夜は己の欲望が浮き彫りになる。その輪郭を優しい指先で触れられる人はいるのだろうか。

 毎晩、悪夢を見る。終電を逃す夢だ。誰の姿も見えない真っ白で殺風景な空間に取り残される。まるで赤子のように地べたに座りこみ泣き叫ぶ自分がいる。そしてそれを眺める男性が見える、そんな夢。毎晩その夢を見て、気怠げに朝を向かえる。そのサイクルが生み出されていた。独寝の夜は孤独が背中に寄り添う。抱きしめてくれるあたたかな腕も今やない。



「お先に失礼します」

 今日は勝負の日だった。後輩である橘の寿退社の挨拶がある日。だから覚悟を決め、購入した靴を鳴らしながら勤め先であるオフィスを歩いていた。慣れない靴のおかげで靴擦れを起こしている。痛い。痛いけど痛いと言えない。顔を歪めてはいけない。それと同様に誰もが知っていて話題にしている話を気にも留めていない、という顔をし、一日の仕事を無事に終えた。時刻は二十二時過ぎ。久しく残業をしたのだ。しなくていい仕事までした。仕事をしなければ夢のなかの私のように泣き出してしまいそうだったのだ。

 真面目、という烙印を母の胎の中で押された私は生まれたときから馬鹿正直に生きてきた。あるとき重要なことを理解する。真面目に生きるということは搾取される生き方なのだ、ということ。日本人は真面目を美徳とするのに、けれどそれを実際に行うひとには冷たい。損な役回りを請け負うことの多い人生だ。だからこと恋愛においても簡単に彼女という席を奪われる。
 
 数台備えられているエレベーターの一台に乗り込む。立派で重厚な扉が閉まるとき、隙間に革鞄がするり、と入り込んだ。私は慌てて開けるボタンを押すが、すぐさまその行動に後悔する。乗り込んできたのが同僚の東雲だったからだ。彼も私の姿を見た瞬間に一瞬目を見開いた。


「遅いな。残業か?」
「……終わらなくて」


 今日だけは会いたくなかった東雲に最後の最後で会ってしまうとは。
 彼との会話はそれだけで途切れた。動き出したエレベーターは着実に一階を目指している。すぐに彼から離れられる…そう思ったはずが、がこん! という激しい音が鳴り、体がふわりと宙に浮く。バランスを崩した私はその場に倒れてしまった。エレベーター内は電気が消え、真っ暗闇だ。どうやら停電らしい。
 

「……こんなときに限って」


 彼の冷たい声が私の鼓膜を破った。そのまま心臓を抉り出す。東雲の舌打ちが聞こえると私は息をするのもやっとの状態になってしまった。下唇を噛み締める。

 東雲と交際をして一年が経とうとした一ヶ月まえ。私のSNSアカウントのフォロワー欄から彼のユーザーネームが消えた。同様に私がタグ付けされたふたりで写る写真も削除された。不安に駆られ、急ぎメッセージを送ってみれば、「明日会いたい」と一言だけの言葉が届いた。
 次の日、指定された喫茶店に現れたのは東雲と彼の部下である橘だった。東雲の口から出てきた言葉は「橘が妊娠したから別れてほしい」との身勝手な願いであった。

 可愛いは正義だというが、可愛いに“げ”がつくと途端に曖昧なものになる。可愛げがない。私はそう言われる人生だった。可愛げというものをとても簡単に他人に求めるが、その可愛げを言語化できる人間は果たしてどのくらいいるのだろうか。

 東雲がリスのような小動物らしい小柄な橘を横に連れていたとき、絶望した。まんまるの瞳に美しくカールした睫毛、ぷっくりした唇から発せられるソプラノの声。私には無いものを持っている。上目遣いに東雲を見つめ、そしてコーヒーが有名な純喫茶で、ピンク色に色付くベリーのハーブティーを頼んだ。可愛らしさにプラスして妊婦ということを突きつけられる。
 彼女の勝ち誇ったような瞳は今でも忘れられない。彼女は私と東雲が交際中でも東雲が好きと周囲に言いふらしていた。橘は人のものを奪う悪女として女性社員からは有名だった。いつから私がターゲットになったのかはわからない。可愛げという言葉は悪女のことをいうのだろうか。


「ごめん。…靴脱いでもいい?」
「どうした?」
「靴擦れがひどくて」


 私の言葉に彼は私の足元を一瞥した。視線が痛い。だが、彼はなにも言わずに背を向ける。
 私がなにをしたの? 浮気をしたのはそちらでしょ? 私は暗いエレベーターのなかで底の見えない奈落にいる気分になった。私は音を立てず靴を脱ぐ。生きた心地がしない。生きている意味をくれていた男性が私に殺意を向けている。

