清香にもらったおにぎりを食べ終わった後も、ずっと山道が続いた。富山県と岐阜県を行ったり来たりする国道を、僕はひたすら白川郷へ向けて進んだ。走行距離は45キロ程だったが、山道の上に、途中道に迷ったせいで到着が遅れ、僕がようやく白川郷にたどり着いた時には、夕陽はすでに西に傾いていた。
白川郷は「合掌造りの里」として有名だ。大晦日、年明け直前に始まり年末年始の全国各地の様子を伝えるテレビ番組には、ほぼ毎年出てくる。背の高い急角度の茅葺屋根を持つ合掌造りの古民家がいくつも雪に埋もれている情景は、多くの人にとって一度は見たことのある景色であるはずだ。
白川郷に着くと観光案内所はすぐに見つかり、あっという間に合掌造りの民宿・中田を紹介してくれた。白川郷の合掌造りの民宿に、当日飛び込みで泊れることになったのだ。しかも、二食付きで三千円。ユースよりも少々高いが、ドミトリーではなく一部屋利用だ。令和の時代では考えられなかったことだった。嘘みたいな話だと思いながら行ってみると、そこは正しく合掌造りの古民家そのものだった。
僕は民宿のお婆さんの案内で部屋に通された。夕食は、居間で7時からだと聞かされた。荷物を部屋に運び込んだ後、僕はせっかくだから集落内を自転車で回ってみることにした。
雪に埋もれた白川郷は見慣れていたが、緑溢れる白川郷も悪くなかった。夕陽に包まれた合掌造りの家々はまるで昔話の中から抜け出してきたみたいだった。秋の花であるコスモスがすでに花を咲かせていて、その向こうに合掌造りの古民家がある風景はまるで一枚の絵のように思えた。微かに聞こえてくるヒグラシの声もまた耳に優しかった。まだ世界遺産には登録されていない白川郷は静かな山里そのものだった。
おかげで僕は、気分がとても楽になった。今夜は七泊の旅の四泊目だから、旅の約半分は無事に済んだことになる。民宿のお婆さんの話では今日の泊り客は僕だけのようだから、祖母と出会うこともなさそうだった。昨日までの三泊は諸般の事情により落ち着かない夜を過ごしたが、今夜は一人部屋で落ち着いた夜が過ごせそうだった。
民宿に戻り、部屋でくつろいでいると、あっという間に7時はやってきた。居間に移動すると、お膳には二人分の夕食が準備されていた。お婆さんの勘違いで、どうやれ僕の他にも、もう一人宿泊客がいるようだった。
僕がお膳の前に腰を降ろすと、先ほどのお婆さんと、二十歳くらいに見える女性が、ほぼ同時に居間に入ってきた。女性は髪が長く、すらっとした美しい人だった。女性が僕の向かいに腰を降ろすと、お婆さんがご飯の入ったお櫃をお膳の上に乗せた。
それから、お婆さんは訛りの強い口調でお客同士の紹介をした。
「こちらの男の子は東京から来た桑原久雄君、こちらの女性は大阪から来た佐々木アイコさん。今日は、お二人だけですから仲良くしてくださいね。後で一緒に喫茶店にでも出かけたらいかがですか?」
お婆さんはそう言うと居間から出ていった。
「佐々木です。よろしくお願いします」
「ああ、ええと、僕は桑原、桑原久雄です」
僕は返答にまごついてしまった。いきなり目の前に祖母らしき女性が現れたのだから無理もなかった。
佐々木さんは僕より三つ四つ年上のように見えた。僕は祖父母のことは何も知らないに等しかったので、祖母が祖父よりも年上だったとしても不思議ではなかった。ちらっとしか見なかった祖母の遺影と祖父の顔を思い出してみても、六十を過ぎた二人の年齢差などはっきりする訳もなかった。
あれこれと考えても仕方がなかった。とにかく、僕は目の前にいる佐々木さんと仲良くなるしかなかった。
「じゃあ、いただきましょうか」
「ああ、そう、そうですね。いただきましょう」
僕はまた口籠ってしまった。
「いただきます」
「いただきます」
ほぼ同時にそう言って、僕たちは夕食を食べ始めた。
僕は目の前の夕食よりも、祖母らしき佐々木さんのことが気になって仕方がなかった。仲良くなるためには、とにかく、まず話し掛けるしかなかった。僕はとりあえず無難な話題から入ることにした。
