1. 3月30日、春の(きざ)


 例えば久石譲の音楽を建物にしたら、こんな家になるのかも知れないな。
柔らかいピアノが柱になって、ヴァイオリンの旋律が部屋を抜ける――そんな微睡まどろ みのような感傷を破壊する『轟音』が、玄関で鳴り響いている。
 僕は玄関のドアに手をかけて、他人――不登校の同級生、歌種桜子(うたたね さくらこ)さんの家に、踏み込んでしまった。

 まるで映像作品の背景美術を切り取ったような、気品すら感じる家から聴こえた轟音。
 魂の叫びにも似た、その音楽を聴かなければ。

 僕はきっと、ピアノに真剣に向き合うことはなかった。

 彼女もまた、オーケストラが棲んでいるこの家から、外に出ることはなかった。
 
 僕がこんな『マナー違反』全開の行動を取るその数分前から、お話を始めよう。
 100年以上前の音楽が、現代いま の僕らの心に届くなんて誰が思っただろう――そんな物語を。



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 歌種桜子うたたね さくらこ さんと僕は、ほぼ他人だ。見知らぬ女子の家を視界に収めて、僕は自転車を降りた。自転車のホルダーに取り付けたスマホから地図アプリをクローズして、家の外観を見渡す。玄関ドアから門、家の全体像と辺りの風景を一通り眺める。まるで映像作品の背景美術を切り取ったようだ。

 「おしゃれな家だな……いつから建ってるんだろう」

 3月30日、高校のある市街地から自転車で約20分――少し郊外にある閑静な住宅街の一角に目的の表札が書かれた家を見つけた。家の古びた印象とは逆に、表札は真新しい。僕は自転車から降りて、シャツのボタンを一つ外した。

 (しっかしここまで遠かったな、今から家に帰っても夕方過ぎだな。いくら補習だったからって、電車で市内に通ってくる人間をパシらせるなよ……しかも不登校の女子の家に)

 『黒崎、ちょっと頼めるか』みたいな、軽々しさで頼んできた数学の先生(一週間前の担任である)も人が悪い。いや、僕の間が悪いのか。
 
 この家に住んでいるらしい歌種さんは、高校生にもなって不登校だ。しかし、いつもテストのときだけ学校にふらりと現れては、学年の名だたる秀才たちを差し置いて学年一位の成績を取っていく。そして普段の授業にはろくに姿を現さない、普通の不登校とは一味も二味も違う同級生なのだった。

 僕が最後に彼女を見たのは、高1の期末テストだったから……ひと月近く顔も見ていないことになる。

 (成績はいいとして、出席日数なんか大丈夫なのかな)

 いらぬ心配などしてみる。何せ彼女に対する同級生からの評価は……あまりいい話を聞かないのだ。

 曰く「変わった天才」

 曰く「なんかオーラが黒い」

 曰く「中学でなんかやらかしたらしいよ」

 など様々である。まぁ友達がいない僕は、教室での噂話が耳に入っただけなのだけど。

 数ヶ月に数回教室に来る彼女には、ふわふわの長髪に眼鏡女子、くらいのおぼろ気な印象しかない。テストの合間は教室から出て行ってたし。

 今日だって先生に「課題プリントを渡しに行け」なんて時代錯誤なお使いを頼まれなければ、わざわざ学校から逆方向のこんな郊外になんて来ることはなかったろう。同じぼっち同士だから頼みやすい、なんて思われたのだろうか。

 この家に住んでいるその子と僕を比べると、僕は電車40分プラス自転車10分もかけて、毎朝きちんと登校しているのだ。成績ではぐうの音も出ないが、それだけで自分の方に100点をつけてあげたくなるぞ。

(3学期のテスト、もっと頑張っておけば良かったなぁ。しかし課題プリントなんて……タブレットでデータを送ればいいのにな)

 ただ、そんな理不尽な頼みでも引き受けてしまうのは僕の悪い癖だ。『他人が自分を頼ってくれる』というのは、僕にとって嬉しいことなのだ。『出来るだけ応えたい』と思うあまり、身の丈に合わないことだってホイホイ引き受けてしまう。

