高山を後にすると、僕はいよいよボスキャラの平湯峠と向き合うことになった。
 ゲームで言えば、ボスキャラに次ぐ四天王クラスのキャラは、すでに倒してきたつもりでいた。しかし、今まで越えてきた坂などは、単なる雑魚キャラに過ぎなかったことを僕は思い知らされた。
 平湯峠への坂道は、正に常識外れだった。漕いでも漕いでも、自転車は先に進まなかった。『歩くよりも遅くなったら自転車を押して歩け』というのが斉藤さんの教えだった。僕はそれを何度も実践する羽目になった。
 対向車線を気持ちよさそうに下ってゆくサイクリスト達が羨ましくて仕方がなかった。それは、既にボスキャラを倒した勇者達の姿だった。そんな彼らに、手を挙げて答えることさえ、僕には重労働になっていた。
 このカーブを曲がったら、峠が見えるのではないかという期待は数限りなく裏切られた。悲鳴を上げる足と心臓に心で鞭を打つようにして、僕はペダルを漕ぎ続けた。
『なんでこんなことをしなければならないのだ』、そんな考えが何度も頭の中に浮かんだ。
『諦めて高山への道を下ってしまえ』、悪魔が繰り返し僕に囁いた。
 もちろん、僕にはそれは許されなかった。
 いい加減そろそろ、平湯峠に着くだろうと思った頃、一人のサイクリストが対向車線を下ってきた。
「もう少しだ、頑張れ」
 彼は手を挙げて僕を鼓舞した。彼の言葉は正に天使のささやきのように感じられた。しかし、すぐに、それは、たちの悪い妖精のついた嘘に思えた。怒りさえ湧いてきた。
『何があと少しだ。下ってきたお前には少しだったかもしれないがな』、そう言い返してやりたかった。
 だが、次第に僕の中で気持ちの変化が表れ始めた。消滅回避のためでなく、祖父の代わりにではなく、ただ単純に、目の前のボスキャラを倒したいと思い始めたのだ。
 やがて精も根も使い果たし、もはや目の前の道を行く以外に何も考えられなくなった頃、僕はようやく平湯峠にたどり着いた。高山からの走行距離自体は32キロに過ぎなかったが、それは正に地獄の32キロだった。
 空は今にも雨が降り出しそうな灰色をしており、美しい景色など何もなかった。あまりの疲労に、僕にはボスキャラを倒したという達成感などまるで湧いてこなかった。
 観光地によくある食堂兼お土産屋の駐車場には、逆方向から平湯峠を越えてきた勇者たちの自転車がずらりと並んでいた。僕は店の脇の方の壁に自転車を立てかけると、傍にあったベンチに腰を降ろして地図を広げた。斉藤さんが言った通り、祖父の予定表にあった宿にたどり着けないことは明らかだった。
 しかも、白川郷にあった観光案内所のような、宿を紹介してくれそうな施設も見当たらなかった。僕は対策に窮した。ここまでは、ただ登ることしか考えていなかったが、疲れ切った僕の前に、当初から懸念されていた問題が大きく立ちはだかった。
 僕は地図をしまい、大きくため息をついた。ここにいても、事態は打開できそうにはなかった。空はどんよりと曇ったままで、すでに時刻は夕方を迎えていた。
 疲れ切った僕は、少々判断を誤ったのかもしれなかった。とにかく、もう少し先に進んでみようと思い、自転車に跨り、国道に戻るとラスボスの安房峠に向かう道へ漕ぎだした。
 すると、僕の後ろから男性の怒鳴り声が響いた。
「おい、兄ちゃん、いったい何処にゆくつもりだ」
 振り向くとそこにはお店の店員さんが怖い顔をして立っていた。
「もうすぐ陽も暮れる。雨も降りそうだ。これから安房峠に向かうなんて危険すぎる」
 言われて僕は我に返った。確かに彼の言う通りだった。とはいうものの、僕には進む道も戻る道もなかった。見回したところ、雨をしのぐ場所もないここでは野宿もできそうになかった。僕は旅を始めてから最大のピンチに陥った。
 しかし、光明は意外な形で差してきた。
「兄ちゃん、この少し先の旅館で、今日、急なキャンセルが出たそうだ。君、まだ、高校生ぐらいだろう。元々キャンセルの出た部屋だから安く泊まらせてくれると思う。オジサンが電話して頼んであげるから、今日はそこに泊まりなさい」
 店員さんの親切が身に染みた。そして、店員さんの言葉に従うことが、斉藤さんの言った『流れに逆らわない』ことのようにも思えた。祖父もまた、このような偶然のおかげで危機を乗り切ったに違いないという気になった。
「ありがとうございます。そうさせて頂きます」
 僕は深々と店員さんに頭を下げた。

 平湯峠から、紹介された旅館・山本館はすぐだった。宿代の五千円は痛手だったが仕方がなかった。僕は通された部屋で浴衣に着替えて、早速、大浴場に行ってみた。
 さすがに温泉旅館であり、脱衣場も浴室も立派なものだった。僕は体を洗った後、ゆっくりと湯船に浸かった。ボスキャラの平湯峠との戦いは、それは激しいものだったので、温泉の温かみが身に染みた。湯船の端に置いたタオルの上に頭を預け、思い切り足を延ばすと、体中が癒されるような気がした。

 部屋に戻り、しばらくすると、夕食の時間になった。食事は部屋毎ではなく、一階の宴会場で取ることになっていた。宴会場に着いてみると、そこは畳敷きの大広間で、夏休み中ということもあり、料理が乗せられた一人用のお膳が、会場いっぱいに並べられていた。
