「遅かったか……」
 遠くに聞こえる電車の走行音が、夜の静寂に溶けて、ゆっくりと消えていく。
 私以外誰もいない、静まり返った改札口の前。頭上の電光掲示板に、『本日の運転は終了しました』という赤く光る文字が無情に流れている。それを疲れた目で見つめた私は、がっくりと肩を落とした。
 バイト先のカフェレストランで長時間の残業を終えたあと。くたくたの体に鞭を打って、全速力で駅まで走ったのに、終電に間に合わなかったのだ。
 そんな最悪な今日は――、私の二十歳の誕生日。
 ここのところ、講義にレポート、バイトにサークル……と目が回るほど忙しかったから、節目でもあるこの日だけは、やりたいことを何でもやろうと決めていた。
 午前中の講義が終わったらさっさと大学を出て、ずっと行ってみたかったカフェのテラス席で、ふわふわの泡たっぷりのカプチーノと赤い宝石みたいにキラキラ輝くいちごのショートケーキを堪能。
 それから、手帳の『読みたい本リスト』に記録していた小説を大通りの書店で買いあさり、夜は高校時代からの友達と居酒屋で飲み明かす――そんな完璧で楽しいプランを頭の中で何度も反芻しては、一人でニヤニヤしていた。
 なのに、現実はあまりにも非情で残酷だ。まるで意地悪な子供がおもちゃを取り上げるように、私の楽しみをするりと奪っていく。

 ことの発端は、正午に大学の門をくぐろうとしたその瞬間。
 突然、バッグの中でスマホがけたたましく鳴った。急いで画面を確認すると、店長からの着信だった。
『あ、春田(はるた)さん⁉ いきなりで悪いけど、今すぐ店に来てくれる⁉』
 電話に出ると、店長の切羽詰まった声が耳に飛び込んできた。いつもは穏やかなのに、今日は珍しくパニック状態だ。
 話を聞くと、ここ最近カフェマニアのインフルエンサーの紹介動画に、うちの店が取り上げられたらしかった。
 しかも、今日は週末の金曜日。5月晴れのいい天気に、ランチタイムなのも相まって、いつも以上に客足が急増。
 その結果、スタッフが足りず、仕事が回らなくなった――ということで、バイト2年目で仕事に慣れ、今日が休みという私に白羽の矢が立ったというわけだ。
『頼むよ! もう春田さんしかいないんだ!』
 スマホの向こうから聞こえる店長の涙声に、私はため息をつきながら渋々了承した。
 1ヶ月前、私は今日が休みになるようにシフトを組んでいた。にもかかわらず、『もう春田さんしかいない』なんて、自分よりも目上の立場の店長に、今にも泣き出しそうな声で訴えられたら断りようがない。
 結局、情に絆されるようなかたちで、私は「はい」と返事をしてしまった。

 出勤すると、私の思った通り……いや、今日のバイト先は想像以上の修羅場だった。
 店内どころかテラス席まで満員。店の出入り口には長蛇の列ができていた。
 その結果、ランチタイムのピークは終わることなく続き、ディナータイムまでノンストップ。
 通常のホール業務どころか、食材不足で注文を断らざるを得ない客からのクレーム対応に追われ、レジの故障で会計が滞るなどのトラブルも連発。
 休憩を挟む暇もなく、閉店後の後片付けが終わるまで、私はひっきりなしに働いた。
 そして、極めつけは店長からの一言。
「春田さん、今日クレーム多かったじゃん。もっと真面目に働いてよ!」
 ――はあ⁉ 何それ⁉
 心の中で叫んだ。自分から私を駆り出しておいて、その言い草はないだろう。
 食材が足りなかったのも、レジが壊れたのも、私のせいじゃない。
 私は私なりに全力で働いたつもりだ。汗だくでフロアを駆けまわり、笑顔で接客し、クレームにも丁寧に応じた。残業を押し付けられたって、早く帰りたい気持ちをなんとか押し殺してこなした。
 なのに、帰り際に私だけが店長に呼び出されて、『もっと真面目に働いて』と叱責されるだなんて――こんな仕打ち、理不尽すぎる。
 こんなことになるのなら、店長から出勤を頼まれたときに、『1ヶ月前から休みを入れていたので無理です』ときっぱり断っていればよかった。
 そしたら今頃、私は友達と居酒屋でグラスを片手に談笑していたかもしれない。
 一人暮らしのマンションで、買ったばかりの小説を読みながら、ゆったりとした誕生日の夜をすごせたかもしれない。
 でも、私は昔から人に頼まれると断れない性格だ。
 中学、高校生だったときの文化祭実行委員に、修学旅行の班行動のリーダーやしおり作り。
 大学のグループワークでの調べ物も、サークルのイベントのプラン決めも、頼まれたらついつい引き受けてしまう。
 この性格のせいで、自分のことはいつも後回し。今回は悪い方向に作用して、ガラガラの駅で一人きり途方に暮れる惨めな有様だ。
 さて、これからどうしよう。
 終電を逃した今、帰る手立てはない。友達に文句や愚痴を聞いてもらいたかったけど、時計はすでに深夜0時を回っている。こんなに夜遅い時間に電話をかけるのは、相手にも迷惑だろうし気が引ける。
 始発まであと5時間。どこで時間を潰そうか……?
