乗り換え駅から先は、久しぶりに。
いや、『はじめて』。
……三藤先輩と『ふたりきり』で、列車に乗った。
この駅で折り返す車両の、転換式クロスシートを。
進行方向に、ゴトンと倒す。
窓際は、もちろん三藤先輩でいいのだけれど……。
「と、隣にどうぞ……」
その藤色の瞳で、じっと見つめられると。
な、なんだか……。とても緊張してしまう。
「ま、まだ発車まで時間があるので、飲み物でも買ってきます」
波野家でお茶でもどうぞと勧められたのだが、退院の日だからと辞退した。
普段なら、始発駅ならではの待ち時間も。
高嶺由衣と赤根玲香がいるので、にぎやかに。
そしてあっというまに、過ぎるのに。
きょうはまだ、列車の発車まで二十分以上もある。
売店の冷蔵庫の前で、買うものを悩んでいると。
隣に、三藤先輩の雰囲気を感じる。
あれ? もしかして。
こ、香水つけました?
僕が気がついたことが、予想外に早かったのか。
先輩は慌てて少し離れ、右手でその長い髪の毛を何度も肩に流そうとしている。
それから、両耳を少し赤くしながら小声で。
「ちょ、ちょっと暑い気がするので……。わ、わたしも、海原くんと同じものがいいなと思って……。ま、まだ時間があるから伝えにきただけよ……」
お金はあとで払うから、と告げると。
先輩は早足で列車のほうに戻っていったのだけれど。
さぁ、これは困った。
……僕は、三藤先輩の好きなお茶を『ふたつ』買おうと思っていたのだ。
先輩の指す『同じもの』は、きっと僕が買う炭酸飲料だ。
なのに今回は、お互いが逆のことを考えてしまった。
他の飲み物を、試そうにも。
僕は先輩がほかに、どんな飲み物が好きなのか知らない。
いや、そんなこと『さえ』知らないんだ……
たかが売店の飲み物だけど。どうして僕はそこまで落ち込むのだろう?
いや、これは落ち込んだと呼べるものだろうか?
単純な事実だ。
僕は、三藤月子について、『なにも』知らない。
……結局、僕は。
先輩の希望どおり。炭酸飲料を買って列車に戻る。
でも、希望どおりというのは逃げでしかない。
先輩が僕に『合わせてくれた』とおりに、しただけだった。
「失礼します……」
車内に戻ると。先輩が声をかけてくれたとおり、隣に座る。
そのとき、自分でもわかってしまった。
先輩との距離を、離してしまった。
隣なのに、これでは赤の他人の距離感だ。
でもいったい、三藤先輩とは……。
僕にとっての、どんな存在なんだろう……。
……忙しすぎて、疲れたのかしら?
久しぶりに。
いや、初めて『ふたりきり』で、列車に座った。
なんだかいつもと違う、海原昴のようすに。
さりげなく香水をふって、浮かれていた自分を。
……少し、恥ずかしいと思った。
せっかく、ふたりきりで座っているのに。
この距離感が、とてつもなく大きな隔たりに思えてくる。
わたしは、不器用なので。
姫妃みたいに、一気に近づいたり。
美也ちゃんのように、はっきりと気持ちを伝えたりすることができない。
えっ?
……美也ちゃん?
……はっきりとした気持ち?
えっとそれは……。
いったい、どういった感情なのだろう?
あぁ、わたしって『重い』のかしら?
ようやく列車が駅を離れ、規則正しいリズムで進み出す。
この無言の空間から、どうにかして逃れたい。
でも海原君が疲れているなら、そっとしてあげないと。
……一学期から、はじまって。
夏休みが過ぎ、そして文化祭や体育祭に向けての一番忙しい時期がきた。
そんなときに、事故まで起きた。
きょうだって、いつだって。
海原くんはいつも誰かに、振り回されている。
……その一番の原因は、きっとわたしなんだ。
わたしさえ、静かにしていれば。
海原くんは自分なりのペースで、高校生活を過ごしていたはずだ。
もしかしたら、どこかで接点ができたかもしれないし。
なにも知らずに、終わったのかもしれない。
……わたしは、彼の自由を奪っている。
とても大切なことに、いまさらながら気がついた。
ではいったい、海原くんって……。
わたしにとっての、どんな存在なんだろう……。
……長い、トンネルを抜けたあとで。
わたしの聞きたかった声が、とても慌てたようすでなにかを告げる。
「せっかく冷えているのを買ったのに、渡すのを忘れていました!」
目の前に、炭酸飲料のペットボトルが現れる。
で、どうしたの、海原くん?
どうして飲み物を渡すだけなのに、あなたはそんな真面目な顔なの?
