傑くんは私を離すまいと、ゆるく手を繋いでくれていた。なに者にも怯えないというような全能感を纏った彼は鼻歌を歌いながら私の前を歩いていく。その後ろ姿がやはり年下に感じられるのだ。世の中の残酷さをまだあまり経験していないような未熟な背中。だけれど、今はその背中に頼りたい気がしている。彼が言うように悪い子がどこにでも行けるなら、一度でいいから経験してみたい。
彼は私を残し、ふらり入ったコンビニでサンダルと旅行雑誌を購入して戻ってきた。
「悪い子の椿さんが靴を脱いで都内を歩くの俺好きなんだけど、やっぱり危ないから履いて」
「あ、ありがとう」
私は鞄から財布を取り出そうとしたが、彼にそれを手で止められる。「俺からの新しい靴のプレゼント」とにこり、微笑む。私はその言葉に彼の優しさを感じ、差し出されたサンダルを見つめる。そしてそっとそれに汚れた足を入れた。コンビニで売っているサンダルは女性である私には少しだけ大きく、歩くことが難しいものだった。それでも裸足で歩くよりはマシだ。与えられた新しい靴にドキドキとこの先の展開を期待する自分がいた。
「さ、新しい靴で新しい場所に行くよ。少し歩くけど許して」
「ホントにお金…
「オッケー、わかった。オネーサン、まずひとつ教えとく。男は見栄の生き物なんだよ」
東雲が言ったら嫌味に聞こえそうだな、と一瞬感じてしまう。けれど傑くんは穏やかにそれでいてとても楽しげに言うからすとん、と心に落ちた。そして不意に理解できた。東雲は見栄があったんだ。頼られたかったのだろうか。でもどう頼ればよかったの? 私は彼とあまり喧嘩をしなかった。今思えば、私は不満を言わず求めないただのお人形だったのかもしれない。
傑くんは不穏な雰囲気を纏いながらけれど穏やかな優しさを女性に与えるのだから彼はモテるのだろうな、と思う。少なからず私の世界の外側にいる人間だ。少しばかりの警戒心が顔を出す。だが、今晩はこの外側に踏み出したい気もする。
傑くんは私のそんな心を読んだのか、スッとこちらに手を差し出した。強引に掴むのではなく選択肢を与えてくれているような手だった。逃げてもいいよ、でも逃げないで。そんな声が聞こえた気がする。私はそれを交通手段がない、と言いわけをして手を重ねた。
「男が見栄の生き物なら女はなんなんだろうね?」
「んー……」
私のその疑問に傑くんは宙を仰いだ。そんなに悩まなくなって彼なら女性がどんな生き物かなんて知っているはずだ。なのに、彼はまるで都会の星の見えない空に星を探そうとするように宙を眺めたままだった。ひとから好かれた生き方をしてきたんだな、と安易に想像のつく距離の詰めかたをする彼だが、けれど、途端にふわりと闇に消えてしまいそうな掴みどころのない雰囲気を醸し出している。でもそれをほのかな色気へと変えてしまう魅力が彼からは感じられた。だから彼は夜がよく似合う。
傑くんは「なんだろうね」と緩やかに微笑んだだけだった。めんどくさい女性の質問を軽やかに受け流せる彼はまるでそのめんどくさささえ乗りこなすような余裕を持っている。彼の隣にいると朝と夜を行き来している感覚になる。年下だと感じられる快活さと年上のようにも感じられる達観さ。そんな彼に私はこれから抱かれるのだろうか。そしてこれからどこに行くのだろうか。少しばかりの胸の高鳴りを感じた。
*
彼は「少し歩く」と言ったけれど、目的地にはすぐ着いてしまう。目の前にはネオン官が光り輝いている。だがそれは卑猥なものではなくて大きな三角の中に丸が四つほど浮かんだ赤色のものだった。ピザだ。ピザ屋が目の前にある。ホテルかどこかに連れられると思っていたから拍子抜けしてしまう。傑くんは慣れた手つきでその店に入っていく。繋がれた手に引かれ、私もその店に入る。カウンターでお酒を作っている店員がこちらに目線を向けてきた。
「終電無理だったー」
「だから言ったじゃないっすか」
フランクに言葉を落としたのは傑くんからだった。どうやら彼らは知り合いのようでカウンター内にいる男性は呆れたように溜め息を吐く。
傑くんと会話をする男性は傑くんとはまた違う種類のイケメンだ。目鼻立ちがはっきりしていて女性が好む王道の美しさを持っている。店内にいる客のなかで彼が目当てなんだろうと思われる彼を見つめる女性が数人見えた。
「奢ります。なに食べますか?」
「えー、柊一くん、俺が女の子連れているの見えない?」
傑くんは暗に余計ことをするなという含みを持たせた言葉を吐く。店内に流れるクラシックなジャズの隙間を縫って「すんません」という言葉が聞こえてきた。
「椿さん、そこの扉開けて右側に屋上に繋がる階段がある。施錠番号、0401。開けて屋上で待ってて」
彼はしなやかな指先を店内の奥、非常扉の文字が書いてある場所へと伸ばした。私は小さく頷き、急足でそこに向かって歩く。仄暗い照明、グラフィックアートなどが飾られた洒落た店内にスーツ姿でサンダル、手には靴という異様な姿が痛々しく恥ずかしかった。非常扉へと続く通路には鏡が備えつけられている。映り込んだおかげで化粧が崩れた自分の顔が見えた。
ふと思い出す。東雲は私を「仕事に邁進するおまえが好きだ」と言ってくれていた。「化粧が崩れているおまえが好きだ」と。私はそれを一度たりとも本気で聞いたことがなかった。恥ずかしいなどと考え、見栄を持っていた。女も見栄の生き物なのかもしれない。

