくて、“佐藤美咲”として。俺の心は、変わってないから」

美咲の瞳が見開かれる。けれど今度は、戸惑いよりも、穏やかな気持ちが胸に広がっていた。

「……ありがとう。少しずつ、答えを見つけていけたらいいな」

悠人は優しく頷き、二人はしばし、春の夜の静けさに包まれた。

──そして数日後、「桜紡」はついに完成した。

淡い桜色の餡に、手毬のような形。中には白餡に練乳を加え、ほのかな甘さが春の記憶を呼び起こす。

それは、母から娘へと受け継がれた、愛と技の結晶だった。