「あの、佐々木さんは学生さんですか?」
「美容専門学校の二年生よ」
佐々木さんが気持ちよく答えてくれたので、少し安心した。専門学校の二年生ということは、今は十九歳、僕や祖父より三歳年上ということになった。
「君は高校生かしら?」
佐々木さんが僕のことを聞いてきた。悪くない展開だと思った。
「はい、一年生です」
「まあ、高一で一人旅なんて、凄いわね」
「どうでしょう。家は東京なんですが、自転車を電車に乗せて福井県の敦賀まで行って、そこからここまで自転車で来たんです」
「ええ!本当?なんか信じられないな」
佐々木さんは僕の旅に感心してくれた。幸先の良い出だしだと思った。
「ここまで来るのも結構大変でしたが、これからがもっと大変らしいんです」
「あら、どうして?」
「高山から北アルプス越えをして松本方面に行くんですが、坂道がとんでもなく険しいそうです」
「うわあ、なんか聞いただけでも大変そう。君、すごく根性があるのね」
「はい、最近、よくそう言われます」
『根性』、僕が嫌いな昭和の言葉だが、佐々木さんに言われると悪い気がしなかった。
「凄いなあ。私なんて、ただ電車とバスを乗り継いできただけだから」
「いえ、それが普通だと思います」
「自転車で何百キロも旅行したりする方がどうかしているんですよ」
つい僕自身の本音が出てしまった。まずいと思った。
「あら、それじゃあ、どうして君は自転車で旅行をしているの」
当然のような質問が佐々木さんから返ってきた。
「ええ、まあ、何というか、仕方なくというか」
「何か秘密でもあるのかしら?」
一瞬、自分の正体を見破られたかとドキンとしたが、そんなことがある訳もなかった。
「いやあ、別に秘密なんてありませんよ。ところで佐々木さんは大阪の方なのにバリバリの標準語ですね」
僕は慌てて話題を逸らした。
「高校を卒業するまでは東京に住んでいたから。親の都合で引っ越したんだけど、やっぱり、言葉は身についてしまうと変わらないのね」
「なるほど、そうでしたか」
落ち着きを取り戻した僕は、無難な方向で会話を続けるべく佐々木さんに質問をした。
「ところで、佐々木さんは、どうして白川郷のような田舎にわざわざいらしたんですか?」
「昔、東京に住んでいた子供の頃にね、電力会社のコマーシャルで、合掌造りの家に電灯がつくシーンがあったの。そこに住んでいる家族の温かみまで伝わってくるような、ほのぼのとした感じがとてもいいなと思ったの。だから、いつかはそこに行ってみたいなって、ずっと思ってたの」
「そうですか。僕はただ通過点っていう感じで特に思い入れはなかったんですけど、思いの他良い所でラッキーでした」
それは嘘ではなかった。夕暮れの白川郷の景色は如何にも日本的な情緒が感じられ、良い所だと思ったのは事実だった。佐々木さんが白川郷に魅かれた訳にも大きく頷けた。更には祖母らしき佐々木さんに会えたことも、白川郷をより良い場所だと思わせた。
その後、僕たちは、それまでに自分たちがしてきた旅のことを語り合った。佐々木さんとは別の時代に生きる僕にとっては、正直、それ以外の話題を見つけるのは難しかった。
しかし、出会ったばかりの佐々木さんは、とても感じの良い女性で、話していて楽しかった。僕は、急に自分に姉ができたような気分になった。佐々木さんはゲームやアニメに出てくる優しいお姉さん系のキャラのようで、実に魅力的な女性だった。
夕食がとても良い雰囲気で終わったものの、その程度で良いはずはなかった。祖父と佐々木さんが遠距離恋愛を経て結婚に至るまでの仲になるその始まりとしては、とてもそれだけでは十分とは思えなかった。
しかし、突然現れた姉のような佐々木さんは、そんな僕の心配を吹き飛ばすような素晴らしい提案をしてくれた。
「ねえ、さっきお婆さんが言っていた喫茶店に行ってみない?」
「ああ、はい、もう、よ、喜んで」
あまりの嬉しさに僕は少し噛んでしまった。
「どうしたの?喫茶店がそんなに珍しいわけでもないでしょう?彼女とだって行ったことあるでしょう」
