玲子の姿が見えなくなると、ついに本格的にラスボスとの戦いが始まった。昨日同様のきつい坂道が延々と続いた。すぐに前に進む以外は何も考えられなくなった。
しかし、昨日とは違うこともあった。それは平湯峠というボスキャラを倒したという経験、あるいは自信だった。ボスキャラを倒せたのだから、くじけなければ勝てると思った。
更に昨日と違うのは天気もだった。平湯峠に向かう空はどんよりと曇っていたが、安房峠に向かう道の空は青く澄んでいた。そして、この敵さえ倒せば、後の坂など、全てスライムに見えるに違いなかった。
そうは言っても、やはりラスボスとの戦いは熾烈だった。何度も自転車を押して歩いた。期待してカーブを曲がる度に絶望の淵に叩き落され、ラスボスの高笑いが聞こえてくるようだった。
しかし、ついに、その時が来た。僕はとうとう、自らの意志の力と体力でラスボスに打ち勝った。平湯峠から約16キロの急坂を上り切り、安房峠に到着したのだ。空は晴れ渡り、見下ろす景色も美しかった。大きなことをやり遂げたのだという喜びが体中から湧き上がってきた。
峠にあったお土産屋の軒先には、水の入った大きな樽が置かれ、中には美味しそうな桃が浮いていた。店の奥の外壁に自転車を立てかけてから、引き返し、僕は桃を一つ買った。そうして、店の外に置かれたベンチに腰を降ろした。
かじりついた桃は、正に勝利の味がした。敦賀からここまで、本当に長かった。いったい、いくつ坂を越えてきたのだろうか。何度くじけそうになったことだろうか。しかし、僕はついにたどり着いたのだ。この前代未聞のロールプレイングゲームをほぼクリアしたのだ。
涙がこぼれそうだった。どんな難しいゲームのクリアとも、まるで比較にならない、たぶん、今までの人生で一番の喜びを僕は噛みしめていた。
そうして、しばらく感動に浸り、疲れた体を休めた後、僕は長野県松本に向かう道を下り始めた。それは正に自らの力で敵を倒した勇者にのみ与えられるヴィクトリーロードだった。
ペダルを漕がなくても、自転車は凄まじいスピードで坂を下って行った。長い直線では、時速五十キロ近いスピードが出ているような気がした。
カーブでは自転車を内側に倒さないと曲がり切れなかった。そして、その際は内側のペダルを上にあげておかないと、ペダルが路面と接触して大転倒することが目に見えていた。
だから、僕は左右のペダルを上げ下げして、ひとつひとつカーブをクリアしていった。ハイスピードでのコーナリングはスリルもあった。レースゲームでは体感できない本物の感覚だった。
そして、その下りは、松本の手前まで50キロ近くも続いたのだ。今までの苦労が、一気に報われたような気がした。
その最中に、僕はあることに気づいた。いや、ある考えにたどり着いたというのが正しかったかもしれなかった。それはこういうことだった。
このロールプレイングゲームには、もう一つ、クリアしなければならない重要なミッションがあった。それは、もちろん、祖母に出会うということだった。この旅は既に終わりに近づいているが、僕はまだ祖母に出会えていなかった。
しかしながら、僕は未だに、こうして消えることなく存在している。ということは、それは、まだ、僕は祖母とすれ違ってはいないということを意味するのではないか?逆に言えば、僕が、もし、既に祖母とすれ違ってしまっていたら、僕は既に消滅しているはずではないか?
ということは、僕は、まだ、祖母とすれ違っておらず、これから祖母に出会う運命なのではないか?ロールプレイングゲームでは、ラスボスを倒した勇者が、お姫様の婿として迎えられるというのはお約束の展開だ。
そうだ、僕は既にラスボスを倒したのだ。このヴィクトリーロードの先には、きっと祖母が待っているのだ。僕は勝手にそういうストーリーを書き始めていた。
僕の考えはどんどん楽観的な方向に向かった。今日の宿泊地は安曇野のユースだ。斉藤さんが、金沢のユースと並んで、最も祖母に出会う可能性が高いと言った場所だ。きっと僕は、今日、そこで祖母に出会うに違いない。僕の心の中で期待がどんどん膨らんでいった。
下りっぱなしの道が終り、僕は松本の町に着いた。この町では、祖父は松本城を訪れる計画をしていた。
松本城がある公園はすぐに見つかった。僕は適当な所に自転車を止めると城の方に歩き出した。夏の観光シーズンということもあり、公園の中は多くの人で賑わっていた。少しつ疲れていたこともあり、僕は城に入る前に、公園の売店でかき氷を買ってベンチに腰を降ろした。餡子とアイスクリーが少し乗った抹茶味だった。ラスボスを倒した後ということもあり、かき氷の味は格別だった。
食べ終わると、僕は、お堀に掛かった橋を渡り、城の入口に向かった。そして、そこから城の中へと足を踏み入れた。中に入ってみると、城内の階段はとてつもなく急だった。壁には所々、弓や鉄砲を放つための四角い窓が開いていた。
行ったことはないが、大阪城はコンクリート製で、中にはエレベーターもあると聞いていた。いかにもまがい物という気がした。
しかし、松本城はそうではなかった。外から見た黒々とした姿も、内部の如何にも要塞と言った様子も、見るものすべてが作りものという感じがなく、正に本物の城だった。
階段を何層か登った後、僕は天守閣にたどり着いた。そこから眺める景色は壮大だった。松本の町並みの遥か彼方に北アルプスの山脈が奇麗に並んでいた。山頂の標高に比べれば峠の高さはずっと低いことは分かっていたが、自分はあんな山々を自転車で越えてきたのかと思うと、景色の美しさが何倍にも増したような気がした。
松本城を出た後、僕は北に進路を取った。目指すは、祖母の待つ安曇野のユースだ。坂は安房峠に比べればきつくなかったが、さすがに疲れも溜まってきていたので、最後の約20キロの距離は想像したよりはつらい道のりになった。
国鉄穂高駅を通過した時には、いよいよ残りが少なくなったと心が弾んだ。しかし、そこからが、最後の踏ん張りどころだった。安曇野のユースは穂高駅の西側の丘の中腹にあったのだ。だから、ユースまでの登り坂は、疲れ切った体にはかなりこたえた。
