かたん、かたん。靴音が夜の音に消されていく。私は施錠番号を入力して開けた非常階段をゆっくりと上がる。疲労感とけれどもこの先への高揚感を抱えながら悪い子になるために階段を上がっていく。彼が購入してくれたサンダルは階段を上るには不便だったけれど、彼が与えてくれた新しい靴を脱ぐ気にはなれなかった。だって新しい場所へと行けるはすだから。
到着した場所は傑くんが言うように屋上で、ぽつんと闇に紛れるように革のソファが置いてあった。東京は眠らない街だ。終電を逃したとしても少しだけの明るさは感じられる。
春の風を纏いながらゆっくりと息を吐く。数時間まえまで東雲とエレベーターに監禁されていたのが嘘のように穏やかでそして息がしやすい。その象徴のように目の前にあるソファはオフィス街に背を向けるように備えつけられていた。ここはオフィス街と住宅街の境にあるようでソファは住宅街を向いている。ソファに近付いてみれば、住宅街の明かりが点々と確認できる。まだ就寝していないひともいるようだ。東京は田舎より睡眠時間が短いのかもしれない。その光はなぜだか美しかった。
「俺の特等席へようこそ」
穏やかな声が降ってきて振り返る。そこにはコンビニの袋と瓶をふたつ持った傑くんが立っていた。気配に気付かないほど住宅街の煌めきに見入ってしまっていたらしい。
傑くんはソファの近くにあるスタンドライトをひとつ点け、持っていた瓶のひとつを私に差し出した。手元がぼんやりと明るくなった。オレンジ色のライトに照らされた瓶がジンジャーエールだとわかる。ホントにアルコールは無しなんだ、と小さく笑ってしまいながら、私はそれを受け取った。
蓋が開いてある瓶はとても冷たくて唇にそれを触れさせた。辛口のジンジャーエールが胃に落ちていく。ぱちぱちと口内で弾けるそれが心地よい。
「好きな家が一軒あってね」
ふわり、傑くんが話しはじめた。まるで夜の余白を撫でるような落ち着いた声に東雲との違いを感じる。整然と言葉を並べる東雲と正反対の彼。不思議と肩の力が抜ける。
「夜の四時ごろになっても明かりが消えないアパートの一部屋がある。不健康だな、って思いながらも気になってね。そしたらある日そのアパート付近を歩いていたらその部屋から絵の具を頬につけた男性が出てきて。アーティストか、って繋がった。あのひと、深夜も寝ずに戦っていると思ったら勇気もらえて。だからこの場所好きなんだ」
穏やかに微笑んだ彼は本当に嬉しげに言葉を紡いでいた。この時間まで寝ずに過ごしているひとは確かに彼の言うとおり戦っているひとばかりかもしれない。
傑くんは「ピザ、焼き上がったら柊一が届けてくれるから。いやー、この時間にピザって背徳だよね。俺たち悪い子だわ」と言葉を落とし、ソファに座る。目線で椿さんも座りな、と言われている気がして、隣に座った。その瞬間、傑くんはスマートフォンを持ち出し、弄りはじめる。
「『終電を逃す夢は重要な機会を逃す意味』だって」
紡がれた言葉は多分夢占いだろう。私は自らの深層心理を知るのが怖くて調べられなかった。涼しげな瞳でスマートフォンを眺める彼はそのあと「お! いいね」と呟く。
「でも悪い意味だけでもなさそうだよ。『夢の中で誰かと一緒に終電を逃した場合、その人物との関係が深まるきっかけが訪れるサイン』らしい。俺がいたってことは俺も終電逃してるね。関係発展させる?」
くすり、と笑った傑くん。楽しげに微笑む彼に少なからずドキンと胸が高鳴る。それを隠すようにジンジャーエールを喉に流す。私のそれを面白そうに眺める彼はひとつ言葉を落とした。
「ねぇ、それ本当に俺だった?」
「え…?」
「多分きちんと思い出せば俺じゃなかったと思うよ。夢ってそういうものでしょ。ただの空似。塩顔男子なだけだよ。でも次夢を見るときは必ず俺が夢に出てくるはず」
言われてみれば確かに見ていた夢の中に出てきた人物を彼だと確信を持って言えない。けれど明日からは絶対に彼が夢に出てくるはずだ。
「あなたの深層心理に俺が入り込んだ。おもしろいね」
「……ちょっとエッチに聞こえる」
「そうだよー。セックスなんかより夢の中で会うほうがセクシーだよ」
くすくす、と笑う彼。傑くんと私は異性で、今は夜。行為なんて簡単にできた。けれど、肌に触れることなく深層心理の話をするこの瞬間はなぜだかそれより艶やかだった。
「ね、傑くん。ひとつ訊いてもいい?」
「どうぞ。ひとつでもふたつでも」
「どうして見ず知らずの私にそんなに優しいの?」
下心があるならあると言われたほうが楽だった。彼も軽薄だと思いたかった。東雲のように恋人がありながら行為に及ぶそんな人間と同じだと思いたかった。そしたら私もそれと同じように下劣な子になれる。
「俺も終電逃す夢を見ていたから」