(そして大抵手痛く失敗する、までがワンセット……)

 今回もその延長なのだった。だから友達付き合いだって面倒くさくて、何となく避けてしまう。我ながら難儀な性格である。

 文句を脳内に反響させて玄関を探すと、インターホンを見つけた。……とりあえず押すだけ押してみるかぁ。

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 カーテンを締め切った部屋に、パソコンの画面の光だけが明るさを主張している。私は朝の勉強で疲れた頭をほぐすように、音楽ソフトのプレイリストを参照する。

 今日も昼間は家に誰もいない。この家には音楽と本と、私だけ。

 学校にはなるべく行きたくない。

 友達なんていらない。

 理解してくれる人なんて、いない。

 私と一緒に語り合ってくれるのは、この部屋で聴く音楽だけ。オーケストラの響きだけが私を『私』として認めてくれるような気がする。泣きたい時は、一緒に泣いてくれる。慰めてくれる。

 今日はそうね……これにしよう。ストラヴィンスキー作曲『春の祭典』。

 どうせ誰も聴いちゃいないんだ、ボリュームを目いっぱいに上げて。どこまでコンサートホールの大音響に近づけるか、試してやろう。

 さぁ、私の全てを吹き飛ばしてみせろ。どうせこんな感情を分かってくれる人なんて、いやしない。

 どうせ、誰も。



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 僕は家のインターフォンを一回押す、返事なし。

 もう一回……やはり返事はない。

 もっとも、ほとんど面識のない女の子の自宅へ訪問である。顔を合わせるのも気まずかったので、出なくて少しホッとした。プリントはポストにでも突っ込んで、さっさと帰ろう。帰りの電車が混んでないといいのだが。

(補習とお使いなんてこなしたんだ。ストレス発散に、帰ったらジャズピアノの譜面でも弾いてみるかな)

 高2からは本格的に手を染めようと思っていたところだ。そう思って玄関先の郵便ポストを開けようとした。その刹那、


 

ガッガッガッガッガッガッガッガガガッガッガッ!!



 この舞台芸術のような家を全部破壊してしまうような、爆発的な轟音が聴こえた。一瞬頭の中が真っ白になって、ポストを開けようとした手が滑って課題プリントを落としてしまう。

 (――中でなにかあった!?)

 玄関まで響く轟音、そしてまだ何か異様な音が家ばかりか、玄関の空気すら揺らしている。音楽鑑賞にしては異質だ。

 もう一度呼び鈴を、いや何回も押してみる。やはり反応が無い。意を決してドアに手をかけようとして、躊躇する。他人の家に勝手に入るのはマナー違反だ……しかし、もし部屋の中で誰かが倒れていたりしたら?

(僕が無理に家に入っていれば、病院での処置が間に合ったかも知れない)
 
 翌日のニュース映像なんかが脳内をぐるぐると駆け回った。そんな事態が今目の前で起こっているのだとしたら?

「――ああ、もう!!!」

 そんなことになったら寝覚めが悪いじゃないか! 覚悟を決めろ、僕。落としたプリントを拾って、玄関ドアに手をかける。スマホで電話することも考えたが、この家の番号なんて当然知るわけもない。

 鍵は開いていたようでドアは簡単に開いた。ドアベルの音がチリンと鳴る……不用心だな。僕は他人の家なので控えめに『お邪魔します』とだけ小さく叫んだ。玄関先では僕の声より、途切れ途切れの轟音の方が響いていた。

 「すみません、本当すみません……」
 
 小声で言い訳をしながら、靴を脱いで、家に入り込む。とにかく音のする方へ。廊下を通っている間、最初のような轟音こそもう無かったが、奇妙な音は鳴り続けていた。まるで猛獣が棲み着いているねぐらに入り込んでいる気分。1階を進むと、音の出どころに見当がついた。多分この部屋。

 古い洋館のようなドアを開け放つ。カーテンを閉め切った薄暗い部屋には、どでかいスピーカーと光る画面が見えた。そして同年代くらいの女の子が一人。
 

「っっっ!!? な、何!? だれ……!!?」



 僕がドアを開け放した音に気づいて、部屋の主が驚いてこちらを見ている。部屋の主は部屋着――というかパジャマだ――の女の子だった。ふんわりしたロングヘア、見覚えがある子だ。音が止む。彼女がとっさに手元を操作したらしい。

 そこまで把握して、僕は重大事故レベルの勘違いに気づいた。玄関先で聞いた轟音はどうもこのスピーカーからの音だ。
 やらかした!

