霧の中を歩くうちに、駅前の喧騒は遠ざかり、ビルの影が深くなる。
翔に案内されたのは、裏通りにある小さなカフェだった。表の看板は消えていて、営業中には見えない。

ドアを開けると、かすかなベルの音とともに、低いジャズが流れてきた。
カウンター奥の席に、有栖川玲が座っていた。
白いブラウスに黒のタイトスカート、髪を後ろでまとめ、鋭い視線をこちらに向ける。

「来たわね、美佳。……そして純も」
玲の声は、変わらず冷ややかで、それでいて妙な安心感を与える。

美佳は席に着くなり、ポケットから銀色の鍵を取り出した。
「これが彩音から託された“鍵”。あなたが解析してくれたというデータと、どう関係してるの?」

玲は目を細め、翔からデータカードを受け取ると、携帯端末に差し込む。
カフェの壁に備え付けられたスクリーンに、幾何学模様のような暗号データが映し出された。

「この模様……」
純が眉を寄せる。
「知ってるのか?」美佳が問うと、純はゆっくり頷いた。
「旧藍都病院の封鎖システムの一部だ。俺もLAPISで見たことがある」

玲が説明を続ける。
「半分までは解読したわ。残りは、この“鍵”を使わないと開けられない。つまり、美佳、あなたが持っているその鍵は……単なる物理的な鍵じゃないの」

スクリーンに表示された模様の一部が光り、鍵の形とぴたりと重なる。
「この鍵は、病院地下の制御装置と共鳴して暗号を解除する“媒体”なの。しかも、使用できるのは一度きり」

美佳は息を呑んだ。
一度きり──つまり、使えばその時点で何かが決定的に変わってしまう。

「……そして、もう一人。宮下ユリがこの暗号のもう片方の“鍵”を持っているはずよ」
玲は視線を鋭くした。
「二つが揃った時、封鎖が解かれ、病院地下に眠る“もの”が目覚める」

美佳は無意識に純を見た。
純も視線を返し、口を引き結んだまま頷く。
「行くしかないな。ユリのところへ」

玲は淡く微笑み、言葉を付け加えた。
「でも気をつけなさい。旧藍都病院に足を踏み入れた者は──二度と同じ自分では戻れない」

その言葉が、美佳の胸に冷たい影を落とした。