零域からの脱出は、まるで夢から覚めるように唐突だった。視界を覆っていた白い靄が裂け、気づけば美佳は藍都学園都市の一角、夜の校舎裏に立っていた。
 だが胸の奥では、まだあの場所の冷たさが脈打っている。
 「……彩音……」
 彼女の名前を口にすると、零域で見た最後の光景が脳裏をよぎる。ホログラム越しに微笑んでいた七海彩音。その手から渡された、小さな金属製の“鍵”。掌の上でひやりと冷たいそれは、今もジャケットのポケットの中にあった。

 背後で足音。反射的に振り返ると、そこには純の姿があった。LAPISの制服が街灯に照らされ、金色のラインが微かに光る。
 「……無事だったか」
 淡々とした声だが、わずかに安堵の色が混じっている。
 「彩音ちゃんが……私に鍵を渡したの」
 言葉を選びながら、美佳はポケットから鍵を取り出した。純の視線がそれに注がれる。
 「俺じゃなくて、お前に、か……」
 そう呟く純の目は、驚きと何かの決意が交じっていた。

 「この鍵、何なの?」
 問いかけに純はすぐ答えず、少しだけ夜空を見上げた。
 「説明はできる。でも……今じゃない」
 その言い方はいつもの彼らしい慎重さだった。だが美佳は、零域で聞いたミオの声を思い出す。
 ──“選べ、美佳。誰を信じるかで、未来は変わる”
 耳の奥でその響きが甦り、胸が締め付けられる。

 二人はそのまま旧校舎を離れ、LAPISの本部へ向かった。夜の学園都市は、どこか静かすぎる。街路樹の影が伸び、遠くの建物の窓が一斉に消えるように暗転した。
 「停電……?」
 美佳が呟くと、純は首を横に振る。
 「いや、これは制御された遮断だ。誰かが──」
 彼の言葉が途切れる。その瞬間、二人の端末が同時に震えた。

 画面に映るのは、同じ発信元不明の番号。
 それは、美佳にとって見覚えのある数字の並びだった。
 (……まさか)
 受信ボタンに指がかかる。だが通話の向こうから聞こえてきたのは、低く押し殺した声だけだった。
 「……鍵は、まだ渡すな」

 次の瞬間、通信は切れた。通話履歴には「該当なし」の文字。
 美佳の鼓動が早まる中、純が眉を寄せた。
 「誰だ?」
 美佳は答えられなかった。答えられるはずがない──あの声の主を、まだ自分は知らないのだから。