夕陽が安曇野の地を赤く染めた頃、僕はとうとう安曇野のユースにたどり着いた。予約のない飛び込みだったが、どうにか僕はユースに泊めてもらえることになった。
僕が玄関の傍で自転車から荷物を取り外していると、レンタサイクルらしき自転車で坂を上ってくる人影が目についた。さして気にもせず作業を続けているうちに、その人はユースの前にたどり着いたらしく、背中から声を掛けられた。
「こんにちは」
その声に振り向いた途端に、僕はその人が祖母だと分かった。僕と同じくらいの年に見えるその人の名を問うまでもなかった。その人の顔には僕の母の面影が色濃く見てとれた。
「こんにちは」
僕が挨拶を返すと、祖母はとても嬉しそうな笑顔を見せた。
「自転車で旅をしているの?」
祖母の言葉は何故かしらとても美しい歌のように響いた。
「うん、長い旅だったけど、それも明日で終わりなんだ」
「そうだったの。お疲れさまでした」
「ありがとう。ああ、僕は桑原久雄です。君の名前も聞かせてくれないかな」
「私は川崎愛子よ。漢字は『愛情』の『愛』ね」
「愛子さんですか。良い名前ですね」
僕は、その時、愛子という名前が本当に良い名前だと思った。
「久雄君は、ここまで良い旅ができたのかしら?」
「ああ、できたよ。無事に目標が果たせて、今はとても充実した気分なんだ」
「そう、それは良かったね。私もね、明日は東京に帰るんだけど、とても良い旅ができたの。ああ、私もね、目標が達成できたんだ」
「そうか、それは良かった。お互い目標達成か。お酒が飲める年齢だったら、今夜は乾杯ってところだね」
「そうね」
そう言って僕たちは少し笑った。
「ああ、お酒で乾杯はできないけど、今夜はお互いの健闘を称えあって、一緒に夕食を食べませんか」
なぜだか、今までの自分だったら決して口にできないような言葉がスラスラと出てきて不思議だった。
「はい、喜んで」
そう答えた祖母・愛子の顔は、なにかとても輝いているように見えた。
とりあえず愛子と別れ、僕は自分の部屋に荷物を運びこんだ。二段ベッドが4つ並んだ部屋で窓側の下のベッドを確保した。僕がベッドに腰を下ろして一息ついたところで、同部屋の男性が部屋に入ってきた。
なんと彼はギターケースを持っていた。GパンにくたびれたT-シャツ、やや長めの髪に口ひげという彼の風貌は正に昭和の空気を漂わせていた。彼は通路を挟んで僕と向かい側の下の段のベッドを確保するべくバッグをベッドの上に放るとギターのケースを床の上に置いた。それから僕と向かい合うように腰を下ろすと、彼は何の迷いもなく僕に話しかけてきた。
「こんにちは。僕は久保長明、君の名前は?」
「桑原久雄です」
答えながらふと思った。金沢のユースでも同部屋の人に話しかけられたことがあった。あの時はそれが鬱陶しく思えたが、今はそうでもなかった。
互いの自己紹介が済むと久保長さんは僕のことを訊いてきた。
「久雄君は自転車で旅をしているのかい?」
「はい、そうです。よくわかりましたね」
「うん、まあ、あちこちのユースでサイクリストとはよく一緒になるからね、なんとなく雰囲気でわかるんだ」
「そうでしたか」
答えながら僕は、久保長さんは旅人歴が長いのだなと思った。
「久雄君はどこから来たのかな?」
尋ねられたのは住んでいる所だったが、僕は安曇野まで来た行程にも触れることにした。
「家は東京ですが、自転車で走り始めたのは福井県の敦賀からです。それから金沢、白川郷、高山、松本などを通ってここまで来ました」
「いやあ、すごい根性だな」
「根性」、いまだにあまり好きになれない言葉だった。しかし、かつて父方の祖父に「根性なし」の烙印を押された僕は、いつのまにか色々な人から「熱血根性小年」と思われるようになっていた。しかたなく、旅をしてきただけで、僕自体が変わった訳ではないというのに。
とりあえず、自分のことを先に語ってしまったので、僕は逆に久保長さんに話を向けてみることにした。
「久保長さんは電車やバスを使って旅をしているんですか?」
「うん、そうだね。電車やバスに乗ることもあるけど、ほとんどはヒッチハイクかな」
久保長さんの返答に僕は一瞬言葉を失った。
『ヒッチハイク』、それは路上で見ず知らずの他人の車を止めて同乗させてもらって移動するという旅の仕方だ。昭和の時代はいざ知らず、令和では「乗る方」も「乗せる方」も命がけの自殺行為だ。
僕は変に思われないようにすぐに言葉をつないだ。
「ところで、久保長さんはプロのミュージシャンなんですか?」
「ミュージシャン?聞き慣れない洒落た言い方をするね。僕はそんな立派なものじゃないよ。ただギターを持って旅をしているだけだよ」
『ギターを持って旅をする』、いかにも昭和人だなと思った。でも、そう聞いても、もう僕は以前のように久保長さんを『怪しい宗教活動家では?』と疑ったりはしなかった。関りを避けたいとも思わなかった。むしろ少し彼に興味が沸いた。
「でも、久保長さんはでも、人前でギターを弾いたり、歌ったりもしているんじゃないですか?」
「まあね、ギターケースを料金箱代わりにして人の集まる所で歌ったりすることも
あるけど、まあ、お金を入れてくれる人なんてほとんどいないよ。あと、ユースではミーティングの時に歌わせてもらったりすることはあるよ。ああ、もちろんお金なんて取らないけどね」
「じゃあ、今夜も歌うんですか?」
「うん、実は、ミーティングで歌わせてくれるように頼んであるんだ」
「そうですか」
金沢のユースに泊まった時は、宿泊者が一緒に歌を歌ったりするミーティングは怪しい宗教の黒ミサのようにしか思えなかったが。今は、ミーティングで久保長さんの歌を聴いてみたい気がした。自分で自分の変化に少し驚いていると、久保長さんにありきたりの質問をされた。
「久雄君は、たぶん、高校生だよね。もう将来の進路とか決めているのかい」
「いえ、まだです」
祖父を演じての答えだったが、それは自分自身の答えでもあった。
