白川郷を出てから飛騨高山までの道のりは過酷だった。途中、御母衣ダムという滑り台の表面に石を積み上げて作ったようなダムを通り過ぎた。高山までの走行距離は60キロ程だったが、全てが山道の上に、悪天候にも祟られた。旅で初めて雨に降られたのだ。荷物の中にはあった雨合羽は、ゴムをかろうじて服の形にしたような代物だった。令和の時代の雨合羽のような通気性など欠片もなく、内側から汗が滲み、雨に濡れた方がましなのではないかと思える程だった。
しかし、雨は悪いことだけではなかった。午後遅く、ようやく高山の町並みが見えてきた時、雨上がりの高山の上空には大きな虹が掛かっていた。ようやく高山の街にたどり着いた嬉しさもあって、その虹は妙に美しく見えた。
高山の町並みは、時代劇などで見たことがあるような古い佇まいを見せていた。初めて訪れた街なのに郷愁を誘うその風景は、不思議な既視感を生じさせた。後でじっくりと、そんな街並みを自転車で辿ることにして、僕は今日の宿泊地となる予定の国鉄高山駅の様子を見に行くことにした。
駅に着くと、僕は入口の傍に自転車を置き、とりあえず駅の中を覗いた。瞬時に通りすがりの駅員にいきなり先制攻撃を食らった。
「君、この駅では野宿はできないからね」
僕には取りつく島も与えないまま、駅員はさっさと消えてしまった。予定が狂ったと思った。しかし、祖父もきっと同じ対応をとられていたはずだった。駅舎を出て、さて、どうしようかと僕は辺りを見回した。
高山の駅前は多数の路線バスの出発点になっているようで、いくつものバス乗り場があった。そのため、バスを待つお客のための待合室の建物があり、それはなかなか立派な造りをしていた。寝袋で寝るには良さそうな場所だと思った。入り口にはドアが無かったので、夜は閉鎖される心配もなかった。
正面に行き、自転車を降り、ハンドルを握ったまま中を見ると、うってつけのベンチがいくつも並んでいた。駅とは違い、駅員がいるわけでもないので、最終バスさえ出てしまえば、ベンチの上で寝袋を広げて寝ても問題はなさそうだった。僕がそこを今夜の宿泊場所と定めた時だった。
僕の背後から声がした。
「君、もしかして、今夜ここで野宿をするつもりなのかい?」
振り向くと、声の主は優しそうな中年の男性だと分かった。彼は、奥さんと中学生ぐらいに見える女の子を連れていた。
「はい、そのつもりです」
僕は、何も考えず、そう答えた。
「君、良かったら、今日は私の家に泊まらないか?なあ、いいだろう、母さん」
ご主人が奥さんに同意を求めた。
「ええ、もちろんよ」
奥さんの優しそうな目は、少し潤んでいるようにも見えた。
「愛子も、もちろん良いよな?」
僕は、父親に同意を求められた女の子をまじまじと見てしまった。肩に届くくらいの髪をした可愛らしい女の子だった。
「あの、愛子って、名前の漢字は愛情の『愛』ですか?」
「そうよ」
愛子は、なぜだか少し寂しそうな声で言ったような気がした。それはともかく、今度こそ、祖母に間違いないと僕は確信した。
しかし、こんなことがあるのかと思った。今朝、僕にとって姉のような「愛華さん」と別れたばかりなのに、夕方には妹のような「愛子」に出会うとは、祖父の言った通り、旅は出会いと別れの繰り返しなのだと実感した。
しかし、とにかく、この出会いは歴史であり、運命でもあった。僕は図々しく見られたとしても、素直にこのご家族のご厚意に甘えなければならなかった。
「本当にお世話になってもよろしいのでしょうか?」
一応、遠慮する振りはしてみた。
「もちろんだよ、是非、くれたまえ」
ご主人が紛れもない笑顔で答えてくれたので、僕は安心して愛子の家に泊まることができることになった。これならば、一気に親しくなることはないかもしれないが、連絡先を交換することは容易いことだ。どうやら僕は無事に祖母と巡り会うことができたようだった。
僕はご夫妻と、愛子の後ろについて歩いて自転車を押していった。彼らの家は駅から十分ほどの距離にある閑静な住宅街の中にあった。そして彼らの家は伝統的旧家と呼ぶべき立派な佇まいをしていた。表札には「山科」と書かれていた。
いかにも立派な門を入った瞬間、僕は言葉では表すことができない程に不思議な感覚に襲われた。それは決して悪い気分ではなかった。しかし、それは、常花であやかしに目をつけられた時の感覚とどこか似ているような気がした。
少し呆然としていると、ご主人に声を掛けられた。
「ああ、君、自転車は、蔵の中に置いてもらおうかな。愛子、案内してあげなさい」
「はい」
愛子は、きちんとした返事をすると、僕の方に顔を向けた。
「こっちよ」
そう声を掛けると玄関の前を左手の方に歩き始めた。僕は自転車を押しながら、愛子の後を追った。
愛子に連れていかれた蔵もまた、歴史を感じさせるもので、中には、あれこれと伝統文化を伝えるものが収められているような気がした。
「この中よ」
愛子が蔵の戸を開けると、木材の香りが漂ってくるような気がした。中に入ると、とにかく古びたものが所狭しと並んでいたが、僕にはそれらの価値も用途も分からなかった。
「自転車は奥の壁に立てかけておけばいいわ」
愛子の言葉に従って僕は蔵の奥の壁に自転車を立てかけ、早速、荷物の取り外しに取り掛かろうとした。しかし、僕はまだ、自分の名前すら名乗っていないことに気づいた。
「ああ、すみません。僕、まだ、名前も名乗っていませんでしたね。僕は桑原久雄といいます。高校一年生です。東京から来ました」
「私の名前は、愛子、ああ、もう知ってたよね。」
知っていた。忘れるわけもなかった。話の流れで、僕は愛子のご両親の名前も聞いてみることにした。
「あの、ご両親の名前を聞いてもいいですか?」
「お父さんの名前は昭雄、お母さんの名前は理沙よ」
お互いと家族の紹介のみで会話が途切れるのもなにかと思い、僕はとりあえず愛子の学年を聞いてみることにした。
「あの、山科さん・・・」
僕が言いかけると愛子は笑顔で僕の言葉を遮った。
「苗字じゃなくて『愛子』って呼んでくれると嬉しいな」
そうは言われても、今日会ったばかりで、しかも家に泊めてくれた恩人の娘を呼び捨てにすることはできなかった。そこで僕は「さん」づけで呼ぶことにした。
「愛子さんは、今、何年生?」
「さん」づけで呼ばれて、愛子は少しだけ寂しそうな顔をしたような気がしたが、気のせいだと思った。僕は無礼なものの言いようをした訳ではなかった。
「私は、今、中学三年生。久雄さんは、私と一つしか違わないのに東京から自転車で来るなんてすごいね」
「ああ、いや、すごくはありません。自転車は敦賀まで電車に乗せて来たんです。走り始めたのは敦賀からだから大したことはありません」
「へえ、それでもすごいと思うな、ああ、あと、敬語も止めようね、他人行儀で、なんかしっくりこないから」
将来はともあれ、祖父母は、まだ他人に過ぎなかったが、相手がそう言うのなら、同世代の相手に敬語を使い続ける必要はないので止めることにした。
「じゃあ、僕、ちょっと荷物を自転車から外すから、愛子さんは、家で待っていて」
「ううん、私も手伝わせて」
「ああ、ありがとう。じゃあ、最後に荷物を運ぶのだけ、手伝ってもらおうかな」
「それだけでいいの?」
「うん、十分すぎるくらい」
そんなわずかな会話の内に僕は愛子との距離が縮まって行くような気がしていた。
荷物を取り外しながら、僕たちはとりとめのない話をした。その途中で、僕は一つ迷っていることを愛子に尋ねた。
「ねえ、僕は愛子さんのご両親のことを何て呼べばいいだろう?オジサン、オバサンと呼ぶには、まだお二人とも若いと思うし。どうしたら良いだろう」
「『お父さん』、『お母さん』って呼んであげて・・・たぶん、そう呼ばれるのが、二人も一番うれしいと思うから」
愛子がそう答える前のわずかばかりの間が僕は少し気になった。それに「お父さん」、「お母さん」は、初対面の相手に対しては少々馴れ馴れしすぎるような気がした。
「『お父さん』、『お母さん』はちょっと馴れ馴れしすぎないかな?」
僕は思ったままを口にした。
「大丈夫よ、気にしないで。『お父さん』、『お母さん』って呼んであげて」
念を押しているのに愛子の口調には何処となく頼りなさを感じた。しかし、愛子がそう言うのだから、僕は言われた通りにしようと思った。
それからしばらくして、僕たちは蔵の外に出た。愛子にも少し荷物を持ってもらった。玄関に入ると、そこから見える家の様子は更に伝統的な格式の高さを感じさせた。
「どうぞ、上がって」
「お邪魔します」
愛子に促されて僕は、山科の家に足を踏み入れた。
「じゃあ、こっちに」
「うん」
答えた後、まず僕が通されたのは居間だった。床の間には立派な掛け軸が飾ってあり、畳の上に置かれたお膳にも高級感が漂っていた。
「そこに座っていて、今、冷たい麦茶を持ってくるから」
「そう、すまないね」
僕は言われた通りにお膳の前に置かれた座布団に腰を降ろした。
愛子は麦茶の入ったポットとグラスを一つ持ってすぐに帰ってきた。僕の前に座るとポットからグラスに麦茶を注いでくれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
僕は差し出された麦茶を一気に飲み干した。長い距離を走り、乾いていた喉に、麦茶は正に魔法の味がした。飲み終えたグラスをお膳に置くと、なぜか愛子が妙に真剣な顔で僕を見ていた。