 入口で係りの人に自分の名を名乗ると、僕の席は一番奥の方だと伝えられた。指示された通りに行ってみると、四人組のものと思われる席から少し間を開けた所に、僕のお膳だけがぽつんと一つ置かれていた。
 旅館の夕食ということもあり、お膳の上に並んだ料理は見栄えも良く、豪華な内容だった。それはボスキャラである平湯峠を倒した僕へのご褒美のようにも感じられた。
 僕が食べ始めてから少しすると、隣に家族連れらしい四人がやってきた。みんな揃って旅館の浴衣を着ていたが、娘二人は高校生ぐらいに見えた。僕は豪華な夕食を楽しむのに夢中で、隣の客のことなどほとんど気にしていなかったが、僕の幸福な時間は、隣から聞こえてきた母親の怒声で打ち消された。
「愛子、もっとお行儀良くしなさい」
 まさかと思った。僕は一気に自分が置かれた危機的な状況に引き戻された。
「みっともないよ、お母さん。こんな所で大声出さないでよ」
 僕に近い方に座っていた、妹の方と思われる女の子が、乱暴に言い返した。
 そのやり取りを聞いて、僕は箸を落としそうになった。隣にいるこの子が祖母なのか?と思った。今朝、「妹」の愛子とあんな別れ方をしたばかりなのに、その夜に、また別の愛子に会うなんてことがあるのか?しかも、隣の女の子は態度からして「妹」の愛子とはまるで別の男勝りのタイプだ。これでは、まるでラブコメ漫画ではないか。
 確かに祖父は、旅は出会いと別れの連続だと言っていた。しかし、いくら何でも、これはあまりにも芝居じみていると思った。だが、現実は時に、虚構よりもドラマチックである場合があることも、僕は既にいくつか、この旅で経験してここにいるのだから、それもありかと思った。僕が祖母に巡り会うことは、歴史、あるいは運命なのだから。
 しかしである、ユースならともかく、旅館で家族連れ四人の食事中の娘に、見ず知らずの男がいきなり話しかけるなどできるわけもなかった。祖母と思われる彼女と、どうやって接点を持てばよいのか、僕には分からなかった。せっかくのご馳走を前にして、そんなことを考えても仕方がなかった。『腹が減っては戦はできぬ』という言葉もあった。だから僕は、まずは目の前のご馳走を平らげてしまうことにした。考えるのはその後にしよう。それに隣にいれば、何かのきっかけで彼女と言葉を交わすことになる可能性もあった。彼女より先にこの場所を離れるのは得策ではなかった。まずはゆっくり夕食を楽しめば良いのだ。僕はボスキャラを倒した気が大きくなっていたようだった。旅を始めた頃は全てを悲観していたのに、いつの間に、そんな楽天的な考え方ができるようになったのか、自分でも不思議だった。
 しかし、僕の期待は見事に裏切られた。最初に母親が怒鳴ったせいか、隣席の四人の雰囲気はあまり良くなかった。四人とも目の前の料理を黙々と片付けると、僕より先に席を立ってしまった。
 まずい。このまま彼女が部屋に戻って、それきり出てこなかったら一巻の終わりだと思った。僕は慌てて彼女の後を追ってはみたものの、話しかけることなどもちろんできなかった。
 卓球台や、雑誌、自販機などが置かれた娯楽室まではなんとか後を追ったものの、それ以上の追跡は危険だと思った。不審者と思われるわけにはいかなかった。彼女たちはそのまま娯楽室を通り過ぎ、階段を上り二階に行ってしまった。
 僕は追跡を諦めて、とりあえず娯楽室のソファに腰を降ろした。どうすれば彼女に近づけるのか、何のアイデアも浮かばないままに僕は途方に暮れるしかなかった。

 しかし、奇跡が起こった。しばらくすると、彼女は一人で娯楽室にやってきて、僕から少し離れた場所にあるソファに腰を降ろしたのだ。やはり僕たちは巡り会う運命にあるようだった。が、しかし、どうやって彼女に話しかければよいのか、まるで考えが浮かばなかった。
 しばらく考えながら、横目で彼女を観察していて僕は気づいた。彼女は卓球台を見つめながら、右手で素振りのような動作を繰り返していた。ふと僕は、祖父の家の倉庫の中に卓球台が置かれていたことを思い出した。そうだ、祖父と祖母は卓球を通じて繋がっていたのだ。僕はそう結論付けた。そう思った瞬間、僕は馬鹿げた声の掛け方をしてしまった。
「あの、僕と卓球しませんか?」
 言ってしまってから自分でも呆れた。彼女は明らかに不審者を見るような眼で僕を睨んだ。
「何なの、あんた。ナンパのつもり?」
 「ナンパ」は令和ではほとんど死語だ。往来で見ず知らずの女の子に声をかけるといあれだ。やばいと思った。
「いや、その、一度、温泉卓球という奴をやってみたくて」
「はあ、何、その中年オヤジみたいな発想。あんた変態じゃないの?」
 僕は不審者から変態に格上げされてしまった。焦った。
「いや、僕は変態じゃないと思います」
「どうかな、怪しいもんね」
 彼女は僕を蔑むように見た後、なぜか態度を変えた。
「ま、いいか。練習ゼロより少しはましね。いいわ、付き合ってあげるわ、温泉卓球」