「いえ、あの、僕、彼女とかいたことありません」
「あら、そうなの?モテそうに見えるけど」
「いや、その、とんでもない。まったくモテませんよ」
「そうなの、君の周りの女の子は見る目がないのね」
子供っぽい僕の対応が可笑しくて仕方がないとい言わんばかりの笑顔を佐々木さんは浮かべていた。
「私、お財布取って来るから、玄関で待っててね」
「はい、分かりました。僕も財布を取ってきます」
「そう、じゃあ玄関でね」
「はい」
僕が玄関で待っていると、佐々木さんはすぐにやってきた。
「お婆さんに場所をきちんと聞いてきたわ」
「ああ、すみません」
「じゃあ、行こうか?」
「はい」
僕たちが外に出ると、もうすっかり夜になっていた。佐々木さんを惹きつけたという合掌造りの家々の明かりが優しかった。
「佐々木さんがここに魅かれた理由、少し分かったような気がします」
「そう、なんか本当に温かみが感じられるわね。私、来て良かったわ」
「僕は、たまたまですが、やっぱり来られて良かったと思います」
「そう、良かったね。じゃあ、行こうか」
「はい」
佐々木さんに促され、僕は、優しい明かりを放つ合掌造りの家並みが続く道を歩き始めた。
喫茶店はすぐに見つかった。やはり合掌造りの家で、僕の時代で言えば、古民家カフェといった場所だった。令和ならば、長時間並ばないと入れない、あるいは予約が必要な店のような気がした。
店の中には大きな囲炉裏があった。僕たちは店員さんに導かれて、囲炉裏の角に九十度角に並んで座った。コーヒーを注文すると、すぐに届けられた。
「とても素敵なお店ね」
佐々木さんはコーヒーを一口飲むと周囲にぐるりと目を回した。
店内には民芸品のおみやげがあちこちに並び、飾りつけの一部として古い民具などが壁に掛けられていた。僕は、展示品の一つ、白川郷の全景の写真に目を止めた。高台から撮られたと見られるその写真の中には、緑に囲まれて合掌造りの家々が点在する白川郷の美しい姿が映っていた。明日は、是非その場所に行ってみたいと思った。
さて、僕は金沢に向かう途中、喫茶店で昼食を取ったが、喫茶店に入ったのはそれが初めてで、基本的には僕には喫茶店に入るという習慣がなかった。僕の時代の人間なら誰でも知っているようなチェーン店の店にすら足を踏み入れたことがなかった。増して、昭和の匂いがする個人経営の昔ながらの喫茶店など全く縁がなかった。
更に言えば、今回は佐々木さんのような素敵な女性が一緒だった。お受験の末に、中学から男子校の僕にすれば、たかが喫茶店が飛び切り貴重な体験になった。
コーヒーを飲む佐々木さんの姿は、やはりアニメやゲームに出てくる素敵なお姉さまキャラそのもの、いや、現実に存在する人物だけにそれ以上だった。
女の子と付き合った経験はなかったが、十六歳の少年の僕が、佐々木さんのような素敵な女性に心魅かれたのは当然のことだった。とはいえ、祖母かもしれないに佐々木さんに対して明確な恋愛感情は湧かなかった。しかし、僕の中では魅力的な年上の従姉に抱くような淡い思いが芽生え始めていた。
「ねえ、久雄君は漫画とか読むの?」
楽しい会話の最中、佐々木さんが格好の話題を振ってきた。
「はい、大好きです」
「どんな漫画が好きなの?」
「そうですね、今、一番好きなのは….」
言いかけた漫画のタイトルを僕は慌てて飲み込んだ。僕はあやうく、昭和にはまだ存在しない令和の人気作品のタイトルを言ってしまう所だったのだ。僕はどうにか動揺を隠し、父方の祖父が物置にしまっていた古い漫画のタイトルを慌てて言った。それは、令和では既に故人となっていた漫画界の大御所が描いた有名な作品のタイトルだった。
「あ、それ、私も好きよ」
「え、佐々木さん、少年漫画なんて読むんですか?」
「うん、弟と一緒に住んでいた頃は、弟が友達から借りてきたものを読んだりしていたから」
