美咲はその夜、恵子から預かった写真をじっと見つめていた。写真に映る女性──春香は、やわらかな微笑みを浮かべ、まだ幼い美咲を愛おしそうに抱きしめていた。その腕の温もりを、美咲の肌はもう覚えていなかった。

だが、胸の奥にほんのりと、温かい何かが灯る。遠く、霞がかった記憶の海に沈んでいた感覚が、波紋のように浮かび上がってきた。

「春香さん……お母さん……」

言葉にしてみると、不思議な感覚がした。恵子をずっと"お母さん"と呼んできた。今もその気持ちは変わらない。でも、写真の中の女性もまた、確かに自分を愛してくれた「母」なのだ。

翌朝、桜月庵では朝の仕込みが始まっていた。

「美咲さん、おはようさん」

梢が笑顔で声をかける。

「おはようございます」

少し元気を取り戻した美咲の表情に、梢はほっとした様子だった。

「今日は、椿様からのお願いで、少しだけ時間を作ってくれへん?」

「椿さんが……?」

頷いた梢に促され、美咲は離れの茶室へと向かった。

椿は、静かな茶室の中で、古びた木箱を前に座っていた。その前には、小さな朱塗りの和菓子盆があり、白と淡い桃色が交じり合った、上品な練り切りが置かれている。

「これは、あなたのお母さん──春香が最初に作った桜の練り切りよ」

椿は静かに語った。

「春香はね、とても繊細で、けれど芯の強い子やった。あなたを産むことになった時、一度は和菓子職人としての道を諦めかけた。でも、最後に作ったのがこれや。『この子に、春を届けたい』って言ってね」

美咲は膝を正し、練り切りを見つめた。

「……きれい」

口に運ぶと、ふわりと練乳餡のやさしい甘みが広がり、舌の上でほどけた。

「この味……」

瞬間、春の陽だまりのような光景が、脳裏にふっと浮かんだ。どこかで感じたことのある味、ぬくもり。そして、柔らかい手が、まだ幼い自分の手を包んでいた記憶。

「思い出したのかしら?」

椿が静かに問いかける。

「いえ……まだ全部じゃないです。でも……この味、知ってる気がします」

涙が自然と頬を伝った。

「春香は、最後まであなたを守ろうとしていたの。あなたが記憶を失っても、どこかで幸せに生きてくれるならって……」

「椿さん……」

椿は、そっと美咲の手を取った。

「あなたが戻ってきてくれて、春香もきっと喜んでるわ」

その言葉に、美咲は深く頷いた。

そしてその日、美咲は初めて、自らの手で春香の練り切りを再現してみようと決意した。椿の助言を受けながら、素材を選び、春香の残した手帳を参考に、慎重に形を整えていく。

「あんたの手、ほんまに春香に似てるわ」

椿がそう言って微笑んだとき、美咲の胸には確かな実感が芽生えていた。自分は、春香の娘であり、和菓子職人としての血を継いでいる──そう思えたのだ。

夜、美咲は店の片隅で、一人、春香に手紙を書くように言葉を綴った。

『お母さん、私、ようやくあなたの想いに触れることができました。ありがとう。私は今、ちゃんとここで生きています。桜月庵で、みんなと一緒に、そして悠人さんと共に……』

その手紙を、春香の写真の前にそっと置いた。

翌朝、ふと椿が言った。

「この店の新作、そろそろあんたの名前で出してもええんちゃう?」

「えっ……私の、名前で?」

「せや。春香の娘やない、あんた自身の、佐藤美咲としての味をな」

その言葉に、美咲の目に新たな光が灯った。

桜月庵での物語が、ここからまた新たに始まろうとしていた。