「そうか、まあ、そうだろうね。僕はね、将来はシンガーソングライターになりたいと思っているんだ」
「そうですか。ところで久保長さんは今、学生さんですか?」
話の流れで質問を返したが、その質問は久保長さんをちょっと困った顔にさせた。
「うん、ちょっと前までは大学生だったんだけどね。少し前に退学しちゃったんだ」
尋ねてはいけないことを訊いてしまったような気がしたが、後の祭りだった。しかし、久保長さんはすぐに気を取り直したようだった。
「自慢じゃないけど、僕はT大の法学部の学生だったんだ。僕の家は代々弁護士の家系でね。祖父も父も弁護士で、僕も弁護士になるべく子供のころからもの凄い勉強をさせられていた。僕は敷かれたレールを走り続けたまま大学まで行ったんだけど、大学で音楽サークルに入ってから、どうしても音楽がやりたくなってね。それで敷かれてレールから外れてしまったというわけさ」
久保長さんの境遇が自分と似ていたので、僕は一気に彼に親近感が沸いた。しかし、僕と久保長さんの境遇は同じではなかった。敷かれたレールからなんとなく脱線してしまった僕と違い、久保長さんは自らの強い意志によって敷かれたレールから外れたのだ。
大胆な行動をした久保長さんに感心した僕は、つい、また余計なことを言ってしまった。
「しかし、よくご両親が退学をゆるしてくれましたね」
「許してなんてくれてないよ。勘当されて、家を追い出された」
「じゃあ、今、どうやって暮らしているんですか?」
「実を言うと、年上の彼女のアパートに転がり込んで彼女に食べさせてもらっているという情けない状態なんだ。彼女はサークルの先輩で一流企業のOLなんだけど、僕の一番の理解者でね。いつかはレコードを出して彼女の恩に報いたいと思っているんだけど、まあ、世の中、なかなかうまくいかないね。申し訳ないからアルバイトもしているんだけど、お酒や旅に使ってしまうことがほとんどでね」
惚れた男の夢のために尽くす久保長さんの彼女は、昭和演歌の女主人公としか思えなかった。
少し話の方向を変えなければと思い、僕はどうでもよい質問をした。
「それで、久保長さんはどんなアルバイトをしているんですか?」
「遊園地とかデパートの屋上でやっている『覆面ライダー』のショーに出ているんだ」
『覆面ライダー』とは昭和から平成を経て令和までシリーズが続くスーパーヒーローのことだ。
「もしかして久保長さん、ぬいぐるみを着て空中回転してキックとかしてるんですか?」
「まさか、そういうのはプロのスタントマンさんの仕事だよ。僕はもっぱら黒服の戦闘員。ライダーとは直接絡まず、『エー、エー』って言いながらライダーに襲い掛かる振りはするけど、実は何もせず舞台上を右往左往しているだけさ」
「そうなんですか」
「ああ、そうなんだ。実はこの仕事、なかなか人手不足でさ。人集めも大変なんだ。東京に住んでいるんだったら久雄君も、今度参加してくれないかな?」
「いえ、僕は遠慮しておきます」
「そうか、残念だな。気が変わったらいつでも連絡してよ」
「一応、心に留めておきます。早くレコードデビューしてバイトしなくてもよくなると良いですね」
「でもなあ、彼女や、レコード会社の人によると、僕は、歌は悪くないんだけど、今一つ目立たないらしいんだよね。彼女なんてさ、『いっそライダーショーの延長で覆面して歌ったら』なんて言うんだぜ。ふざけているよな」
久保長さんの彼女からすれば、そこまで言いたくなるのも分からないでもないような気がした。
「いや、案外良いアイデアかも知れませんね」
僕がそう言うと久保長さんは小さくため息をついた。
「まあ、とにかく今夜は僕の歌を聴いてほしいな。ああ、僕は風呂に入りたいから失礼するよ。また、後でね」
「はい、じゃあ、また後で」
そう答えた後で、僕は自分のベッドにゴロンと横になった。
その後、久保長さんと入れ替わるようにして、僕は風呂に出掛けた。入浴を済ませ、部屋に戻る途中、庭のテーブルの上に食材や紙皿などが並べられてゆく光景を目にした。どうやら今日の夕食は庭で取ることになっているようだつた。
夕食の時間が近づいた頃、館内に放送が入り、夕食は庭に用意されていることが告げられた。僕が庭に出ると、愛子は、既に席に着いていた。僕に気が付くと、愛子は小さく手を振り、嬉しそうな笑顔を見せた。僕が隣に腰を降ろすと、愛子は早速声を掛けてきた。
「今日はジンギスカンだって。ユースの夕食にしては、贅沢な気がするわ。他所はもっと質素だったから」
僕は金沢のユースにしか泊ったことがなかったので、比較はできなかったが、愛子の言ったことが正しいのだろうということは容易に想像がついた。
「私たち、やっぱり運がいいのね。お酒で乾杯はできないけど、最後の夜に野外でジンギスカンなんて、素敵じゃない?」
愛子はえらく上機嫌だった。
「そうだね」
僕も愛子に同意した。ラスボスを倒し、無事にお姫様とご対面を果たした後の祝宴に相応しいメニューに思えた。
その少し後に、久保長さんが来るのが見えた。しかし、愛子と話している僕を見た彼は少し嫌らしい笑いを浮かべてから、僕とは違うテーブルに向かった。
その後、すぐにユースのオーナーが現れた。彼の足元では飼い犬がじゃれついていた。
「皆さん、今日はジンギスカンです。ただし、ユースの客に食わせるようなものは家の犬には与えていませんので、犬には残った肉など与えないでください」
あちこちで沸き上がった笑いが収まるのを待ってオーナーが夕食の開始を告げた。
「さて、今日はミーティングはありませんが、夕食の後、プロの歌手が歌ってくれることになっています。じゃあ、みなさん、召し上がってください」
オーナーの挨拶を受けて、あちこちのテーブルで「いただきます」という声が掛かり、僕たちは食事を始めた。
高一の男子の僕にとって、肉はやはり嬉しかった。同じテーブルに座ったのは、僕を除くと女性ばかりで、肉はあまり食べなかった。
僕は、元々、野菜が好きなほうではなかったし、他の女性たちが、野菜ばかりに手を伸ばすので、肉を片付けるのはもっぱら僕の役目になった。肉が食べ放題の最後の晩餐は正に勝利の味がした。