 考え事をしながら、重い足を引きずるように駅を出たそのとき。ふと、駅ビルの向かいに光る看板が目に入った。
 24時間営業のカラオケボックスだ。
 ピンクとブルーのネオンが眩しい、ド派手な看板が目立っている。だけど、今の私には、目がチカチカするその看板の光が妙にあたたかく、『こっちにおいで』と呼んでいるように見えた。
「そうだ、カラオケ!」
 今年の誕生日は散々な目にあったけど、始発まで一人カラオケでオールして、ストレスを発散しよう。
 私は看板の光に吸い寄せられるようにカラオケボックスへ向かった。5月の涼やかな夜風が、私の背中を優しく押ししてくれるようだった。

 カラオケボックスにたどり着いたあと、カウンターでフリータイムで入店することを伝える。
 すると、店員に部屋の番号が書かれた紙を挟んだクリップボードを渡された。
 紙に書かれた部屋番号は、306号室。エレベーターで3階へ向かい、人気のない廊下を進み、指定された部屋のドアを開けた。
 その瞬間――爆音が私の耳に飛び込んできた。
 思わずビクッと肩が跳ね上がる。
 どこかで聞き覚えがあるなと思ったら、最近話題の人気アイドルアニメの主題歌だった。
 でも、私が驚いたのはそれだけじゃなかった。
「えっ……?」
 視界に映ったのは、目がさめるような真っ赤な髪に、白と金色を基調としたアイドル風の衣装に身を包んだ男の子。先ほどから画面に流れるPVに出ている、アイドルアニメの主人公と同じ格好だ。
 コスプレイヤーだろうか。まるでそのキャラになりきったかのように、マイクを握り、声を張り上げて熱唱している。
 ――どういうこと⁉ ここ、私の部屋だよね?
 慌てて手元の紙とドアのプレートを照らし合わせて確認する。
「ま、間違えた……」
 紙に書かれた番号は、『306号室』。だが、ドアのプレートに刻まれた部屋番号は『305号室』だ。
 どうやら私は、306を305と見間違えてしまったらしい。
 とりあえず、コスプレイヤーの彼がこちらに気づかないうちに、この場からさりげなく立ち去ろうとしたそのとき。
「春田先輩?」
 突然、305号室にいる男の子に名前を呼ばれた。
 この人、なんで私のことを知ってるの⁉
 もしかして私の知り合い? ドキドキしながら、コスプレイヤーの男の子の顔をまじまじと見つめる。
 メイクやカラコンをしているから一瞬誰だかわからなかった。けれど、どことなく既視感を覚える涼やかな印象のある顔立ちにハッとした。
月影(つきかげ)くん……?」
 先月入学したばかりの、同じ大学の小説サークルの後輩、月影くんだ。
「春田先輩、どうしてここに?」
 月影くんにたずねられ、気まずさが波のように一気に押し寄せてくる。
「な、なんでもない!」
 見なかったことにするから。――そう心の中で呟き、慌ててドアを閉めようとしたその矢先、月影くんがマイクを私に向けた。
「あのっ……、一緒に歌いませんか?」

 結局、私はいつもの『断れない病』が発動し、月影くんと一緒に305号室ですごすことになってしまった。
 静寂と沈黙に包まれた部屋の中。天井にぶら下がるミラーボールが、ぐるぐる周りながら無数の光をまき散らし、場違いなほどに派手な雰囲気をかもし出している。
 月影くんはというと、部屋の隅で縮こまって下を向いていた。
 自分から『一緒に歌いませんか?』と私を誘っておいて、かれこれ十分は経つけど、一曲も歌ってない。きっと、パニックでつい私を誘ってしまった結果。正気に戻って歌う気力をなくしてしまったのだろう。
 かく言う私も、あまりの気まずさに黙り込んでいた。
 ――まずい。この状況、早いとこなんとかしないと。
 居心地の悪い空気が蔓延する部屋で、朝まで過ごすだなんてたえられない。それはきっと、月影くんも同じ気持ちだろう。