「ごめん、がぶ飲みして、はしたなかったかな」
麦茶とはいえ、あまりに一気に飲み干してしまったのは、あるいは行儀が悪かったのかと少し気になった。
「ううん、そうじゃないの。気にしないで」
何か言いたげなものの言いようが気になったが、問い詰めるのも得策ではなかった。
「麦茶、もう一杯飲む?」
嫌な間を埋めるように愛子が言ってきた。
「うん、頂きます」
愛子はどこかぎこちない笑顔を浮かべて、二杯目の麦茶を注いだ。僕は、今度はゆっくりと麦茶を味わった。疲れた体には染みる味だった。
「あら、愛子、麦茶出してくれたの、ありがとう」
廊下を歩いてきた理沙さんが居間いる僕たちに目を止めた。
「ああ、お母さん。ごちそうになっています」
「え!」
僕の声を聞いた途端に理沙さんの顔が少し引きつったような気がした。
「ああ、さっき、愛子さんに、ご両親のことを何と呼べばよいかと尋ねたら、『お父さん、お母さん』と呼んで欲しいと言われたものですから。やはり、赤の他人がそう呼ぶのは失礼だったでしょうか?」
僕の言葉に理沙さんは大きく首を振った。
「そんなことないわ、『お父さん、お母さん』って呼んでちょうだい。それから、赤の他人なんて言わないで、本当の家族になったつもりで過ごしてちょうだい」
「分かりました。お母さん」
二度目の『お母さん』に反応して、理沙さんは一瞬目を伏せて何かを想ったような気がした。
「ああ、愛子、お風呂を沸かしてちょうだい。彼もさっぱりしたいだろうから」
愛子に指示をすると、理沙さんは足早に台所の方に消えてしまった。
「じゃあ、久雄さん、ここで待っていて。私、お風呂沸かしてくるから」
「うん、ありがとう」
愛子が風呂を沸かしに行ってしまうと、僕は一人で居間に残された。廊下の向こうの庭で鳴くヒグラシの声がやけに物悲しく聞こえた。
愛子に沸かしてもらった湯につかると、一気に緊張がほどけた。旧家に似つかわしいい大きな檜の湯船は、木の香りも良く、僕の疲れを癒してくれた。僕が心底くつろいでいると脱衣場から愛子の声が聞こえてきた。
「久雄さん、浴衣出しておいたから着替えておいて」
「うん、分かった」
愛子の声がすっかり明るさを取り戻していたので、僕はほっとした。
入浴を済ませ、脱衣場に戻ると僕は少し驚いた。そこに用意されていたのは、寝巻用のものではなく、外出用の浴衣だった。まるで僕のためにあつらえた様にサイズもピッタリだった。
僕が居間に戻りくつろいでいると、昭雄さんがやってきた。
「おお、浴衣、似合うじゃないか」
「済みません、お父さん。何から何までお世話になって」
「いや、お母さんにも言われたようだけど、是非、家族の一員になったつもりで過ごして欲しいな」
「はい、お言葉に甘えさせていただきます」
よし、この際、言われた通り、家族の一員になってしまおうと思った。そうすれば、愛子との仲も自然と良くなってゆくはずだ。思いっきり甘えてしまおう。どうせ行く行くは、僕というより祖父は山科のご夫妻の義理の息子になるのだから。僕は呑気にそう思った。
「ところで久雄君、勝手に予定を決めてしまって申し訳ないんだが、実は今日は、花火大会があるんだ。君にも一緒に行って欲しいんだ。だから夕食はちょっと遅くなるけど、我慢してくれ。その代わりといってはなんだが、今晩は飛び切り良いすき焼きの肉を知り合いから分けてもらったから。君、すき焼き好きだろう」
「ああ、大好きです」
確かに僕はすき焼きが好きだった。まあ、嫌いな人間などまずいない。昭雄さんの言い方が妙に確信に満ちていたのが少し気にはなったが、そんなことはすぐに忘れた。
無事に祖母に出会い、花火大会に高級すき焼き、できすぎだった。祖母に出会うチャンスなどないと思っていた野宿の予定が一転し、正に逆転サヨナラ満塁ホームランの気分だった。これはもう、大いに楽しむしかないと思った。
夏の陽がすっかり落ちて、空が暗くなった頃、僕たち四人は家を出た。みんな浴衣に身を包んでいた。
花火大会はすでに始まっていた。高山の古い家並み、その昔ながらの瓦屋根の上に次々と色とりどりの花火が打ちあがる様は、いかにも日本的な詩情に溢れた美しい光景だった。
街の中心部を流れる細い川沿いで、僕たちは次々と打ち上がる花火を見上げた。僕たちの姿は他人から見れば紛れもなく家族に見えたはずだった。
花火大会が終盤に差し掛かった頃、理沙さんが言い出した。
「じゃあ、私はご飯の支度があるから先に帰るわね」
その言葉に昭雄さんが同調した。
「じゃあ、私も一緒に帰ろう。せっかくだから久雄君は最後まで見ていきなさい。愛子、帰りの道案内を頼むよ」
「うん、分かった」
そんなやり取りの後、僕は愛子と二人きりになった。
「久雄さん、じゃあ、仕掛け花火の見える所に行こう」
愛子の言葉を合図に、僕たちは人込みを縫って移動を始めた。
仕掛け花火の多くはネオンサインの花火版といった感じで、お店や会社などの宣伝だったが、初めて見るものだったので新鮮な気がした。そして、花火大会のフィナーレを飾るナイアガラは実に見事で、終わってしまうと一抹の寂しさえ感じられた。
「じゃあ、久雄さん、帰りましょうか」
愛子に声を掛けられて川沿いの道を辿り始めた直後のことだった。十メートルぐらい先に、愛子と同じくらいの年齢で、浴衣を着た女の子が、うつむきがちに歩いてくるのが目についた。愛子もその子に気づいたようだった。
「由美子」
愛子が声を掛けると、その子は顔を上げた。僕たちの方を見たその子の顔は、何か信じられないものでも目にしたような驚きに満ちていた。
由美子と呼ばれたその女の子は、あわてて僕たちの方に駆け寄ろうとした。女の子が向かおうとした方向は愛子の方ではなく、僕の方だったようにも見えた。
次の瞬間、愛子は駆け出すと僕のかなり手前で由美子を抱き留めた。愛子は何か言っていたが、由美子はどこか上の空で僕の方を見ていたような気がした。その目がなぜかとても悲しそうに見えた。
愛子は半ば無理やりに由美子を川沿いの道から脇の路地に連れ込んだ。二人がそこで何を話していたのか。僕にはまるで見当がつかなかった。僕はただ茫然と川沿いの道に立ち尽くしているしかなかった。
しばらくすると、愛子は一人で戻ってきた。
「ごめんね、久雄さん。あの子、私の親友なんだけど、最近、彼氏に振られちゃって少し情緒不安定なの。実は今日、あの子と一緒に花火を見る約束をしていたんだ。『急な来客があって行けなくなった』って、ちゃんと電話したんだけど、嘘ついてデートしていたと思われちゃったみたい。でも、大丈夫よ、最後はちゃんと分かってくれたから」
愛子の説明はしっかりと理屈が通っていたし、中学生の女の子同士ならいかにもありそうな話だった。しかし、何か不自然なものを感じた。由美子というあの女の子の目の光は、親友に向けられた嫉妬のようには見えなかった。
山科家に戻ると、食卓にはすっかりすき焼きの用意が整っていた。旅に出てから初めてお目にかかる豪華な料理は嬉しい限りだった。昭雄さんが言った通り、特別に用意された牛肉は見ただけですごく美味しそうだった。
「じゃあ、頂きましょうか」
理沙さんが声を掛け、みんなで「いただきます」をして食事が始まった。
旅に出てから初めてのご馳走、しかも最高級の牛肉、僕は血に飢えた獣になりかけたが、なんとか踏みとどまった。あの祖父の性格上、やはりここでガツガツと肉を食べまくるとは思えなかった。愛子に愛想をつかされたりしたら、それこそ一巻の終わりだった。
僕は肉を控えめにして、野菜や豆腐、しらたきなどに主に手を伸ばしていた。しかし僕の遠慮はすぐに理沙さんに見透かされた。
「久雄君、あなた、何を遠慮しているの。お肉大好きでしょう。もっとたくさん食べなさい」
理沙さんは、僕の皿に肉を山盛りにしてよこした。
「さあ、どんどん食べて」
「すみません。じゃあ、遠慮なく頂きます」
ガツガツとするのはみっともないから避けるとしても、妙に遠慮をするのも良くなかろうと腹をくくり、僕は盛られた肉をしっかりと味わうことにした。昭雄さんが自慢するだけあって肉は本当に美味しかった。
ふと気づくと理沙さんは箸を止めて僕が美味しそうに肉を食べている様子を見つめていた。理沙さんの顔は嬉しそうにも悲しそうにも見えた。
「良い食べっぷりね。やっぱり男の子はそうでなくちゃ」
理沙さんはそう言うと、空になった僕の皿に改めて肉を山盛りにした。
「もっと食べてね。美味しそうに食べているところを見ると、私も嬉しくなるわ」
理沙さんの顔はきちんと笑顔になっていた。
美味しい肉をたくさん食べて、すっかり上機嫌になった僕は、調子に乗って旅であったことをあれこれと話し続けた。
もちろん、出会った女性たちのことは語らなかった。祖母である愛子の前ではそういう話は避けるべきだと思った。
「久雄君が未成年じゃなかったら、一緒にお酒でも飲みたいところなんだがな」
昭雄さんが、残念そうにつぶやいた。
「久雄君、是非、そのうち、一緒に飲もうじゃないか。この辺りには良いお酒がたくさんあるんだ」
「あの、またお邪魔しても良いんですか?」
「もちろんだよ。いつでも歓迎するよ」
昭雄さんは上機嫌だった。
「そうよ。必ずまた来てね」
理沙さんもそう言ってくれた。
愛子もクラスの噂話などをあれこれと話し、いかにも家族団らんという雰囲気で豪華なすき焼きパーティーは終了した。
