「お疲れさまです……」
腰に巻いていたエプロンの紐をほどきながら、店のレジ締めをしている店長に無表情で頭を下げる。
「お疲れー。今日はほんとにありがとうね」
そのままスタッフルームのほうへと方向転換する私の耳に、店長の声が聞こえてきた。
普段の私なら、振り返って笑顔で会釈していたと思う。
だけど今夜は心も身体も疲れ切っていて、そんな気遣いをする余裕なんて少しも残っていなかった。
一緒に働いていたメンバーは既にみんな帰ってしまい、スタッフルームには私ひとり。荷物を置いたロッカーを開けると、先週末買ったおろしたてのベージュのワンピースがぶら下がっていた。
ため息を吐きながらワンピースを手に取ると、居酒屋の制服からそれに着替える。
お気に入りの店で吟味して買ったカタチの綺麗なワンピース。それを身に着けて出かける日を想像するだけでもテンションが上がるほどだったのに、実際にそれを身に付けた今の私の気分は最低最悪だった。
ヒールの高いパンプスに長時間の立ち仕事で浮腫んだ足を押し込んで、バイト先の居酒屋を出る。
湿気を帯びた夏の夜の空気が、むわっと肌を包んだ。
不快感に顔を歪めると、バッグからスマホを出して時間を確かめる。
午前0時2分。
すでに、日付が変わっている。
酔っ払った最後の客のグループが閉店時間を過ぎてもなかなか店を出てくれず、片付け作業が長引いた。
こういうときは、毎回終電ぎりぎりになる。
居酒屋のある最寄り駅の最終電車は0時12分発。それを逃すと、ここから三駅先の自宅まで歩くかタクシーを拾って帰らなければいけない。
だから、ラストまでに入って閉店作業が遅くなった日は、終電に乗り遅れないように駅まで猛ダッシュする。
バイトの日に履く靴は、スニーカー一択だ。
だけど今夜の私は、駅まで走る気力も湧かないほどに落ち込んでいた。それに、今日のバイトは予定外だったから、履いている靴もスニーカーじゃない。
綺麗目なワンピースに合わせるために、色とデザイン重視で選んだヒールの高いパンプス。
これで走ろうものなら、すぐに靴擦れを起こしてしまう。
この靴で三駅分歩くのもツラいし、今夜はタクシーだ。
駅のロータリーでタイミングよくタクシーを拾えたらいいが、終電後はタクシーを利用する人が多い。できるだけ早く帰りたいが、しばらく並んで待つことになるだろう。
こんなはずじゃなかったんだけどな……。
とぼとぼと駅に向かって歩きながら、ロング丈のスカートの裾をつまむ。
背中を丸めて夜道を歩く私の口からは、ため息しか出てこない。
バイト先を出てから何度目かの深いため息をこぼしたとき、での中に握りしめていたスマホが鳴った。
【バイトおつかれー。こっちは、少し前に解散したよ。今日は来れなくて残念だったね……。タカ先輩も、マナが来れなくて残念がってたよ。集合写真送りまーす!】
そんなメッセージとともに送られてきたのは、今夜の飲み会の集合写真。
写っているのは全員、私が働いている居酒屋の同年代のアルバイトスタッフだ。
真ん中に写っているのがタカ先輩。優しい笑顔の彼を中心に取り囲むようにして、男女計七人が、私に向かって楽しげにピースサインを見せつけてくる。
悪気はないのはわかっているが、そんな写真を送ってきたバイト仲間の女の子と、画面の中のみんなの笑顔が私への当てつけみたいに思えてイラッとした。
今夜は、ひさしぶりに東京から帰ってきたタカ先輩に会える日だった。
写真の真ん中に写っている背が高くて目元のおだやかな男性がタカ先輩。最後に会ったときは長めだった髪が、整った顔立ちがはっきりとわかるくらいの短髪になっている。
今年の四月に就職したが、それまでは彼も私の働いている居酒屋のアルバイトバイトスタッフだった。
優しくて面倒見のよいタカ先輩は、年下のバイトスタッフたちにも慕われていた。
それに頭の回転が早くて気が利くから、タカ先輩がシフトに入っているときは、どんなにお客さんで混んでいても、お店が円滑に回る。
アルバイトスタッフの中でも特にタカ先輩を頼りにしていた店長は、彼が東京で就職してバイトを辞めることをすごく残念がっていた。
そんなタカ先輩が、ひさしぶりに地元に帰ってくる。
どこかからそれを聞きつけたバイトメンバーが、タカ先輩を誘っての飲み会を企画した。
その集まりに誘われたのは、バイト仲間の中でもタカ先輩と特に仲が良かった七人。私も、そのメンバーに入れてもらえていた。
タカ先輩は私が新人だったときの教育係だった。そのせいもあってか、シフトがいっしょになると、いつも私のことを何かと気にかけてくれていた。
一緒に働いているときのタカ先輩は、私のことをただの後輩としか思っていなかったと思う。だけど私にとって、タカ先輩はただのバイト先の先輩じゃなかった。