 可愛げがない。おまえはひとりで生きていける女性だけれどこの子は違う。

 そう告げられたあとふたりが帰るまでの間、不朽のラブソングが店内に流れていた。

 復旧作業にそれなりの時間がかかった。地獄のような数時間を東雲とふたりで過ごしてしまった。私たちはエレベーターが復旧しても他人だった。それぞれエレベーターを降りようとしたときだ。


「なぜおまえはいつも俺を頼らないんだ? ひとりで生きていけるおまえに俺は必要だったのか? …おまえはいつも俺からの絆創膏を受け取らなかった」


 苦々しい表情を浮かべた東雲はその言葉だけを残して私から去っていった。後頭部を鈍器で殴られたようだ。彼の言葉が頭の中で右往左往する。駅に向かう道、目の前をネズミが走った気がしたが体が反応しない。私が悪かった? 私が関係を壊したの? 確かに東雲の言うとおり私は彼から絆創膏をもらったことがない。だからって……。
 そんなぼんやりとした体に鈍い動作で駅の階段を降りていけば、がくん、と体が前のめりになる。階段から落ちる。そう思い目を瞑ってしまった。


「大丈夫?」


 眼前には見目麗しい男性がいた。想像した出来事は起きず、状況を理解するのに数秒かかった。彼が体を支えてくれたおかげで階段から落ちなかったことがわかる。慌てて体勢を立て直そうとするが、足首の痛みに「…っあ!」と思わず痺れた声が出てしまった。


「あー…、靴擦れか。痛そうだね」
「あ!」


 痛さで階段に座り込んでしまった私は最終電車の扉が閉まったのを見てしまう。私は恐る恐る男性を見上げる。「ん?」と髪の毛を揺らして首を傾げる男性に私は電車を指差した。


「お、お兄さん……、最終…」
「あー、乗り遅れたね」
「…ご、ごめんなさい!」


 私は顔面蒼白で目の前の男性に頭を下げる。だが、彼はさほど気にしていないのかあっけらかんとしていて、そして微笑んでいた。


「いや、オネーサンが転ばなくてよかった。あ、でもそれはそうとして勝手に体に触れてごめんね」
「いや…それはまったく問題ないというか、おかげで事故にならなかったのでありがとうございます」
「新しい靴?」


 最終電車を乗り過ごしたからなのか潔く余裕のある声色で彼は私の隣に腰掛けた。ほのかにウッディの香りがする。彼は古着のようなブラウン色を基調にした総柄のブラウスに黒色のスラックスを履いている。そのブラウスをタックインするくらいにはこなれていて、さほど服に気を使わない東雲とは違う軟派なイメージを抱いた。洋服に疎い私でもわかるセンスのよさも感じられる。


「……今日は勝負だったから奮発して買ったんだけど、慣れないことはしちゃダメね」
「勝てた?」
「負けた」


 あんなの負け戦だ。
 苦笑をしようと彼をもう一度見つめれば、驚いて目を見開いてしまう。悪夢に出てきた男性の顔と似ているからだ。艶やかな黒髪は清潔に切り揃えられており、この切れ長の瞳を朧げに覚えている。


「奮発して購入するの靴じゃないほうがよかったかもね」
「……でも言うでしょ。『新しい靴は新しい場所に連れていってくれる』って。だから買ったの」


 私の話から私が訳アリの人間だということは推測できただろうに彼はその先を訊かなかった。その代わりに絆創膏が差し出される。「使って」と言われ、私は思わず首を横に振る。「持っている」と言えば先ほどの東雲の言葉が思い出された。私は断りを入れて絆創膏をもらう。じんわりと涙があふれる。もらった絆創膏が今晩欲しかった優しさに感じられるから。

 
「『いい子は天国に行ける。でも悪い子はどこにでも行ける』とも言うね」


 私は胸を突く言葉にただただ呆然と彼の瞳を見つめた。悔しくてけれどとてもいい言葉だと感じる。
 彼は切れ長で黒い瞳はどこか他を寄せつけない冷徹さがあるようにみえるが、だけれどその黒い瞳を無くすような三日月を描く人懐っこい笑みを浮かべている。


「さっき俺の顔見て驚いたような表情したけど、俺、あなたに金借りていたりする?」
「あ、…いや…違う」
「ホント? よかったー、一時期そこかしこから金借りていてねぇ。不義理はしないように努力していたから、一瞬やべーって思ったわけ」