僕と愛子は食べながらたくさん話をした。お互いにこれまでに経験してきたことを語り合った。愛子は中央線沿いに移動を続け、あちこちのユースに泊まりながら安曇野のユースにたどり着いたとのことだった。愛子もまた、あちこちで色んな出会いを経験して、それが貴重な財産になったのだと話してくれた。
夕食が終り、片付けが済んだ後も、僕たちは庭に残って延々と旅のことを語り続けた。
僕は安心していた。もう大丈夫だと思った。無事に祖母に出会えた。もう十分仲良くなれたような気がした。これならば、祖父と祖母が結ばれず、母も僕も生まれてこなくなるという歴史改変が起こることはあるまい。僕は消滅を免れたのだ、そう確信した。
しかし僕は、安心するには、まだ、少し早すぎることに気づいた。僕たちは、まだ、互いの連絡先も交換していなかったのだ。とは言うものの、ここでその話を切り出すのは、どうかという気がした。わざわざ愛子にメモ帳を取りに行かせるのは気が引けたし、下心がありありだと思われるのもよろしくはなかった。
そこで僕は、明日は一緒に行動する約束を取り付けることにした。
「あの、愛子さん、明日の予定を聞いてもいいかな」
「うん、明日は自転車でこの辺りを回って、午後の列車で東京に帰る予定なの」
「へえ、そうなんだ。僕もそのつもりなんだ。良かったら明日は一緒に自転車でこの辺を回って、同じ列車で東京に帰るのはどうだろう」
「ああ、それいいな。うん、そうしよう」
愛子は嬉しそうに同意してくれた。上手く話がまとまったと思った。後は流れで、頃合いの良い所で連絡先を交換すれば良いのだ。
万事うまくいっていると、安心していると久保長さんがギターを持って現れた。庭には久保長さんの歌に期待する人たちが食事後も多数残っていた。
久保長さんは並んだテーブルの先に椅子を置いて腰を下ろすと照れくさそうに挨拶をした。
「あのう、オーナーはプロだなんて紹介しましたけど、本当はただのアマチュアです。でも、皆さんの旅の思い出の一欠けらにしていただけるように、頑張って歌いますので聴いてください。まずは、皆さんがよく知っている歌からゆきたいと思います。どうか皆さんも一緒に口ずさんでください」
そう断ってから久保長さんは、手を使わないでもハーモニカを吹けるようになっている道具を口元にセットしてからギターを構えた。久保長さんは一人でギターとハーモニカの演奏を始めた。歌のイントロは金沢のユースでも聴いた覚えがあった。しかし、その後に続いたものは、まるで次元の違う代物だった。
久保長さんは透き通った美しい声の持ち主だった。ギター1本の伴奏は彼の歌を際立たせていた。僕は冒頭から一気に彼の歌に引き込まれた。僕にとっては初のライブ体験だったが、正に鳥肌が立つようなパフォーマンスだった。彼の歌に圧倒されたのは僕だけでなく、『一緒に口ずさんでください』とは言われていたものの誰一人自分の声で久保長さんの歌を汚そうとするものはいなかった。
あっという間に長久保さんは数曲を歌い切った。長久保さんの歌に魅入られていた僕の頭からは、ようやく出会えた愛子のことさえすっかり消えていた。
「では、ここからは僕のオリジナル曲を聴いてください」
久保長さんの挨拶の後に続いた数曲は、久保長さんがカバーしたヒット曲以上に僕の心に響いた。
「では、最後に『旅の終わりに』という歌を聴いてください」
もう最後なのかと思ったら残念な気がした。ギターのアルペジオとハーモニカのイントロは正に旅の終わりにもの悲しさを歌っていた。ひと時の旅の出会いと別れを詠った歌詞は、冒頭から旅の終わりに近づいた者たちに切なさを覚えさせた。その切なさは、僕に旅で出会った人たちのことを思い出させた。自殺志願の少女との出会いさえ、愛おしく思えた。
祖父はどんな思いでこの歌を聞いたのだろうかと思った。卓球少女の玲子と、将来の妻になる愛子を除けば、たぶん彼ら彼女らに再び会うことはないだろうと祖父は感じていたはずだった。
この先、僕にどんな運命が待っているにしても、この旅の出会いのほとんどが、一期一会の出会いになることは間違いないだろう。久保長さんの歌が引き起こした切ない思いは僕の胸を締めつけ、堪えないと涙がこぼれそうな気がした。
歌が終わり、ふと隣を見ると愛子は涙ぐんでいた。愛子もまた、僕と同じような思いに駆られていたのだろう。僕は愛子には声を掛けずにしばらく時が過ぎるのを待った。先に口を開いたのは愛子の方だった。
「ああ、私、喉が渇いちゃった。ジュース買って来るね。久雄君も何か飲む?」
愛子はそう言うと席を立った。
「ああ、僕はいいよ」
「そう、じゃあ、ここで待っててね」
「うん、ちゃんと待っているよ」
僕の答えに安心したような表情を見せて、愛子は建物の中に戻っていった。
愛子の姿が見えなくなると、なぜかまた寂しさが頭をもたげてきた。でも、そのさみしさはにわかに形を変え始めた。確かに僕は忘れがたい出会いをたくさんした。でもそれは、祖父の出会いを疑似体験したに過ぎなかったような気がしてきたのだ。
僕は本当に、彼ら、彼女らに出会ったと言えるのだろうか。長い旅をしてきたのに、もしかしたら僕は、まだ誰にも出会っていないのかもしれないと思えてきた。祖父の旅を代行するのではなく、自分自身の旅をしたら、僕も僕が出会うべき人に出会えるのだろうか、なぜかそんな思いが沸いてきた。
そんな思いが、ふと歌になって僕の口からこぼれた。それは父が好んで聴いていた沖縄出身のバンドの歌だった。『旅を続ければ、また、出会えるはずだ』という内容の歌だった。
「あなた、どうして、平成になってからできた歌を知ってるの?」
そう声を掛けられるまで、僕は愛子が戻ってきたことに気づいていなかった。愛子の顔は先ほどまでの笑顔が嘘のように、猜疑心で歪んでいた。
「あなた、いったい誰なの?久雄さんじゃないの?」
問い詰めるその言葉は、僕に混乱を引き起こした。僕は答えに詰まったが、はっきりしたこともあった。「平成」という元号と、その時代にできた歌を知っているということは、祖母・愛子にも秘密があるということだった。
