翌日から、私は【Cafe ルビン】と夜担当して働き始めた。

といっても、仕事らしい仕事はない。中心の仕事はお昼の営業の洗い物を済ませ、食器を片付けて翌日の仕込みをすること。どうやら佑真も昼は休みらしい。何でも、信用のおける知り合いが担当しているとか。

「にしても、こんな深夜に営業してお客さん来るの?」
「失礼な。現に社畜で限界だった瑞希はこんな深夜に迷い込んできただろ?」
「そうでした……」

カラン

そんなある夜、扉を開けて入ってきたのは私と同じくらいの年齢に見える女性だった。彼女は目を腫らし、肩を震わせていた。私たちのことをどこか警戒しているようにも見える。

「…瑞希」
「あっ、いらっしゃいませ」

それでも私は佑真に教えられた通り、彼女をカウンター席へと案内した。席についても何も言わない女性に、佑真は優しく話しかける。

「こんな遅くまでお疲れ様です。何かお好みの飲み物はありますか?」
「…あまい、……何かが欲しいです」
「かしこまりました」

佑真は手早くカフェラテを作ると、静かに女性の前に置いた。

「カフェラテです。ゆっくりお飲みください」
「ありがとうございます……」

消え入りそうな声で彼女はカフェラテを受け取った。その震える手を見て、私は胸が締め付けられる思いだった。

「……どうされたんですか」

恐る恐る尋ねてみる。彼女は最初は何の反応を示さなかったが、カフェラテを一口飲んでから、ぽつりぽつりと話し始めた。

「仕事で……もう、限界なんです。上司が、本当にひどくて……」

彼女は、理不尽な上司からのパワハラや酷いセクハラに苦しんでいることを打ち明けてくれた。

毎日、人格否定のような言葉を浴びせられ、まるで奴隷のように扱われているという。そして、散々酷使された上で全く心のこもっていない謝罪とセクハラを受けている。

共に話を聞けば聞くほど、私の心は痛んだ。私は理不尽な叱責はあれど、有り難いことにセクハラはなかった。私よりもはるかに酷い労働環境。あの頃の自分と、目の前の彼女の姿が重なって、涙が出そうになるのを必死に堪えた。

「私、もう、どうしたらいいのか分からなくて……毎日、会社に行くのがつらくて、夜も眠れなくて……。もう、いっそのこと、、」

彼女の声は震え、瞳からはまた大粒の涙がこぼれ落ちた。私は何も言わずに、ただ彼女の手をそっと握った。彼女の手は冷たく、そして細かった。

「つらいですよね…。終わらせたいですよね……。楽になりたいだけですもんね」

私の言葉に、彼女は少し驚いたように顔を上げた。分かってしまう。共感してしまう。

「頑張ってるのに、誰も認めてくれなくて……私なんて、いてもいなくても同じだって……」

彼女の言葉に、私の目からも涙があふれそうになった。危ない、とぐっと堪える。私が泣いてどうするんだ。

「でも、そんなことないんですよ」

私は、彼女の目をしっかりと見つめた。

「あなたは、今まで本当に頑張ってきました。誰も見ていないところで、1人でずっと苦しんで、それでもここまで耐え抜いてきた。それは、本当にすごいことです」

彼女の目から、さらに涙が溢れ出す。ぼたぼたと零れる涙に、私まで堪えきれない。

「ここに、あなたの話を聞いて、あなたの頑張りを認めている人がいます。私と、このカフェのマスターが」

私は、佑真がいるカウンターの方に視線を向けた。佑真は何も言わずに、ただ、私たちの方を見て小さく頷いてくれた。

「あなたは1人じゃない。どうか、自分を責めないでください。あなたは何も悪くない」

私の言葉に、彼女は少しずつ落ち着きを取り戻し、最後に震える声で「ありがとうございます」と言ってくれた。その表情には、少しだけ笑顔が戻っていた。


閉店後、私はカフェラテが入っていたコップを洗いながら小さく呟く。

「私、ちゃんとできたのかな……うまく言葉が出てこなかったけど」

私の言葉に、佑真は優しい笑顔で答えてくれた。

「言葉だけじゃない。瑞希が彼女に寄り添って、一緒に泣いてくれたこと。それが彼女にとっては本当に救いになったと思うよ。きっと彼女に瑞希の思いは伝わった」

彼の言葉に、私の心は温かくなった。

佑真の言葉は、私の心を強く打った。今まで、自分のことなんて何も取り柄がないと思っていたけれど、佑真の言葉で、少しだけ自分に自信を持つことができた。ほら、佑真だって私のことを救ってくれている。

このカフェで、誰かの心がほんの少しだけでも楽になってくれたら嬉しい。

それは、私の心に芽生えた新たな願いだった。