 ほっとした。どうやら彼女と繋がりが持てたと安心していると、彼女は僕よりも先に立ち上がり、娯楽室の角にあった卓球用具入れの方に歩いて行って、そこからボールとラケットを取り出した。僕も彼女にならってラケットを一本取りだした。そして、僕たちは卓球台の両側に分かれた。
「温泉卓球なんて、オジン臭いわね。まあ、卓球というより、ピンポンのレベルでいいよね」
「はい、ピンポンのレベルでお願いします」
「じゃあ、行くわよ」
 彼女は山なりの極めてスローな球を僕に送ってよこした。ところが僕はそのスローボールを見事に空振りした。
卓球台の向こうで、彼女がポカンと口を開けた。そして、その直後、彼女は鬼のような形相で僕に怒鳴った。
「あんた、こんな球も返せないで、よく卓球やろうなんて言えたわね」
 言えたのではなく、言ってしまったのだと思ったが、そうは言えなかった。
「すみません。もう一度お願いします」
 僕は床に転がったボールを拾い上げると、台の反対側まで行き、直接、彼女にボールを手渡した。
「すみません。今度は頑張りますから」
 彼女の鬼の形相は収まらず、むしろ角が一本増えたような気がした。
「本当にしょうがないわね。じゃあ、いくよ」
 彼女は先ほどと同じように緩い球を送ってよこしたが、僕のラケットはその緩い球にかすりもしなかった。台の向こうの彼女の目に地獄の業火が宿ったような気がした。
「あんたやる気も運動神経もないの?初めてラケット握った奴だって、そこまで酷い空振りはしないよ」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 僕は、またボールを拾い直すと、それを彼女の許に届け、元の位置に戻った。
「今度空振りしたら、終わりにするからね」
 彼女の最後通告が僕の耳に突き刺さった。
 すると、僕の体の中でスイッチが入った。いや、祖父の体が覚醒したと言った方が良かった。彼女が三度目の緩い球をよこした次の瞬間、祖父の体が勝手に反応した。ラケットを持った手が素早く動くと、スピードが乗った鋭い球が彼女の右側の角に打ち込まれた。そんな球が返ってくることを予想だにしていなかった彼女は、全く反応できず、ボールは彼女の後ろの床の上を転がっていった。
「ねえ、あんたどういうつもりなの?」
 彼女はもはや全身から火を放っているような気がした。
「すみません。体が勝手に」
「わけわからないこと言わないでよ」
 彼女の怒りは決して収まることはないように見えたが、なぜだか彼女は急に笑い始めた。
「まあ、どうでもいいや。でも、あんたちゃんと打てるみたいだから、練習につきあってよ」
「はい、もちろんです」
 命拾いしたと思った。
 僕は忠犬さながらにボールを拾いにゆくと、彼女にそれを渡し、元の位置に戻った。
「じゃあ、まずはフォアのラリーからね」
「あ、はい」
 僕はラケットを構えた。彼女が送ってきた球は先ほどと違い、直線的で、ややスピードも増していたが、僕の体は勝手に反応していた。ラリーが続くにつれて彼女はどんどんスピードを上げていったが、僕の体は苦も無くそれを打ち返した。
 フォアのラリーは途切れることなく続いた。そして、最初にミスをしたのは彼女の方だった。彼女は苦笑いしてボールを拾いに行った。台に戻ると、次の指示をしてきた。
「じゃあ、今度はバックのラリーね」
「はい」
 僕は一抹の不安を覚えたが、それは杞憂だった。祖父の体はバックハンドのラリーにも苦も無く対応した。長いラリーの末に、先にミスをしたのは、またしても彼女の方だった。腹を立てた彼女は僕に怒鳴り声を浴びせてきたが、それは僕に対する怒りではなく、自分に対する怒りだった。
「ああ、やっぱり、浴衣なんか着てちゃダメね。私、着替えてくるから、あんた着替えて、ここで待ってなさいよ」
 僕の承諾も取り付けないまま、彼女は部屋に戻っていった。僕は言われた通り、部屋に戻りTシャツと短パンに着替えて、娯楽室に戻り、彼女を待った。
 彼女も僕と同じようにTシャツと短パンに着替え、長い髪をゴムで束ねて戻ってきた。
「じゃあ、もう少しラリーをしたらゲームで勝負よ」
「あ、はい」
 僕は卓球のルールも知らなかったが、とにかく彼女の言いなりになるしかなかった。その後のラリーは浴衣の時よりも更にスピードが増していたが、祖父の体は相変わらず完璧な反応を見せていた。

「じゃあ、ゲームで勝負よ」  
 笑顔で宣戦布告をした彼女は、まるでゲームかアニメのヒロインのようにカッコ良かった。それまでは気づかなかったが、怒っていない時の彼女は中々の美少女だった。
「あの、僕、ルール知らないんで、教えてもらっていいですか?」
「はあ、いつまでボケたこと言ってるのよ。こんなに打ててルール知らないなんてありえないわ」
 彼女はあっという間に美少女ではなくなった。僕は恐る恐るお願いをするしかなかった。
「すみません。ゲームしながら、その都度教えてください」
「もう、本当にわけわかんないわ。ああ、ポイントは私が数えるし、サーブ順も教えてあげるわ」
「助かります。ちなみに何点取った方が勝ちですか?」
「マジで言ってるの?十一点よ」
「はい、分かりました。十一点ですね。」
「じゃあ、サーブは私からということで始めるわよ」
