それからしばらく、私たちは無言のまま星空を見ていた。
 話すことがなくなったのではない。
 むしろ、言いたいこと山ほどあった。けれどそれを言葉にしてしまえば、何かが壊れてしまいそうな気がした。
 だから黙ったまま、ただ隣に座っている。それだけで、今は十分だった。
 気づけば、風の匂いが変わっていた。
 湿り気を含んだ夜の空気が、すこしずつ乾いた朝の気配に変わっていく。
 空の端が、ごくわずかに白みはじめていた。
「……」
 私は、スマホの画面に目を落とす。
 5時12分。始発の時刻。
 そこに向かって、確実に時間が流れていた。
「……もうすぐですね、始発」
 ぽつりと漏れた言葉は、まるで自分に言い聞かせるようだった。
 彼は返事をせず、静かに頷く。
 そんな些細なことが、すこしだけ胸に刺さる。
 こんな夜が終わってしまうのだと思うと、想像していたよりもずっと寂しい。
 ほんの数時間前まで、終電を逃した私は、絶望の中にいたはずなのに。
 帰れない夜。行き場のない私。
 不安と後悔でいっぱいだった。
 でも今は、こんなふうに人と並んで、星を見て、ただ話すだけの時間に救われている。
 こんなにも心が穏やかでいられる夜があるなんて、私はまったく知らなかった。
 なんだか、名残惜しい——そんな言葉が、喉の奥で引っかかって飲み込まれる。
 代わりに、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
「あの……」
 ふいに声をかけた。
「ん?」
「こうやって誰かとただ話すだけで、救われることもあるんですね」
 彼は驚いたように私を見て、それからすぐに、ふっと笑った。
「救われてくれて、よかったよ」
「……あなたがいてくれたからです」
 その言葉に、彼は何も言わなかった。
 けれどその横顔が、すこしだけ柔らかくなったような気がした。

 太陽が姿を現し、辺りは明るさに包まれる。
 もうすぐ始発の時間だ。
 私はそれに乗って、家に帰る。
 彼はコンビニに寄るため、始発の次に来る電車に乗るらしい。
 ここで、お別れだ。
「……」
 ほんとうは、もっと話したいことがあった。
 もっと、名前を知らないこの人を知りたかった。
 でも、それを口にする勇気は、やっぱり出なかった。
「……最後に名前、聞いてもいいですか?」
 懲りない私は、またそう言っていた。
 彼はすこしだけ驚いたように眉を上げ、それから、ゆっくりと首を横に振る。
「知らなくていいよ。今だけの関係だし」
「……今だけ、ですか?」
「うん。始発が来るまで、だからね」
「……」
 その言葉に、私はうなずくことしかできなかった。
 〝今だけ〟
 それがきっと、私たちがこの夜を一緒に過ごせた理由であり、魔法の言葉だった。
 その言葉があったからこそ、私はここにいられたのだ。
 でも——その魔法も、もうすぐ解けてしまう。
 始発が来たら、すべて終わりだ。
「……」
 ブランコが、また小さく軋む。
 朝の匂いに変わった風が、私たちの間を通り抜けていった。