静まり返った旧病院の廊下に、足音だけが反響する。
 さっきの通話の余韻がまだ胸を締めつけ、美佳は深く息を吸った。

 「橘誠二……聞いたことがあるのか?」
玲が純に視線を向ける。
 純は短く唸り、目を伏せた。
 「名前は、知ってる。だが……ここで話すべきことじゃない」

 その一言で、場の空気は一層張り詰める。玲は不満げに眉をひそめ、翔はただ無言で壁の落書きを見つめていた。

 「純くん、知ってるなら教えてよ」
美佳は堪えきれず問い詰める。
 だが彼は首を横に振った。
 「下手に口にすれば、俺たちの動きが読まれる。あいつは、そういう男だ」

 「……やっぱり知ってるんだね」
美佳の声はかすれた。
 彩音の残した鍵を握る手に、汗がにじむ。

 沈黙を破ったのは翔だった。
 「“橘”って名は、藍都学園都市じゃ珍しくねぇ。だが、誠二……それは、都市設計局の中枢にいた技師の名前だ」
 「都市設計局……?」
美佳が繰り返す。
 「この街を造った連中さ。藍都学苑も、LAPISの本部ビルも……全部、あの局が手掛けた。十数年前に事故で姿を消したって聞いてたが」

 「消えた人間が、今さら何を?」
玲の声には苛立ちが滲んでいた。

 純はしばらく沈黙した後、低く告げた。
 「……誠二は生きてる。俺は、直接会ったことがある」

 全員の視線が純に集中する。
 「いつ……どこで?」
美佳が震える声で問う。
 「三年前だ。LAPISの研修で。彼は“表の記録”では存在していないはずだった。けど──確かにそこにいた」

 息を呑む音が重なった。

 「つまり、その女の声が言ったことは本当……?」
美佳の心臓は早鐘を打つ。
 純は目を閉じ、短く頷いた。
 「だからこそ危険なんだ。あいつは、藍都学園都市の“根幹”に触れてる」

 その言葉に、玲も翔も言葉を失った。

 闇に包まれた旧病院の奥から、風が吹き抜ける。錆びた窓枠がきしみ、まるで誰かが近くで聞き耳を立てているようだった。

 美佳は胸の奥に重く沈む予感を覚えた。
 ──彩音が託した鍵。
 ──電話の向こうの女性の声。
 ──そして、橘誠二。

 全てが一本の線で繋がり始めている。だがその先に何が待つのか、まだ誰にも分からなかった。