「はい、よろしくお願いします」
 そう言って僕はラケットを構えた。
「じゃあ、いくわよ」
 彼女がサーブの動作に入ると、その顔からは怒りの色が消え、冷静かつ真剣な表情に変わった。その直後、彼女が打ち出した球には鋭い回転が掛かっていたが、祖父の体はそれをものともしなかった。それからしばらくラリーが続いた後、最初のポイントを取ったのは僕の方だった。
「良し!」 
 僕は思わず叫び、小さくガッツポーズまでしてしまった。すぐに、まずいと思って彼女の方を見たが、彼女の顔には怒りの色は全く見えず、むしろ嬉しそうな顔をしていた。
「やるじゃないの。そうこなくちゃ」
 彼女は笑顔を浮かべて次のサーブの動作に入った。
 彼女がポイントを数え、サーブの順番を僕に教えるという方法を取りながら僕たちのゲームは続いた。僕たちの勝負は全くの互角で、かなり白熱したものになっていた。いつの間にか小学生の男の子を連れたご夫婦が、ソファに座り僕たちのゲームを観戦していた。
「あ、ポイント何だっけ?」
 勝負に集中するあまり、彼女はポイントを忘れてしまったようだった。ルールもろくに分からないまま、とにかく必死に彼女に食らいついている僕は、端からポイントなど数える余裕はなかった。
「7-6でおねえちゃんのリードだよ」
 ソファに座っていたご夫婦の旦那さんの方がそう言ってきた。旦那さんは立ち上がると用具入れの方に向かい、そこから得点板を取り出して卓球台の中央に立った。
「俺が審判をするから、君たちはゲームに集中しなさい」
 旦那さんにそう言われる、彼女は一度きちんと背筋を伸ばし深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 彼女のそれは、先ほどまでの荒々しい言葉遣いからは想像もできない程の礼儀正しい振舞だった。
「よろしくお願いします」
 つられて僕も深く頭を下げた。
 旦那さんは、僕たちの態度を見て、ひどく機嫌よさそうな笑顔を見せると、得点板を7-6にセットした。
「じゃあ、再開だ。7-6でお姉ちゃんのリードで、サーブもお姉ちゃんだ」

 僕たちがゲームを再開すると、また、すごい打ち合いが続いた。その間には娯楽室には一人二人と観客が増えてゆき、ポイントが決まると拍手が起こった。
 なんかすごいことになってきたなと僕は思った。そして、生まれて初めてラケットを握り、祖母と思われる彼女を相手に白熱した勝負をしている自分がすごく不思議だった。
 彼女との勝負はコンピューター相手のゲームとは比べ物にならないほどエキサイティングだった。祖父が言っていたことが、少し分かったような気がした。
 その後、勝負はいよいよ佳境に入った。ポイントは十対十。あと1ポイント僕が先に取れば勝ちだと思った。壮絶な打ち合いの末、彼女がバックハンドをミスった。
「よっしゃあ、勝った!」
 両手を振り上げて叫んだ途端にあちこちから笑いが起こった。何かが変だと思い、向かいの彼女の方を見ると、呆れてものが言えないという顔をしていた。
「あんた馬鹿じゃないの。ゲームはまだ終わってないわよ」
 彼女は吐き捨てるように言った。
「え?でも、僕が先に十一点取ったんだけど」
「十対十になったらね、先に2ポイント連取しないとゲームは終わらないの。だから次のポイントもあんたが取ればあんたの十二対十であんたの勝ちよ。でも、私が取れば十一対十一で勝負は振出に戻るのよ。分かった?ここからはとにかく、2ポイント連取しないとゲームは終わらないのよ」
 悪夢のようなルールだと思った。接戦が続けばいつまでもゲームは終わらないのだ。
「おい、兄ちゃんたち、ゲームを再開するぞ」
 旦那さんに促されて僕は渋々と構えに入った。一度は勝ったと思い緊張感が切れたのか、次のポイントはあっさりと彼女に奪われ、十一対十一に追いつかれた。まずいと思ったのが災いして僕は更に失点を重ねた。結局僕は、3ポイントを連続して落とし、勝利の女神は彼女に微笑んだ。
「よっしゃあ、勝った!」
  彼女のその声と共にいつの間にか増えていたギャラリーの間から大きな拍手が起こった。「いいぞ、ねえちゃん!」などと彼女の勝利を称える声も飛んできた。
 彼女は喜びに満ちた美少女の顔をしていた。その顔がひどく憎たらしく見えた。その瞬間、僕は今まで感じたことのないような悔しさを覚え、ラケットを床に叩きつけたい気持ちをかろうじて抑えた。
 僕はゲームでコンピューターに数限りなく負けてきた。もちろん、悔しい思いをしてきた。しかし、今、自分が感じている悔しさに比べたら、そんなものは悔しさの内には入らないような気がした。
 そう思いながら立ち尽くしていると、彼女が僕の隣にやってきた。そして、最初に僕に向けた鬼の形相が嘘みたいな笑顔で僕に手を差し出してきた。
「ナイスゲーム!良い勝負だったね」
 僕は彼女が握手を求めてきたのだと気づくのに少し時間が掛かった。
「参りました」
 僕は素直に負けを認めて彼女と握手を交わした。すると周りから拍手が起こった。僕は不思議な気分になった。自分が、見ず知らずの人たちに、わずかながらでも感動を与えることがあるなんて、思ってもみなかった。負けた悔しさが少しずつ薄れ、僕の中に平湯峠を越えた時のような喜びが広がっていった。
