終電のテールランプが、遠ざかっていく。
 たった一両しかない電車は、ガタゴトと音を立てながら、静かな田舎の闇に溶けていく。
 私は、改札の前に立ち尽くしていた。
 駅員はいない。
 駅のホームも、待合室も、ひっそりと静まり返っている。
 時計を見上げると、針は23時34分を指していた。
 ちょうど、終電の時間。
 ほんの数秒だけ間に合わなかった。けれどその数秒が決定打となり、今日はもう家に帰れない。
 冷たい夜風が、頬を撫でる。
 すこしだけ酔いが回った頭を、ゆっくりと冷やしていった。
「……やば」
 小さく、ぽつりと呟く。
 あんなに時計は見ていたのに。
 終電の時間だって、きちんとわかっていたのに。
 どこかで私は、必ず間に合うと思っていた。
 なのに、改札をくぐろうとした瞬間、目の前で電車の扉が閉まるのを目撃してしまった。
 ——あ……待って!
 私の無様な叫び声は、静かな夜闇に消えていく。
 テールランプの赤色だけが、いつまでも頭の中に残っていた。
「……」
 私はスマホを取り出して、タクシーアプリを開く。
 だけど、画面にはすぐに『対象地域外』と表示された。
 わかっていた。
 この町は、そういう町だ。
 駅前にあるのは、小さな居酒屋が数軒と、コンビニが1軒だけ。
 泊まれる場所なんてないし、タクシーもこんな時間には、もう通らない。
 どうしよう。
 どうすればいいんだろう。
 心の中で、何度もそう繰り返した。
 一緒にお酒を飲んでいた人たちは、もう帰ってしまった。
 飲み会で一緒だった先輩は、「明日も早いから」と、さっさと駅に向かっていた。
 私は「私もすぐに帰ります」と言ったのに、途中で寄り道をして、コンビニでアイスなんか買ってしまった。
 たった数分。
 余裕だと思っていた。
 間に合うと思っていた。
 今更そんなことを思い返しても、どうしようもないのに。
 後悔だけが、すこしずつ募っていく。
「……どうしよう」
 なんて言いながら、ベンチに腰を下ろす。
 コンビニで買ったイチゴアイスの蓋を開けると、甘い香りがふわりと立ちのぼった。
 それだけが、心の支えのように思えた。

 夜の駅前は、怖いくらい静かだった。
 居酒屋の看板が、ひとつ、またひとつと、灯りを落としていく。
 誰もいない駅前。
 取り残された、私ひとり。
 酔いが回って、すこしだけふわふわする頭を全力で使って、この後どうするかを考える。
 けれど、答えなんて出てこない。
 スプーンを握りしめた手が、じんわりと汗ばみ、イチゴアイスは、カップの縁から溶け始めている。
 泣きそうだった。
 こんな時間に、ひとりきりなんて。
 電車のテールランプが、まだ頭の中に焼き付いている。
 悲しくて、やるせなくて、俯いた——そのとき。
「……終電、行っちゃったね」
 ふいに、そんな声がした。
 突然の声に驚いて、大袈裟なほど肩が跳ねる。
 そしてゆっくりと顔を上げると、私の隣にスーツの男性が立っていた。
 ネクタイはゆるく外し、スーツはすこしくたびれているか。
 でも、彼の表情は、なぜかとても穏やかそうに見えた。
「……知ってます」
 私は、とっさにそう答えた。
「見てた?」
「……はい」
「間に合わなかった?」
「……はい」
 そのまま、私たちの間に、静かな沈黙が流れる。
 微妙な空気が気まずくて、私は小さくアイスを口にした。
「飲み会帰り?」
「……そうです」
「だよね。足元、ふらふらしてたよ」
「……してません」
 アイスをひたすら食べながら、すこしだけ頬を膨らます。
 どこか子供みたいな自分がおかしい。
 これも、酒のせいだということにしておこうか。
「でもさっき、駅の階段、危なかったよ。落ちるかと思った」
「……見てたんですか?」
「見てたよ」
「じゃあ、私が電車に乗り遅れたのも、見てたじゃないですか」
「……あ、バレた」
 彼は、にやりと笑って、私の隣に腰を下ろした。
 この人は、いったいなんだろう。
 とはいえ酔っているからか、警戒心がそこまでない私に、自分でもすこしびっくりする。
 普通なら、速攻逃げるはずなのに。
 でも、今の私は逃げようとしなかった。
 酒のせい。
 そう、これは全部、酒のせいだ。
「この町、終電早すぎるよね」
「……むしろ、この町で23時半くらいまで終電があれば、上等でしょう」
「乗り遅れたのに?」
「……うっ」
 言い返せない自分が、ちょっと悔しい。
 確かに、乗り遅れた。でもそれが『終電が早い』と文句をいう理由には繋がらない。
 彼は鞄から缶コーヒーを取り出し、ゆっくりとプルタブを開いた。
 こんな時間に、コーヒーなんて——って思ったとき、そういえばこの人からは、酒の匂いがしないことに気がついた。
「君、この後はどうするの? 泊まれるところもなくない?」
「……ないです」
 コーヒーを体に流し込みながら、すこし首を傾げて私を見ていた。
「どうすんの?」
「……どうもしません。始発までここにいます」
「本気?」
「たぶん、本気です」
 幸い、気候がちょうどいい季節だ。
 そして今日は金曜日である。
 朝まで耐えるくらい、私ならきっとできる。
 そんな気がするだけだったけれど、私は無理やり自分に言い聞かせた。
「……じゃあ、ちょっと俺に付き合う?」
「え?」
「すぐそこにさ、公園あるでしょ。時間潰すくらいなら、案外悪くないよ」
「……公園?」
 その一言で、一気に警戒心が戻る。
 誰だか知らない人についていくなんて、酔っているとはいえ、さすがに危ないのではないだろうか。
 そう思える自分に、また安堵する。
「そんな顔しないでよ。ただ俺、終電逃した日は、その公園で寝てるから。今日もそうするだけ」
「……え、寝てるんですか?」
「うん、寝れるよ。意外と」
 彼は軽く笑いながら椅子から立ち、駅から出ようとする。
 そこでふと気づいたが、まさかこの人も終電を逃したのか。
 なんなら、常習犯なのでは。
「……」
 私は、一瞬だけ迷った。
 でも、すぐに立ち上がって、彼のあとを追う。
「そういえば、あなたの名前すら、聞いていないんですけど」
「知らなくていいでしょ。一晩だけだし」
「……名前くらい、知っておきたいです」
「まぁ、あとでね」
 彼は、ゆるい歩調で夜の道を進んでいく。
 私は、ふわふわとした足取りで、その隣に並んだ。
「……いつも、こうやって終電逃すんですか?」
「そうだね。特技かも」
「……特技?」
 意味不明な会話が、夜の静けさにゆっくりと溶けていく。
 夜の静けさが、私たちの足音を優しく包んでいった。