第八話 終
しかし、昨日とは違うこともあった。それは平湯峠というボスキャラを倒したという経験、あるいは自信だった。ボスキャラを倒せたのだから、くじけなければ勝てると思った。
更に昨日と違うのは天気もだった。平湯峠に向かう空はどんよりと曇っていたが、安房峠に向かう道の空は青く澄んでいた。そして、この敵さえ倒せば、後の坂など、全てスライムに見えるに違いなかった。
そうは言っても、やはりラスボスとの戦いは熾烈だった。何度も自転車を押して歩いた。期待してカーブを曲がる度に絶望の淵に叩き落され、ラスボスの高笑いが聞こえてくるようだった。
しかし、ついに、その時が来た。僕はとうとう、自らの意志の力と体力でラスボスに打ち勝った。平湯峠から約16キロの急坂を上り切り、安房峠に到着したのだ。空は晴れ渡り、見下ろす景色も美しかった。大きなことをやり遂げたのだという喜びが体中から湧き上がってきた。
峠にあったお土産屋の軒先には、水の入った大きな樽が置かれ、中には美味しそうな桃が浮いていた。店の奥の外壁に自転車を立てかけてから、引き返し、僕は桃を一つ買った。そうして、店の外に置かれたベンチに腰を降ろした。
かじりついた桃は、正に勝利の味がした。敦賀からここまで、本当に長かった。いったい、いくつ坂を越えてきたのだろうか。何度くじけそうになったことだろうか。しかし、僕はついにたどり着いたのだ。この前代未聞のロールプレイングゲームをほぼクリアしたのだ。
涙がこぼれそうだった。どんな難しいゲームのクリアとも、まるで比較にならない、たぶん、今までの人生で一番の喜びを僕は噛みしめていた。
そうして、しばらく感動に浸り、疲れた体を休めた後、僕は長野県松本に向かう道を下り始めた。それは正に自らの力で敵を倒した勇者にのみ与えられるヴィクトリーロードだった。
ペダルを漕がなくても、自転車は凄まじいスピードで坂を下って行った。長い直線では、時速五十キロ近いスピードが出ているような気がした。
カーブでは自転車を内側に倒さないと曲がり切れなかった。そして、その際は内側のペダルを上にあげておかないと、ペダルが路面と接触して大転倒することが目に見えていた。
だから、僕は左右のペダルを上げ下げして、ひとつひとつカーブをクリアしていった。ハイスピードでのコーナリングはスリルもあった。レースゲームでは体感できない本物の感覚だった。
そして、その下りは、松本の手前まで50キロ近くも続いたのだ。今までの苦労が、一気に報われたような気がした。
その最中に、僕はあることに気づいた。いや、ある考えにたどり着いたというのが正しかったかもしれなかった。それはこういうことだった。
このロールプレイングゲームには、もう一つ、クリアしなければならない重要なミッションがあった。それは、もちろん、祖母に出会うということだった。この旅は既に終わりに近づいているが、僕はまだ祖母に出会えていなかった。
しかしながら、僕は未だに、こうして消えることなく存在している。ということは、それは、まだ、僕は祖母とすれ違ってはいないということを意味するのではないか?逆に言えば、僕が、もし、既に祖母とすれ違ってしまっていたら、僕は既に消滅しているはずではないか?
ということは、僕は、まだ、祖母とすれ違っておらず、これから祖母に出会う運命なのではないか?ロールプレイングゲームでは、ラスボスを倒した勇者が、お姫様の婿として迎えられるというのはお約束の展開だ。
そうだ、僕は既にラスボスを倒したのだ。このヴィクトリーロードの先には、きっと祖母が待っているのだ。僕は勝手にそういうストーリーを書き始めていた。
僕の考えはどんどん楽観的な方向に向かった。今日の宿泊地は安曇野のユースだ。斉藤さんが、金沢のユースと並んで、最も祖母に出会う可能性が高いと言った場所だ。きっと僕は、今日、そこで祖母に出会うに違いない。僕の心の中で期待がどんどん膨らんでいった。
下りっぱなしの道が終り、僕は松本の町に着いた。この町では、祖父は松本城を訪れる計画をしていた。
松本城がある公園はすぐに見つかった。僕は適当な所に自転車を止めると城の方に歩き出した。夏の観光シーズンということもあり、公園の中は多くの人で賑わっていた。少しつ疲れていたこともあり、僕は城に入る前に、公園の売店でかき氷を買ってベンチに腰を降ろした。餡子とアイスクリーが少し乗った抹茶味だった。ラスボスを倒した後ということもあり、かき氷の味は格別だった。
食べ終わると、僕は、お堀に掛かった橋を渡り、城の入口に向かった。そして、そこから城の中へと足を踏み入れた。中に入ってみると、城内の階段はとてつもなく急だった。壁には所々、弓や鉄砲を放つための四角い窓が開いていた。
行ったことはないが、大阪城はコンクリート製で、中にはエレベーターもあると聞いていた。いかにもまがい物という気がした。
しかし、松本城はそうではなかった。外から見た黒々とした姿も、内部の如何にも要塞と言った様子も、見るものすべてが作りものという感じがなく、正に本物の城だった。
階段を何層か登った後、僕は天守閣にたどり着いた。そこから眺める景色は壮大だった。松本の町並みの遥か彼方に北アルプスの山脈が奇麗に並んでいた。山頂の標高に比べれば峠の高さはずっと低いことは分かっていたが、自分はあんな山々を自転車で越えてきたのかと思うと、景色の美しさが何倍にも増したような気がした。
松本城を出た後、僕は北に進路を取った。目指すは、祖母の待つ安曇野のユースだ。坂は安房峠に比べればきつくなかったが、さすがに疲れも溜まってきていたので、最後の約20キロの距離は想像したよりはつらい道のりになった。
国鉄穂高駅を通過した時には、いよいよ残りが少なくなったと心が弾んだ。しかし、そこからが、最後の踏ん張りどころだった。安曇野のユースは穂高駅の西側の丘の中腹にあったのだ。だから、ユースまでの登り坂は、疲れ切った体にはかなりこたえた。
