「お姉さん、飲みすぎてない?」  

 上からやけに生ぬるい声が落ちてきた。瞬間、閉じそうになっていた目を再び開く。
 人間というものは意外にも繊細だ。

「……誰ですか」
「通りすがりのヒーローかな。大丈夫? 立てる?」

 頭のなかがふわふわしている。どうやらいつの間にか道端でしゃがみこんでいたらしい。ぐらりと揺れる視界のなかで、どうにか記憶を巡らせてやる。
 そうだ、今日、日本が沈没するという予言を信じて、社内のみんなで飲みに出かけたのだった。 
 意識が急に戻ってはっとする。どうしよう、頭が痛い。
 くだらない飲み会に参加するぐらいなら、いつもどおり定時ダッシュを決めてひとりで晩酌すればよかった。日本が沈没する日にひとりでいたくないだなんてかわいいことを考えていた数時間前を既に後悔している。
 時計を見れば午前2時半。
 予言の時刻は7月5日午前4時。

「いいんだよ、もうあと1時間半で全部終わるんだし」
「うわ、そういう予言とか信じちゃうタイプ?」
「ガキは黙っててよ」
「あーあ口悪、見た目は綺麗なのにね」

 そっとペットボトルの水が差し出された。
 7月5日午前4時。
 数年前の大震災を当てたという預言者が放った警戒日。SNSでは瞬く間に根拠のない予言とやらが広がった。それを信じて飲み明かす予定だった。予言によればあと1時間半で日本は沈没するらしい。

 知らぬ間にコンビニで買った缶酎ハイを本空けていた。空の缶はやけに虚しくそこに存在している。
 蒸し暑い夏の気温は夜中の2時となればむしろ肌寒くも感じるものだ。ノースリーブから無防備に伸びる湿った腕を撫でながらしゃがみ込むわたしを、金髪のおとこが覗き込んでくる。
 明らかに大学生。じゃないとしても、年下。

「なんか嫌なことでもあったの? そんなに飲んで」
「……べつに、毎日嫌なことばっかりだよ」
「危ないよ、おねーさん綺麗だし、もう終電もないしさ」
「そんなこと気にする年齢じゃないよ、もう」

 何故こんな見ず知らずの男と話しているのだろう。スマホを見れば7月5日午前2時半。とっくの昔に終電は終えていた。
 会社の最寄り駅、飲み会終わりにふらっと立ち寄ったコンビニで数本アルコールを買ったが最後。こんなはずじゃなかったのに、やってしまったと今更ながら後悔する。

「あーあ、もう2時半だ。あと1時間で日本沈没なのに何してんだろ」
「はは、7月5日の午前4時に大災害が起きるってやつ? おねーさん、結構スピリチュアルだね。信じてる割に全然防災対策してなさそうだけど」
「しないよそんなの。大体、日本沈没なんて生ぬるい。どうせなら地球滅亡しちゃえばいいのに」
「世界が滅びちゃえばいいって? 物騒だなー」
「そう思わない人間とはウマが合わない」
「ノストラダムスの大予言だってはずれたのに、そんな予言を信じちゃうところがかわいーですね」
「クズはすぐそうやってかわいいとか言ってくるんだよ、そのなよなよした喋り方大っ嫌い」
「初対面の人間にクズなんて暴言吐いちゃダメでしょ。僕みたいな男に騙された経歴あるのかもしれないけど」
「どーでもいいでしょそんなこと」
「でも残念、僕は意外と硬派なんですよ」

  なんだそれ、本物の硬派は自分でそんなこと言わないっつうの。なんならキスのひとつでもしてみろよ。

「で、あなた誰なの?」
「通りすがりの大学生ですよっと」
「なんだ、やっぱり年下か」
「お姉さんがあまりにタイプだったので声かけちゃいました」
「そう。わたしは1ミリもタイプじゃないや、ごめんね」
「うわ、ハッキリしてるところもいいね。ますます興味出る」

 年下、あろうことか金髪大学生だなんて酔った勢いだとしてもお断りだ。けれど揺れる視界の中で声の方を見上げれば、それはそれは端正な顔立ちの男が立っている。

「あー、なんだ、顔、かっこいいじゃん」
「はは、よく言われますー」
「いいね、顔は正義、イケメンは正義」
「お姉さん素直だね、危なっかしくて心配」
「あんたが一番危ないよ」
「えーどこが? こんなに心配してるのに」
「年下、大学生、金髪、イケメン、馴れ馴れしい、ほらね、危ない要素しかないでしょ」
「それは偏見だと思うけどなー」

 深夜、電灯のあかりがチカチカと光る。会社の最寄りは歓楽街。
 見目麗しい年下は、わたしの横に並んでにっこりとわらった。仄かにジャスミンの香水がかおってどきりとする。29年生きていれば、こういう男に騙されてはいけないとどこかで既に学習済みだ。

「おねえさん、アイス食べる? 奢るよ」
「……」
「とりあえず水飲んでね、そこで買ってくるから」

 冷たいペットボトルを差し出した年下は立ち上がって近くのコンビニへと歩いて行った。その後ろ姿を見ながら項垂れる。こんなはずじゃなかったのに。そう思いながらもペットボトルのキャップをあける自分がいた。
 7月5日午前4時。全部終わる。全部終わるなら、こいつの相手を少しだけしてやってもいいかもしれない。