……三藤先輩が、僕のせいで落ち込んでしまった気がして。
どうフォローしたらいいのか、わからなくなった。
長いトンネルの中で、窓に反射する先輩の物憂げな表情が見えて。
いよいよまずいと、焦ってきた。
再び、明るい光が車内に入った瞬間。
僕は、とんでもないミスに気がついた。
「ちょ、ちょっと暑い気がするので……。同じものがいいな……」
先輩!
喉が乾いてたのに!
冷えたドリンクを、渡すのを忘れていました!
夏休みの、神社での出来事を思い出した僕は。
三藤先輩を、僕の真横で熱中症にさせるなんて。
決してあってはならないことだと、必死だった。
「先輩! いますぐ飲んでください!」
……あまりに必死な顔の、海原くんを見て。
わたしは思わず、笑ってしまった。
「えっ? 笑ってないで! いますぐ飲んでくださいっ!」
「だからもう。どうしてそんなに、必死に飲ませようとするの?」
隣に座りあった、わたしたちは。
互いの顔を見ながら、会話しているうちに。
いつのまにか、ふたりの距離感は縮んでいった。
「あ」
「あっ……」
動いた右膝と、もうひとりの左膝が。
意図せず、触れてしまった。
「ちょっと、近かったですね……」
「昔の車両だから、座席幅が狭いんだって教えてくれたのは海原くんだったわよ」
違う、違う。
彼と、話したいこと。
いや知りたいことは、それじゃない。
……わたしはいまなら、聞ける気がした。
「ねぇ、海原くん?」
「どうかしましたか、三藤先輩?」
「あのね……大事なことを教えてもらっていいかしら?」
少し驚いたようすで、いつもより目を大きく開いた彼に……。
わたしは思い切って、質問した。
「あのね、わたしって『重い』?」
……駅を出た列車が、再び加速をはじめて車内に大きな音を響かせる。
えっ? どうして?
どうして、答えずにとまっているの?
それからしばらく待ってようやく。
海原くんの口が、遠慮がちに動き出した。
「……えっと、必死に考えていたんですけど、やっぱり必死だったんで」
そ、そんなに重たい質問だったんだ。
やっぱり……。
ごめんなさい……。
「予想よりは、『少し重かったかも』……しれません」
「……は?」
「いや、だからその……。なんといいますか。ほら、そもそも距離も意外とあリましたし。おまけに暑かったですし、ただ必死だったんであとから少しだけ、そんな感じだったかなぁ……って……」
そんなに、いいにくそうにしてくれなくても。
でも、なにかが食い違っている気がする。
「ねぇ海原くん。念のために聞くのだけれど、質問の意味はわかっている?」
「も、もちろんです! ほら、夏休みの神社で。熱中症になった三藤先輩を、原さんのところから社務所まで必死に運んだんですから。絶対、忘れるわけがありませんよ!」
……えっ?
あれ……。
顔を真っ赤にして、照れてでもいるのかと思いきや。
三藤先輩の背中から、藤色の怒りのオーラが……。
な、なんで!
「それって。わたしを背負って運んだときの『重さ』についての、答えよね……」
「えっ? だって、すごく深刻そうに、『重い』かどうか聞かれたので……。だからしょ、正直に答えていいのか。し、真剣に考えたん……ですけど……」
「……予想より、少し重かった」
『真剣に考えた』という、海原くんの回答を。
わたしは一生、忘れない。
「その『重い』じゃ、あ、ありませんから!」
「えーっ? ほ、他になにか……。どんな意味があるんですかー?」
……それから、必死にわたしのご機嫌を取ろうとする海原くんを見ていると。
むしろ、あまり悩む必要もなさそうだと思えてきた。
……出会ってしまったものは、仕方がない。
この先どうなるかが、大切なのだろう。
『女心』が『まったく』わからない海原くんについて。
わたしは、ゆっくり考えよう。
まだまだきっと、時間はあるはずだ。
……三藤先輩の『重い』って。
いったい、どういう意味なんだろう?
まぁでも、ゆっくり考えよう。
先輩と過ごせる、この時間を。
先輩も、嫌がってはいないのだから。
僕は、先輩の家のひとつ手前の駅で降りると。
動き出した列車に向かって、心をこめて手を振った。
やや物憂げで、ほんのり潤みがちで。
それでいてどこまでも澄んだ、藤色のふたつの瞳が。
きょうもまた、列車の中からまっすぐに。僕を見つめていた。
……最後に、小さく左手を振ってくれるその姿を見送るたびに。
僕はいつも、思うのだ。
あぁ、この高校にきて。
ほんとうによかったのだ、と。