山科家の人たちは、とにかく僕に優しかった。まさか旅の途中に、こんな風に家族団らんのひと時を過ごせるとは思ってもみなかった。自分の家の疲れ切った家族のありようとは、似ても似つかない温かさがそこにあった。
その夜、僕は広い客間で上等な客布団につつまれ、物凄く気持ちよく眠ることができた。
翌朝、八月三日はとても気分良くスタートした。
朝食はシンプルなものだったが、理沙さんが作ってくれた味噌汁がとても美味しかった。
「このお味噌汁、とても美味しいですね。僕、こんな美味しいお味噌汁はたべたことがありません」
「そう、嬉しいわ。良かったらお代わりしてちょうだい」
「はい、是非」
僕は遠慮なく、もう一杯味噌汁を頂いた。
朝食が終ったので、居候の身としては何かお手伝いをしようと思い理沙さんに声を掛けた。
「あの、お母さん。洗い物手伝います」
「いいのよ。久雄君は自転車の準備をしっかりやって」
申し出はあっさりと却下されて座ったままでいると、昭雄さんに声を掛けられた。
「久雄君、君の連絡先を書いてくれないかな?」
昭雄さんは食卓近くの棚の上からメモとペンを取るとそれを僕に手渡した。僕がそこに祖父の連絡先を書くと、昭雄さんはそれらを元の位置に戻した。
「ああ、じゃあ、僕もお願いします」
そう言って僕は客間からメモ帳を持ってきた。
僕が昭雄さんにメモ帳とペンを渡そうとすると、愛子が割り込んできた。
「ああ、私が書くわ」
「そう、じゃあ、よろしく頼むよ」
僕は愛子に渡す前にメモ帳をめくった。最後の方の数ページの図を除けば、旅が始まってからメモ帳に書き込まれたものは、斉藤さんと佐々木さんの連絡先だけだった。二人の連絡先の書かれたページを開き、僕はメモ帳を愛子に渡した。二人の連絡先はメモ帳の左側のページの上の方に書かれていて、その下にはまだ十分スペースがあった。
「愛子、間違えないようにきちんと書くんだぞ」
僕と昭雄さんが見守る中、愛子は一旦、佐々木さんの連絡先の下に山科家の連絡先を書こうとした。だが、愛子は急に手を止めた。そして、なぜかスペースがたくさん残っている左側のページではなく、まだ何も書かれていない右側のページに山科家の連絡先を書いていった。
愛子が連絡先を書き終えたのを見届けると昭雄さんに声を掛けられた。
「私と家内は、そろそろ出かけなければならないんだ、出発を見送ってあげられなくて申し訳ない。平湯峠に通じる道は愛子に案内するように言ってあるから」
「済みません。何から何まで。全く何てお礼を言って良いやら」
僕が恐縮していると、更に驚くべき言葉が返ってきた。
「ああ、これ、むき出しで悪いけど、お昼に蕎麦でも食べなさい」
昭雄さんは千円札を僕の前に差し出した。
「とんでもない。こんなにお世話になった上に、お昼代なんて、とてもいただけません」
僕は当然断ったが、昭雄さんには見事に切り返された。
「いいんだよ、君のおかげで昨夜は久しぶりに楽しかった。本当の家族になったつもりで過ごして欲しいと言っただろう。息子にはこれくらいはしてやりたいんだ」
常識的に考えれば固辞すべき所だったが、昭雄さんの様子をみると、それはかえって相手を傷つけそうな気がした。僕はその伊藤博文の千円札を折りたたまずにメモ帳とそのカバーの下に挟んだ。
その後、僕は愛子と共に、出かけて行くご夫婦を門前で見送った。
「ありがとうございました。本当にお世話になりました」
「いや、お礼を言いたいのは私たちの方だ。どうかまた、顔を見せにきてくれたまえ」
昭雄さんがそう言うと、理沙さんもそれに付け加えた。
「本当よ。必ずまた来てね。私たち楽しみにしているから」
「はい、必ずまた来ます」
それは僕の本心だった。決して祖父の立場で言った言葉ではなかった。祖父は当然、山科ご夫妻と再会しているはずだった。だが、僕自身も、できることなら再びこの素晴らしい家族の許を訪れてみたいと思っていた。
「じゃあね」
最後に理沙さんが、そう声を掛けてご夫妻は歩き始めた。
「本当にありがとうございました」
僕は深々と頭を下げて二人の姿を見送った。
「でも、愛子さんの家は、本当に良い家族だね。うちとは大違いだ」
二人の姿が消えた頃、僕はつぶやいた。
「へえ、そうなんだ」
家族を褒められたというのに、愛子の態度はどこか上の空だった。
「そうだよ、昨夜の夕食だって、いかにも家族団らんっていう感じがしたよ。僕の家では家族三人が揃うことさえ少ないし、揃ってもろくに会話もなくて、寂しい家族なんだ」
僕の言葉に愛子は明らかに嫌な顔をした。初めて目にする表情だった。
「ねえ、久雄さんは、自分の家族を良い家族にするために何か努力をしているの?」
あまりにも意外な問いかけだった。僕が何も言えずにいると愛子は更に続けた。
「私たちはね、みんな努力して良い家族になったのよ。お父さんとお母さんは再婚同士なの。私はお父さんの連れ子だから、お母さんとは血が繋がっていないの。だから、最初はしっくりいかないこともあったのよ。でも、私たちは努力したの。努力して良い家族になったのよ。そして、努力して、もう一度良い家族になろうとしているの」
愛子の言葉に僕は打ちのめされた。言われてみれば、僕は自分の家にいまひとつ温かみが欠けることを全て両親のせいいにしてきた。両親が、いつも忙しく疲れ切っているというのに、そんな疲れを癒してあげようとしたことなどなかった。
進路や学校生活についても、自分ではこうしたいという意見を持っていなかったくせに、『勝手に決められた』と祖父母や両親のせいにしただけだった。
挙句の果てには不登校で引きこもりになる始末だった。今の僕は良い家族を作るための努力をするどころか、まるで反対のことをしているだけだった。
そんな僕に、両親を非難する資格などなかった。しかし、僕は、愛子に指摘されるまで、全くそれに気づいていなかった。僕は急に自分が恥ずかしくなった。
ただ、それとは別に、愛子の言葉には気になることがあった。『努力して、もう一度良い家族になろうとしている』と愛子は言っていた。『もう一度』ということは、かつては、良い家族だったが、今はそうではないといいうことだ。なぜ、愛子がそう言ったのか、僕にはまるで見当もつかなかった。そして、愛子の様子からして、その理由を問うことも当然できなかった。
「ごめんなさい。生意気なこと言っちゃったね。許してね」
「いや、気にしてないよ。というか、むしろ感謝したいぐらいだ」
「ありがとう。ああ、そうだ。久雄さんは、まだ、街中を見てなかったよね。私、案内してあげる」
そう言って、愛子はアニメのかわいい妹タイプのような笑顔を見せた。これからボスキャラの平湯峠と安房峠に立ち向かう僕としては、早く出発したいという気持ちもあったが、祖父と祖母との関係を損なうようなことはできなかった。
「ありがとう。嬉しいな」
そう答えたが、それは嘘と本音が半々の言葉だった。
自転車を山科家の蔵に置いたまま、僕たちは徒歩で古い町並みが残る通りに出掛けた。金沢の東の廓跡と似たような出格子を持つ古い家が並ぶ街並みは如何にも飛騨高山という感じがした。
金沢、白川郷、飛騨高山、どこも皆、令和ではオーバーツーリズムの問題を抱えていた。しかし、1978年の飛騨高山は、まだその惨禍を迎えてはいなかった。妙に洒落た造りの店は、まだできておらず、昔ながらの町並みの雰囲気を損なうものはほとんど無いような気がした。
ソフトクリームを売るお店の前に差し掛かった時だった。ふと愛子が妙に甘えたような声を出した。
「ねえ、ソフトクリームをおごってくれない?」
それまでの愛子の様子とは何か違うような気がしたが、僕は素直に応じた。二人でソフトクリームを食べながら古びた街並みを歩いていると、愛子は妙に上機嫌に見えた。先ほど、僕に少々批判めいたことを言った時の様子はきれいに消え失せていた。
「ねえ、久雄さん、どこか行きたい所ある?」
そう訊かれて僕は『市立図書館』と答えそうになった。僕が今いる飛騨地方は令和に社会現象にもなったアニメ映画「君の名前は?」の舞台になっており、主人公が調べ物をした図書館は聖地巡礼の対象になっていた。しかし、映画に出てくる真新しい感じの図書館が1978年にあるわけがなかった。
「ああ、いや、特別ないかな」
僕は慌ててそう答えた。
「そう、じゃあ、食べたいものとかある?」
愛子は相変わらず上機嫌だった。
今度は『高山ラーメン』と言いそうになった。「君の名前は?」の主人公たちが高山ラーメンを食べるシーンが映画にはあるのだが、この時代に、高山ラーメンがご当地グルメとして定着していたかどうかは分からなかったので、僕はその言葉も飲み込んだ。そもそも昼食には早すぎる時間でもあったが。
「それも、特にないかな」
そっけない言葉を繰り返したのに愛子の機嫌が損なわれることはなかった。
「じゃあ、次は陣屋跡に行ってみようね」
愛子にしてみれば、住み慣れた町に過ぎないはずなのに、僕を案内して回るのはすごく楽しそうに見えた。
そうして連れていかれた陣屋の門前では朝市が行われていた。主に地元で取れた農産物や、それを材料とした食べ物が並んでいた。僕は草餅が美味しそうに見えたが、朝食を済ませていたので手は出さなかった。