 しかし、僕がそんな思いに浸っている内に、意外な展開がすでに始まっていた。
「おい、やるぞ」
 審判をしてくれていた旦那さんが、ソファで観戦していた奥さんに声を掛けた。
「待ってたわ、その言葉を。さっきから、うずうずしてたの」
 奥さんは立ち上がると旦那さんの隣に並び、二人は僕と彼女に挑戦的な視線を送ってきた。
「おい、兄ちゃんたち、今度は俺たちとダブルスで勝負だ!」
  旦那さんの声が娯楽室に響き渡ると、一斉に歓声が沸き起こった。
「おい、車からラケットを持ってこい」
「分かったわ」
 旦那さんに命じられて奥さんは娯楽室から出ていったが、すぐに戻ってきた。
「兄ちゃんたちは疲れているだろうから、少し休憩を取るといい。その間に、俺たちはウォームアップをさせてもらうよ」
 僕らの了承を得ることもないまま、勝手に勝負のお膳立てが進んでいた。
 僕らはどうにか二人分スペースが残っていたソファの端の方に腰を降ろした。ご夫婦のウォームアップを見る彼女の目がどんどん鋭くなっていった。
「ねえ、あんた。この人たち、相当強いわよ。でも、私たちが上手く力を合わせれば勝てるかもしれない。気合を入れていくわよ」
 勝手に気合を入れることを決められても困ると僕は思った。逃げ腰の僕とは裏腹に、彼女の目の中には大昔の漫画のように炎が燃えているような気がした。とんでもないことに巻き込まれてしまったというのが素直な気持ちだった。
「じゃあ、そろそろ始めようか」
 旦那さんはそう声を掛けると、奥さんと共に位置に着いた。
「おい、健、お前、審判やれ」
「しょうがないな」
 健と呼ばれた男の子は渋々とソファから立ち上がると、得点板の数字をゼロに戻して審判の位置に着いた。
「行くわよ」
 彼女に促されて僕も席を立ち、僕たちも位置に着いた。ご夫婦は、まるでトランプのキングとクイーンのようなオーラを放って僕たちの正面に仁王立ちしていた。
 ありえないと思った。さっきまで敵同士として戦っていた僕と彼女が、今度は仲間になり、力を合わせて強敵に立ち向かう。漫画にしてもあまりにもコテコテの展開だ。これはマジで現実なのか?僕は、本当はタイムスリップして祖父と入れ替わったのではなく、祖父が思い描いた漫画の構想の中に紛れ込んだだけではないのかと疑った。
 しかし、現実であろうとなかろうと、僕は祖母に愛想をつかされるような戦いはできなかった。つまり僕は死ぬ気になって相手に立ち向かうしかなかった。たとえ勝てなかったとしても、彼女が納得するようなプレイをせざるを得ない状況に追い込まれたのだ。

「それじゃあ、始めます」 
 男の子が宣言すると、また拍手と歓声が巻き起こった。僕のサーブで試合が始まることになった。
 僕が放ったサーブを旦那さんが打ち返し、それを僕が見事に打ち返すと相手からもう球が返ってこなかった。
「良し!」と僕が叫ぶと、娯楽室全体から白けたムードに包まれた。
「おい、にいちゃん。真剣勝負だぞ。冗談はいい加減にしろよ」
 旦那さんも、奥さんも非難に満ちた目で僕を睨んでいた。審判をしていた男の子は呆れた顔で両親のチームに点数を入れた。その直後に、僕は後ろから頭を小突かれた。
「馬鹿。何やってんのよ」
 振り向くと彼女は、また鬼に戻っていた。
「すみません。ちょっとだけ時間をください」
 彼女はご夫婦に深々と頭を下げた。その後、僕の手を引っ張って娯楽室の隅の方に連れて行った。
「あんた、まさかダブルスのルールを知らないなんて言わないよね」
 彼女の言葉は怒りに満ちていた。
「知らないよ。なんか僕は失礼なことをしたのかな?」
 その言葉が耳に入ると彼女は怒りを通り越してあきれ返った。
「卓球のダブルスはね、パートナー同士が、一球一球、交互に入れ替わって打つのよ。どちらかが二回つづけて打っちゃいけないのよ」
「え、そうなの。テニスやバドミントンと同じで、どっちが打っても構わないんだと思ってた」
「もう、勘弁してよね。卓球は交互に打つのよ、分かった?」
「うん、分かった」
「じゃあ、行くわよ」
 彼女に促されて僕は、また台の前に戻った。
「どうもすみませんでした。再開してください」
 彼女は、また深々と頭を下げた。僕も慌ててそれに合わせた。
 ルールは分かったものの、ゲーム再開後、僕の心と体はうまく連動しなかった。当然、彼女とのペアワークが上手くゆくはずもなく、僕たちは失点を重ねた。終いには僕たちは中央で激しくぶつかって5点目を失った。
「あんたね、いいかげんにしないと、ぶっ殺すわよ」
 僕を睨みつけた彼女の瞳は野獣の目そのものだった。本当に食い殺されるかもしれないという恐怖が奇跡を起こした。僕は自分の、いや祖父の体がスーパーヒーローのようにシングルスモードからダブルスモードへフォームチェンジしたのを感じた。
 ゲームが再開されると形勢が一気に変わった。僕は、自分がどこにどんな球を打つかなどほとんど意識しないままに最適な配球をしていた。言葉を交わしたわけでもないのに、僕は彼女が何をしたいのか、そして、僕に何をしてほしいのかが手に取るように分かった。
