白い空間に足を踏み入れた瞬間、世界が反転したかのような感覚に美佳は包まれた。

まるで重力も、時間の流れすらも失われたかのような場所。
どこまでも広がる無音の空間に、ひとつだけ、色があった。

──薄桃色のワンピースを着た少女が、ブランコに揺られていた。

「……彩音?」

彼女は微笑んでいた。現実とも幻ともつかない、どこか儚げな表情で。
髪がふわりと揺れ、視線が美佳を捉える。

「ようやく……来てくれたんだね」

「ここは……あなたの“記憶”? それとも、都市の中心?」

「どちらでもあって、どちらでもないわ。これは……私が遺した“終端”」

彩音の声は、風のように優しかった。

「この都市はね、“情報”と“記憶”によって構成されていた。
人の思い出、後悔、夢、喪失……全部、LAPISに吸い上げられて、整理されていたの。私が、それを管理していた」

「あなたはずっと、ひとりでそれを……?」

彩音は、ゆっくりと首を横に振った。

「ひとりじゃなかった。純くんがいた。ユリも、翔も。……でも、私だけが“中に取り込まれた”の」

「それは……」

「選んだのよ、自分で。誰かが都市の記憶に“残らないと”、記録は消えてしまうから。……だから私は、ここに残った」

ブランコが止まり、彩音は立ち上がる。
ゆっくりと美佳の方へ歩み寄ると、小さな箱を差し出した。

「これが、LAPISの中枢制御キー。これを使えば、都市の記憶ネットワークはシャットダウンできる。記録はリセットされ、全てが白紙になる」

「……でも、それって、彩音の存在も……」

「消えるわ」

短く、でも優しく、彼女は微笑んだ。

「だから、美佳に決めてほしいの。都市の記憶を終わらせるか、それとも、誰かの意志として継ぐか」

その問いは、美佳の胸を貫いた。

「私は……どうしたら……?」

「大丈夫。もう、選べるようになってるよ。だって、美佳は──誰かの言葉に流されるだけの存在じゃないから」

美佳は、箱を受け取る。その手はわずかに震えていたが、目は逸らさなかった。

「彩音……これを、私に託してくれるんだね?」

「うん。だって、私は信じてるから」

そして彩音は、静かに後ずさる。

「ありがとう。私の記憶に、触れてくれて」

その瞬間、彩音の身体が光に包まれ、粒子のように空へと舞い上がっていった。

「……待って! まだ、言いたいこと……!」

けれど、声は届かない。

彩音は、美佳の心の中に──そして、都市の記憶の片隅に──そっと刻まれていった。

美佳はひとり、白い空間の中心に立ち尽くす。
手の中に残された、ひとつの選択。

過去をリセットするか、それとも、未来へ受け継ぐか。

そのとき、かすかな風の音とともに、“誰かの声”が聞こえた。

──決めるのは、君だよ。