 
 存分に汗を書いたソーダ味のそれにかぶりつくと、しゃくりと夏の音がした。生ぬるい温度にも耐えられないアイスの冷たさに儚さを感じるなんてどうかしている。

「おねえさん、アイスはシャーベット派?」

 となりで高いハーゲンダッツを食べる年下がそうわらう。きっとわたしがそっちを選ぶと思っていたんだろう。わたしが手にしている60円のソーダアイス、日本沈没の前に食べるものとしてはいかがなものか。

「別にそういうわけじゃないけど、暑いしソーダ味の方がいいって思っただけ」
「ふうん、そうなんだ」
「それに、人間って結局、自分の身の丈に合ったものを選ぶべきなんだよ」
「……というと?」

 無理に何かを手に入れようとして成功したことがない。

「別に。ていうかさ、きみはなんでこんな時間にここにいるわけ?」
「んー、さっきまでサークルの飲み会にいたけどだるくなっちゃって。酔い覚ましに歩いてたらおねえさんを見つけたってわけ」
「ふうん、大学生」
「いま年下のことバカにしたでしょ?」
「してないよ、若くて良いなって思っただけ」
「はは、おねえさんたぶん僕みたいな遊び呆けてる大学生嫌いでしょ、顔に出てるよ」
「……」

 嫌いとは言ってない。でもこういう、きらきらした人間を見ると途端に自分がちっぽけに思えて仕方ない。

「でもなんだろうね、おねえさんみたいに死んだ目してる人のこと、なんか放っておけないんだよね」

 しゃくり、かぶりついたソーダアイスは半分溶けていて、夏風が頰をかすめて髪を攫っていく。
 死んだ目してるなんて、初対面の女性に失礼なんじゃないの。だけど残念、それを否定できない自分もいる。

「地球が滅亡しちゃえば良いなんて言うから、可哀想な女だとでも思った?」
「まさか。可哀想なんて思ってないよ、むしろ僕も別に地球が滅んだって構わない側の人間だし」
「嘘がうまいね」
「本当本当。人間関係とか将来のこととか考えたくないんだよね。ふらっといなくなりたい時とかあったりしない?」

 それはある。でも、そんなのたぶん、わたしたちみたいな怠惰で無知で根性のない、けれど何故か自尊心だけは変わらず持っているダメな大人だけだよ。

「わたしはいつも、いなくなりたいよ」
「どうして?」
「……周りの友達殆どみんな結婚したし、してない子は起業したりフリーランスで仕事したり自分の強みを持っててさ」
「うん」
「わたしだけなの、ずーっと何もなくて、ずっとひとりなの。わたしだけさ、この世界に取り残されてるんだよね、ずっとね」

 ずっと個性が欲しかった。義務教育のなかで求められていた協調性や集団行動を律儀に守り、真面目に堅実に生きてきた結果がこれ? バカみたいにも程がある。
 学生時代に羽目を外して遊べばよかった。軽率に異性関係を持てばよかった。真面目に就活なんてしないで海外に飛んでもよかったしベンチャー企業に就職したってよかった。美大に行ってもよかったし、インフルエンサーになったってよかった。
 安定、平均、無個性、普通、そういう言葉がこの世で一番似合う。大きな幸福もなければ大きな不幸もない。ただずっと、真っ直ぐ、リスクを負わずに安全地帯を歩いているだけのような人生。

「何も持ってないし努力してないくせに、いつも自分の存在意義ばかり考える。周りと比べたりしてね」
「うん」
「だからずっと、30になったら死んでもいいなって思ってた。ちょうどいいんだ、今日の4時に地球が滅亡しちゃえって、割と本気で思ってるの」

 最低でしょう、自分勝手で笑ってしまうでしょう。

「僕もそう思うよ、何もない自分がいつも嫌になる」
「イケメンのくせに?」
「ルックスだけじゃ意外と生きていけなかったりするからね」
「でもいいじゃん、ひとつだけ秀でるものがあるのも才能でしょ」
「だとしたらおねえさん、あなたは自分のことをよく理解しているところが魅力だね」

 さりげなくそっと横にいる彼の香りに翻弄されているのだろうか。それともこの熱は夏の夜のせいだろうか。

「地球が滅亡したらどうする?」
「べつに。だって意識もなくなるでしょ。おねえさんは?」
「わたしも、変わらずここで項垂れてるよ。綺麗さっぱり消えたい」
「そっか、じゃあ地球滅亡の瞬間、一緒にいてもいい?」
「相変わらずクズみたいな話し方だね」
「じゃあ賭けでもしない? 4時に地球が滅亡したら、お姉さんの勝ちね」
「なにそれ。じゃあ滅亡しなかったら?」
「僕の勝ち。だから今度一回デートしてよ。地球が滅亡しなかった記念に」

 胡散臭い男。だけど毎日普通の日常に飽き飽きしているわたしには悪くない出会いなのかもしれない。
 こういうものに足をかけたら最後と思っていた。でも人生、いや地球が終わるならこの手を取るのも悪くない。

「滅亡しなかったらね」
「うん、滅亡しなかったら」

 7月5日午前4時を目の前にして見ず知らずの年下と今後の約束をしているなんてナンセンスだ。でもほんの少しだけ、地球が滅亡しなかったときの世界線を想像したりして。
 
「……滅亡しなかったら次はハーゲンダッツ買ってくれない?」
「年上のくせに奢らせるなんておねえさんやるね」
「滅亡しなかったらの話ね」
「うん、滅亡しなかったら買ってあげる」

 地球最後の日だ。60円のソーダアイスよりも倍以上値段のはるアイスを手に取ったっていい。
 7月5日午前4時、地球が滅亡しろと思いながら、次に食べるアイスの味を考えていた。夏の香りがした。


【おやすみ世紀末】 完