中には入らなかったが、外から見た陣屋そのものは、極めて重厚な造りだった。設けられた解説の表示によれば、高山の陣屋は、全国で唯一ほぼ完全な形が残る代官所の建物であるということだった。
代官と聞くと、水戸黄門のドラマによく出てくる「悪代官」という言葉が思いつくが、実際には代官は幕府にとって極めて重要な直轄領にしかいなかったらしく、幕府の目を逃れて悪事を行うことは不可能のように思えた。
降ってわいた妹のような愛子との高山見物は文句なしに楽しかった。しかし、これからボスキャラの平湯峠と安房峠に挑むことを考えたら、そろそろ高山を後にしなければならなかったし、『出発したい』と切り出しても、もう祖父と祖母の関係が損なわれるとは思わなかった。だから僕は自分の思いを愛子に告げた。
「愛子さん、どうもありがとう。今日はこの旅で一番の難所を迎えているので、そろそろ出発することにするよ」
「そう、分かったわ。頑張ってね」
愛子の顔には笑顔が浮かんでいて、僕はすっかり安心してしまった。
山科家の家に戻った後、僕たちは共に自転車で平湯峠の方向に向かった。昭雄さんの言いつけ通り、愛子が道案内をしてくれたのだ。
高山の町外れの橋の上に来たところで前方の愛子が自転車を止めて、声を掛けてきた。
「ここで止まって」
僕は自転車を止めて、自転車を橋の手すりに立てかけた。
愛子は自転車のスタンドを降ろすと国道の前方を指さした。
「この道をまっすぐに行けば平湯峠に行けるわ。ごめんなさい。私は、そろそろ引き返さないと。本当は、もっと先まで見送ってあげたいんだけど」
愛子は少し申し訳なさそうな顔をした。
「いや、とんでもない。こんな遠くまで来させてしまって申し訳ないね」
「ううん、いいのよ。私が来たくて来たんだから」
愛子はそう言った後、なぜか辛そうな顔で僕に頼んだ。
「久雄さん、申し訳ないけど、久雄さんの旅のメモ帳を見せてくれない?」
なぜ、愛子がそれを見たかったのかは分からなかったが、僕はフロントバッグからメモ帳を取り出すと、それを愛子に渡した。
愛子は、さっき自分が書き込んだ山科家の連絡先が書かれたところまでページを開くと一瞬手を止めた。
「久雄さん、ごめんなさいね」
そう詫びた後、愛子は僕のメモ帳から、山科家の連絡先が書かれたページを切り取った。愛子の行動の意味が分からず、呆然としている僕に愛子はメモ帳を返してよこした。
それから愛子は、切り取ったページを何度も何度も小さく利刻むと、それらを橋の上の風に乗せた。紙吹雪はハラハラと川面に舞い落ちると、流れに乗ってあっと言う間に見えなくなった。
「どうして、そんなことをするの?」
僕がようやく口を開くと、愛子は、今度は胸のポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。それは、今朝、僕が祖父の連絡先を書いたものだった。
「私たちは、もう会ってはいけないの。手紙も書いてはいけないの」
理解不能な台詞を吐くと、愛子はまた、橋の上から花吹雪を散らした。
「こんなにお世話になっておきながら、お礼の手紙も出さなかったら、失礼じゃないか。僕は、そんな恥知らずな真似はしたくないよ」
僕の言葉を聞いて、愛子の顔が悲しげに歪んだ。
「ごめんなさい。私がしたことは、私が、ちゃんとお父さんとお母さんに説明する。だから心配しないで」
山科家との断絶は僕の消滅も意味した。しかし、僕は消滅うんぬんより、むしろ美しかった山科家との繋がりが絶たれてしまうことに納得がいかなかった。だから、僕は愛子を問い詰めた。
「どうして、こんなひどいことをするのか、ちゃんと説明してくれないかな。こんなの、納得がいかないよ」
愛子の顔は更に悲しみの色が深くなった。
「久雄さん、昨日、どうして私の両親が、あなたに『家に泊まれ』なんて言ったかわかる?」
「野宿しようとしている僕が、可愛そうに見えたからだろう」
愛子は首を振り、辛そうな声で本当のことを話した。
「違うよ。そうじゃないよ。そうじゃなくて、久雄さんが、死んだお兄ちゃんにそっくりだったからだよ」
意外な話だった。
愛子は苦しみながら、更に言葉をつないだ。
「お兄ちゃんはね、去年の今頃、亡くなったの。まだ、十六歳だった」
愛子の声がつまった。十六歳、今の僕、そして当時の祖父と同じ年齢だった。
「久雄さんはね、お兄ちゃんと瓜二つなの。それどころか、ちょっとした仕草まで、お兄ちゃんにそっくりなの」
僕の頭に、昨日、麦茶を一気に飲み干した時の愛子の表情が浮かんだ。
愛子の声は、語るにつれて苦しさを増しているようだった。
「さっき言ったでしょう。私の両親は再婚同士だって。私はお父さんの連れ子で、お兄ちゃんはお母さんの連れ子だったの。私は、今はお母さんのことが大好きだし、お母さんも私のことを愛してくれている。それは分かっているの。でも、やっぱり、血の繋がりは、どうしようもないの」
納得のゆく話だった。
「お父さんは、そんなお母さんの気持ちをよく分かっていたから、昨日、久雄さんに声を掛けたんだと思う」
僕は、温かく迎えられ、はしゃいでいた自分が恥ずかしくなった。
「ごめん。何も知らずに僕は浮かれまくって、みんなを傷つけていたんだね」
「ううん。それは違うわ。私たちは皆、嬉しかったんだよ。昨日は本当に楽しかった。お兄ちゃんがいなくなってから初めてだよ。うちの家族が、あんなに明るくなったのは。久雄さんは、正に救世主だったんだよ」
「そう言ってもらえると、少し気が楽になるかな」
「そうだよ。久雄さんが気にすることなんて何もないんだよ」
愛子の言葉に安心する一方で、疑問が浮かんだ。僕はそれをそのまま愛子にぶつけた。
「でも、だったら、どうして、こんな風に、せっかくの出会いをぶち壊すような真似をしたの?」
愛子はすぐには答えられなかった。そして、今にも泣きだしそうな顔で、どうにか僕の問いに答えた。
「私たちはね、もう久雄さんに会ってはいけないの。久雄さんに、お兄ちゃんの面影を重ねるようなことをしちゃいけないの。お兄ちゃんのことを忘れることなんてできないけど、ちゃんとけじめをつけて、お兄ちゃんのいない世界で生きていかなきゃいけないの。いつまでも久雄さんをお兄ちゃんの代わりにしちゃいけないの」
僕は、ようやく愛子のとった行動の意味を理解することができた。そして、僕は、昨夜、愛子が強引に僕に近づかせまいとした女の子のことを思い出した。愛子の言う私たちの中には、あの女の子も入っているのかもしれないと思った。
「もしかしたら、昨日、見かけたあの女の子は・・・」
皆まで言うこともなく、愛子は僕の言わんとしたことをくみ取った。
「そう。あの子はお兄ちゃんの恋人。お兄ちゃんは、私の親友を好きになっちゃったの」
愛子のものの言いようには、どこかしら怒りの欠片が見えるような気がした。
それから愛子は僕の方をしっかりと向くと笑顔を作った。
「『久雄さんをお兄ちゃんの代わりにしちゃいけない』って言っていた私が言うのは筋違いなのは承知の上なんだけど。久雄さん、もうちょっとだけ、お兄ちゃんの代わりになってくれないかな?そうして、私は、きっぱりとお兄ちゃんに『さよなら』を言うの」
その言葉を聞いて、少し前に愛子が妙に僕に甘えてきた理由が分かった。
「いいよ」
とても断ることはできず、僕はそう答えた。
「ありがとう」
「でも、僕は、どうすれば愛子さんのお兄さんになれるのかな?」
「何もしなくていい。何も言わないでいい。ああ、むしろ、何もしないで、何も言わないで。私は、お兄ちゃんとはできなかったことを、ちょっとしたいだけだから」
「うん、わかった」
愛子の言わんとすることは良く分かった。愛子が求めているのは、兄とよく似た僕の姿だけであり、僕個人の言動は邪魔になるのだ。
「じゃあ、久雄さん、ちょっと目を閉じてくれるかな?」
僕は言われた通りにした。愛子が僕の間近に近づいてきたのが気配で分かった。愛子の両手が僕の首の後ろに回ったことに気づいた次の瞬間、愛子の唇が僕の唇に重なったのを感じた。
その刹那、僕は悟った。愛子は、血の繋がらない兄を男性として愛していたのだと。そして、僕に、いや祖父に、二度と会わないと誓った愛子は、僕の祖母ではありえないということを。
愛子の唇が離れたので、僕は瞼を開いた。そこには目を潤ませ、僕ではない僕を見つめる少女がいた。彼女が誰であろうと、誰を愛していようと、それは、愛おしいという思いとは何ら関係がなかった。
目の前の愛子を、思わず抱きしめてしまったのは、間違いなく僕だった。
「ごめんな、愛子。俺、お前の気持ちに気づいてやれなくて。そんな俺が言うのもなんだが、俺の分まで、父さんと母さんを大事にしてくれ」
咄嗟に愛子の兄のような台詞を吐いたのは、半分僕で、半分僕でないような気がした。
しかし…
「愛子、じゃあな、気をつけて帰るんだぞ。俺みたいに自転車ごとダンプに撥ねられたりするなよ」
そう言ったのは、明らかに僕ではなかった。僕は、愛子から彼女の兄の死因を聞かされてはいなかった。
僕が愛子を開放すると、愛子は数歩後ろに下がった。愛子の目は僕を見ていなかった。僕の中に一時的に宿ったらしい彼女の兄を見ていた。その目から、一粒、涙がこぼれ頬をつたった。もう一度僕の許に寄ろうとする気持ちを抑えるように愛子が別れを告げた。
「さよなら、お兄ちゃん」
「さよなら、愛子」
それは僕の言葉でもあり、また愛子の兄の言葉でもあった。