 突然良くなった僕たちのコンビネーションに動揺したのか、ご夫婦のプレイが大きく乱れ、僕たちはあっさりと5-5のタイまで一気にスコアを戻した。
「なんや兄ちゃん、すっかりエンジン全開だな。でも勝負は、まだこれからだ」
 凄まじい追い上げを食らったというのに、旦那さんはなぜか嬉しそうだった。

 そこから僕たちのゲームは更に激しさを増し、周囲の拍手や歓声も、どんどん熱量が上がっていった。そして、いつの間にかソファは全て人で埋まり、終いには立ち見客まで現れるに至った。
 見物客は全て、温泉旅行に来た人たちなので、ほとんどの人は既に酒が入っていたこともあり、ついに僕たちのゲームは賭けの対象にまでなってしまった。
「俺、中年組に千円賭ける」
「乗った。俺は若者組に千円」
 そんな声まで聞こえてきた。
「負けるな中年」
「頑張れ若者」
 ポイントが決まる度に、そんな応援が飛び交い、娯楽室のボルテージは上がるばかりだった。
 そして、ゲームはもつれにもつれ、彼女とのゲームと同じように十対十になってしまった。そして、そこから延々と同点が続き、娯楽室の熱狂はマックスに達した。
 最後は僕のスマッシュが決まり、十八対十六で僕たちが勝利を収め、歓声と拍手が娯楽室を埋め尽くした。
 その瞬間、これまでの十六年で一番の喜びが僕の体を満たした。たかだか温泉卓球で勝利しただけなのに、どうしてそんなに嬉しいのか自分でも良く分からなかった。それは、彼女と力を合わせて勝ったからだったからかもしれなかった。僕はあまりの感激につい我を忘れた。そして、僕はつい、隣にいた彼女の肩を抱き寄せてしまった。
「何すんのよ」
 怒号と彼女のラケットが床に落ちる音が重なった。直後に左の頬に痛みが走った。僕は彼女の平手打ちをもろに食らっていた。娯楽室から一斉に笑い声が上がった。
 その様子を見ていた旦那さんが呆れたように言った。
「なんだ、兄ちゃんたち、夫婦漫才まで息がぴったりだな」
 更に奥さんまで質問を投げかけてきた。
「ねえ、あなたたち、何年ペアを組んでいるの?」
 平手打ちを食らったばかりの僕は、正にピエロそのものだったが、真面目に答えた。
「いえ、僕たちは、さっき会ったばかりです」
 すると、旦那さんが少し怒ったように言葉を返してきた。
「おい、兄ちゃん。そんなに大人をからかうもんじゃないぞ」
 続く奥さんの声にも怒りが滲んでいた。
「そうよ、冗談言わないでよ。あんたたちのコンビネーションは私たちを上回っていたわ。私たちが何年ペアを組んでいると思ってるの」
「そうだ、俺たちは長年ダブルスをやってきたが、お前たちみたいに息の合ったペアには会ったことがない」
 僕は、ご夫婦の一方的な非難を、ただ黙って浴びるばかりだった。
「おい、もう一度風呂に入って飲み直すぞ」
 旦那さんが奥さんにそう声を掛けた。
「そうね、そうしましょう。飲まなければやってられないわ。悔しいったりゃありゃしない。健、部屋に帰るわよ」
「はーい」
 男の子が両親の様子に呆れて、間の抜けた返事をした後、ご夫婦は部屋に戻っていった。すると一気に潮が引くように娯楽室から人がいなくなり、僕と彼女だけがそこに残された。

 嵐のような時間が過ぎ去ると、改めて喜びが湧き上がってきた。そして、僕はようやく、どうしてそれほど嬉しかったのか、その理由が分かり始めた。それは、僕が彼女と、いや、誰かと力を合わせて難関を乗り越えたからだったのだ。今までの僕にはそういう経験がなかった。
 オンラインゲームで他のプレーヤーと共にパーティーを組んでゲームをクリアしたことはあった。しかし、そんな喜びとは比べ物にならなかった。生きた人間と力を合わせ、生きた人間と戦いを繰り広げた末に手にした勝利の味はとてつもなく素晴らしいものだった。
 僕がせっかく感動に浸っていたのに、彼女の声が邪魔をした。
「ねえ、あんた、どこに住んでるの?」
「東京だけど」
 彼女は更に質問を続けたが、その態度は真剣そのものだった。
「今、何年生?」
「高一だけど」
 僕の答えを聞いた瞬間に彼女の顔が一気に輝いた。
「ねえ、あんた、私と一緒に来年の全国大会を目指さない?」
「はあ!」
 全国大会、僕は一瞬自分の耳を疑った。今日会ったばかりで、温泉卓球から始まった男女が全国大会を目指す。そんな展開は、やはり漫画でしかありえないと思った。
 僕が呆気に取られているというのに、彼女は真剣そのもので、狙った獲物は決して逃さないと意気込むハンターのような眼で僕を睨んでいた。
「あんた、ここにいてね。絶対に逃げないでね」
 そう言い置くと彼女は部屋に戻っていった。
 全国大会を目指すスポコン漫画の登場人物にされるのは御免だったが、僕は祖母と思われる彼女から逃げることはできなかった。
 戻ってきた彼女は、手にペンとメモ帳を抱えていた。
「ここに、あんたの名前と住所、それと電話番号を書いて」
「ごめん、まだ、覚えてないんだ」
 興奮が冷めていなかったのか、僕は暗記していた祖父の連絡先を度忘れしていたのだが、当然のように彼女は文句をつけてきた。
「え、あんた、まだ、冗談言ってるの?」