 疲弊した体には少しだけ刺激の強い彼の笑みを見ながら、私は足首の靴擦れを見つめる。言い表せない痛さに小さく吐息を吐き出しながら、彼からもらった絆創膏を貼る。


「……あなたの夢を見た気がしたの。最近よく見る夢でね。終電逃して泣いている私をあなたが見ている」
「なにそれ。新手のナンパかなにか?」


 くすり、と笑われてしまい慌てて否定しようとしたが、なんだかその力さえ湧いてこなかった。年下に思える彼にセクハラしている私は客観的に見たら無様で、今日一日そんなんだったな、と感じる。私大丈夫、という顔でオフィスを歩いた私は今ここにいない。知らない男性に嘲笑されたってどうでもいい。


「俺もあなたの夢見たって言ったらどうする?」
「え…?」
「終電逃して泣いているあなたをこうして慰めている夢見たって言ったら運命に感じる?」


 見知らぬふたりが同じ夢を見ていたら、それはとてもロマンチックだ。女の子は白馬に乗った王子様を待っている。いつだって綺麗なものが好きで可愛らしく生き、運命を願っている。


「新手のナンパ?」
「そういうこと。俺、運命大事にしたい派なんだ。だからSNS交換しよ」


 そう言って隣に座った彼はスラックスの後ろポケットからスマートフォンを取り出す。今をときめく新進気鋭のロックバンドのステッカーが貼りめぐらされたスマートフォンは写真を投稿するアプリを表示していた。それは最近、東雲と私が交際していた証が消えたSNSアプリでもあった。


「……なんでSNS?」


 今の子はメッセージアプリを使わない。代わりにSNSを、と聞いていたが本当なんだと考えながら戸惑いに思わず訊いてしまう。


「SNSって夢っぽくない? 深層心理全部映している。あなたとの出逢いにちょうどいいかなって」
「見た目に反してロマンチスト…?」
「ギャップ萌えする?」



 くすり、と笑う彼にSNSのユーザーネームを教えるか逡巡してしまう。けれど、彼はにこやかに微笑み、まるで飼い主を待つ犬のように期待したい瞳をこちらに向けるのだから断れなかった。幸か不幸か東雲とはもう関係が切れたアカウントだ。ならいいか、と疲弊した脳みそは考えることを放棄した。それにヤケになっていた。東雲と過ごしたあのエレベーターを忘れられるならなんだってよかった。


「ん、みっけ」


 私が自身のユーザーネームを伝えれば、彼は素早く指先で私を探し出した。ぽこん、と通知音が響く。傑があなたをフォローしました、の文字にゆっくりと隣を見る。「フォロー返さなくてもいいからね、椿さん」という言葉を続けた彼が傑という名を持つことを知る。私のプロフィール欄に並ぶ椿の文字に彼はそう私を呼んだ。


「立てる? そろそろ出ないと閉じ込められるかも」


 その言葉とともに差し出された手。私は傑くんの手を取り、立ち上がる。自らの手に新品の靴を持って裸足で改札内を歩く。傑くんは裸足で歩く私を心配したがだが、代わりの靴がないことを理解してか、それ以上は口を出してこなかった。
 駅の外に出れば、私たちと同じように最終に乗れなかったひとたちが数人見えた。空は果てしなく黒く染まり夜の深まりを感じる。


「『いい子は天国に行ける。悪い子はどこへでも行ける』傑くんが知っている言葉を信じてもいい?」


 胸を貫いた言葉に意を決して言葉を吐き出した。駅の近くにある自販機の前に立っている治安の悪そうな男性は私のその言葉にくすり、笑った。そして挑発的な瞳をこちらに向ける。自販機のひかりを吸収した彼の耳たぶを彩るピアスが妖しく輝いた。東京は星が見えないけれど、私にはそのひかりが星に見える。自販機の冷たいの文字が点滅している気がしてしまう。まるで危険を知らせる信号機のようだ。渡るな、止まれ。それでも今夜はどこかに行きたかった。


「逃げるなら今だけど、オネーサンあいにく終電逃しちゃった悪い子だからね」


 差し出された手には無骨なシルバーの指輪が煌めいていた。私は彼の手に手を重ねる。


「ひとつルールを決めよう」
「ルール?」
「アルコール摂取はなし」


 え、と思い目を丸くしてみれば傑くんは艶っぽい瞳でこちらを眺めてくる。傷口のように切り裂かれた瞼が私を射抜いていた。


「もしセックスするようなことになった場合酔われているの嫌なの」
「……男性は女性が酔っていた方が都合がいいでしょ?」
「性行同意の意味もあるけれど、椿さんは俺に抱かれ、俺は椿さんを抱いたことを覚えている方がエロいと思うんだよね。それにアルコールの流れに任せて行うより最高に楽しい。だって明確な気持ちでするんだよ」

 
 包み隠さず行為のことを語る彼に戸惑う。だが、アルコールに酔わせて行為に及ぶようなことはしないと断言する姿に少しばかり彼の真面目さを感じた。