愛子は振り向くと、自転車のスタンドを蹴り、元来た道に自転車を進めた。決して振り向くまいという強い意志がその背中から感じられた。
そして、僕たちは、二度と見ることのない妹の姿を、見えなくなるまで、ずっと見つめていた。
第六話 終
しかし、雨は悪いことだけではなかった。午後遅く、ようやく高山の町並みが見えてきた時、雨上がりの高山の上空には大きな虹が掛かっていた。ようやく高山の街にたどり着いた嬉しさもあって、その虹は妙に美しく見えた。
高山の町並みは、時代劇などで見たことがあるような古い佇まいを見せていた。初めて訪れた街なのに郷愁を誘うその風景は、不思議な既視感を生じさせた。後でじっくりと、そんな街並みを自転車で辿ることにして、僕は今日の宿泊地となる予定の国鉄高山駅の様子を見に行くことにした。
駅に着くと、僕は入口の傍に自転車を置き、とりあえず駅の中を覗いた。瞬時に通りすがりの駅員にいきなり先制攻撃を食らった。
「君、この駅では野宿はできないからね」
僕には取りつく島も与えないまま、駅員はさっさと消えてしまった。予定が狂ったと思った。しかし、祖父もきっと同じ対応をとられていたはずだった。駅舎を出て、さて、どうしようかと僕は辺りを見回した。
高山の駅前は多数の路線バスの出発点になっているようで、いくつものバス乗り場があった。そのため、バスを待つお客のための待合室の建物があり、それはなかなか立派な造りをしていた。寝袋で寝るには良さそうな場所だと思った。入り口にはドアが無かったので、夜は閉鎖される心配もなかった。
正面に行き、自転車を降り、ハンドルを握ったまま中を見ると、うってつけのベンチがいくつも並んでいた。駅とは違い、駅員がいるわけでもないので、最終バスさえ出てしまえば、ベンチの上で寝袋を広げて寝ても問題はなさそうだった。僕がそこを今夜の宿泊場所と定めた時だった。
僕の背後から声がした。
「君、もしかして、今夜ここで野宿をするつもりなのかい?」
振り向くと、声の主は優しそうな中年の男性だと分かった。彼は、奥さんと中学生ぐらいに見える女の子を連れていた。
「はい、そのつもりです」
僕は、何も考えず、そう答えた。
「君、良かったら、今日は私の家に泊まらないか?なあ、いいだろう、母さん」
ご主人が奥さんに同意を求めた。
「ええ、もちろんよ」
奥さんの優しそうな目は、少し潤んでいるようにも見えた。
「愛子も、もちろん良いよな?」
僕は、父親に同意を求められた女の子をまじまじと見てしまった。肩に届くくらいの髪をした可愛らしい女の子だった。
「あの、愛子って、名前の漢字は愛情の『愛』ですか?」
「そうよ」
愛子は、なぜだか少し寂しそうな声で言ったような気がした。それはともかく、今度こそ、祖母に間違いないと僕は確信した。
しかし、こんなことがあるのかと思った。今朝、僕にとって姉のような「愛華さん」と別れたばかりなのに、夕方には妹のような「愛子」に出会うとは、祖父の言った通り、旅は出会いと別れの繰り返しなのだと実感した。
しかし、とにかく、この出会いは歴史であり、運命でもあった。僕は図々しく見られたとしても、素直にこのご家族のご厚意に甘えなければならなかった。
「本当にお世話になってもよろしいのでしょうか?」
一応、遠慮する振りはしてみた。
「もちろんだよ、是非、くれたまえ」
ご主人が紛れもない笑顔で答えてくれたので、僕は安心して愛子の家に泊まることができることになった。これならば、一気に親しくなることはないかもしれないが、連絡先を交換することは容易いことだ。どうやら僕は無事に祖母と巡り会うことができたようだった。
僕はご夫妻と、愛子の後ろについて歩いて自転車を押していった。彼らの家は駅から十分ほどの距離にある閑静な住宅街の中にあった。そして彼らの家は伝統的旧家と呼ぶべき立派な佇まいをしていた。表札には「山科」と書かれていた。
いかにも立派な門を入った瞬間、僕は言葉では表すことができない程に不思議な感覚に襲われた。それは決して悪い気分ではなかった。しかし、それは、常花であやかしに目をつけられた時の感覚とどこか似ているような気がした。
少し呆然としていると、ご主人に声を掛けられた。
「ああ、君、自転車は、蔵の中に置いてもらおうかな。愛子、案内してあげなさい」
「はい」
愛子は、きちんとした返事をすると、僕の方に顔を向けた。
「こっちよ」
そう声を掛けると玄関の前を左手の方に歩き始めた。僕は自転車を押しながら、愛子の後を追った。
愛子に連れていかれた蔵もまた、歴史を感じさせるもので、中には、あれこれと伝統文化を伝えるものが収められているような気がした。
「この中よ」
愛子が蔵の戸を開けると、木材の香りが漂ってくるような気がした。中に入ると、とにかく古びたものが所狭しと並んでいたが、僕にはそれらの価値も用途も分からなかった。
「自転車は奥の壁に立てかけておけばいいわ」
愛子の言葉に従って僕は蔵の奥の壁に自転車を立てかけ、早速、荷物の取り外しに取り掛かろうとした。しかし、僕はまだ、自分の名前すら名乗っていないことに気づいた。
「ああ、すみません。僕、まだ、名前も名乗っていませんでしたね。僕は桑原久雄といいます。高校一年生です。東京から来ました」
「私の名前は、愛子、ああ、もう知ってたよね。」
知っていた。忘れるわけもなかった。話の流れで、僕は愛子のご両親の名前も聞いてみることにした。
「あの、ご両親の名前を聞いてもいいですか?」
「お父さんの名前は昭雄、お母さんの名前は理沙よ」
お互いと家族の紹介のみで会話が途切れるのもなにかと思い、僕はとりあえず愛子の学年を聞いてみることにした。
「あの、山科さん・・・」
僕が言いかけると愛子は笑顔で僕の言葉を遮った。
「苗字じゃなくて『愛子』って呼んでくれると嬉しいな」
そうは言われても、今日会ったばかりで、しかも家に泊めてくれた恩人の娘を呼び捨てにすることはできなかった。そこで僕は「さん」づけで呼ぶことにした。
「愛子さんは、今、何年生?」
「さん」づけで呼ばれて、愛子は少しだけ寂しそうな顔をしたような気がしたが、気のせいだと思った。僕は無礼なものの言いようをした訳ではなかった。
「私は、今、中学三年生。久雄さんは、私と一つしか違わないのに東京から自転車で来るなんてすごいね」
「ああ、いや、すごくはありません。自転車は敦賀まで電車に乗せて来たんです。走り始めたのは敦賀からだから大したことはありません」
「へえ、それでもすごいと思うな、ああ、あと、敬語も止めようね、他人行儀で、なんかしっくりこないから」
将来はともあれ、祖父母は、まだ他人に過ぎなかったが、相手がそう言うのなら、同世代の相手に敬語を使い続ける必要はないので止めることにした。
「じゃあ、僕、ちょっと荷物を自転車から外すから、愛子さんは、家で待っていて」
「ううん、私も手伝わせて」
「ああ、ありがとう。じゃあ、最後に荷物を運ぶのだけ、手伝ってもらおうかな」
「それだけでいいの?」
「うん、十分すぎるくらい」
そんなわずかな会話の内に僕は愛子との距離が縮まって行くような気がしていた。
荷物を取り外しながら、僕たちはとりとめのない話をした。その途中で、僕は一つ迷っていることを愛子に尋ねた。
「ねえ、僕は愛子さんのご両親のことを何て呼べばいいだろう?オジサン、オバサンと呼ぶには、まだお二人とも若いと思うし。どうしたら良いだろう」
「『お父さん』、『お母さん』って呼んであげて・・・たぶん、そう呼ばれるのが、二人も一番うれしいと思うから」
愛子がそう答える前のわずかばかりの間が僕は少し気になった。それに「お父さん」、「お母さん」は、初対面の相手に対しては少々馴れ馴れしすぎるような気がした。
「『お父さん』、『お母さん』はちょっと馴れ馴れしすぎないかな?」
僕は思ったままを口にした。
「大丈夫よ、気にしないで。『お父さん』、『お母さん』って呼んであげて」
念を押しているのに愛子の口調には何処となく頼りなさを感じた。しかし、愛子がそう言うのだから、僕は言われた通りにしようと思った。
それからしばらくして、僕たちは蔵の外に出た。愛子にも少し荷物を持ってもらった。玄関に入ると、そこから見える家の様子は更に伝統的な格式の高さを感じさせた。
「どうぞ、上がって」
「お邪魔します」
愛子に促されて僕は、山科の家に足を踏み入れた。
「じゃあ、こっちに」
「うん」
答えた後、まず僕が通されたのは居間だった。床の間には立派な掛け軸が飾ってあり、畳の上に置かれたお膳にも高級感が漂っていた。
「そこに座っていて、今、冷たい麦茶を持ってくるから」
「そう、すまないね」
僕は言われた通りにお膳の前に置かれた座布団に腰を降ろした。
愛子は麦茶の入ったポットとグラスを一つ持ってすぐに帰ってきた。僕の前に座るとポットからグラスに麦茶を注いでくれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
僕は差し出された麦茶を一気に飲み干した。長い距離を走り、乾いていた喉に、麦茶は正に魔法の味がした。飲み終えたグラスをお膳に置くと、なぜか愛子が妙に真剣な顔で僕を見ていた。
「ごめん、がぶ飲みして、はしたなかったかな」
麦茶とはいえ、あまりに一気に飲み干してしまったのは、あるいは行儀が悪かったのかと少し気になった。
「ううん、そうじゃないの。気にしないで」