シフトが被っている日はやる気が出たし、バイトの時間が楽しくて仕方なかった。
接客するタカ先輩の横顔をこっそり盗み見たり、手際よく料理を提供する姿を見ているだけで幸せな気持ちになれた。
バイト中に少しでも目が合えば嬉しくて、休憩中に交わすちょっとした会話が楽しくて。ずっと憧れていたし、好きだった。
タカ先輩がバイトを辞めるときに告白しようか迷ったけれど、先輩には長く付き合っているカノジョがいるって噂があったから告白はできなかった。
報われない片想いなんてやめなくちゃ。
そう思ったけど、タカ先輩がバイトをやめた後も、彼を好きな気持ちが消えなかった。
バイト先に行く度に、タカ先輩の不在を寂しく思ったし、東京で元気にしているのかが気になってしまう。
フラれるの覚悟で、告白しておけば良かった。そんな後悔が胸にずっと残っていた。
あるとき、思いきって近況伺いのメッセージを送ってみたら、タカ先輩から返信がきた。
当たり障りのないやり取りをしただけだったけど、ひさしぶりにタカ先輩と話せて嬉しかった。
それ以来、タカ先輩とはときどき連絡を取り合う仲になった。
私の就活の相談とか先輩の仕事のこととか、真面目な話をするときもあれば、その日に食べたものとか、たまたま見つけたおもしろ動画とか、どうでもいい話をするときもある。
つい最近だと、恋バナをした。
タカ先輩には長く付き合っているカノジョがいるという噂があったけど、それは違っていて。
大学を卒業する数ヶ月前にカノジョと別れたあとは、ずっとフリーらしい。
カノジョがいないなら、もしかしたら私にもチャンスがあるかもしれない。
だから、タカ先輩やバイトのメンバーたちと集まる今夜。タイミングを見計らってタカ先輩を呼び出して、告白しようと思っていた。
そのために、二週間以上も前からお気に入りのショップをいくつか下見して、タカ先輩と会う日のコーディネートをめちゃくちゃ考えた。
タカ先輩と会える日の午前中に美容室を予約して、カットとカラーをしてもらい、毛先も綺麗に巻いてもらった。
これで、告白の準備は完了だ。
それなのに……。
美容室を出て、待ち合わせまでの空き時間をカフェで潰していると、バイト先の店長から電話がかかってきた。
「ごめんね、マナちゃん。今日これから、シフト入れないかな? ラストまで入ってくれる予定だった子が、体調崩して来れなくなっちゃって……。他の子たちにもかけてるんだけど、みんなつかまらないんだよ」
店長の困った声を聞いて、私も困った。
今夜は、はじめからバイトを休みにしていた。タカ先輩のくる集まりに誘われたバイトのメンバーも、全員シフトを入れていなかった。
だから、急な欠員が出たら店が回らなくなる。
店長には申し訳ないと思ったけど、最初は予定があるからと断った。でも、困った様子の店長に何度もしつこく頼み込まれて、結局断りきれずにシフトに入ることになってしまった。
人の良い私は、強く頼まれると断れない。
これまでにも何度かそうやって欠員補充のためにシフトに入ったことがあるから、店長もそれがわかっていて私に電話をかけてきたのかもしれない。
集まりに参加する予定のメンバーに、「頼み込まれてシフトに入ることになった」と連絡したら、「何やってんの、マナ! 店からの電話なんて、シフト交代の連絡に決まってるんだから出たらダメじゃん。おひとよしなんだからー」と軽く笑われた。
ショックだった。私だって、タカ先輩と会えるのを楽しみにしてたのに。
みんなが店長からの電話を無視したから。私だけが真面目に応対してしまったから。みんなの代わりにシフトに入らなければいけなくなってしまったんだ……。
「会いたかったな……」
みんなに囲まれて笑う写真の中のタカ先輩。その笑顔を見つめて、ポツリとつぶやく。
本当は私だって、この写真の中にいる予定だった。タカ先輩に会えたら、頑張って告白するつもりだった。
でも……。こんな私じゃ、もうダメだ。
美容室でセットしてもらった髪は、バイト中にひとまとめにしてカールがとれている。
今夜はお客さんが多くて忙しかったから、ホールをかなり動き回った。そのせいで汗をかいて、メイクが崩れている。
買ったばかりの新しいワンピースは、崩れた髪とメイクでは似合わない。
せっかく頑張って綺麗にしたのに、まるで魔法が解けたみたい。
悲しくて、悔しくて、とても惨めで。涙が出そうだった。
うつむいて、すんっと鼻を啜ると、また手の中でスマホが震えた。
またバイト仲間からだろうか。
うんざりしながら視線を落とすと、タカ先輩からの着信だった。
え、嘘。なんで……!?