 よし、ここは先輩である私がなんとかするか。
「えっと、何でそんな格好で歌ってたの……?」
 重苦しい空気を打破するために、月影くんに話をふったはずが、つい単刀直入に気になってたことをそのままポロッと口にしてしまった。
 私が知る月影くんは、いつもサークルの部屋の隅で静かに本を読んだり、黙々と小説を書いているような物静かな人だ。
 普段の服装はシンプルなシャツにジーンズ。サラサラの黒髪は軽く整えているだけ。といった飾らない姿で、まるで背景に溶け込むように存在している。
 そんな彼がアニメの主人公になりきって、生き生きとアニソンを熱唱するだなんて考えられない。
 でも、さっきの私の質問は、彼にとって触れられたくない部分だったのかもしれない。今更だけど、無遠慮すぎたなと自分の言動を反省した。
「ご、ごめんね……。ノーコメントでもいいんだよ……?」
 うつむいた月影くんの顔をのぞき込みながら、謝る。すると、月影くんが顔を上げて、私に向かって口を開いた。
「実は、来月にあるコスプレイベントのステージでカラオケ大会に出場するんです」
「カラオケ大会⁉」
「はい。それで形から入ろうと、この格好で練習してたというわけです」
 驚いた。いつも静かで口数も少ない月影くんが、コスプレをしてステージで歌うなんて、一度も想像したことがなかったからだ。
「えっと……、なんでそのカラオケ大会に出場しようと思ったの?」
「大学生になったらやりたいことの一つだったからです」
「やりたいことの、一つ?」
 聞き返す私に、月影くんは大きくうなずいた。
「俺、校風が厳しい学校にいたんです。しかも、地元はここらへんみたいに遊べる場所は皆無。毎日学校から与えられる課題を片付けるのに必死で、やりたいことを諦めてばかりで、青春らしい青春を送ったことがなかったんです」
「そうだったんだね……」
「はい。だから、大学生になったら地元を出て、今までできなかったやりたいことや興味を持ったことを全部やるって決めたんです」
 月影くんは少し照れくさそうに笑った。普段は寡黙で無表情な彼が、ほんのりと頬を赤らめる様子に、不覚にもドキッとしてしまう。
「俺も聞きたいんですけど、春田先輩はなんでこんな夜遅くに一人でカラオケに来たんですか?」
 いきなり聞かれて私は、「あー、たいしたことじゃないんだけどね……」とぎこちなく笑って前置きした。
「始発までの時間を潰しを兼ねて、ストレス発散しようと思って」
「何かあったんですか?」
「まあね……」
 私は乾いた笑みを浮かべた。
「最近ずっと忙しかったし、バイトも休みだったから、今日はやりたいことを全部やる予定だったんだ。でも、急に店長から今すぐ来てくれって頼まれちゃって……」
「断らなかったんですか?」
「うん」
 私は首を縦に振った。
「私、昔から頼まれると断れない性格なんだ。それでいつも自分の時間ややりたいことを犠牲にしてしまうんだよね。今回はその結果、終電を逃して帰れなくなっちゃって……」
 自虐的に話していたつもりだったのに。断れない自分の情けなさに、また改札口前でがっかりしたことを思い出して、目の奥から何かがこみ上げてくる。
「昨日は、私の誕生日だったのに……」
 ひざの上で握りしめた両手に向かって、涙まじりの小さな声でぽつりと呟いたそのとき。トントンと肩を叩かれた。
 顔を上げると、月影くんがこちらをまっすぐに見つめている。
「春田先輩が頼まれたら断れないのは、優しいからだと思います」
 普段の落ち着いた声とは少し違う。どこか優しさを帯びた声色で紡がれた月影くんの言葉が、私の心にしみ込んで、じわりと広がっていく。
「自分のやりたいことを後回しにしてでも、誰かを手助けする。誰もが簡単にはできないことやる春田先輩は、すごく素敵だと思います」