 「け、警察……」

 女の子が手元のスマホを操作し始める。僕は我に返った――まずい。

 「違う違う! 勝手に入ったのは本当に申し訳ないけどっ……玄関で音がしたから何かあったのかと思って!!」

 彼女のスマホを操作する手が止まる。そして机の上に置いていた眼鏡をつまんで、すちゃっと装着した後、女の子は僕の方をじーっと見た。

「……同じ高校の人。なんで勝手に、上がって、きたん、です……か?」

大分警戒されている声。

「いやだから、ごめんでした。何かあったかと思ってつい……やらかしました……救急車とか呼ばなきゃ……とか?」

 しどろもどろに言い訳する。僕だって背中に冷や汗なんてかいていたし、正直頭の整理が追いついていなかった。とにかくまずは誤解を解くことだ。今自分は不法侵入者なのだ、通報されたら社会的に終わる。

「……何もない、です。春の祭典の2曲目がどこまで大きい音になるか試してただけ」

「え? はるの、何?」

「春の祭典の第2曲、春の兆しの弦セクション。やっぱり生演奏の迫力は再現できないなぁ」

 後半は僕の方を見ずに、女の子はぶつぶつ言いながら、マウスをクリックする。するとPCの前のでかいスピーカーから音楽?が再び鳴り始めた。先程のような騒音ではない、迫力のある和音(コード)だ。

 これは、オーケストラ――クラシックか?

 それにしては今まで自分が聴いたり、ピアノで弾いてきたものとは全然違うように思えた。だって普通『ヴァイオリン』と聞いて想像する艶やかな音と、いまこの部屋に響いている音とはかけ離れている。ラッパなんて学校行事で吹奏楽部が演奏している音とも、全く違う。弦楽器と管楽器の引き絞るような金切り音。

(これじゃあまるで、音楽じゃなくて、悲鳴だ)

 ただ……恐ろしいのに、抗えない。スピーカーからは先程よりボリュームを下げた重低音が聴こえている。そんな中、僕は恐る恐る目の前の女の子に声を掛ける。

「えっと、歌種さん……で合ってるよね」

 彼女はパソコンから僕の方へ目をやった。さっき通報しようとしたのを思い出したのか、自分のスマホをいつでも押せるように手に持ちながら。最初は眉をひそめて不審そうに僕を見ていたが、少しだけ警戒の色が揺らいだ。

 「あなたのこと、知ってる。同じクラスのクロサキ君だよ……ですか?」

 丁寧に言い直した。暗がりで表情はよく伺えない。未だに警戒されているようだったが、僕の顔を覚えてくれていたらしい。顔見知りに対する声音。
 良かった、何とか通報されずに済みそうだ。

 「うん、黒崎であってるよ、歌種さん。期末テストの時ぶり」

 ようやくまともな言葉が口をついた、胸中で安堵する。ところで、何回か口にして思ったが「うたたねさくらこ」という彼女の名前は妙に語感がいいな。

 ともあれ。これは後から教えてもらったことなのだけど、

 イーゴリ・ストラヴィンスキー作曲、バレエ音楽「春の祭典」。およそ『クラシック音楽』のイメージからかけ離れた音楽が、彼女……歌種桜子さんと僕とを引き合わせたのだった。


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 歌種桜子さんは、足元に無造作に放っていた上着を着て、机の上に置いてあるリモコンを操作した。照明が点くと、部屋の全景が見えた。高そうなスピーカーと音響機材、PCデスクの奥には、数百・数千枚はありそうなCDなど音楽ソフトを収納した棚……女の子の部屋と言うにはゴツすぎた。それでも僕は、