夕陽が安曇野の地を赤く染めた頃、僕はとうとう安曇野のユースにたどり着いた。予約のない飛び込みだったが、どうにか僕はユースに泊めてもらえることになった。
僕が玄関の傍で自転車から荷物を取り外していると、レンタサイクルらしき自転車で坂を上ってくる人影が目についた。さして気にもせず作業を続けているうちに、その人はユースの前にたどり着いたらしく、背中から声を掛けられた。
「こんにちは」
その声に振り向いた途端に、僕はその人が祖母だと分かった。僕と同じくらいの年に見えるその人の名を問うまでもなかった。その人の顔には僕の母の面影が色濃く見てとれた。
「こんにちは」
僕が挨拶を返すと、祖母はとても嬉しそうな笑顔を見せた。
「自転車で旅をしているの?」
祖母の言葉は何故かしらとても美しい歌のように響いた。
「うん、長い旅だったけど、それも明日で終わりなんだ」
「そうだったの。お疲れさまでした」
「ありがとう。ああ、僕は桑原久雄です。君の名前も聞かせてくれないかな」
「私は川崎愛子よ。漢字は『愛情』の『愛』ね」
「愛子さんですか。良い名前ですね」
僕は、その時、愛子という名前が本当に良い名前だと思った。
「久雄君は、ここまで良い旅ができたのかしら?」
「ああ、できたよ。無事に目標が果たせて、今はとても充実した気分なんだ」
「そう、それは良かったね。私もね、明日は東京に帰るんだけど、とても良い旅ができたの。ああ、私もね、目標が達成できたんだ」
「そうか、それは良かった。お互い目標達成か。お酒が飲める年齢だったら、今夜は乾杯ってところだね」
「そうね」
そう言って僕たちは少し笑った。
「ああ、お酒で乾杯はできないけど、今夜はお互いの健闘を称えあって、一緒に夕食を食べませんか」
なぜだか、今までの自分だったら決して口にできないような言葉がスラスラと出てきて不思議だった。
「はい、喜んで」
そう答えた祖母・愛子の顔は、なにかとても輝いているように見えた。
とりあえず愛子と別れ、僕は自分の部屋に荷物を運びこんだ。二段ベッドが4つ並んだ部屋で窓側の下のベッドを確保した。僕がベッドに腰を下ろして一息ついたところで、同部屋の男性が部屋に入ってきた。
なんと彼はギターケースを持っていた。GパンにくたびれたT-シャツ、やや長めの髪に口ひげという彼の風貌は正に昭和の空気を漂わせていた。彼は通路を挟んで僕と向かい側の下の段のベッドを確保するべくバッグをベッドの上に放るとギターのケースを床の上に置いた。それから僕と向かい合うように腰を下ろすと、彼は何の迷いもなく僕に話しかけてきた。
「こんにちは。僕は久保長明、君の名前は?」
「桑原久雄です」
答えながらふと思った。金沢のユースでも同部屋の人に話しかけられたことがあった。あの時はそれが鬱陶しく思えたが、今はそうでもなかった。
互いの自己紹介が済むと久保長さんは僕のことを訊いてきた。
「久雄君は自転車で旅をしているのかい?」
「はい、そうです。よくわかりましたね」
「うん、まあ、あちこちのユースでサイクリストとはよく一緒になるからね、なんとなく雰囲気でわかるんだ」
「そうでしたか」
答えながら僕は、久保長さんは旅人歴が長いのだなと思った。
「久雄君はどこから来たのかな?」
尋ねられたのは住んでいる所だったが、僕は安曇野まで来た行程にも触れることにした。
「家は東京ですが、自転車で走り始めたのは福井県の敦賀からです。それから金沢、白川郷、高山、松本などを通ってここまで来ました」
「いやあ、すごい根性だな」
「根性」、いまだにあまり好きになれない言葉だった。しかし、かつて父方の祖父に「根性なし」の烙印を押された僕は、いつのまにか色々な人から「熱血根性小年」と思われるようになっていた。しかたなく、旅をしてきただけで、僕自体が変わった訳ではないというのに。
とりあえず、自分のことを先に語ってしまったので、僕は逆に久保長さんに話を向けてみることにした。
「久保長さんは電車やバスを使って旅をしているんですか?」
「うん、そうだね。電車やバスに乗ることもあるけど、ほとんどはヒッチハイクかな」
久保長さんの返答に僕は一瞬言葉を失った。
『ヒッチハイク』、それは路上で見ず知らずの他人の車を止めて同乗させてもらって移動するという旅の仕方だ。昭和の時代はいざ知らず、令和では「乗る方」も「乗せる方」も命がけの自殺行為だ。
僕は変に思われないようにすぐに言葉をつないだ。
「ところで、久保長さんはプロのミュージシャンなんですか?」
「ミュージシャン?聞き慣れない洒落た言い方をするね。僕はそんな立派なものじゃないよ。ただギターを持って旅をしているだけだよ」
『ギターを持って旅をする』、いかにも昭和人だなと思った。でも、そう聞いても、もう僕は以前のように久保長さんを『怪しい宗教活動家では?』と疑ったりはしなかった。関りを避けたいとも思わなかった。むしろ少し彼に興味が沸いた。
「でも、久保長さんはでも、人前でギターを弾いたり、歌ったりもしているんじゃないですか?」
「まあね、ギターケースを料金箱代わりにして人の集まる所で歌ったりすることも
あるけど、まあ、お金を入れてくれる人なんてほとんどいないよ。あと、ユースではミーティングの時に歌わせてもらったりすることはあるよ。ああ、もちろんお金なんて取らないけどね」
「じゃあ、今夜も歌うんですか?」
「うん、実は、ミーティングで歌わせてくれるように頼んであるんだ」
「そうですか」
金沢のユースに泊まった時は、宿泊者が一緒に歌を歌ったりするミーティングは怪しい宗教の黒ミサのようにしか思えなかったが。今は、ミーティングで久保長さんの歌を聴いてみたい気がした。自分で自分の変化に少し驚いていると、久保長さんにありきたりの質問をされた。
「久雄君は、たぶん、高校生だよね。もう将来の進路とか決めているのかい」
「いえ、まだです」
祖父を演じての答えだったが、それは自分自身の答えでもあった。
「そうか、まあ、そうだろうね。僕はね、将来はシンガーソングライターになりたいと思っているんだ」
