手紙を読み終えたあとも、美咲はしばらくその場を動けなかった。文字はただの一行──けれど、そこに込められた想いは重く、深く、胸に染み入るようだった。

「あなたの和菓子には、記憶をほどく力がある」

それは美咲自身が最近、うすうす感じていたことでもあった。

桜月庵で働き始めてから、和菓子を通して訪れる人々の表情や言葉に変化が見えるようになった。ある人は、幼い頃に祖母と過ごした日々を思い出したと話し、ある人は初恋の思い出を語ってくれた。ひとつの菓子が、心の奥底にしまい込まれた記憶をやさしく揺らす──そんな場面を、美咲は幾度も見てきた。

「でも……この手紙、誰が?」

差出人は書かれていない。けれど、その文字にどこか見覚えがあるような気もした。

翌朝、美咲は手紙を持って悠人に相談した。店の準備がひと段落した頃、ふたりは厨房の奥で向かい合った。

「……これを、昨日届いたの」

悠人は手紙を受け取り、丁寧に目を通すと、しばらく黙っていた。そして、懐かしむように小さく微笑んだ。

「この筆跡……多分、うちの常連のお客様だと思う」

「えっ、誰ですか?」

「本名までは知らないんだけど……よく“桜薫”を買いに来てくれる、年配の女性の方。名前を名乗らず、でも毎回、丁寧にお辞儀して帰っていく。話し方も、お菓子の味にすごく敏感な方でね」

「その人が……」

「もしかしたら、美咲さんの和菓子に何か感じるところがあったんじゃないかな」

美咲は胸の奥に、静かな灯がともるのを感じた。

その日の午後、その女性は本当に現れた。紫色のワンピースに白い帽子をかぶった、涼しげな佇まいの人だった。

「いらっしゃいませ」

「こんにちは」

声をかけた瞬間、美咲は直感した。この人だ、と。

「“桜薫”を、三つ、いただけますか?」

「かしこまりました」

包みを用意しながら、美咲は意を決して話しかけた。

「あの……もし間違っていたら申し訳ないんですが。昨日、私宛にお手紙をくださったのは……」

女性は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにふわりと微笑んだ。

「気づいてくださったのですね。よかった」

「どうして……あんな言葉を?」

女性は、しばらく桜月庵の奥の庭を眺めていたが、やがて静かに口を開いた。

「あなたの作る和菓子を食べるとね、不思議と、忘れていたことを思い出すのです。若い頃に見た風景や、誰かにかけてもらった言葉……そういうものが、ふと浮かんでくる。とてもあたたかい記憶です」

「……」

「それって、すごい力だと思いませんか?」

美咲は、涙がこみあげてくるのをこらえながらうなずいた。

「ありがとうございます。そんなふうに言ってもらえて……」

女性は小さく頷き、包みを受け取ると、ひとつだけ言葉を残して帰っていった。

「あなたには、“届ける手”があるのですね。これからも、大切に」

美咲は、しばらくその背中を見送っていた。

記憶をほどく手。

それは、祖母から受け継ぎ、桜月庵で育んできた、自分だけの手仕事だった。

その晩、美咲は祖母の手帳をひらき、一ページ一ページを丁寧に読み返した。言葉の端々に、幼い頃の自分への想いや、未来の自分へのメッセージが込められていることに、ようやく気づいたのだった。

「おばあちゃん、私はここで、ちゃんと生きてるよ」

心の中でそう呟くと、また、あの風がそっと障子を揺らした。