佐々木さんの口調は最後に向かうにしたがって暗くなっていった。弟と暮らせなくなった悲しい理由がそこに在りそうだった。以前の話の内容も考えると、佐々木さんの両親は離婚して、佐々木さんは母親が、弟は父親が引き取ったのではないかと、僕は推測した。
僕がそんな推測をしている間に、佐々木さんは明るい方向に話の舵を切った。
「ねえ、九人の改造人間の話って読んだことある?」
「はい、あります。僕の大好きな作品です」
それは嘘ではなかった。
その漫画の話で僕たちはかなり盛り上がり、暗くなりかけた雰囲気は一気に消えていった。
コーヒーも飲み終わり、そろそろ店を出る潮時かと思われた頃、佐々木さんが言い出した。
「ねえ、宿のお婆さんに聞いたんだけど、川の方に行くと蛍が見えるんだって。行ってみない?」
「ああ、良いですね」
僕は素直に賛同した。合掌造りの里に淡い蛍の光、なんとも素晴らしい組み合わせに思えた。
それから僕たちはそれぞれにコーヒーの代金を払って店を出た。
川は合掌造りの家が並ぶ地域からは通りを挟んで反対側を流れていた。僕たちは通りを渡り、川の方に続いていると思われる小道に足を踏み入れた。
ほとんど光のない暗い道を男と歩いているというのに、佐々木さんは警戒心を抱く様子もなく、さっさと僕の前を進んだ。
やがて、川にたどり着く少し前の、やや開けた場所に出ると佐々木さんは足を止めた。
「ほら見て、久雄君、蛍が飛んでるよ」
佐々木さんが指さした方を見ると、小さな光がふわふわと浮いているのが目についた。本物の蛍を見たのは初めてだった。
「僕、蛍、初めて見ました」
「そう。私も初めて見たわ。とても奇麗ね」
「ええ、そうですね」
その微かな光は、美しくもどこか儚げだった。まるで僕の心の中を見透かしたように佐々木さんがつぶやいた。
「蛍、奇麗だけど儚いよね。短い命だから、こうして精いっぱい光って消えてゆくんだね」
健康的に見える佐々木さんにしては、妙に感傷的で悲観的なものの言い様だった。まだ二十歳前で、これから益々美しく輝きそうな佐々木さんが、どうしてそんなことを言ったのか僕にはまるで分からなかった。
国道に戻る途中、ふと佐々木さんが空を指さした。
「ああ、北斗七星、奇麗に見えるわね」
「ああ、本当ですね。僕、なんか初めて見たような気がします」
「ええ、まさか、都会でも見える星座だよ」
「そうなんですか?」
答えながら気づいた。僕は今まで、星に興味を持って空を見上げたことなどなかったことに。
そんなことを考えていたら佐々木さんに聞かれた。
「久雄君、星座は何?」
「ああ、確か蟹座だったと思います」
「そうなんだ。じゃあ、私たち相性が良いのよ。私は蠍座だから」
「そうなんですか?」
「そう。私は蠍座の女なの」
佐々木さんは苦々しくつぶやいた。
何か意味がありそうな気がした。そう言えば、そんな歌があったことを僕は思い出した。
「蠍座の女だから嫌われちゃったのかな?」
「ええ、僕は佐々木さんのこと嫌ったりしてませんよ」
僕は驚いて否定した。
「違うよ。久雄君のことじゃないよ。私を捨てた男のことよ」
そういうことかと思った。
「白状しちゃうとね。この旅は傷心旅行だったんだ」
傷心旅行、令和では死語だ。
佐々木さんのような素敵な女性を捨てるなんて、世の中にはひどい男もいたものだと思った。
祖父の話によれば、男に捨てられた僕の母の心の隙間に父は付け込んだといつことだった。だが、母がその男に捨てられなければ、僕は生まれてこなかったのだなと変なことを思った。まだ、女の子と付き合ったこともない僕にとって、男と女の世界は実に不可解なものに見えた。
民宿に戻ると、僕たちは、障子一つ隔てた隣同士の部屋の前で挨拶を交わし、それぞれの部屋に入った。
布団を敷き、さあ、寝ようかと思った時、襖越しに佐々木さんの声が聞こえてきた。
「ねえ、久雄君、まだ起きてるよね」
「はい、起きてます」
「あの、もうちょっとお話しない?」
「ええ、いいですよ」
「ありがとう」
そうは言われたものの、佐々木さんと同じ時代を生きていない僕は、もう何を話して良いのか分からなかった。仕方なく僕はありきたりの質問をした。
