お言葉に甘えて部屋を借りた翌朝、私は朝早く身支度を整えていた。
「もう行くのか?」
静かに支度していたつもりだったが、起こしてしまったようだ。自室から出てきた寝起きの佑真は、顔を顰めて私を見下ろす。その顔は不機嫌そのものだ。
「ごめんね。起こしちゃった?」
「気にしなくていい。…で、もう行くのか?」
「うん。ここは会社から近いけど、早めに出ようかなって」
「始業時間はもっと遅いだろ」
「でも仕事が残ってるから」
そう言うと、深々とため息を吐かれる。
「社畜すぎる」
「…でも、今仕事失うわけにはいかないからさ。転職活動もしたいんだけど、時間が無いし…」
もっとまとまった時間が取れれば転職も考えるのだが、深夜に面接をしてくれる会社なんてどこもない。というか、あったとしても、そこはブラック企業確定だ。
「…働きたい会社があるのか?」
「ないない。でも、今よりは少しでもマシな生活ができるかなって」
素直に伝えると、佑真は「ふーん」と呟く。どこかいい働き口を知っているのだろうか。
「佑真?」
「じゃあさ、俺の店で働かないか?」
まさかの申し出に驚いてしまう。
今、なんて、
「俺の店で働けば万事解決だろ。働くのは深夜だけど、その分昼は休み。一応昼も営業してるけど、そこに出てもらうつもりはない」
「で、でも、飲食なんてバイトでもやったことないよ」
「そこは問題ない。瑞希には食事じゃなくて、他の仕事をやってもらいたいから」
他の仕事?
首を傾げると、佑真は眠そうに欠伸をする。それから、じっと見つめられる。
「ルビンの壺って知ってるか?」
ルビンの壺…聞いたことがある。
だまし絵のような多義図形のことで、白い部分に注目すると『壺』が現れ、黒い部分の注目すると『2人の人間の顔』が見えてくるというもの。
頷くと、佑真は話を続ける。
「【Cafe ルビン】には、それに倣って2つの面がある。昼は『ただのカフェ』という『壺』としての面、夜は『世の中で苦悩を抱えた人たちの逃げ場』という『人間の顔』の面」
「つまり、私は『人間の顔』の方の仕事?」
「そういうこと。でも難しいことはない。お客さんの話を聞いて、共感して、アドバイスをするだけ」
簡単だろ?なんて言われるが、簡単に思えない。人へのアドバイスとか、正直得意なのか不得意なのかも分からない程だ。しかも、その場で初対面の人だろう。
っていうか、時間が刻一刻と迫っている。もう出ないといけない。上司よりも遅く出勤すると怒られる。
「え、っと、」
「……まあ、すぐに答えを出さなくてもいい。そんなブラックな会社なら辞めるのも大変だろ。だから、気持ちが決まったら教えてくれ」
その言葉と共にどこから取り出したのか、名刺を渡される。そこには電話番号やメールアドレス、SNSのアカウントまでが書いてあった。
「連絡、待ってるから」
そんな言葉と共に送り出された。

