薄桃色の陽光が差し込む桜月庵の工房。朝の仕込みを終えた美咲は、白餡と練乳を丁寧に練り上げながら、静かな決意を胸に抱いていた。

「今日は、勝負の日だね」

工房の隅で梢が微笑む。いつもより口数は少なかったが、その目は美咲の緊張を理解しているようだった。

「はい。初めて、自分の菓子を“椿さんに”正式に召し上がっていただきます」

この日、美咲は季節の提案菓子として、自身が考案した創作和菓子を披露する機会を与えられていた。名を「初桜(はつざくら)」と名づけた。

主菓子は、羽二重餅で包んだ練乳餡。桜の花の塩漬けを中央にあしらい、ほんのりと桜葉の香りを移した繊細な一品だった。白と淡紅色が溶け合うような、美咲自身の記憶と現在が交わるような仕上がり。

「どうしてこの組み合わせに?」

そう問う梢に、美咲は少しだけ間を置いて答えた。

「優しい甘さの中に、春の記憶を閉じ込めたかったんです。私自身、たくさんの思い出を忘れていたから。今あるものを噛みしめることで、失われた何かを思い出せるかもしれない。そんな想いを形にしました」

梢は小さく頷いたあと、控えめな声で言った。

「…お義母さまは、厳しいけれど、ちゃんと見てくれる方です。きっと、今日の“初桜”も、正面から受け取ってくださいますよ」

その言葉に、美咲の緊張は少しだけほぐれた。

昼過ぎ、桜月庵の奥座敷にて、椿と梢、そして数名の上客に向けて、美咲の「初桜」が供された。

緊張の面持ちで立つ美咲に、椿はじっと視線を向けた。

「これは、あなたの創作?」

「はい。桜月庵の記録と、日々の仕事の中から得た学びをもとに、今の私が作れる精一杯を形にしました」

「では、いただきましょう」

椿は箸をとり、羽二重餅を切り分けると、ゆっくりと一口運んだ。

空気が静まり返る。

椿の表情はほとんど動かない。ただ、その目が僅かに見開かれたのを美咲は見逃さなかった。

「……面白いわね」

そう言うと、椿は茶をすすり、さらにもう一口。今度は噛みしめるように味わった。

「練乳の甘さが餡に溶け込みすぎていない。桜の塩気と羽二重の柔らかさとの対比も、悪くない。奇をてらってはいないが、芯にあるのは“思い出”かしら?」

「……はい」

「いいわ。菓子は人の心を映す鏡。あなたの記憶と、ここでの暮らしが滲んでいる。これなら、お客様にも出せる」

その言葉に、美咲の肩の力がふっと抜けた。

奥で見ていた梢も、思わず目元をほころばせる。

「ただ――」

椿が続けた。

「もうひと工夫できるはず。この練乳餡、単調になりやすいからこそ、どこかにアクセントが欲しい。香りでも、食感でもいい。次に出す時は、そこを考えてごらんなさい」

「……はい、ありがとうございます!」

美咲は深く頭を下げた。

その日の夕方。工房の片隅で片づけをしていた美咲に、椿がふらりと現れた。

「ひとつ、聞いてもいいかしら」

「はい?」

「あなたが失った記憶。それは、“痛み”として残っているの?」

不意を突かれて、美咲は言葉を失った。

「いえ……記憶がないのに、痛みだけが胸に残っているような気がするんです。春になると、決まって胸がざわついて、不安になる。でも、今は少しずつ、それが和らいでいる気がします」

「そう。なら、菓子を作りなさい」

「え…?」

「人の痛みも、ぬくもりも、すべて菓子にすればいい。それが、私たちの仕事なのだから」

そう言って椿は背を向けたが、美咲はとっさに言葉をかけた。

「椿さん」

「なに?」

「ありがとうございます」

椿は小さくうなずき、工房を後にした。

夜。桜月庵の庭先で、美咲はひとり夜風を浴びていた。

ふと、背後から声がした。

「いい一日だったみたいだね」

振り向くと、悠人が手に二つ、茶碗を持って立っていた。

「冷たいお茶、いる?」

「うん。ありがとう」

二人は並んで腰掛け、ゆっくりとお茶をすする。

「椿さん、ちゃんと見てくれていたよ。少し、怖かったけど」

「うちの祖母はな、誰にでも厳しい。でも、認めた人間には絶対に背を向けない人だ」

「そっか……なんだか、少し近づけた気がして嬉しい」

「今日の“初桜”、俺も食べたよ」

「ほんと?」

「うん。美咲の中にある“記憶”を、味にしたみたいだった。俺にもちゃんと届いたよ」

その言葉に、美咲の胸の奥がじんわりと温かくなる。

桜の記憶。まだ全てが戻ったわけではない。でも、自分の中に確かに息づく何かがある。それを信じて進んでいこう。

そう、静かに思った。