「佐々木さんはどうして美容師になろうと思ったんですか?」
「どうしてか。うん、長くなるけど聞いてくれる?」
「はい、もちろん」
話が長くなるのは僕にとって好都合だった。正直少しほっとした。
「私が中学を卒業するタイミングで両親が離婚して、私はお母さんと一緒に大阪に行ったの」
弟のことについては触れなかったが、僕の推測は当たっているようだった。
「大阪には母の実家があって、お母さんはそこで美容室を始めたの」
佐々木さんはそこで一度言葉を切った。
「私も心機一転頑張ろうとは思ったんだけど、文化の違う大阪の高校に馴染めなかったの。それで友達もできなくて、グレちゃったの。お母さんにも随分とつらくあたってたわ」
自分と少しだけ共通するところがあるような気がした。
「それで、高三の初めにね、とうとう髪を染めちゃったの」
染髪など令和の時代の女子高生なら珍しくもないことだが、祖父の高校時代なら、かなりの不良がやることのようだった。今の佐々木さんからは想像もできないことだった。
「家に帰ったら、お母さんは激怒すると思ったんだけど、お母さんは全然怒らなくて、平然と言ったの。『あんた、その下手くそな染髪にいくら払ったの?私に言えば、ただでもっと上手にやってあげたのに』ってね」
佐々木さんのお母さんは、いかにも昭和初期の生まれの、肝の据わった職人であり母親だったのだと思った。令和の時代にはそんな母親はいそうになかった。
佐々木さんの話は更に続いた。
「次の日、学校に行ったら、すぐに職員室に呼び出されると思ったんだけど、そんなことはなくて、担任の先生に呼び出されたのは放課後だったの。ひどく怒られるのかと思ったら先生は静かにこう言ったの。『佐々木、お前のお母さんは良い人だな。私が無理やり娘をモデルにしたのでどうか怒らないでくださいと、今朝、電話があったんだ。なあ、佐々木、もうお母さんを苦しめるような真似は止めにしないか?』ってね。先生も、なんだか涙ぐんでた」
話しながら佐々木さんも少し詰まらせていた。
僕は、黙って佐々木さんが話の続きを始めるのを待った。
「私ね、家に帰ってからお母さんに頼んだの。『私、普通の高校生になりたい』って。そうしたら」お母さんは『お店が終ったらね』って言ってくれたの」
佐々木さんは感極まったのか、一度そこで話が途切れた。
「私が椅子に座ると、お母さんは、私が早く普通の高校生に戻れるように髪を短くカットしてから黒染めをしてくれたの。その時のお母さんは本当にプロの顔をしていた。すごくカッコ良かった。そんなお母さんを見て、私も美容師になりたいって思ったの」
佐々木さんの話は、正に昭和の青春ドラマのようだった。もし、そんな話をテレビで見せられたら、僕は下らないと言い切っていただろう。
だが、僕は佐々木さんの話に素直に感動していた。直接聞いた話だけにある確かなリアリティーがそこにあり、決して作りごとのお涙頂戴ではなかったからだ。
僕はふと自分のことを振り返った。そしてしばらく黙り込んでしまうと、襖の向こうから声がした。
「久雄君、もしかして、もう寝ちゃったの?」
「いえ、とんでもない。ちゃんと聞いてましたよ」
「ありがとう。くだらない話につきあってくれて」
「とんでもない。とても良いお話で感動しました」
「大袈裟ね。ところで久雄君は、もう将来の進路とか決まっているの?」
問われて僕は返答に困った。祖父が高一の時、どんな進路を考えていたのか、僕には知る由もなかった。仕方なく、僕は無難な答えでお茶を濁すことにした。
「僕はまだ決まっていません」
「そうよね。まだ高校に入ったばかりだものね。たぶん、決まっている人の方が少ないよね」
僕は、佐々木さんの言葉にほっとした。この件については、それ以上話す必要はなさそうだった。