 (考えてみると、同年代の女の子の部屋なんて、初めて入った)

なんてドギマギしてしまうのだ。明るくなって、彼女の姿を改めて見直すことも出来たからだ。小柄な身体に、ところどころハネた、ふわふわのロングヘア。眼鏡の奥の瞳は何かを訴えるように大きい。普通女子なら部屋着を他人に見られるのは気にするものだが、彼女は気にせず、僕に問いかける。

 「……で。勝手に上がり込んできた説明はしてもらえるのかな、黒崎くん」

  結構不機嫌そうな声。声音にびくっとしながらも、辛うじて声を出す。

  「これ、数学の先生から。課題を届けてほしいんだって、頼まれて……それで、あの……」

 声が少し尻つぼみになってしまう。同い年の女の子と話すのはあまり得意ではない。

 「そう。じゃあ受け取っておくから」

 歌種さんは事務的に答えると、僕からプリントを受け取って机の上へ放り投げた。そしてまたパソコンへと向き直る。手元のマウスを操作すると、また異様な管楽器の音がスピーカーから流れてきた。ゴツい部屋にヤバ目の音楽、そして目の前の華奢な女の子――そのギャップに引き寄せられるように、

 「……これ、さっきの曲? なんてやつ?」

 そう、声をかけてしまった。用は済んだのだから、そのまま帰れば良かったのだけど――友達だって満足に作れない僕だから、普段ならありえないことだった。

 でも、この轟音はたかだか音楽じゃない。この天才同級生が一人きりで、こんなヤバ目のクラシックに何を見出しているのか、気になってしまった。

 「言っても分からないよ、どうせ」

 ぴしゃりと言い切られる。まぁ、そりゃそうか。僕は努めて真剣な口調で言い直す。

 「大丈夫、きちんと聞くから」

 歌種さんは僕の方を見ずに、心底鬱陶しそうに答えた。

 「ストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』。これはヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルの78年ルツェルンライヴの音源ね。カラヤンの演奏の中でも一番演奏のネジが外れてるやつ」

 言ってることの一割も分からない。僕の返答を待つまもなく、言い終わると同時、さっき玄関で聞いた重低音が再び鳴り出した。玄関で聴いた轟音よりは音量が下げられている。よく聴くと、あの音は「家を破壊するような轟音」ではない。これは弦楽器の全合奏トゥッティ だ。

 「これってオーケストラ……クラシック音楽? イメージと全然違う、こんな曲があるんだ」

 ピアノ教室でも、オーケストラの参考音源を聴いたことがある。音楽の時間にも聴く機会はあったが、オーケストラの合奏というのはどれもか『小難しい』『堅苦しい』という印象を拭えなかったのを覚えている。

 しかし、これは授業で聴いた退屈な音楽とは決定的に違う。音と音とが調和せずに、ぶつかって火花が散るような刺激的な音。

 「まるでロックみたいだな……」

 「ハルサイがロック? まあクラシックの中でも現代的な編成で書いてるから、そう聴こえるのかもね。しかしベルリンフィルは流石だね、こんなに滅茶苦茶やっても破綻してない」

 言ってることは相変わらず分からないが、しばし彼女と一緒に曲に耳をやる。トランペットが金切り音を上げ、オーケストラが轟音を立てて付き従っていく。そして音の洪水の中心で、静かに耳を傾けている歌種さん。
 そのギャップに息が詰まりそうで、思わず声が出る。

 「……クラシックってもっと堅苦しい音楽だと思ってたけど、これは暴力的だな、驚いた。こんな曲があるんだ」

 そう言うと目の前の彼女は、弾かれたようにオーディオから僕に目線をきっと向けて、



 「クラシックが堅苦しいなんて、誰が決めたの?」



 と問うた。眼光に思わず気圧されてしまう。

 「あー、だって音楽の授業とかさ……そんな曲ばかりだったし……」

 「音楽の授業、ね。あのポンコツリスナー製造機。ああいう人が『これがクラシックですよ~』『真の芸術とは~』なんて教えているから、若い人が誰も聴かなくなるのよ。本当学校はダメね……お祖父ちゃんとは大違い。まぁいい。少し黙ってて」

