冷たい風が吹き抜ける。藍都学園都市の地下、零域への通路は、まるで都市そのものの血管を進んでいるかのように、低く唸る音と振動に包まれていた。
 三枝美佳は、胸に握った「鍵」の重さを確かめるように息を呑む。七海彩音から託されたそれは単なる金属片ではなく、この都市の未来そのものを左右する力を宿していた。

 「……この先にあるのね」
 宮下ユリが囁くように言った。彼女の声には緊張が混じっていたが、同時に覚悟もあった。
 「ええ。LAPISの中枢、そして“橘誠二”の痕跡が」有栖川玲が端末を確認しながら答える。
 「橘……」美佳はその名を反芻した。あの廃工場で一瞬見えたロゴ、《LAPIS: Logical Algorithmic Parallel Integration System》。あれを設計した人物。その影が、ここに残されている。

 東郷翔は一歩先に進み、振り返る。
 「忘れるなよ。ここから先は危険だ。だが──選ぶのはお前だ、美佳」
 その瞳は冷静でありながらも、どこか優しかった。翔は常に一歩引いている。だが、美佳に決断の重みを教えているのだと、今ならわかる。

 そのとき、通路全体が震えた。壁に浮かび上がるようにして、光の波紋が広がる。次の瞬間、都市全域から集められた膨大な「声」が轟音のように押し寄せてきた。
 ──支持する。
 ──否定する。
 ──破壊すべきだ。
 ──守りたい。
 ありとあらゆる答えが、叫びが、重なり合い、美佳の耳に突き刺さる。

 「これが……アンケートの、本当の姿……?」
美佳の視界が揺れる。
 ユリが支えた。
「しっかりして、美佳。これは試練なのよ」
 玲も険しい顔で頷く。
 「零域に触れる者は、必ずこの“重み”を浴びる。誠二は人々の選択を全て記録し、それを未来に託そうとした。でも、それが歪められた」

 膝を震わせながらも、美佳は前を見据えた。彩音の言葉が甦る。──「この鍵は、あなただから渡すの」。
 あのときの彩音の微笑みは、決して後悔や恐怖ではなく、未来への信頼だった。

 「橘誠二……あなたは何を残したの?」
 美佳の問いに応えるかのように、通路の奥で光が集まり、人影のような映像が浮かび上がる。
 白衣をまとった、若い技師らしき男。声は掠れていたが、確かに届いた。
 ──私は、選択を信じた。だが、選択には責任が伴う。キャンセルは出来ない。
 ──だから、最後の答えは“お前たち”に託す。

 映像はそこまでだった。残されたのは、重すぎる問いと、ひとつの「鍵」。

 翔が美佳の肩に手を置く。
 「どうする、美佳。選ぶのは……」
 その声は低く、しかし揺るぎない。

 美佳は鍵を強く握りしめた。
 ──送信後のキャンセルは出来ない。
 その言葉の意味を、今なら理解できる。

 彼女は、零域の奥へと足を踏み入れた。未来を選ぶ、その一歩を。