私の気持ちに反して意外な言葉が落ちてくる。傑くんはこの夜はじめて真剣な瞳でこちらを射抜いてきた。傷口のような細い瞼が私を救い出そうとしている。
「俺、四月一日のエイプリールフールで『起業した』って言ったんだ。そしたら友達に『嘘でもつまらない』って言われちゃって。そしたらなんか腹立ってさ、起業してやるって。このピザ屋、俺の店なんだ」
穏やかな風が彼の黒髪を撫ぜた。
彼を年下だと、Z世代だと甘く見ていた自らが恥ずかしい。彼は私に借金があるか、と訊いていた。それなりに苦労したのだろう。
「俺は自分が他人にどう見られているか知っている。経営者に向いてない浮ついた人間だってわかっているし、そう見られている。なにも知らない素人が起業するって結構大変でね。頭下げてばかり。だからか、いつも終電を逃す悪夢ばかり見た。同じ夢を見ているあなたを少しばかり身近に感じている」
私の悩みの核に知らず知らずに傑くんは近づいている。いや、もしかしたら私たちは同じ悩みを抱えているのかもしれない。他者にどう見られるか。外側と内側のギャップをどう埋めるか。
春風に乗って知らないひとの知らない戦いを知る。私だけが独寝に寂しさを、そして悪夢に怖さを感じているわけではないと知れる。それだけで救われてしまう。不思議だ。彼の内面に触れて少しずつなにかが解けていく。私たちはみんな世の中を耐え忍んでいる。
「俺は柊一と出会って終電を逃す夢を見なくなった。俺、柊一に『大丈夫?』って訊かれたとき馬鹿みたいに泣いちゃってさ。椿さんの表情、あのときの俺と似ている」
「恥ずいんですけど」そんな言葉が夜の闇に紛れ落ちてきた。その声のする方に目線を向ければ、柊一さんがピザの箱を持ち立っていた。「いやさ、空気読めよ。めちゃくちゃいい話してるとこじゃん」と傑くんは文句を言うがピザを持つ彼はそれに構わず、ソファの前に置いてあるテーブルにピザを並べる。ふわりといい香りがした。「忙しいんだよ」と柊一さんは文句を言って帰っていく。
「マルゲリータとクアトロフォルマッジ、定番だからこそ美味しいよ」
傑くんはそう言って取り皿の上にマルゲリータを乗せた。深夜にピザは傑くんの言うとおり背徳的だ。だが私は悪い子になりたいから、それを口に放り込む。歯で生地を噛むとチーズが柔らかく伸びた。とろん、それは今の私の心情と似ている。
「美味しい…!」
「そう言ってもらえてうれしい」
店のオーナーとしての傑くんを感じた。それはピザ屋という看板を背負う重圧と厳しさ、けれど従業員を信頼し、委ねている色にも見える。だから「ピザが美味しい」その一言は彼にとって幸せな言葉なんだろう。嘘偽りなく美味しいピザが私の血肉になっていく。また来たい、そう思える味だった。
美味しいピザとジンジャーエール、そして隣に傑くんがいる夜は悩みごとを忘れさせてくれる。だから私もあえてその話をしなかった。そしてそれを傑くんは理解しているかのように訊いてこなかった。居心地のよい場所だ。
「ね、だから、俺にあなたを助けさせてよ」
「……」
「運は巡るから。考えておいて」
彼の瞳と言葉に浮遊感を覚える。彼の穏やかな瞳はけれど確かに真剣そのものだった。私は少しばかりその言葉に無責任さを感じる。だから一歩踏み込んで訊いてみた。
「それだけ? 私を助けるのは運命だからって言うの?」
「あとは暇だから。今は付き合えるだけの余裕がある」
クスクスと笑う傑くんは私の想像を凌駕する。だけれどなぜだか、今はその言葉が一番安心できた。
「……暇だからっていい言葉だね」
「でしょ? それに意味なんて考えなくていいんだよ。世の中意味わからないことばかりなんだから、面白がってればいいの」
暇だから。この忙しない世界でその言葉は私の胸を刺した。いい子と悪い子の差はここかもしれないと感じる。心にも時間にも余裕を持っているのだ。それはZ世代だから、で片付けられるものではない気がする。彼は私より豊かだ。彼に触れたくなった。
「次、夢のなかで傑くんに会えたら立ち上がりたいな。泣かないで笑顔でいたい。化粧が崩れた顔で会いたくないもん」
「化粧が崩れるだけ泣くのもいいと思うけどね」
彼は私が泣けないことを知っているらしい。その優しさは自らが助け出されたことからきているのだろう。もしそうだとしたら、確かに運が巡っている。彼の言葉には説得力がある。
ぽろり、鱗が剥がれ落ちるように涙があふれた。堰き止めていたなにかが崩れた。
「ここが椿さんの夢のなかじゃなくてよかった。泣くときは一人じゃないほうがいい」
そんな言葉とともにペーパーナプキンが差し出される。ピザの香りのするそれで涙を拭く。けれど、いくら拭いても涙は止まらなかった。私大丈夫、そんな強がりは夜と朝の狭間に消えてなくなった。