  あ、はい……いやいや。強い言葉を使うんじゃない、怒られてしまうぞ。『学校はダメ』というセリフはいかにも不登校の子っぽかったが。

  直後、管楽器による大絶叫と、雷が落ちるような音。

 「ここ!」

 歌種さんが急に声を出す。

 「ティンパニって極めると雷みたいな音がするの! 演奏会ライヴの生音には勝てないけど、これはまあまあね。叩いているのはフォーグラーかな……流石だわ」

 熱に浮かされたような、というかこれはオタクの早口だ。オタクと言えばアニメなんかがポピュラーだが、『クラシック音楽のオタク』なんてのもあるのか。世の中、色々な人がいるんだな。

 「やっぱりライヴの演奏は違うなぁ。CD用の演奏と違って、この豹変ぶり。ギャップがあって良い」

 言ってることはほとんど分からなかったが、彼女が目の前で響く音楽にとても興奮していることは分かった。どんな感情でこんな奇妙な音楽を聴くのか、その理由まで察することは出来なかったが。

 静寂の後、ささやきあうようなオーケストラの絡みが響いた。

 「ここから2曲目、いけにえの踊りね。最初は祈りを捧げるように始まるけど、後半からジェットコースターになるよ」

 僕に説明しているような歌種さんの声。あれ、僕はいても良いのか。

 しかし『春の祭典』……だったか? 全然春らしくないばかりか、メロディなんかがあるわけじゃなくて、ぽつぽつと色々な楽器がメロディを奏でては沈んでいく。そして怒りのような轟音。

 「なにかの儀式みたいだな」

 「……それは言いえて妙だね。途切れ途切れのメロディでも曲全体を引っ張っていってるコツは」

 「リズムかな?」

 応えるように呟いてみる。歌種さんがビックリしたように僕に向き直る。

 「……分かるの?」

 「いや、何となくだけど」

 フルートのメロディに応えるヴァイオリン、弦楽器のピツィカート。パチンと弾けるような音だ。木管楽器のメロディらしきものの断片……そして唐突なフォルティッシモ。

「始まった」

 彼女の声とともに、急転直下、音楽は凶暴さをむき出しにする。

 確かにジェットコースターのようなテンポと音響。
 それにしても、めちゃくちゃ不規則なリズムだ。変拍子というのだが、ピアノ弾きである僕の指は、自然とリズムを取っていた。拍感が全く掴めない。2拍子……いや5拍子、9拍子? ピアノソロでも変拍子の曲は大変なのに、何十人もいるオーケストラの集団にこんなリズムを要求するか普通?

 「カラヤンは変拍子を振るのがそんなに得意じゃなかったみたいだけど、これを聴くとそうは思えないよね、キレッキレ。ブーレーズなんかが春の祭典の定番だけど、この熱さは出せないだろうなぁ」

 歌種さんの独り言。固有名詞がたくさん出てくるので、言ってることはよく分からない。しかし彼女はこの曲に惹かれているのだ、多分。

 曲は熱を帯び、徐々にラストスパートをかけているようだ。相変わらずの変拍子。それをほとんど完璧にこなすオーケストラ。そしてフルートがぽつんとソロを吹いた後、オケのトゥッティ、拍手。

 「――え、今ので終わり? もっとゴージャスな音じゃなく?」

 「私も最初に聴いたときは気づいたら終わってたな。お祖父ちゃんに『今のが終わりだったの?』って聞いた覚えがある」

 あぁいい演奏だったぁ、と歌種さんは零した後、思い出したようにこちらに向き直る。

 「帰ったんじゃなかったの? なんでまだいるの」

 「いや、気づいてなかったのかよ!? 30分はここにいたよ!?」

 歌種さんが作業イスから僕を睨みつけてくる。さっきまでのオタク感は鳴りを潜めており、今はひたすら僕に不信オーラをぶつけている。どうしよう、このままでは僕は不審者に逆戻りだ。やはり警察に通報? どうしよう。