「そうですか。ところで久保長さんは今、学生さんですか?」
話の流れで質問を返したが、その質問は久保長さんをちょっと困った顔にさせた。
「うん、ちょっと前までは大学生だったんだけどね。少し前に退学しちゃったんだ」
尋ねてはいけないことを訊いてしまったような気がしたが、後の祭りだった。しかし、久保長さんはすぐに気を取り直したようだった。
「自慢じゃないけど、僕はT大の法学部の学生だったんだ。僕の家は代々弁護士の家系でね。祖父も父も弁護士で、僕も弁護士になるべく子供のころからもの凄い勉強をさせられていた。僕は敷かれたレールを走り続けたまま大学まで行ったんだけど、大学で音楽サークルに入ってから、どうしても音楽がやりたくなってね。それで敷かれてレールから外れてしまったというわけさ」
久保長さんの境遇が自分と似ていたので、僕は一気に彼に親近感が沸いた。しかし、僕と久保長さんの境遇は同じではなかった。敷かれたレールからなんとなく脱線してしまった僕と違い、久保長さんは自らの強い意志によって敷かれたレールから外れたのだ。
大胆な行動をした久保長さんに感心した僕は、つい、また余計なことを言ってしまった。
「しかし、よくご両親が退学をゆるしてくれましたね」
「許してなんてくれてないよ。勘当されて、家を追い出された」
「じゃあ、今、どうやって暮らしているんですか?」
「実を言うと、年上の彼女のアパートに転がり込んで彼女に食べさせてもらっているという情けない状態なんだ。彼女はサークルの先輩で一流企業のOLなんだけど、僕の一番の理解者でね。いつかはレコードを出して彼女の恩に報いたいと思っているんだけど、まあ、世の中、なかなかうまくいかないね。申し訳ないからアルバイトもしているんだけど、お酒や旅に使ってしまうことがほとんどでね」
惚れた男の夢のために尽くす久保長さんの彼女は、昭和演歌の女主人公としか思えなかった。
少し話の方向を変えなければと思い、僕はどうでもよい質問をした。
「それで、久保長さんはどんなアルバイトをしているんですか?」
「遊園地とかデパートの屋上でやっている『覆面ライダー』のショーに出ているんだ」
『覆面ライダー』とは昭和から平成を経て令和までシリーズが続くスーパーヒーローのことだ。
「もしかして久保長さん、ぬいぐるみを着て空中回転してキックとかしてるんですか?」
「まさか、そういうのはプロのスタントマンさんの仕事だよ。僕はもっぱら黒服の戦闘員。ライダーとは直接絡まず、『エー、エー』って言いながらライダーに襲い掛かる振りはするけど、実は何もせず舞台上を右往左往しているだけさ」
「そうなんですか」
「ああ、そうなんだ。実はこの仕事、なかなか人手不足でさ。人集めも大変なんだ。東京に住んでいるんだったら久雄君も、今度参加してくれないかな?」
「いえ、僕は遠慮しておきます」
「そうか、残念だな。気が変わったらいつでも連絡してよ」
「一応、心に留めておきます。早くレコードデビューしてバイトしなくてもよくなると良いですね」
「でもなあ、彼女や、レコード会社の人によると、僕は、歌は悪くないんだけど、今一つ目立たないらしいんだよね。彼女なんてさ、『いっそライダーショーの延長で覆面して歌ったら』なんて言うんだぜ。ふざけているよな」
久保長さんの彼女からすれば、そこまで言いたくなるのも分からないでもないような気がした。
「いや、案外良いアイデアかも知れませんね」
僕がそう言うと久保長さんは小さくため息をついた。
「まあ、とにかく今夜は僕の歌を聴いてほしいな。ああ、僕は風呂に入りたいから失礼するよ。また、後でね」
「はい、じゃあ、また後で」
そう答えた後で、僕は自分のベッドにゴロンと横になった。
その後、久保長さんと入れ替わるようにして、僕は風呂に出掛けた。入浴を済ませ、部屋に戻る途中、庭のテーブルの上に食材や紙皿などが並べられてゆく光景を目にした。どうやら今日の夕食は庭で取ることになっているようだつた。
夕食の時間が近づいた頃、館内に放送が入り、夕食は庭に用意されていることが告げられた。僕が庭に出ると、愛子は、既に席に着いていた。僕に気が付くと、愛子は小さく手を振り、嬉しそうな笑顔を見せた。僕が隣に腰を降ろすと、愛子は早速声を掛けてきた。
「今日はジンギスカンだって。ユースの夕食にしては、贅沢な気がするわ。他所はもっと質素だったから」
僕は金沢のユースにしか泊ったことがなかったので、比較はできなかったが、愛子の言ったことが正しいのだろうということは容易に想像がついた。
「私たち、やっぱり運がいいのね。お酒で乾杯はできないけど、最後の夜に野外でジンギスカンなんて、素敵じゃない?」
愛子はえらく上機嫌だった。
「そうだね」
僕も愛子に同意した。ラスボスを倒し、無事にお姫様とご対面を果たした後の祝宴に相応しいメニューに思えた。
その少し後に、久保長さんが来るのが見えた。しかし、愛子と話している僕を見た彼は少し嫌らしい笑いを浮かべてから、僕とは違うテーブルに向かった。
その後、すぐにユースのオーナーが現れた。彼の足元では飼い犬がじゃれついていた。
「皆さん、今日はジンギスカンです。ただし、ユースの客に食わせるようなものは家の犬には与えていませんので、犬には残った肉など与えないでください」
あちこちで沸き上がった笑いが収まるのを待ってオーナーが夕食の開始を告げた。
「さて、今日はミーティングはありませんが、夕食の後、プロの歌手が歌ってくれることになっています。じゃあ、みなさん、召し上がってください」
オーナーの挨拶を受けて、あちこちのテーブルで「いただきます」という声が掛かり、僕たちは食事を始めた。
高一の男子の僕にとって、肉はやはり嬉しかった。同じテーブルに座ったのは、僕を除くと女性ばかりで、肉はあまり食べなかった。
僕は、元々、野菜が好きなほうではなかったし、他の女性たちが、野菜ばかりに手を伸ばすので、肉を片付けるのはもっぱら僕の役目になった。肉が食べ放題の最後の晩餐は正に勝利の味がした。