「ごめん、そうじゃないんだ。まだ、引っ越したばっかりで」
 僕も少し嘘が上手くなっていた。
「ああ、僕も君の連絡先が知りたいんだ。自分の部屋からメモを持ってくるからちょっと待ってて」
「うん、分かった」
 僕が逃げる様子はないと思ったのか彼女は安心した顔をしていた。
僕は部屋に戻るとペンとメモ帳を持って娯楽室に取って返した。
「早かったわね。さあ、あなたの連絡先を書いて」
 彼女は僕を急かした。
 そして、僕は祖父のメモ帳に描かれた住所と電話番号を彼女のメモ帳に書き込んだ。
「よし、これでもう、あなたは逃げられないわね」
 彼女は賞金首を捕らえた賞金稼ぎのような顔をして笑った。
「じゃあ、君の連絡先もここに書いてもらえるかな?」
「うん、もちろん」
 彼女は嬉々として祖父のメモ帳に連絡先と名前を書いていった。その間、僕は娯楽室の卓球台を見つめて感慨にふけっていた。『これで良し、祖母に出会うというミッションは達成された』と僕は胸をなでおろした。ボスキャラの平湯峠は既に倒した。この調子ならラスボスの安房峠も攻略できるだろうと思っていると、彼女の声がした。
「はい、書いたよ」 
 彼女が、僕にメモ帳を返してよこした。次の瞬間、僕は古いボクシングの漫画のラストを思い出した。僕も激戦の後、真っ白に燃え尽きたボクサーになったような気がした。
しかし、僕は、ここまで漫画じみた展開が続いたならば、お約束のような結末を予期しておくべきだったのだ。
 彼女が返してよこしたメモ帳には「藤田玲子」という名前が書かれていた。
「君、玲子っていう名前だったんだ」
 自分の言葉がどこか虚ろに響いた。
「何、私の名前になんか文句があるわけ?」
 彼女の顔がまた鬼になりかけていた。
「君の名前、愛子じゃなかったんだね」
 僕の力ない言葉を受けて、彼女の顔が更に鬼に近づいた。
「愛子はお姉ちゃんの名前よ。どうして私が愛子だと思ったの?」
「だって、夕食の時、お母さんに愛子って呼ばれて、叱られてなかった?」
「ああ、あれ。お母さんはお姉ちゃんを叱ったのよ。私は、お母さんが人前で大きな声を出したから文句を言っただけよ」
「そうだったんだ」
 僕のあまりの落胆ぶりが気になったのか玲子が探りを入れてきた。
「何でお姉ちゃんの名前に拘ってるの」
「別に、僕のお祖母さんが愛子だから、同じ名前だと思っただけだよ」
「そうなんだ、おばあさんの名前は漢字だとどう書くの?」
「愛情の『愛』だよ」
「残念でした。私のお姉ちゃんは『藍染め』の『藍』だから」
 そんなことはどうでもよかった。こういう展開を迎えた以上、玲子の姉が祖母である可能性など考えられなかった。
「でも、私というものがありながら、お姉ちゃんの名前のことを考えているなんて最低の男ね」
 まだ玲子のものになったつもりはなかったが、そうは言えなかった。
「まあ、男としては最低で、彼氏にするつもりにもなれないけど、ダブルスパートナーとしては最高ね。一緒に、全国に行こうね」 
 玲子の顔は僕とは裏腹に希望に満ち溢れていた。
「ああ、そうなるといいね」
 打ちのめされていた僕からは、そんな気弱な言葉しか出てこなかった。
「じゃあ、私、もう寝るから、また明日ね。お休みなさい」
「ああ、お休みなさい」
 僕が弱弱しい挨拶を返すと、玲子は元気いっぱいに部屋に帰って行った。
  一人残された僕には、もはや立ち上がる気力もなかった。
「嘘だろ」、とつぶやいた言葉が虚しく娯楽室の床にこぼれた。
 
 夜が明けた8月4日の朝、玲子の家族とは、やはり朝食会場で隣り合わせになった。玲子は全く僕には話しかけず、知らんぷりを決め込むものと思い無防備でいたら、いきなり直撃を食らった。
「ああ、お父さん、お母さん、隣にいる子、昨日ここで会ったばかりだけれど、私のダブルスパートナーになることになったから」
 僕は飲みかけの味噌汁を吹き出しそうになった。不意を突かれ、言葉も出てこなかったので、僕はとりあえず、玲子の両親に会釈をした。彼らはどこの馬の骨とも分からない僕にいぶかし気な視線を送った。
玲子の姉の藍子はちらっと僕の方を見てから嫌味っぽく玲子をからかった。
「あら、玲子、あんた食い気ばっかりかと思ったら、突然のロマンスね。今までは男の子には『寄らば切るぞ』って態度だったのに。こんな所で運命の出会いって訳?」
「まさか、あいつはダブルスのパートナーでボーイフレンドじゃないから」
 僕にとってはありがたい話だった。ボーイフレンドなどにされたら、いくつ命があっても足りないような気がした。
「でも、玲子。彼、大人しくて真面目そうだから、随分とデコボココンビじゃなくて」
 藍子の嫌味が更に切れを増した。
「そうね、まあ、美女と野獣ってとこかしらね」
 玲子は奇麗に切り返したように見えたが、藍子の方が上手だった。
「あら、あの子、女の子だったの?」
「お姉ちゃん、何、変なこと言っているの。根性ないけど、あれでも、男だよ」
「でも、あの子が美女じゃないと辻褄が合わないじゃない。野獣はあんたの方だから」
僕は笑いだしそうになるのを必死にこらえた。