そして、僕はまた自分自身のことを考え直した。僕は両親の仕事中の顔を見たことがなかった。もしかしたら、いや間違いなく、二人はプロの顔をしているはずだった。しかし僕が見てきたのは家にいる時の疲れた顔ばかりだった。そんな二人の私生活の顔を見ただけで、僕は自分の進路に疑問を抱いた末に、今の情けない状態に陥っていた。僕も、一度は両親の仕事中の顔を見るべきだったのかもしれないと思った。
僕が少し物思いにふけっていると、また襖越しに佐々木さんの声がした。
「ねえ、襖越しじゃなくて、こっきに来て話をしない?」
思いもしなかったお誘いに僕は激しく動揺した。
この時間に佐々木さんの部屋に行けば、お話だけでは終わらないかもしれないと思った。行くべきか留まるべきか、僕はハムレットの気分だった。
僕の、いや、祖父の体は明らかに行きたがっていた。十六歳の僕としても、佐々木さんのような魅力的な女性のお誘いに心が揺れないはずはなかった。
僕にとって、顔も見たことがない祖母の人格は存在しなかった。だから僕は、佐々木さんが僕の祖母であるという感覚が持てなかった。
僕は考えを巡らせた。お誘いに乗ることが自然な流れで、断る方がむしろ流れに逆らう行いではないかと。しかし、それは僕自身の十六歳の欲望を肯定するための方便のようにも感じられた。
祖父と祖母は白川郷で出会ったその日に結ばれた。もし、それが歴史であったならば、断ることは歴史を変えることになり、それは僕の消滅に繋がるのだ。だから、僕は行く義務があるのかもしれないと思った。しかし、それも所詮は言い訳に過ぎないような気もした。『落ち着け』と思った。『落ち着いて考えろ』と自分に言い聞かせた。
気持ちが行く方に傾きかけた時、僕はふと斉藤さんの言葉を思い出した。それは『僕の判断ではなく、祖父ならばどうしたかを考えて判断する必要がある』という言葉だった。
祖父ならばどうしたのだろうと考えながら、僕はふと思い出した。祖父は、僕の父が、傷ついていた母の弱みにつけこんだと、しきりに非難していた。それはつまり、『自分ならそんなことはしない』、あるいは『自分はそんなことはしなかった』と、祖父は主張したかったのかもしれないと僕は思えてきた。
だとしたら、傷つき、弱っている佐々木さんのお誘いに祖父は乗らなかったはずだ。あの頑固そうな祖父が、自分のしたことを棚に上げて、一方的に僕の父を非難するとは思えなかった。
僕は自分の存在を左右する決断を迫られたわけだが、どうにかそれに答えを出し、その答えを佐々木さんに告げた。
「佐々木さん、僕もそっちに行ってお話ししたいところですが、そろそろ寝ないと明日に差し支えるので、もう寝ようと思います」
「そう」
佐々木さんの返答はやや寂しそうだった。
「佐々木さん、でもその代わり、明日の朝、一緒に散歩しませんか?さっき行った喫茶店で見た高台に一緒に行ってみたいんです。明日の朝、六時、玄関で待ってますから」
「うん、分かった。じゃあ、また明日ね」
佐々木さんの声は嬉しそうにも悲しそうにも聞こえた。
「はい、じゃあ、また明日」
僕は当然そこで会話が途切れるものと思ったが、襖の向こうから、また声が聞こえてきた。
「久雄君、ありがとう」
8月2日の朝が来て、六時に玄関に行くと、佐々木さんの姿があった。
「おはよう」
「おはようございます」
挨拶を交わすと、僕たちはすぐに扉を開いて宿の外に出た。ほんの少しだけ霧がかかった爽やかな夏の朝だった。僕はもらった地図を開いて高台の位置を確かめた。
「高台はこっちみたいですね」
「そうね、じゃあ行きましょうか」
僕たちは今日の予定について話しながら高台に向かった。清々しい夏の朝の空気の中に、昨夜の緊張感は奇麗に溶けていった。高台にたどり着くころには、わずかばかりあった霧もすっかり消えていた。
朝が早かったので、まだ高台の上には人の姿はなく、見下ろした村もまた、未だ目を覚ましていなかった。
合掌造りの家々が点在する白川郷を、僕たちはただ黙って見つめた。言葉など必要でないような気がした。同時に僕は、前の晩の自分の選択が間違っていなかったことを確信した。
朝食の後、朝一番のバスで高山に向かい大阪に帰る佐々木さんをバス停で見送る約束をした。