タカ先輩とは今まで何度もメッセージをやりとりしてきたが、電話がかかってきたことは一度もない。
混乱しつつも、涙を拭いて、急いでスマホを耳にあてる。
「も、もしもしっ……!」
声を上ずらせる私の耳に、「おつかれさま」と、タカ先輩の優しい声が届いた。
「お疲れさまです……、って。え……? ホンモノのタカ先輩ですか?」
「ホンモノってどういう意味?」
ひさしぶりに聞くタカ先輩の笑い声が、耳をくすぐる。
「もしかして、まだ店にいる? 急なシフト変更だったんでしょ。大変だったね」
まだ状況がいまいち飲み込めていない私に、タカ先輩が話しかけてくる。
「終電が来てもマナちゃんの姿が見えないから、閉店作業に時間かかってんのかなって思ってかけてみたんだけど……」
タカ先輩の声に重なって、スマホから駅のホームの発車音が響いてくる。最寄り駅のベルの音だ。
「先輩っ! もしかして今、バイト先の駅にいますか?」
「うん。今、ちょうど店の最寄り駅の改札で――」
「す、すぐ行きます! 待っててください!」
タカ先輩が、すぐそこにいる。そう思ったら、ネガティブな考えは頭から全部吹っ飛んでしまって。先輩の声を遮るように叫んで、通話を切っていた。
駅までは、走れば五分もかからない。
スマホをカバンに突っ込むと、ヒールの踵で思いきり地面を蹴った。
バイトがラストまでの日は、最終電車に乗るためにいつもダッシュしていて、駅まで走るのには慣れている。
それなのに今は、タカ先輩に会いたい気持ちがはやるばかりで、駆ける足がうまく回らなかった。
ヒールの靴のせいで、地面に踏み込む足にも力が入らない。
焦っていると、自分の足に足が絡まって、前から膝をついて転んだ。
ロングスカートが守ってくれたおかげでなんとか流血は免れたけど、コンクリートに打ち付けた膝が痛い。右足の靴は脱げて、ひっくり返って転がっていた。
こんなときに、最悪……。
コンクリートについた手をぎゅっと握りしめたとき、
「大丈夫?」
聞き覚えのある声がして、目の前に影が落ちた。
顔を上げると、すぐそばにタカ先輩がいて。しゃがんで靴を拾ってくれる。
「先輩……」
「焦らなくてもちゃんと待ってるのに。ケガしてない?」
タカ先輩が私の前に靴を置いて、優しく笑いかけてくる。しばらくその笑顔にぼーっと見入ってしまった私だったけど、ハッと気付いて下を向いた。
タカ先輩から電話をもらって嬉しくなって、すっかり忘れてた。私、今、髪もメイクもぼろぼろだ。
「あ、あの……、先輩。私、今ちょっとダメでした。バイト後で髪の毛ぐちゃぐちゃだし、顔もこんなで……。でも……」
どうしてもタカ先輩に会いたかった――。
前髪を整えるフリをして、タカ先輩から顔を隠す。
思いがけず目の前に現れたタカ先輩に伝えたいことはたくさんある。それなのに、驚きと緊張で胸がいっぱいで、気持ちがうまく言葉にできない。
「マナちゃんは、バイト後とか関係なけど、いつも可愛いと思うけど」
「え?」
耳に届いた優しく甘い声が耳に視線をあげると、タカ先輩がふわっと笑った。
ひさしぶりに見るタカ先輩の笑顔。街灯に照らされたその表情がまぶしくて、ぎゅっと心臓が痛くなった。
「ひさしぶりに会えると思ってたのにマナちゃん来ないからさ。どうしても会いたくて、終電過ぎるまで待っちゃった。突然来ちゃって、迷惑だったらごめん」
「そんなこと、あるはずないです。私も、ひさしぶりに会えるの楽しみにしてたから……!」
「よかった」
タカ先輩の目元がゆるやかな弛むのを見つめながら、好きだって思った。
やっぱり、この人のことがすごく好き――。
「家まで送るから、歩きながら少し話さない? でもこの靴だと足痛くなっちゃうかな……。俺、そこのコンビニでサンダル買ってくるよ」
タカ先輩が通りの先に見えているコンビニの看板を指差しながら立ち上がろうとする。気付けば私は、タカ先輩のTシャツの裾をつかんで引き留めていた。
「好きです……」
唐突な告白に驚いたように目を見開いたタカ先輩が、次の瞬間、ぱっと口元を覆った。おとなっぽくて頼りになるタカ先輩の照れた表情。初めて見る無防備な反応に、私の胸がときめいた。
「なに、この不意打ち。このあと、俺からちゃんと言おうと思ってたのに」
低い声でそう言うと、タカ先輩がしゃがんだままぎゅーっと私を抱きしめてきた。
タカ先輩の香りに包まれたら、頭がぼんやりとして、そのまま蕩けてしまうんじゃないかと思った。
どうしよう。こんなの夢みたいだ。もしかしたら、今夜だけ、神様が特別な魔法をかけてくれたのかもしれない。
「タカ先輩、好きです……」
夢見心地でつぶやいた私の唇に、タカ先輩のキスが落ちてきた。
「俺も、好き……」
唇が触れる間際に耳に届いた言葉が嬉しくて震える。
どうかこのまま夜が明けて朝になっても、幸せな魔法が解けたりしませんように。
Fin.