 「えっと、ごめん。気分悪くしたなら謝るよ。でも僕も小学校からピアノやっててさ……クラシックも好きでたまに聴くから……気になって」

 パニクって、思ってもいないことを口に出す。しまった、いくらピアノ習ってるとはいえ、クラシックなんてバッハやショパンくらいしか弾いたことないぞ。しかもそんなに詳しくないし好きでもない。ピアノ教室でも高校に入ってからは、マジメに練習しなくなってたし。

 「――クラシック、好きなの?」

 歌種さんの声から険が取れた。僕は無意識に、カバンに付けているピンブローチを撫でる。今通っているピアノ教室でもらったものだ。

 「ピアノソロだけなら……オーケストラはほとんど聴いたこと無い」

 というかスマホにはショパンはおろか、クラシックは全く入っていない。しかもさっき「堅苦しい」と言ったばかりだ。ほぼ口からでまかせである。

 「ふぅん……そうなんだ――あぁ、だから」

 歌種さんが何かに気付いたように、僕のカバンを見る。だからって、何だ? 彼女は向き直って僕に一歩踏み出す。顔が近い……改めて見ると、結構まつ毛長い。相変わらず何か言いたそうな大きな瞳。ふわふわの長髪も手入れはされていないようだが、近くに来るといい匂いがする。あと、小柄だけど案外スタイルはいい。

 「プリント、ありがとう。それから、出来れば私のことは誰かに言いふらさないで」

 下を向いて、きゅっとパジャマの裾を握る。最後の方なんて声が小さくなっていた。その姿が年相応の女の子に思えて、僕は不意に、

 「あのさ、良かったらなんだけど……また来てもいいかな。出来れば、だけど」

 という台詞が飛び出してしまった。そしてとんでもなく後悔。やばい。面識のほとんどない同級生にいきなりこんなこと言われるのはどう考えてもキモかった。

 「……出来れば?」

 「うん……出来れば」

 彼女は少し躊躇ったようだった。数秒時間が流れる。目を伏せた歌種さんの顔から目が離せなくなる。

 「まあ、たまになら」

 ふっと緊張が解けた。どうやら通報はされなくて済んだようだ。

 それから後は二三言会話をして、僕は彼女の家を後にした。何を話したのか――正直覚えていない。最後は玄関の方まで見送ってもらって、

 「次はピアノ弾いてる人向けの曲を選ぶね、約束」

と言われたことだけは、残っていた。

 帰り道、外はもう薄暗くなっていた。街灯がぽつぽつ点く中、歌種さんとあの轟音を思い出し、少し胸がざわついた。

 (歌種さんは、友達とかいないのかな。ずっと一人で、あんな曲を聴いているのか)

 彼女は『クラシック音楽』に何を見出しているのだろう?
快感? 憂さ晴らし? いや、それにしてはあの轟音はただ事じゃなかった。まるであの音に、支えられているみたいだった。それに、

 (『どうせ分からないよ』なんて、まるで皆に否定されてたみたいじゃないか)

 『春の祭典』のヤバい曲調からか、良く知らない不登校の同級生が意外な一面を持っていたからだろうか。僕自身、今さっきの出来事を上手く言葉にできない。とてもじゃないが、帰って何かをする気分にはなれなかった。

 ただ一つ考えることがあるとすれば。

 「次、か」

 また会える。自分から言いだしておいて何だが、これっきりになるかと思っていたのに。

 次はどんな曲を一緒に聴けるんだろう。そんなことを考えながら、僕は駅に向かって自転車を漕ぎ出した。



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 こうして、うたたねさんと僕との奇妙な日曜日が始まったのだった。あとから考えると、他所の家に勝手に上がったこと、声をかけたことは、偶然で片付けるにはあまりに出来すぎていた。

 春に起こった、ほんの小さなさざめき。

 それがやがて、お互いの人生をすっかり変えてしまうことになるだなんて、その時の僕らはまだ、知らない。