「何よ、お姉ちゃん、喧嘩売ってんの?」
 玲子は持っていた箸で藍子を突き刺しそうな勢いだった。
「ほら、ほら、野獣、そんなに牙をむいてると美女に逃げられるよ」
 さすがにもう、こらえきれず僕は笑い出した。
「あんた、何、笑ってんのよ」
 玲子が怒りに矛先を僕に向けてきた。しかし、笑うなという方が無理だった。

 騒ぎが収まった後、僕は朝食を堪能した。食べ終わったら早々に退散することにした。とにかく早く出発したかった。何しろ今日は、ラスボスである安房峠と勝負しなければならないのだ。一応、玲子の両親にきちんと挨拶をしてから朝食会場を出ると部屋に戻った。

 僕は部屋で荷物を整理してから一階に降り、玄関前に泊めておいた自転車に荷物を取り付け始めた。
「あんたまさか、自転車でここまで来たの?」
 声のした方を見ると、玲子がそこに立っていた。
「そうだよ」
 僕は準備に集中したかったのでぶっきら棒な答え方をした。
「嘘でしょう。信じられない」
 玲子の言葉に僕は反応しなかった。準備の邪魔をされたくなかった。
「いったいあんた、どこから自転車で走ってきたの?」
 面倒だが答えるしかなさそうだった。また鬼の形相をされるのは御免だった。
「福井県の敦賀までは電車で自転車を運んで、そこから、金沢、白川郷、高山を通ってここまで来たんだ」
「何日かかったの?」
「六日かな」
「六日間、ずっと自転車を漕いできたの?」
「そうだよ」
「あんた、本当はすごい根性してたんだね」
 『根性』、好きな言葉ではなかったが、初めて玲子に褒められたような気がした。どんな顔をしてそんな台詞を吐いたのかと、玲子の方に顔を向けた。
 玲子はアニメから飛び出してきたような笑顔で僕の方を見ていた。いつも、そんな顔をしていたら、僕は玲子のことが好きになったかもしれないと一瞬だけ思った。
「ねえ、あんた、その根性をこんどは卓球でみせてよね」
 玲子の言葉に、やはり、こいつは僕の戦友でしかないのだと思い、笑い出しそうになった。準備の邪魔をされたくなかったので、僕は玲子の言葉に無視を決め込んだ。しかし、玲子は構うことなく追い打ちをかけてきた。
「あんたってさ、どっか心と体が一体になってないって気がするのよね」
 どきりとした。玲子は僕の正体に気づいているのかもしれないと思った。しかし、そうではなかった。
「あんたってさ、何か考え過ぎているみたいな気がするのよね。もっとこう、本能をむき出しでいった方が良いんじゃないかしら」
 それは野獣の君のプレイスタイルだろうと言いたかったが、ろくなことにならないのが分かっていたので黙っていた。
「ねえ、あんた聞いてんの?」
 僕のだんまりに、ついに玲子は耐えきれなくなったようだった。少しは反応しないとまずそうな気がした。
「ごめん、僕は今、ラスボスを倒すことで頭が一杯なんだ」
「ラスボスって何よ?」
「ああ、悪い。僕の学校の部活でしか通じない言葉だった。要するに最後の強敵って奴だよ。今の僕にとっては安房峠のことだけどね」
「なんだ、峠のことか、強敵って私のことかと思ったよ」
 玲子は残念そうにつぶやいた。
「ごめん、今、君は僕の眼中にはないんだ」
「何よ、その言い草」
 玲子の頭から角が生えそうな気配がした。真面目に話すしかないと思った。
「冗談抜きで、僕は、これから大きな勝負をしなければならないんだ。君もスポーツマンなら、僕を勝負に集中させてくれないかな?」
「ごめん、分かった」
 玲子が初めて泣きそうな顔をみせた。僕は言い過ぎたかと少し反省した。
 それから玲子は準備を続ける僕をただ見守っていた。

 準備が整い、僕は自転車にまたがった。
「じゃあね、さよなら」
「『さよなら』じゃないでしょ。『またね』でしょう。あんた、私から逃げられると思ったら大間違いよ」
 玲子が僕を睨みつけた。
「そうか、じゃあ、また東京で会おう」
 仕方なくそう答えてあげた。
「頑張ってラスボスを倒してね」
 珍しく玲子が可愛らしい口の利き方をした。
「ああ、頑張ってみるよ」
「そいつを倒したら、次は私が相手よ。しっかり練習しておいてね。私を倒せないようじゃ、話にならないから」
 余計なことを言わずに、可愛らしく見送ってくれれば良いのにと思った。僕はペダルを漕ぎだして宿の駐車場を抜け、国道に入ろうとした。
 結局、玲子は僕の祖母ではなかったので、必死に玲子に挑んだことも、中年夫婦のペアに力を合わせて勝ったことも、僕のミッションの達成にはつながらなかった。
 しかし、僕はそれらが無駄だったとは思っていなかった。玲子に負けた時は心底悔しかったし、玲子と力を合わせて中年夫婦を破った時は本当に嬉しかった。
 コンピューターの中ではなく、現実の世界で、負けた悔しさ、勝った喜びを経験したことは、悪いことではないような気がした。
 宿の入口を左に折れて、安房峠へと走り始めた時、僕は宿の玄関の方を見た。玲子は、まだそこにいて僕に手を振っていた。
 僕が僕として、再び玲子と勝負することがあるかどうかは分からなかった。たぶん、無いような気がした。しかし、もしその機会があったとしたら今度は絶対に勝ちたいと思った。

第七話 終