何か言いたげなものの言いようが気になったが、問い詰めるのも得策ではなかった。
「麦茶、もう一杯飲む?」
嫌な間を埋めるように愛子が言ってきた。
「うん、頂きます」
愛子はどこかぎこちない笑顔を浮かべて、二杯目の麦茶を注いだ。僕は、今度はゆっくりと麦茶を味わった。疲れた体には染みる味だった。
「あら、愛子、麦茶出してくれたの、ありがとう」
廊下を歩いてきた理沙さんが居間いる僕たちに目を止めた。
「ああ、お母さん。ごちそうになっています」
「え!」
僕の声を聞いた途端に理沙さんの顔が少し引きつったような気がした。
「ああ、さっき、愛子さんに、ご両親のことを何と呼べばよいかと尋ねたら、『お父さん、お母さん』と呼んで欲しいと言われたものですから。やはり、赤の他人がそう呼ぶのは失礼だったでしょうか?」
僕の言葉に理沙さんは大きく首を振った。
「そんなことないわ、『お父さん、お母さん』って呼んでちょうだい。それから、赤の他人なんて言わないで、本当の家族になったつもりで過ごしてちょうだい」
「分かりました。お母さん」
二度目の『お母さん』に反応して、理沙さんは一瞬目を伏せて何かを想ったような気がした。
「ああ、愛子、お風呂を沸かしてちょうだい。彼もさっぱりしたいだろうから」
愛子に指示をすると、理沙さんは足早に台所の方に消えてしまった。
「じゃあ、久雄さん、ここで待っていて。私、お風呂沸かしてくるから」
「うん、ありがとう」
愛子が風呂を沸かしに行ってしまうと、僕は一人で居間に残された。廊下の向こうの庭で鳴くヒグラシの声がやけに物悲しく聞こえた。
愛子に沸かしてもらった湯につかると、一気に緊張がほどけた。旧家に似つかわしいい大きな檜の湯船は、木の香りも良く、僕の疲れを癒してくれた。僕が心底くつろいでいると脱衣場から愛子の声が聞こえてきた。
「久雄さん、浴衣出しておいたから着替えておいて」
「うん、分かった」
愛子の声がすっかり明るさを取り戻していたので、僕はほっとした。
入浴を済ませ、脱衣場に戻ると僕は少し驚いた。そこに用意されていたのは、寝巻用のものではなく、外出用の浴衣だった。まるで僕のためにあつらえた様にサイズもピッタリだった。
僕が居間に戻りくつろいでいると、昭雄さんがやってきた。
「おお、浴衣、似合うじゃないか」
「済みません、お父さん。何から何までお世話になって」
「いや、お母さんにも言われたようだけど、是非、家族の一員になったつもりで過ごして欲しいな」
「はい、お言葉に甘えさせていただきます」
よし、この際、言われた通り、家族の一員になってしまおうと思った。そうすれば、愛子との仲も自然と良くなってゆくはずだ。思いっきり甘えてしまおう。どうせ行く行くは、僕というより祖父は山科のご夫妻の義理の息子になるのだから。僕は呑気にそう思った。
「ところで久雄君、勝手に予定を決めてしまって申し訳ないんだが、実は今日は、花火大会があるんだ。君にも一緒に行って欲しいんだ。だから夕食はちょっと遅くなるけど、我慢してくれ。その代わりといってはなんだが、今晩は飛び切り良いすき焼きの肉を知り合いから分けてもらったから。君、すき焼き好きだろう」
「ああ、大好きです」
確かに僕はすき焼きが好きだった。まあ、嫌いな人間などまずいない。昭雄さんの言い方が妙に確信に満ちていたのが少し気にはなったが、そんなことはすぐに忘れた。
無事に祖母に出会い、花火大会に高級すき焼き、できすぎだった。祖母に出会うチャンスなどないと思っていた野宿の予定が一転し、正に逆転サヨナラ満塁ホームランの気分だった。これはもう、大いに楽しむしかないと思った。
夏の陽がすっかり落ちて、空が暗くなった頃、僕たち四人は家を出た。みんな浴衣に身を包んでいた。
花火大会はすでに始まっていた。高山の古い家並み、その昔ながらの瓦屋根の上に次々と色とりどりの花火が打ちあがる様は、いかにも日本的な詩情に溢れた美しい光景だった。
街の中心部を流れる細い川沿いで、僕たちは次々と打ち上がる花火を見上げた。僕たちの姿は他人から見れば紛れもなく家族に見えたはずだった。
花火大会が終盤に差し掛かった頃、理沙さんが言い出した。
「じゃあ、私はご飯の支度があるから先に帰るわね」
その言葉に昭雄さんが同調した。
「じゃあ、私も一緒に帰ろう。せっかくだから久雄君は最後まで見ていきなさい。愛子、帰りの道案内を頼むよ」
「うん、分かった」
そんなやり取りの後、僕は愛子と二人きりになった。
「久雄さん、じゃあ、仕掛け花火の見える所に行こう」
愛子の言葉を合図に、僕たちは人込みを縫って移動を始めた。
仕掛け花火の多くはネオンサインの花火版といった感じで、お店や会社などの宣伝だったが、初めて見るものだったので新鮮な気がした。そして、花火大会のフィナーレを飾るナイアガラは実に見事で、終わってしまうと一抹の寂しさえ感じられた。
「じゃあ、久雄さん、帰りましょうか」
愛子に声を掛けられて川沿いの道を辿り始めた直後のことだった。十メートルぐらい先に、愛子と同じくらいの年齢で、浴衣を着た女の子が、うつむきがちに歩いてくるのが目についた。愛子もその子に気づいたようだった。
「由美子」
愛子が声を掛けると、その子は顔を上げた。僕たちの方を見たその子の顔は、何か信じられないものでも目にしたような驚きに満ちていた。
由美子と呼ばれたその女の子は、あわてて僕たちの方に駆け寄ろうとした。女の子が向かおうとした方向は愛子の方ではなく、僕の方だったようにも見えた。
次の瞬間、愛子は駆け出すと僕のかなり手前で由美子を抱き留めた。愛子は何か言っていたが、由美子はどこか上の空で僕の方を見ていたような気がした。その目がなぜかとても悲しそうに見えた。
愛子は半ば無理やりに由美子を川沿いの道から脇の路地に連れ込んだ。二人がそこで何を話していたのか。僕にはまるで見当がつかなかった。僕はただ茫然と川沿いの道に立ち尽くしているしかなかった。
しばらくすると、愛子は一人で戻ってきた。
「ごめんね、久雄さん。あの子、私の親友なんだけど、最近、彼氏に振られちゃって少し情緒不安定なの。実は今日、あの子と一緒に花火を見る約束をしていたんだ。『急な来客があって行けなくなった』って、ちゃんと電話したんだけど、嘘ついてデートしていたと思われちゃったみたい。でも、大丈夫よ、最後はちゃんと分かってくれたから」
愛子の説明はしっかりと理屈が通っていたし、中学生の女の子同士ならいかにもありそうな話だった。しかし、何か不自然なものを感じた。由美子というあの女の子の目の光は、親友に向けられた嫉妬のようには見えなかった。
山科家に戻ると、食卓にはすっかりすき焼きの用意が整っていた。旅に出てから初めてお目にかかる豪華な料理は嬉しい限りだった。昭雄さんが言った通り、特別に用意された牛肉は見ただけですごく美味しそうだった。
「じゃあ、頂きましょうか」
理沙さんが声を掛け、みんなで「いただきます」をして食事が始まった。
旅に出てから初めてのご馳走、しかも最高級の牛肉、僕は血に飢えた獣になりかけたが、なんとか踏みとどまった。あの祖父の性格上、やはりここでガツガツと肉を食べまくるとは思えなかった。愛子に愛想をつかされたりしたら、それこそ一巻の終わりだった。
僕は肉を控えめにして、野菜や豆腐、しらたきなどに主に手を伸ばしていた。しかし僕の遠慮はすぐに理沙さんに見透かされた。
「久雄君、あなた、何を遠慮しているの。お肉大好きでしょう。もっとたくさん食べなさい」
理沙さんは、僕の皿に肉を山盛りにしてよこした。
「さあ、どんどん食べて」
「すみません。じゃあ、遠慮なく頂きます」
ガツガツとするのはみっともないから避けるとしても、妙に遠慮をするのも良くなかろうと腹をくくり、僕は盛られた肉をしっかりと味わうことにした。昭雄さんが自慢するだけあって肉は本当に美味しかった。
ふと気づくと理沙さんは箸を止めて僕が美味しそうに肉を食べている様子を見つめていた。理沙さんの顔は嬉しそうにも悲しそうにも見えた。
「良い食べっぷりね。やっぱり男の子はそうでなくちゃ」
理沙さんはそう言うと、空になった僕の皿に改めて肉を山盛りにした。
「もっと食べてね。美味しそうに食べているところを見ると、私も嬉しくなるわ」
理沙さんの顔はきちんと笑顔になっていた。
美味しい肉をたくさん食べて、すっかり上機嫌になった僕は、調子に乗って旅であったことをあれこれと話し続けた。
もちろん、出会った女性たちのことは語らなかった。祖母である愛子の前ではそういう話は避けるべきだと思った。
「久雄君が未成年じゃなかったら、一緒にお酒でも飲みたいところなんだがな」
昭雄さんが、残念そうにつぶやいた。
「久雄君、是非、そのうち、一緒に飲もうじゃないか。この辺りには良いお酒がたくさんあるんだ」
「あの、またお邪魔しても良いんですか?」
「もちろんだよ。いつでも歓迎するよ」
昭雄さんは上機嫌だった。
「そうよ。必ずまた来てね」
理沙さんもそう言ってくれた。
愛子もクラスの噂話などをあれこれと話し、いかにも家族団らんという雰囲気で豪華なすき焼きパーティーは終了した。
山科家の人たちは、とにかく僕に優しかった。まさか旅の途中に、こんな風に家族団らんのひと時を過ごせるとは思ってもみなかった。自分の家の疲れ切った家族のありようとは、似ても似つかない温かさがそこにあった。
