『限界』

まさにその一言に尽きる。ブラック企業に勤めている私にとって、終電を逃したことは何でもない日常だった。

あと1時間早く仕事が終われば・・・いや、無理か。

ため息と共に、今日もヒールの削れたパンプスで帰路についた。



でも、今日は限界だった。何となく、疲れたんだと思う。

「【Cafe ルビン】…」

目の前に立てられた看板を無意識の内に読み上げる。そういえば、いつの間に立ち止まったのだろう。まともに思考がまとまらないまま、何かに惹かれるようにドアを開けた。

カラン

綺麗な音と共に「いらっしゃい」と声がかかる。どこか聞き覚えのある声だ。ぼんやりとしたまま顔を上げると、カウンターに立っていた人物は驚いたように目を見開いていた。

「あれ、」
「……」
「佑真、?」

懐かしい友人の名前を呼んだことで気が抜けたのか、ふっと体の力が抜けるのを感じた。ガタンという音と共に膝をついてしまう。

「っ、おい!!」

バタバタと近寄ってきてくれた彼に肩を貸してもらいながら、何とか椅子まで移動する。私を座らせてから一瞬離れた彼は、水の入ったコップを片手に戻ってきてくれた。

「まず飲んで。常温だから飲みやすいと思う」
「ありがと…」

水を飲むと、幾分か思考がクリアになった。今思えば、最後に水分を取ったのは朝だった気がする。それから飲まず食わずだったし、軽い脱水だったのかもしれない。

「大丈夫か?」
「うん。心配かけてごめん。あと、…久しぶり」

思い切ってそう声をかけてみると、向かいに座る彼は照れくさそうに笑った。

「久しぶり。瑞希、だよな」

恐る恐るだが確信を持った彼の言葉に、私はしっかりと頷いた。


彼__杉本 佑真は私の幼馴染だ。

幼稚園の時からの付き合いがあったのだが、私は地元の高校に、彼は全寮制の高校に進学したため、それっきりだったのだ。幼馴染というだけで定期的に連絡を取っていたわけでもないため、気づけば疎遠になっていた。


「まさかこんな形でまた会うとはね。何年振り?」
「多分…9年とかじゃないか?」

もうそんなに経ったんだ。時間の流れの早さに驚かされる。あの時は毎日が輝いて見えたというのに、今ときたら、、

つい深々とため息を吐いてしまう。

「今は何してるんだ?」
「今? あー…社畜というか、なんというか」

ははっと誤魔化すように笑うと、佑真は顔を顰める。その視線に気まずくなってしまい、目を逸らした。

「やりたい仕事だったのか?」
「そういうわけじゃないよ。ただ、本当に何となくだよ。流れ着いた先っていう感じ」

空気が重くなってしまったため、慌てて切り替える。

「えっと、佑真は今何やってるの?」

話題を無理矢理買えたことはバレているが、佑真は渋々答えてくれた。

「俺はこのカフェの経営だよ」
「えっ!?このお店、佑真のなの!?」

店内の内装は落ち着いたレトロな雰囲気。それでいて、清潔感もしっかり保たれている。こんなおしゃれなお店を佑真が経営しているなんて、信じられない。

「そんなに信じられないか?」
「え、いやぁ~…」
「…あり得ないぐらい分かりやすいぞ。顔に書いてある」

指摘されて真顔になろうと努めれば、その顔が変だったのか笑われる。クハハッと楽しげに笑う佑真が、記憶の中の佑真と完全に一致した。

彼の屈託のない笑顔を見ていると、私の張り詰めていた心の糸が少しずつ緩んでいくのを感じた。つられて私も笑ってしまう。本当に、笑うのなんていつぶりだろう。

「ふふっ、いや、笑ってごめんね。ただ、意外だっただけだよ。もっとこう……研究者とか、そういう方向に行くのかと思ってたから」

佑真は昔から頭が良くて、特に理科の実験が大好きだった。将来は研究者を始めとした、所謂エリート街道に進むのだとてっきり思っていた。

「研究者かぁ。それも考えなくはなかったんだけどな。でも、結局はこっちの道を選んだ」

彼の視線が、店内のあちこちをゆっくりと巡る。まるで愛おしいものを慈しむような、優しい眼差しだった。きっと、ここにある全てが彼の宝物なのだろう。

「いつか自分の店を持ちたいって、ずっと夢見てたんだ」
「へぇ……そうだったんだ。知らなかった」

私の知らない佑真の9年間がそこにはあった。当たり前だけど、彼は私とは違う時間を生きている。そして、夢を叶えた。その事実を喜ばしく思うも、若干寂しく感じてしまう。

「瑞希こそ、今はどうだ?」

彼の問いに、私はまた口元が引きつってしまう。話がぐるっと一周戻った。

「だから社畜だよ」
「仕事だけじゃなくてさ。例えば、人生の目標とかいつか叶えたい夢とか。そういうものはないのか?」

彼の真剣な眼差しに、私は言葉を詰まらせた。

目標、夢…。

そんな綺麗なもの、今の私には1つもなかった。毎日が灰色で、ただ時間が過ぎ去るのを待つだけ。そんな日々だった。

「……ないよ。そんなの」

俯いて、消え入りそうな声で答える。元気に振る舞いたいのに、そんな余裕がない。本当がこんなよれたスーツじゃなくて、もっとしっかりした格好で会いたかったぐらいなのに。

「疲れてるんだな」

佑真の声は、先ほどとは打って変わって、とても静かだった。まるで、私の全てを見透かしているかのように。

「……正直、限界」

自分でも驚くほど、素直な言葉が口からこぼれ落ちた。佑真の前だからだろうか。彼の持つ、包み込むような温かさに、安心してしまったのかもしれない。

「そっか。大変だったな。お疲れ様」

たったそれだけの言葉なのに、涙が溢れそうになった。危ない、と慌てて目を瞑ると、佑真は何も言わずに席を立った。

その隙に目を拭う。足音が近づいてきて慌てて顔を上げると、頭からふわりと何かに覆われた。

「え」
「俺は明日の仕込みしてるから」

それだけ言うと、再び足音が遠ざかる。今気づいたが、さっきよりも店内のBGMが大きくなっている気がする。

気を、遣ってくれたのだろうか。

その優しさに、今度こそ涙が溢れた。

時折しゃくり上げてしまうも、彼はあえて何も声をかけてこない。意図的に無関心でいてくれた。




どれくらいの時間が経ったのだろう。私が落ち着いた頃、佑真は静かに口を開いた。

「今夜は、もうここに泊まっていけばいい。2階が俺の家で、来客用の部屋もあるから」
「えっ?」

彼の言葉に、私は顔を上げた。

「終電、もうないんだろ?」
「いつもこれぐらいの時間に歩いて帰ってるし、平気だよ。安心して」
「こんな時間に1人で帰すのは心配だ。送ってもいいけど、また早くに出るんだろ?」

純粋に私のことを心配してくれている。その気持ちは有難いのだが、9年越しの彼に踏み込みすぎるのを恐れている自分もいた。

「でも…」
「遠慮はいらない。迷惑だなんて思わなくていいから」

佑真の優しい笑顔に、私はもう抗うことができなかった。

「……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」

私の返事に、佑真はホッとしたように笑った。