 頼られたら断れない。つい相手への情に絆されてしまう自分のことを情けないと
「でも、我慢や無理をしすぎるのも良くないです。だから……」
 月影くんはそこまで言うと、私の手にそっとマイクを握らせた。
「だから先輩。今夜はとことん歌いましょう。昼間にたまったストレスを、ここで一気に発散させましょう」
「うんっ……」
 私はこみ上げてくる涙を引っこめて、大きくうなずいた。
 これは断れなかったからじゃない。
 今の私の一番やりたいことだ。
「私、歌うよ。朝まで思いっきり歌って、全部忘れる。だから、月影くんも一緒に歌おう!」

 それから私は、月影くんと一緒にアニソンを歌った。
 アップテンポなビートが私の心に突き刺さり、昼間の積もり積もったストレスを少しずつ溶かしていく。
 月影くんはコスプレ姿のまま、ステージに立つかのように力強い声で歌い上げる。
 私も負けじとマイクを握りしめ、子供の頃に夢中だったアニメの主題歌を熱唱した。
 楽しい時間はあっという間にすぎて、気づけばもう午前6時前。すっかり朝になっていた。
 月影くんがコスプレを解いて、普段の姿に戻ったあと。私たちは一緒にカラオケボックスを出た。
「じゃあ、私はこっちだから」
 私は駅を指差した。
 すると、月影くんが急に「ちょっと待ってください」と、手のひらを私の前に突き出してきた。それがあまりにも突然で、私は戸惑ってしまう。
「えっ? どうしたの?」
「すぐに済むので。ここにいてください!」
 彼は慌てたように近くのコンビニへ走って行った。その背中を見送りながら、私は呆気に取られたように立ち尽くした。
『いったいどうしたんだろう?』と、疑問を抱えたまま待つこと数分。
 コンビニのロゴが入ったビニール袋を提げた月影くんが、少し息を切らしながら戻ってきた。
 欲しいものでも買えたのだろうか。少しゆるんだ頬に、ほのかな赤みが差している。
「はい、先輩」
「えっ?」
 突然ビニール袋を渡されて、思わず目を見開いてしまう。
「中身、出してみてください」
 促されるまま袋に入っているものを取り出すと、最近発売されたばかりのスコップケーキだった。
 透明なカップの中で、生クリームとスポンジと一緒に、いちごや黄桃、マスカットなど――色とりどりのフルーツが層になって、キラキラと輝いている。それはまるで、子供のころに憧れていた、小さな宝石箱のようにかわいらしいケーキだった。
「一日遅れですけど、お誕生日おめでとうございます」
 私は思わず息を吞んだ。
「私の誕生日、知ってたの……?」
 月影くんに昨日が誕生日だって教えてないはず。と思いながら、本人に聞いてみると。
「カラオケにいたとき、春田先輩が呟いてたのを聞いたんです。それで、一緒にいる今のうちに、少しでもお祝いしようと思って」
 はにかんだように笑いながら、月影くんはそう答えた。とたんに、クリアだった私の視界が、みるみるうちに半透明にぼやけていく。
 長時間のバイトに終電を逃した夜。自分のやりたいことを後回しにした結果、散々な目に遭った私の誕生日。
 そんな大変だった一日が、月影くんの優しさによって、かけがえのない一日に塗り替えられていくような気がした。
「ありがとう、月影くん……。本当に、ありがとう」
 絞り出すようにお礼を言う私の声は、ほんの少し震えていた。嬉しくてたまらないのに、目の縁にたまった涙が溢れていく。
 月影くんは私の目からこぼれ落ちていく涙を、優しく指でぬぐってくれた。
 5月の朝の白い陽光が、私たちを包み込んでいく。
 (まばゆ)い光の中で、月影くんの瞳が優しく、まっすぐに私を捉える。
 その瞬間、私の胸の奥がキュンと高鳴った。
 まるで、新しい感情が私の中に息づき始めたかのような、甘く切ない響きだった。


【完】