その夜、僕は広い客間で上等な客布団につつまれ、物凄く気持ちよく眠ることができた。
翌朝、八月三日はとても気分良くスタートした。
朝食はシンプルなものだったが、理沙さんが作ってくれた味噌汁がとても美味しかった。
「このお味噌汁、とても美味しいですね。僕、こんな美味しいお味噌汁はたべたことがありません」
「そう、嬉しいわ。良かったらお代わりしてちょうだい」
「はい、是非」
僕は遠慮なく、もう一杯味噌汁を頂いた。
朝食が終ったので、居候の身としては何かお手伝いをしようと思い理沙さんに声を掛けた。
「あの、お母さん。洗い物手伝います」
「いいのよ。久雄君は自転車の準備をしっかりやって」
申し出はあっさりと却下されて座ったままでいると、昭雄さんに声を掛けられた。
「久雄君、君の連絡先を書いてくれないかな?」
昭雄さんは食卓近くの棚の上からメモとペンを取るとそれを僕に手渡した。僕がそこに祖父の連絡先を書くと、昭雄さんはそれらを元の位置に戻した。
「ああ、じゃあ、僕もお願いします」
そう言って僕は客間からメモ帳を持ってきた。
僕が昭雄さんにメモ帳とペンを渡そうとすると、愛子が割り込んできた。
「ああ、私が書くわ」
「そう、じゃあ、よろしく頼むよ」
僕は愛子に渡す前にメモ帳をめくった。最後の方の数ページの図を除けば、旅が始まってからメモ帳に書き込まれたものは、斉藤さんと佐々木さんの連絡先だけだった。二人の連絡先の書かれたページを開き、僕はメモ帳を愛子に渡した。二人の連絡先はメモ帳の左側のページの上の方に書かれていて、その下にはまだ十分スペースがあった。
「愛子、間違えないようにきちんと書くんだぞ」
僕と昭雄さんが見守る中、愛子は一旦、佐々木さんの連絡先の下に山科家の連絡先を書こうとした。だが、愛子は急に手を止めた。そして、なぜかスペースがたくさん残っている左側のページではなく、まだ何も書かれていない右側のページに山科家の連絡先を書いていった。
愛子が連絡先を書き終えたのを見届けると昭雄さんに声を掛けられた。
「私と家内は、そろそろ出かけなければならないんだ、出発を見送ってあげられなくて申し訳ない。平湯峠に通じる道は愛子に案内するように言ってあるから」
「済みません。何から何まで。全く何てお礼を言って良いやら」
僕が恐縮していると、更に驚くべき言葉が返ってきた。
「ああ、これ、むき出しで悪いけど、お昼に蕎麦でも食べなさい」
昭雄さんは千円札を僕の前に差し出した。
「とんでもない。こんなにお世話になった上に、お昼代なんて、とてもいただけません」
僕は当然断ったが、昭雄さんには見事に切り返された。
「いいんだよ、君のおかげで昨夜は久しぶりに楽しかった。本当の家族になったつもりで過ごして欲しいと言っただろう。息子にはこれくらいはしてやりたいんだ」
常識的に考えれば固辞すべき所だったが、昭雄さんの様子をみると、それはかえって相手を傷つけそうな気がした。僕はその伊藤博文の千円札を折りたたまずにメモ帳とそのカバーの下に挟んだ。
その後、僕は愛子と共に、出かけて行くご夫婦を門前で見送った。
「ありがとうございました。本当にお世話になりました」
「いや、お礼を言いたいのは私たちの方だ。どうかまた、顔を見せにきてくれたまえ」
昭雄さんがそう言うと、理沙さんもそれに付け加えた。
「本当よ。必ずまた来てね。私たち楽しみにしているから」
「はい、必ずまた来ます」
それは僕の本心だった。決して祖父の立場で言った言葉ではなかった。祖父は当然、山科ご夫妻と再会しているはずだった。だが、僕自身も、できることなら再びこの素晴らしい家族の許を訪れてみたいと思っていた。
「じゃあね」
最後に理沙さんが、そう声を掛けてご夫妻は歩き始めた。
「本当にありがとうございました」
僕は深々と頭を下げて二人の姿を見送った。
「でも、愛子さんの家は、本当に良い家族だね。うちとは大違いだ」
二人の姿が消えた頃、僕はつぶやいた。
「へえ、そうなんだ」
家族を褒められたというのに、愛子の態度はどこか上の空だった。
「そうだよ、昨夜の夕食だって、いかにも家族団らんっていう感じがしたよ。僕の家では家族三人が揃うことさえ少ないし、揃ってもろくに会話もなくて、寂しい家族なんだ」
僕の言葉に愛子は明らかに嫌な顔をした。初めて目にする表情だった。
「ねえ、久雄さんは、自分の家族を良い家族にするために何か努力をしているの?」
あまりにも意外な問いかけだった。僕が何も言えずにいると愛子は更に続けた。
「私たちはね、みんな努力して良い家族になったのよ。お父さんとお母さんは再婚同士なの。私はお父さんの連れ子だから、お母さんとは血が繋がっていないの。だから、最初はしっくりいかないこともあったのよ。でも、私たちは努力したの。努力して良い家族になったのよ。そして、努力して、もう一度良い家族になろうとしているの」
愛子の言葉に僕は打ちのめされた。言われてみれば、僕は自分の家にいまひとつ温かみが欠けることを全て両親のせいいにしてきた。両親が、いつも忙しく疲れ切っているというのに、そんな疲れを癒してあげようとしたことなどなかった。
進路や学校生活についても、自分ではこうしたいという意見を持っていなかったくせに、『勝手に決められた』と祖父母や両親のせいにしただけだった。
挙句の果てには不登校で引きこもりになる始末だった。今の僕は良い家族を作るための努力をするどころか、まるで反対のことをしているだけだった。
そんな僕に、両親を非難する資格などなかった。しかし、僕は、愛子に指摘されるまで、全くそれに気づいていなかった。僕は急に自分が恥ずかしくなった。
ただ、それとは別に、愛子の言葉には気になることがあった。『努力して、もう一度良い家族になろうとしている』と愛子は言っていた。『もう一度』ということは、かつては、良い家族だったが、今はそうではないといいうことだ。なぜ、愛子がそう言ったのか、僕にはまるで見当もつかなかった。そして、愛子の様子からして、その理由を問うことも当然できなかった。
「ごめんなさい。生意気なこと言っちゃったね。許してね」
「いや、気にしてないよ。というか、むしろ感謝したいぐらいだ」
「ありがとう。ああ、そうだ。久雄さんは、まだ、街中を見てなかったよね。私、案内してあげる」
そう言って、愛子はアニメのかわいい妹タイプのような笑顔を見せた。これからボスキャラの平湯峠と安房峠に立ち向かう僕としては、早く出発したいという気持ちもあったが、祖父と祖母との関係を損なうようなことはできなかった。
「ありがとう。嬉しいな」
そう答えたが、それは嘘と本音が半々の言葉だった。
自転車を山科家の蔵に置いたまま、僕たちは徒歩で古い町並みが残る通りに出掛けた。金沢の東の廓跡と似たような出格子を持つ古い家が並ぶ街並みは如何にも飛騨高山という感じがした。
金沢、白川郷、飛騨高山、どこも皆、令和ではオーバーツーリズムの問題を抱えていた。しかし、1978年の飛騨高山は、まだその惨禍を迎えてはいなかった。妙に洒落た造りの店は、まだできておらず、昔ながらの町並みの雰囲気を損なうものはほとんど無いような気がした。
ソフトクリームを売るお店の前に差し掛かった時だった。ふと愛子が妙に甘えたような声を出した。
「ねえ、ソフトクリームをおごってくれない?」
それまでの愛子の様子とは何か違うような気がしたが、僕は素直に応じた。二人でソフトクリームを食べながら古びた街並みを歩いていると、愛子は妙に上機嫌に見えた。先ほど、僕に少々批判めいたことを言った時の様子はきれいに消え失せていた。
「ねえ、久雄さん、どこか行きたい所ある?」
そう訊かれて僕は『市立図書館』と答えそうになった。僕が今いる飛騨地方は令和に社会現象にもなったアニメ映画「君の名前は?」の舞台になっており、主人公が調べ物をした図書館は聖地巡礼の対象になっていた。しかし、映画に出てくる真新しい感じの図書館が1978年にあるわけがなかった。
「ああ、いや、特別ないかな」
僕は慌ててそう答えた。
「そう、じゃあ、食べたいものとかある?」
愛子は相変わらず上機嫌だった。
今度は『高山ラーメン』と言いそうになった。「君の名前は?」の主人公たちが高山ラーメンを食べるシーンが映画にはあるのだが、この時代に、高山ラーメンがご当地グルメとして定着していたかどうかは分からなかったので、僕はその言葉も飲み込んだ。そもそも昼食には早すぎる時間でもあったが。
「それも、特にないかな」
そっけない言葉を繰り返したのに愛子の機嫌が損なわれることはなかった。
「じゃあ、次は陣屋跡に行ってみようね」
愛子にしてみれば、住み慣れた町に過ぎないはずなのに、僕を案内して回るのはすごく楽しそうに見えた。
そうして連れていかれた陣屋の門前では朝市が行われていた。主に地元で取れた農産物や、それを材料とした食べ物が並んでいた。僕は草餅が美味しそうに見えたが、朝食を済ませていたので手は出さなかった。
中には入らなかったが、外から見た陣屋そのものは、極めて重厚な造りだった。設けられた解説の表示によれば、高山の陣屋は、全国で唯一ほぼ完全な形が残る代官所の建物であるということだった。
代官と聞くと、水戸黄門のドラマによく出てくる「悪代官」という言葉が思いつくが、実際には代官は幕府にとって極めて重要な直轄領にしかいなかったらしく、幕府の目を逃れて悪事を行うことは不可能のように思えた。