僕が玄関脇で出発の準備をしていると、やや大きな荷物を抱えた佐々木さんが現れた。
「あの、佐々木さん、一緒に写真を撮りませんか」
佐々木さんの連絡先を教えてもらうという思惑はあったが、一緒に写真を撮りたいという気持ちもまた嘘ではなかった。
「うん、いいね。じゃあ、お婆ちゃんに頼んでみよう」
佐々木さんは玄関脇の縁側に荷物を置くと、お婆さんを呼びに宿の中に戻り、お婆さんを連れてきた。そして僕たちは、僕の、いや祖父のカメラで何枚か写真を撮ってもらった。
「ねえ、久雄君、今撮った写真、送ってくれないかな?」
都合の良いことに佐々木さんの方からそう言ってくれた。
「ああ、もちろんです。じゃあ、連絡先を書いてくださいね」
僕は嬉々としてメモ帳とペンをフロントバッグから取り出し、それらを佐々木さんに差し出した。佐々木さんはそれらを受け取るとサラサラと住所から電話番号まで何の迷いもなく書いていった。昨日会ったばかりの人間にそのような個人情報を伝えるなど令和なら考えられないことだった。佐々木さんは書き終わると、メモ帳を閉じ、ペンと一緒に僕に返した。
「じゃあ、久雄君の連絡先も書いてね」
そう言いながら、佐々木さんは自分のメモ帳を僕に渡してきた。僕は、怪しまれないようにと暗記していた祖父の連絡先をそこに書き込み佐々木さんに返した。
一応、確認しておこうと思い、自分のメモ帳を開いた途端に頭の中が真っ白になった。メモ帳に書かれていた名前は「佐々木愛華」だった。
呆然とする僕の様子があまりにもひどかったのか、佐々木さんに問われた。
「どうしたの?何か変だった?」
「いえ、佐々木さんの下の名前って、愛子だと思ってたので。ちょっと驚いただけです。昨日、お婆さんが『愛子』って言ったような気がしていたので」
「あら、そうなの。ああ、あのお婆さん、かなり訛りがきつかったから、愛華が愛子に聞こえたのかもね?」
「そうですね」
そう答えるのがやっとだった。旅の約半分はどうにか終えたものの、祖母探しは見事に振り出しに戻ってしまった。
バス停まで歩いて行った僕たちはベンチに並んで腰を降ろした。そして、ほんのわずかだったが、共に過ごした時間をあれこれと辿った。しかし、いよいよバスが来る時間が近づくと僕たちは無言になった。
佐々木さんが祖母でなかったことに落胆した気持ちなど、もはやどこにもなかった。ただ単純に別れが切なかった。白川郷の美しい思い出を僕は一生忘れないだろうと思った。
バスの到着時刻が近づいた頃、佐々木さんが口を開いた。
「久雄君が良い子でよかったわ」
僕は佐々木さんの発言の真意がつかめなかった。
「久雄君、私ね、危うく奇麗な思い出を台無しにするところだったわ」
その言葉を聞いて、ようやく僕は気づいた。佐々木さんは更に続けた。
「私、この旅のことは絶対に忘れないと思う。この旅で、久雄君に会えて良かったわ。写真送ってね」
「はい」
僕はそれしか言えなかった。本当は『僕も佐々木さんに会えて良かった』と言いたかったが、言葉にできなかった。
その後、佐々木さんは少しためらいがちに切り出した。
「久雄君、私、このままだとなんだか泣いちゃいそうだから、もう行ってちょうだい。この後の旅も頑張ってね」
「はい」
そうとだけ答えるのが良いような気がした。
「じゃあね」
そう言って佐々木さんは僕の方に右手を差し出した。僕は佐々木さんの手を取り、握手を交わした。アニメやゲームのキャラクターにはない確かなぬくもりがそこにあった。
「じゃあ、失礼します」
そう言い置いて、僕はバス停を後にした。
祖父が佐々木さんに写真を送ったことは疑いの余地がなかった。しかし、この後まもなく祖母に出会った祖父と、佐々木さんの間で、長く深い交流があったとは思えなかった。まさしくそれは、祖父の言う一期一会の出会いだったのだろう。そして、それは、たぶん僕にとっても同じことなのだろうと思った。
