「うん、これでよし!」

 ……玲香(れいか)海原(うなはら)君の腕章を、きっちり付け直している。

 わたしは、その姿を見るのが。


 ……少しだけ、つらかった。


 玲香が、意地悪でしていないのはわかっている。

 ただ、わたしには。
 海原君と過ごせる時間が、『きょう』しかない。
 文化祭が終わると同時にやってくる、『引退』のとき。

 三年生のわたしだけに課された、その現実に。
 この瞬間もまた、気がついただけだ。


「ねぇ、玲香……」
 わたしが、そう聞いたとき。
 すでにあの子は、すべて理解していた。

「わたしとの『視察』はここまで。次は美也(みや)ちゃんと、いってらっしゃい!」
 恐らく、玲香も誰かに。
 同じセリフを、いわれたのだろう。


 ……あぁ、本当はわたし。
 海原君の『姉』のはずなのに……。

 まだ忘れられない、気持ちがあることを。
 みんなとっくに、見抜いているんだよね。


「いいから、どうぞ。いってらっしゃ〜い!」
 玲香の笑顔に、わたしは笑顔で応えられただろうか?
 ありがとう。
 そのひとことさえ、口に出せず。
 わたしは後輩に、背中を押されて。
 そのまま、機器室を出てしまった。



「……大丈夫ですか、都木(とき)先輩?」
「えっ?」
「もし、お疲れなら……」
「ないない! 疲れているのは海原君じゃないの?」

 そうだよね、疲れているのは君で。
 待ち焦がれていたのは、このわたしだ。

 こんなチャンス、もう与えられなくても仕方がないのに……。


「先輩のご希望に応じて、どこでもいきますよ」
 ありがたいことを、いってくれたものの。
「あ、でも……すいません」
 どうやら校門前のうどんと蕎麦の店だけは、避けたいらしい。

「えっ、そんなことがあったの!」
 海原君の話すことは、いつ聞いても面白い。
 きっと彼だけじゃなくて。周りの人間模様が、最高に楽しいんだろう。

 でも、あと少しで。
 わたしはその輪の中に、居られなくなる。
 いや。もうほとんどいなくなっている自分を思うと、とても悲しい。


 文化祭実行委員長を、やってみたかったのは本当で。
 ただ、同時に。
 放送室で過ごす時間を、減らさなければと思ったのも事実だ。

 最初に相談したときの、三藤(みふじ)月子(つきこ)の表情と声が。
 わたしの脳裏から、離れない。

「……美也ちゃんの決断なら、応援します」

 しばらく黙ったあとに、月子はひとことだけ口にした。
 あのときも、また。
 やや物憂げで、ほんのり潤みがちで。
 それでいて、どこまでも澄んだ藤色のふたつの瞳が。
 まっすぐに、わたしを見つめていた。

「……海原君に、迷惑かけるかな?」

 続けてそう質問した、わたしに。
 静かに首を横に振った、月子の姿を見て。
 わたしは、正直。
 この子には、勝てないと思った。


 どうして月子は、あんなに海原君を想っているのに。
 その気持ちを、口にしないのだろう?


 ねぇ、月子。
 あなたは、やっと見つけた『初恋』の人と。

 ……いったいこれから、どうしていくつもりなの?



「……あの? 都木先輩?」
「えっ、海原君? ごめんごめん!」
「お疲れなら……やっぱり戻って、休んだほうがよくないですか?」

 あぁ、せっかくの海原君の心遣いなのに……。
 わたしは、講堂の通路では返事ができず。
 楽しそうな会話で満ちている渡り廊下を、無言で進む。
 それから、角を少し曲がり。
 屋根のない、静かな場所まで歩いてようやく。

 ……立ちどまって、空を見た。


 秋の太陽が、いまのわたしにはまぶしすぎる。
 だけど、これ以上。
 下を向いていたら……。


 ……わたしは涙を、とめられなくなる気がした。


「ねぇ、お願いがあるの……」

 わたしは『文化祭デート』を、したいわけじゃない。
 ただ、いまは海原君と。
 いや、海原君の前だからこそ。

「上を、向いていたいの……」

 そう、小さくつぶやいた。

 でも、あまりにも抽象的な希望だから。
 伝わらなくて当然だと、思ったし。
 やっぱり機器室に戻りましょう、とでもいってくれたら。
 わたしは別に、それでよかった。

 おまけに、いつもなら。
「へ?」
 ……とか。
「は?」
 ……とか。
 よくわからないという反応で、答えるクセに。

 いったい、きょうはどうして。
 あなたはそんなに難しい顔を、しているの?