降ってわいた妹のような愛子との高山見物は文句なしに楽しかった。しかし、これからボスキャラの平湯峠と安房峠に挑むことを考えたら、そろそろ高山を後にしなければならなかったし、『出発したい』と切り出しても、もう祖父と祖母の関係が損なわれるとは思わなかった。だから僕は自分の思いを愛子に告げた。
「愛子さん、どうもありがとう。今日はこの旅で一番の難所を迎えているので、そろそろ出発することにするよ」
「そう、分かったわ。頑張ってね」
愛子の顔には笑顔が浮かんでいて、僕はすっかり安心してしまった。
山科家の家に戻った後、僕たちは共に自転車で平湯峠の方向に向かった。昭雄さんの言いつけ通り、愛子が道案内をしてくれたのだ。
高山の町外れの橋の上に来たところで前方の愛子が自転車を止めて、声を掛けてきた。
「ここで止まって」
僕は自転車を止めて、自転車を橋の手すりに立てかけた。
愛子は自転車のスタンドを降ろすと国道の前方を指さした。
「この道をまっすぐに行けば平湯峠に行けるわ。ごめんなさい。私は、そろそろ引き返さないと。本当は、もっと先まで見送ってあげたいんだけど」
愛子は少し申し訳なさそうな顔をした。
「いや、とんでもない。こんな遠くまで来させてしまって申し訳ないね」
「ううん、いいのよ。私が来たくて来たんだから」
愛子はそう言った後、なぜか辛そうな顔で僕に頼んだ。
「久雄さん、申し訳ないけど、久雄さんの旅のメモ帳を見せてくれない?」
なぜ、愛子がそれを見たかったのかは分からなかったが、僕はフロントバッグからメモ帳を取り出すと、それを愛子に渡した。
愛子は、さっき自分が書き込んだ山科家の連絡先が書かれたところまでページを開くと一瞬手を止めた。
「久雄さん、ごめんなさいね」
そう詫びた後、愛子は僕のメモ帳から、山科家の連絡先が書かれたページを切り取った。愛子の行動の意味が分からず、呆然としている僕に愛子はメモ帳を返してよこした。
それから愛子は、切り取ったページを何度も何度も小さく利刻むと、それらを橋の上の風に乗せた。紙吹雪はハラハラと川面に舞い落ちると、流れに乗ってあっと言う間に見えなくなった。
「どうして、そんなことをするの?」
僕がようやく口を開くと、愛子は、今度は胸のポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。それは、今朝、僕が祖父の連絡先を書いたものだった。
「私たちは、もう会ってはいけないの。手紙も書いてはいけないの」
理解不能な台詞を吐くと、愛子はまた、橋の上から花吹雪を散らした。
「こんなにお世話になっておきながら、お礼の手紙も出さなかったら、失礼じゃないか。僕は、そんな恥知らずな真似はしたくないよ」
僕の言葉を聞いて、愛子の顔が悲しげに歪んだ。
「ごめんなさい。私がしたことは、私が、ちゃんとお父さんとお母さんに説明する。だから心配しないで」
山科家との断絶は僕の消滅も意味した。しかし、僕は消滅うんぬんより、むしろ美しかった山科家との繋がりが絶たれてしまうことに納得がいかなかった。だから、僕は愛子を問い詰めた。
「どうして、こんなひどいことをするのか、ちゃんと説明してくれないかな。こんなの、納得がいかないよ」
愛子の顔は更に悲しみの色が深くなった。
「久雄さん、昨日、どうして私の両親が、あなたに『家に泊まれ』なんて言ったかわかる?」
「野宿しようとしている僕が、可愛そうに見えたからだろう」
愛子は首を振り、辛そうな声で本当のことを話した。
「違うよ。そうじゃないよ。そうじゃなくて、久雄さんが、死んだお兄ちゃんにそっくりだったからだよ」
意外な話だった。
愛子は苦しみながら、更に言葉をつないだ。
「お兄ちゃんはね、去年の今頃、亡くなったの。まだ、十六歳だった」
愛子の声がつまった。十六歳、今の僕、そして当時の祖父と同じ年齢だった。
「久雄さんはね、お兄ちゃんと瓜二つなの。それどころか、ちょっとした仕草まで、お兄ちゃんにそっくりなの」
僕の頭に、昨日、麦茶を一気に飲み干した時の愛子の表情が浮かんだ。
愛子の声は、語るにつれて苦しさを増しているようだった。
「さっき言ったでしょう。私の両親は再婚同士だって。私はお父さんの連れ子で、お兄ちゃんはお母さんの連れ子だったの。私は、今はお母さんのことが大好きだし、お母さんも私のことを愛してくれている。それは分かっているの。でも、やっぱり、血の繋がりは、どうしようもないの」
納得のゆく話だった。
「お父さんは、そんなお母さんの気持ちをよく分かっていたから、昨日、久雄さんに声を掛けたんだと思う」
僕は、温かく迎えられ、はしゃいでいた自分が恥ずかしくなった。
「ごめん。何も知らずに僕は浮かれまくって、みんなを傷つけていたんだね」
「ううん。それは違うわ。私たちは皆、嬉しかったんだよ。昨日は本当に楽しかった。お兄ちゃんがいなくなってから初めてだよ。うちの家族が、あんなに明るくなったのは。久雄さんは、正に救世主だったんだよ」
「そう言ってもらえると、少し気が楽になるかな」
「そうだよ。久雄さんが気にすることなんて何もないんだよ」
愛子の言葉に安心する一方で、疑問が浮かんだ。僕はそれをそのまま愛子にぶつけた。
「でも、だったら、どうして、こんな風に、せっかくの出会いをぶち壊すような真似をしたの?」
愛子はすぐには答えられなかった。そして、今にも泣きだしそうな顔で、どうにか僕の問いに答えた。
「私たちはね、もう久雄さんに会ってはいけないの。久雄さんに、お兄ちゃんの面影を重ねるようなことをしちゃいけないの。お兄ちゃんのことを忘れることなんてできないけど、ちゃんとけじめをつけて、お兄ちゃんのいない世界で生きていかなきゃいけないの。いつまでも久雄さんをお兄ちゃんの代わりにしちゃいけないの」
僕は、ようやく愛子のとった行動の意味を理解することができた。そして、僕は、昨夜、愛子が強引に僕に近づかせまいとした女の子のことを思い出した。愛子の言う私たちの中には、あの女の子も入っているのかもしれないと思った。
「もしかしたら、昨日、見かけたあの女の子は・・・」
皆まで言うこともなく、愛子は僕の言わんとしたことをくみ取った。
「そう。あの子はお兄ちゃんの恋人。お兄ちゃんは、私の親友を好きになっちゃったの」
愛子のものの言いようには、どこかしら怒りの欠片が見えるような気がした。
それから愛子は僕の方をしっかりと向くと笑顔を作った。
「『久雄さんをお兄ちゃんの代わりにしちゃいけない』って言っていた私が言うのは筋違いなのは承知の上なんだけど。久雄さん、もうちょっとだけ、お兄ちゃんの代わりになってくれないかな?そうして、私は、きっぱりとお兄ちゃんに『さよなら』を言うの」
その言葉を聞いて、少し前に愛子が妙に僕に甘えてきた理由が分かった。
「いいよ」
とても断ることはできず、僕はそう答えた。
「ありがとう」
「でも、僕は、どうすれば愛子さんのお兄さんになれるのかな?」
「何もしなくていい。何も言わないでいい。ああ、むしろ、何もしないで、何も言わないで。私は、お兄ちゃんとはできなかったことを、ちょっとしたいだけだから」
「うん、わかった」
愛子の言わんとすることは良く分かった。愛子が求めているのは、兄とよく似た僕の姿だけであり、僕個人の言動は邪魔になるのだ。
「じゃあ、久雄さん、ちょっと目を閉じてくれるかな?」
僕は言われた通りにした。愛子が僕の間近に近づいてきたのが気配で分かった。愛子の両手が僕の首の後ろに回ったことに気づいた次の瞬間、愛子の唇が僕の唇に重なったのを感じた。
その刹那、僕は悟った。愛子は、血の繋がらない兄を男性として愛していたのだと。そして、僕に、いや祖父に、二度と会わないと誓った愛子は、僕の祖母ではありえないということを。
愛子の唇が離れたので、僕は瞼を開いた。そこには目を潤ませ、僕ではない僕を見つめる少女がいた。彼女が誰であろうと、誰を愛していようと、それは、愛おしいという思いとは何ら関係がなかった。
目の前の愛子を、思わず抱きしめてしまったのは、間違いなく僕だった。
「ごめんな、愛子。俺、お前の気持ちに気づいてやれなくて。そんな俺が言うのもなんだが、俺の分まで、父さんと母さんを大事にしてくれ」
咄嗟に愛子の兄のような台詞を吐いたのは、半分僕で、半分僕でないような気がした。
しかし…
「愛子、じゃあな、気をつけて帰るんだぞ。俺みたいに自転車ごとダンプに撥ねられたりするなよ」
そう言ったのは、明らかに僕ではなかった。僕は、愛子から彼女の兄の死因を聞かされてはいなかった。
僕が愛子を開放すると、愛子は数歩後ろに下がった。愛子の目は僕を見ていなかった。僕の中に一時的に宿ったらしい彼女の兄を見ていた。その目から、一粒、涙がこぼれ頬をつたった。もう一度僕の許に寄ろうとする気持ちを抑えるように愛子が別れを告げた。
「さよなら、お兄ちゃん」
「さよなら、愛子」
それは僕の言葉でもあり、また愛子の兄の言葉でもあった。
愛子は振り向くと、自転車のスタンドを蹴り、元来た道に自転車を進めた。決して振り向くまいという強い意志がその背中から感じられた。
そして、僕たちは、二度と見ることのない妹の姿を、見えなくなるまで、ずっと見つめていた。
第六話 終



