春の京都は、柔らかな日差しと共に街全体が優しい空気に包まれていた。 佐藤美咲が再び「桜月庵」の暖簾をくぐったのは、東京の実家から戻ってきた翌朝のことだった。

「おかえり、美咲さん」

厨房から顔を出したのは、女将の塔子だった。白い割烹着に身を包んだその姿は、どこか母性を感じさせ、美咲は自然と表情を緩めた。

「ただいま戻りました。また、よろしくお願いします」

その言葉に、塔子はふっと目を細めてうなずいた。

数日ぶりに戻った厨房には、変わらぬ湯気と甘い香りが漂っていた。銅鍋の中で練られる餡子の香りは、まるで過去の記憶を手繰り寄せる鍵のように、美咲の胸の奥に静かに広がっていく。

ふと、厨房の隅に目をやると、そこには見覚えのある背中があった。

「……悠人さん」

彼女の声に応えるように、男性が振り返る。 整った顔立ちに、どこか影を残したような眼差し。けれど、その瞳の奥に灯るのは、確かに兄としての優しさだった。

「戻ってきたんだな、美咲」

「……はい」

一瞬の沈黙のあと、美咲はふっと笑った。その笑みは、ようやく見つけた安堵と覚悟が混ざり合ったものだった。

「東京で、少しだけ母と話をしました。……いえ、育ての母ですけど」

悠人は黙って頷いた。

「彼女なりに、私のことを思ってくれていた。……それでも、やっぱり私は自分の過去を知りたかった。……もう逃げたくないんです」

その言葉に、悠人は僅かに目を伏せた。

「……俺も、ずっと迷っていた。君を前にしても、兄として名乗る資格があるのかどうか、わからなかった。でも、あの日……君が“美咲”としてここに来てくれた時、ああ、ようやく戻ってきたんだって思った」

「私も、そう思いました」

二人の視線が重なる。

その瞬間、背後の窓の外から、ふわりと桜の花びらが舞い込んだ。風に乗って滑り込んだ一枚の薄紅が、二人の間にそっと落ちる。

「桜……」

美咲が小さくつぶやく。

「そういえば、子どもの頃、君はよく桜の木の下で眠ってた。おばあちゃんの庭で」

「……思い出せない。でも、心がほっとする気がします」

それでいいんだ、と悠人は微笑んだ。

記憶の断片がすべて戻ることが答えではない。 こうして今、心が何かを感じられるのなら、それはきっと“家族”の証なのだ。

「これから、一緒に作っていこう。思い出も、季節も。俺たちの時間を」

「……はい」

その日、美咲は厨房に立ち、久しぶりに練り餡を任された。

温かい餡の感触。 小豆の甘くて優しい香り。

ふいに、遠くで聞いた母の声が蘇る── 『あなたは、誰かの心を温められる子よ』

目頭が熱くなるのを、必死にこらえながら、美咲は笑った。

「じゃあ、作ります。春の“桜薫(さくらがおる)”、今年は私が……」

悠人が驚いたように眉を上げた。

「おばあちゃんが作ってた、あの和菓子?」

「ええ、なぜか名前だけは、ずっと頭に残ってて……」

塔子が、優しく背中を押す。

「きっと、それがあなたの記憶よ」

美咲は頷き、木杓子を握り直した。

“過去”という名前の春を越えて、“今”を重ねる。

桜が舞うこの町で──記憶と家族と、和菓子の物語は、また新たな一歩を刻んでいく。