 ……僕は、大きな間違いを犯しそうだと。
 心のどこかで、思いはした。

 きっと、三藤先輩を。
 傷つけるとは、わかっていても。

 それでも、いま目の前の都木先輩に。


 ……確かななにかを、残したかった。


「一週間ごとに、持ち合うことにしましょう」
 そう決めて、僕を信じてくれた三藤先輩を。
 僕は、裏切ることになる。
 でも、もしかしたら許してもらえるかもしれないと。

 身勝手で、いい加減で。
 不誠実ないいわけを見つけた僕は。
「あの、都木先輩。実は……」
 そういって、ひとりで。
 三藤先輩に相談することなく、行動してしまった。




「……こんなところが、あったんだ」

 ……どこまでも広がる、秋の空に。
 わたしはこのまま、飛び立てそうな気がした。

 海原(うなはら)(すばる)が、わたしのためにかなえてくれた。
 そう、わたしは。
 いま、『上を向ける場所』にいる。


 教室棟の屋上は、本当に美しい場所だった。
 これまで過ごしてきた、わたしの学校なのに。
 まったくの、別世界が。
 どこまでも、どこまでも広がってた。


「ねぇ、海原君!」
 無邪気な、笑顔で。
「どうして、こんな場所を知ってるの?」
 はしゃぎながら、思わず口にして。

 それから、返事をしない彼を見て。


 ……わたしは心の底から、後悔した。


 わたしは、このとき。
 感動して、空だけをみていた。

 なのに、海原君は。
 わたしと、同じだけの時間を使って。


 ……右手にのせた、鍵だけを見つめていた。



「……月子との、思い出の場所なんだね」

 彼は、答えない。
 涙が。
 流さずに済んだと思った、涙が。
 屋上のコンクリートに、ポタポタと落ちていく。


「都木先輩に……」
 彼の声は、いつも以上にやさしいけれど。
「確かななにかを、残したかったんです」
 正直で、うれしいけれど。
「だから、僕は……」
「もう、いやっ!」

 続きが、いえないように。
 続きを、いわせないように。
 彼の口を、わたしは両手で思わずふさいだ。


 本当は、このとき。
 いっそ手ではないもので、ふさいでもよかった。
 でも、それだけは。
 許されないと、わたしは思った。

 ……いや、それだけは。
 わたしのプライドが、許さなかった。

 わたしは、月子の思い出の場所で。
 そんな卑怯なことは、絶対にしない。



 彼の胸を、両手で何度も叩く。
 なにもいえないように、何度も叩く。
 ねぇ、どうして。
 どうして、やめろといわないの……。

 叩くのに疲れたわたしは、彼の胸に顔をうずめる。

 すると海原君が。
 その、両腕で。
 そっと、わたしを抱きしめて……。



 ……そんなの、この世界では。
 わたしがこんなに求めても、起こらないんだ……。


 彼の腕は、わたしの頭をなでても、背中をさすってもくれなかった。
 ならば、握りしめている拳にあるその鍵を。
 鍵を、わたしが捨ててしまったら……。


 ……きっとそれでも、彼はわたしを抱きしめない。
 残酷な現実が。
 また、わかってしまった。


「ごめんなさい。でも、もう少しだけこのままでいさせて」



 ……見事なまでに。
 海原昴は、わたしに。

 ……『確かな』なにかを、残してくれた。



 完璧なまでの、失恋という思い出を。



 ……大きな大きな、秋空の下で。