僕と愛子は食べながらたくさん話をした。お互いにこれまでに経験してきたことを語り合った。愛子は中央線沿いに移動を続け、あちこちのユースに泊まりながら安曇野のユースにたどり着いたとのことだった。愛子もまた、あちこちで色んな出会いを経験して、それが貴重な財産になったのだと話してくれた。
夕食が終り、片付けが済んだ後も、僕たちは庭に残って延々と旅のことを語り続けた。
僕は安心していた。もう大丈夫だと思った。無事に祖母に出会えた。もう十分仲良くなれたような気がした。これならば、祖父と祖母が結ばれず、母も僕も生まれてこなくなるという歴史改変が起こることはあるまい。僕は消滅を免れたのだ、そう確信した。
しかし僕は、安心するには、まだ、少し早すぎることに気づいた。僕たちは、まだ、互いの連絡先も交換していなかったのだ。とは言うものの、ここでその話を切り出すのは、どうかという気がした。わざわざ愛子にメモ帳を取りに行かせるのは気が引けたし、下心がありありだと思われるのもよろしくはなかった。
そこで僕は、明日は一緒に行動する約束を取り付けることにした。
「あの、愛子さん、明日の予定を聞いてもいいかな」
「うん、明日は自転車でこの辺りを回って、午後の列車で東京に帰る予定なの」
「へえ、そうなんだ。僕もそのつもりなんだ。良かったら明日は一緒に自転車でこの辺を回って、同じ列車で東京に帰るのはどうだろう」
「ああ、それいいな。うん、そうしよう」
愛子は嬉しそうに同意してくれた。上手く話がまとまったと思った。後は流れで、頃合いの良い所で連絡先を交換すれば良いのだ。
万事うまくいっていると、安心していると久保長さんがギターを持って現れた。庭には久保長さんの歌に期待する人たちが食事後も多数残っていた。
久保長さんは並んだテーブルの先に椅子を置いて腰を下ろすと照れくさそうに挨拶をした。
「あのう、オーナーはプロだなんて紹介しましたけど、本当はただのアマチュアです。でも、皆さんの旅の思い出の一欠けらにしていただけるように、頑張って歌いますので聴いてください。まずは、皆さんがよく知っている歌からゆきたいと思います。どうか皆さんも一緒に口ずさんでください」
そう断ってから久保長さんは、手を使わないでもハーモニカを吹けるようになっている道具を口元にセットしてからギターを構えた。久保長さんは一人でギターとハーモニカの演奏を始めた。歌のイントロは金沢のユースでも聴いた覚えがあった。しかし、その後に続いたものは、まるで次元の違う代物だった。
久保長さんは透き通った美しい声の持ち主だった。ギター1本の伴奏は彼の歌を際立たせていた。僕は冒頭から一気に彼の歌に引き込まれた。僕にとっては初のライブ体験だったが、正に鳥肌が立つようなパフォーマンスだった。彼の歌に圧倒されたのは僕だけでなく、『一緒に口ずさんでください』とは言われていたものの誰一人自分の声で久保長さんの歌を汚そうとするものはいなかった。
あっという間に長久保さんは数曲を歌い切った。長久保さんの歌に魅入られていた僕の頭からは、ようやく出会えた愛子のことさえすっかり消えていた。
「では、ここからは僕のオリジナル曲を聴いてください」
久保長さんの挨拶の後に続いた数曲は、久保長さんがカバーしたヒット曲以上に僕の心に響いた。
「では、最後に『旅の終わりに』という歌を聴いてください」
もう最後なのかと思ったら残念な気がした。ギターのアルペジオとハーモニカのイントロは正に旅の終わりにもの悲しさを歌っていた。ひと時の旅の出会いと別れを詠った歌詞は、冒頭から旅の終わりに近づいた者たちに切なさを覚えさせた。その切なさは、僕に旅で出会った人たちのことを思い出させた。自殺志願の少女との出会いさえ、愛おしく思えた。
祖父はどんな思いでこの歌を聞いたのだろうかと思った。卓球少女の玲子と、将来の妻になる愛子を除けば、たぶん彼ら彼女らに再び会うことはないだろうと祖父は感じていたはずだった。
この先、僕にどんな運命が待っているにしても、この旅の出会いのほとんどが、一期一会の出会いになることは間違いないだろう。久保長さんの歌が引き起こした切ない思いは僕の胸を締めつけ、堪えないと涙がこぼれそうな気がした。
歌が終わり、ふと隣を見ると愛子は涙ぐんでいた。愛子もまた、僕と同じような思いに駆られていたのだろう。僕は愛子には声を掛けずにしばらく時が過ぎるのを待った。先に口を開いたのは愛子の方だった。
「ああ、私、喉が渇いちゃった。ジュース買って来るね。久雄君も何か飲む?」
愛子はそう言うと席を立った。
「ああ、僕はいいよ」
「そう、じゃあ、ここで待っててね」
「うん、ちゃんと待っているよ」
僕の答えに安心したような表情を見せて、愛子は建物の中に戻っていった。
愛子の姿が見えなくなると、なぜかまた寂しさが頭をもたげてきた。でも、そのさみしさはにわかに形を変え始めた。確かに僕は忘れがたい出会いをたくさんした。でもそれは、祖父の出会いを疑似体験したに過ぎなかったような気がしてきたのだ。
僕は本当に、彼ら、彼女らに出会ったと言えるのだろうか。長い旅をしてきたのに、もしかしたら僕は、まだ誰にも出会っていないのかもしれないと思えてきた。祖父の旅を代行するのではなく、自分自身の旅をしたら、僕も僕が出会うべき人に出会えるのだろうか、なぜかそんな思いが沸いてきた。
そんな思いが、ふと歌になって僕の口からこぼれた。それは父が好んで聴いていた沖縄出身のバンドの歌だった。『旅を続ければ、また、出会えるはずだ』という内容の歌だった。
「あなた、どうして、平成になってからできた歌を知ってるの?」
そう声を掛けられるまで、僕は愛子が戻ってきたことに気づいていなかった。愛子の顔は先ほどまでの笑顔が嘘のように、猜疑心で歪んでいた。
「あなた、いったい誰なの?久雄さんじゃないの?」
問い詰めるその言葉は、僕に混乱を引き起こした。僕は答えに詰まったが、はっきりしたこともあった。「平成」という元号と、その時代にできた歌を知っているということは、祖母・愛子にも秘密があるということだった。
第八話 終



