旧校舎の廊下は、ひんやりとした空気に包まれていた。雨上がりの夕暮れが差し込むガラス窓の向こうで、風が木々を揺らす。美佳の靴音だけが、静まり返った空間に響いていた。

 「……ここに誰か、いたよね?」

 胸騒ぎが止まらない。誰かの気配。追われているような、逆に誰かを追っているような──そんな曖昧な感覚に、美佳は額の汗を拭った。白いシャツが背中に張りついている。

 旧校舎には電灯が通っていない。一部の教室に仄かに届く夕日だけが、彼女の視界を辛うじて照らしていた。突然、奥の教室から、ガタン──と物音がした。

 美佳は息を呑んで足を止めた。

 「……誰?」

 返事はない。だが、確かに人の気配がする。恐怖と好奇心のはざまで、美佳はそっとドアに手をかけ、開いた。

 軋む音と共に現れたのは、誰もいない空の教室だった。机はきちんと並べられておらず、一部は倒れ、黒板には「おかえり」と、白いチョークで殴り書きされていた。

 ぞくりと背筋を冷たいものが走った。

 「……何これ……」

 そのときだった。背後から風のように誰かが駆け抜けた気配がした。

 「待って!」

 美佳は振り返って追いかける。長い廊下を駆け、階段を下りた先──体育用具室の前で、足音が止まっていた。

 だが、そこにいたのは──

 「純……?」

 呼吸を乱し、驚愕と安堵が入り混じった表情のまま、美佳は言葉を失った。

 朝倉純がいた。制服姿で、暗がりに溶け込むように壁にもたれかかっている。手には見慣れない黒い端末を持っていた。

 「こんな場所まで来るなんて、君ってほんと、変わらないね」

 淡々とした口調だった。だが、その声の奥には、微かに焦りがにじんでいた。

 「どういうこと……なんで、こんなところに……」

 純は答えず、端末の画面を美佳に見せた。そこには──LAPISの内部監視記録が映し出されていた。

 「まさか……君も、LAPISの……?」

 「今はそれを説明している時間がない」

 そう言った純の目が、一瞬鋭くなった。直後、階段の上から複数の足音が迫ってきた。重いブーツのような、規則正しい音。

 「ここにも……来たか」

 純は美佳の手を取って走り出した。

 「こっち!」

 彼の導きで、美佳は旧体育館の裏口へと抜け出す。雨上がりの空は赤紫に染まり、遠くでサイレンの音がかすかに聞こえていた。

 「まさか、LAPIS本部まで……この学園都市で何が起きてるの?」

 美佳が問いかけたが、純は黙ったまま走り続けた。やがて裏手のフェンスの前で足を止めた。

 「今夜、すべて話すよ。……君が、本当に知りたいと思うなら」

 静かに、だが確かにそう言った彼の瞳は、懐かしさと決意をたたえていた。

 美佳は息を整えながら、ゆっくりとうなずいた。





深夜二時のLAPIS本部。静寂を破るように、カードキーの認証音が小さく鳴る。
 扉が開くと、朝倉純の姿があった。

 彼は無言のまま、薄暗い廊下をゆっくりと歩く。
 身につけていたのは、LAPIS専用の制服──藍都学苑の一般制服とは異なり、深い藍色のジャケットに銀糸で刺繍された〈調査局章〉が右肩に輝いていた。無駄のないデザインと鋭いシルエットは、どこか軍服を思わせる厳粛さを纏っている。

 彼の足音は、まるで規律と決意を刻むように一定のリズムを保っていた。
 しかしその眼差しには、かすかな翳りがあった。

 「……やっぱり、来たか」

 モニター室の奥から現れたのは、LAPISの情報局に所属する分析官、東郷翔だった。
 彼もまた、同じ制服に身を包み、端末の前に立っていた。
 「この時間にアクセスするのは、おまえくらいだよ」
 「心配なんだ、美佳のことが」

 純は短く答えると、翔の隣のモニターを覗き込んだ。そこには、美佳の行動記録がログとして表示されていた。ログイン履歴、アクセス先のサーバー、そして〈彼女が再構築を試みた旧記憶ファイル〉の断片──。

 「“アーカイブ・ルートβ7”……ここまで来てるのか」
 「警告は何度も出してる。けど、美佳は止まらない。まるで何かに急かされてるみたいに」

 翔が低くつぶやく。
 純はモニターから目を離さないまま答えた。

 「──誰かが彼女を呼んでる。あの時の“声”が、まだ彼女の中に残ってるんだ」

 沈黙が二人の間を満たした。だが、それは緊張ではなく、共有された憂いだった。
 やがて翔が、ふっと小さく笑う。

 「おまえも、まだ彼女を“あの頃の美佳”として見てるのか?」
 「……違うさ。俺は今の美佳を見てる。だから、止めなきゃいけないんだ」

 純の声には、決意と迷いがない。
 深夜の監視室に、その静かな覚悟だけが、深く響いていた。