夜明け前の藍都学園都市は、濃い霧に包まれていた。

 美佳は眠れぬままベッドを抜け出し、カーテンを少しだけ開ける。街灯が白い(もや)の中でぼんやりと滲み、ビルの輪郭すらかすんでいる。



 ポケットに入れたままの鍵が、今も肌に冷たい。昨夜、あの“非通知”からの声を聞いて以来、その冷たさは妙に意識に引っかかっていた。



「……鍵を手放すな、か」

 小さく呟くと、背筋をなぞるような寒気が走った。



 スマートデバイスの画面が突然点滅する。着信ではなく、通知もない。ただ、画面の中央に赤い点がぽつりと浮かび、ゆっくり脈打つように明滅していた。

「……何これ?」

 指で触れると、画面が切り替わり、知らない地図が表示される。地図の中心には赤い影のようなマーク──その下には、かすれた文字でこう表示されていた。



『旧藍都病院 地下三階』



 呼吸が浅くなる。旧藍都病院──今は廃墟になっているはずだ。数年前の火災で閉鎖され、立入禁止区域に指定されている。

 あの場所に、何があるというのか。



 不意に、背後から声がした。

「……何を見てるんだ?」

 驚いて振り返ると、純がドアの隙間から顔を覗かせていた。いつもより険しい目つきだ。



 美佳はためらいながらも、画面を見せる。

 純は数秒黙っていたが、やがて低い声で言った。

「……やっぱり来たか」

「やっぱり?」

「この病院の座標は、LAPISでもマークされてた。だが、本部内じゃ誰も触れようとしない“封鎖案件”だ」



 封鎖案件。つまり、公式には存在しないことになっている情報。

 純の視線は、赤いマークから美佳の手の中の鍵へと移った。

「……その鍵、多分そこに繋がってる」

 美佳は息を呑む。昨夜の声も、この座標も、全部この鍵が呼び寄せたというのか。



「行く気か?」

 純の問いは、挑むようでもあり、試すようでもあった。

 答えを出せずにいると、純はわずかに口角を上げた。

「……行くなら、準備はしておけ。あそこは、普通の廃墟じゃない」



 窓の外では、霧の中からゆっくりと赤い朝日が顔を出し始めていた。

 その光は美佳の胸の奥に、不安と同時に抗いがたい衝動を灯していた。