それから、数日が過ぎた。
あの夜のことが、ずっと頭から離れなかった。
名前も知らないまま、たった一晩だけ話した人。
公園のベンチで見上げた星空。
溶けたイチゴアイスの甘さと、朝に変わる空気の匂い。
どれもが妙に鮮明で、胸の奥をくすぐるように残っていた。
あんなふうに誰かと話したのは、ほんとうにいつぶりだっただろう。
名前も、連絡先も、何も知らないのに——なぜか、あの人の声や表情だけは、はっきりと覚えている。
ふいに風が吹いたときの沈黙。
酔った私の話を、否定もせずに聞いてくれたあの静けさ。
全部が、今も胸の奥に残っていた。
思い出そうとしなくても、ふとした瞬間に蘇ってくる。
駅前の公園を呆然と見つめたり、夜の空を見上げてしまったり。
気づけば私は——あの夜に、まだ囚われたままだったのかもしれない。
名前くらい、聞きたかった。
そんなことを、何度も思った。
その日も、いつもの朝だった。
すこしだけカールしてしまう髪を引っ張りながら、駅に向かって歩く。
いつからか私は、朝の通勤時間で、無意識に周囲を見回すようになっていた。
どこかにいるかもしれない。
そんなことを考えながら、ただ無心に。
でも、どれだけ見ても、あの夜の人はいない。
——もう、二度と会えないのかな。
それとも、もう一度終電を逃せば……また会えるのかもしれない。
そんなふうに思っていた、そのとき。
駅の改札付近で、ふと前を歩く男性に目が止まった。
ほんのすこしよれたスーツ。
黒いビジネスバッグ。
軽く緩められたネクタイ。
その姿に、心臓が飛び跳ねた。
体温が一気に上がる。頭が真っ白になっていた。
私はまるで引き寄せられるようにして、その背中を追いかけた。
すると、何かに気づいた彼は、ゆっくりとこちらを見る。
あの夜と同じ、穏やかな瞳——
「……おはよう」
声が、何よりも優しく届いてきた。
「……えっ、あ」
声になったのは、それだけだった。
でも彼は笑って、首をすこし傾げながら言う。
「駅や電車で、よく見かけてたよ。朝、同じ電車に乗ってたよね」
「……え?」
「だから俺は、君のことずっと前から知っていたんだ。君だけが、俺のことを知らなかったみたいだけど」
また心臓が跳ねた。
苦しいような、嬉しいような、くすぐったいような気持ちが、一気に押し寄せてくる。
「俺は——斉郷。斉郷亮一」
「……え?」
彼の、名前。
あの夜、どうしても聞きたかったのに、聞けなかった一言。
それが今、朝の光の中でようやく届いた。
名前の響きに、胸の奥が優しくあたたかくなる。
「斉郷……さん」
その名前を呼んだ瞬間、時間が巻き戻ったような感覚に襲われた。
星空の夜と、公園の静寂と、本音が零れたあの気持ち。
全部が胸の奥で溶けていく。
初めて知った彼の名前は、不思議と何度も頭の中で繰り返された。
まるで、やっと〝存在〟としてそこに現れてくれたような——そんな感覚だった。
「私は、海坂です。海坂由菜といいます」
気づけば、私も自然に名乗っていた。
緊張していたわけではないのに、名前を口にした瞬間、胸がすこしだけ詰まる。
斉郷さんは、うんと頷いて、小さく微笑んだ。
「海坂さんは、いつもちょっとだけ俯いて歩くんだよね。髪の毛が揺れて、視線は前を向いているけれど……どこか遠くを見ているみたいな?」
そのひとことに、私は何も言えなかった。
自分の知らないところで、私のことをそんなふうに見ていた人がいたなんて。
「……それ、斉郷さんじゃなかったら、普通にホラーですよ」
「え、そう?」
ふっと軽く笑いかけると、斉郷さんの瞳が、まっすぐこちらを向いた。
その視線に、私は思わず目をそらしてしまいそうになるけれど——そらせなかった。
頬が熱くなる。
でも、それは恥ずかしさではない。
夜に置き去りにしていた自分の心が、やっと朝に追いついた気がした。
「……また、会えますか?」
そう口にした自分に驚く。
彼は何も言わなかった。でもその代わりにふっと目を細めて笑う。
胸が、ゆっくりとあたたかくなる。
それだけで、今は十分だった。
「……あ、電車来るよ」
「はいっ」
電車がホームに入ってくる。
私は斉郷さんと一緒に改札を通り抜け、そのまま同じ扉から、電車に乗り込んだ。
駅の発車ベルが鳴りはじめる。
朝の光の中、斉郷さんは窓の外を見ながら、優しい笑みを浮かべる。
私はその横顔をずっと見ていたいと願いながら、今この瞬間を、そっと胸に刻んだ——。
名前も知らないまま、夜が明けた日のこと。 終