とはいえ、これで終わりといのは、なんとなく納得がいかなかった。もう少しきちんと佐々木さんを見送りたいと思った。どうしようかと思った時、村を見下ろせる高台のことを思い出した。『そうだ、あそこでバスを見送ろう』、そう思った。
急いで民宿に戻ると、僕は自転車を漕ぎ、高台に向かった。そうして、再び、合掌造り古民家が並ぶ集落を見下ろした。
発車時刻が過ぎた頃、一台のバスが高山の方に走ってゆくのが見えた。なぜだかその時、僕は、佐々木さんがバスの窓から僕のいる高台の方を見ているような気がした。見えるはずもないのに、僕はバスに向かって大きく手を振った。
その後すぐに、バスは合掌造りの里を見下ろす風景の中に溶けて消えた。
第五話 終
白川郷は「合掌造りの里」として有名だ。大晦日、年明け直前に始まり年末年始の全国各地の様子を伝えるテレビ番組には、ほぼ毎年出てくる。背の高い急角度の茅葺屋根を持つ合掌造りの古民家がいくつも雪に埋もれている情景は、多くの人にとって一度は見たことのある景色であるはずだ。
白川郷に着くと観光案内所はすぐに見つかり、あっという間に合掌造りの民宿・中田を紹介してくれた。白川郷の合掌造りの民宿に、当日飛び込みで泊れることになったのだ。しかも、二食付きで三千円。ユースよりも少々高いが、ドミトリーではなく一部屋利用だ。令和の時代では考えられなかったことだった。嘘みたいな話だと思いながら行ってみると、そこは正しく合掌造りの古民家そのものだった。
僕は民宿のお婆さんの案内で部屋に通された。夕食は、居間で7時からだと聞かされた。荷物を部屋に運び込んだ後、僕はせっかくだから集落内を自転車で回ってみることにした。
雪に埋もれた白川郷は見慣れていたが、緑溢れる白川郷も悪くなかった。夕陽に包まれた合掌造りの家々はまるで昔話の中から抜け出してきたみたいだった。秋の花であるコスモスがすでに花を咲かせていて、その向こうに合掌造りの古民家がある風景はまるで一枚の絵のように思えた。微かに聞こえてくるヒグラシの声もまた耳に優しかった。まだ世界遺産には登録されていない白川郷は静かな山里そのものだった。
おかげで僕は、気分がとても楽になった。今夜は七泊の旅の四泊目だから、旅の約半分は無事に済んだことになる。民宿のお婆さんの話では今日の泊り客は僕だけのようだから、祖母と出会うこともなさそうだった。昨日までの三泊は諸般の事情により落ち着かない夜を過ごしたが、今夜は一人部屋で落ち着いた夜が過ごせそうだった。
民宿に戻り、部屋でくつろいでいると、あっという間に7時はやってきた。居間に移動すると、お膳には二人分の夕食が準備されていた。お婆さんの勘違いで、どうやれ僕の他にも、もう一人宿泊客がいるようだった。
僕がお膳の前に腰を降ろすと、先ほどのお婆さんと、二十歳くらいに見える女性が、ほぼ同時に居間に入ってきた。女性は髪が長く、すらっとした美しい人だった。女性が僕の向かいに腰を降ろすと、お婆さんがご飯の入ったお櫃をお膳の上に乗せた。
それから、お婆さんは訛りの強い口調でお客同士の紹介をした。
「こちらの男の子は東京から来た桑原久雄君、こちらの女性は大阪から来た佐々木アイコさん。今日は、お二人だけですから仲良くしてくださいね。後で一緒に喫茶店にでも出かけたらいかがですか?」
お婆さんはそう言うと居間から出ていった。
「佐々木です。よろしくお願いします」
「ああ、ええと、僕は桑原、桑原久雄です」
僕は返答にまごついてしまった。いきなり目の前に祖母らしき女性が現れたのだから無理もなかった。
佐々木さんは僕より三つ四つ年上のように見えた。僕は祖父母のことは何も知らないに等しかったので、祖母が祖父よりも年上だったとしても不思議ではなかった。ちらっとしか見なかった祖母の遺影と祖父の顔を思い出してみても、六十を過ぎた二人の年齢差などはっきりする訳もなかった。
あれこれと考えても仕方がなかった。とにかく、僕は目の前にいる佐々木さんと仲良くなるしかなかった。
「じゃあ、いただきましょうか」
「ああ、そう、そうですね。いただきましょう」
僕はまた口籠ってしまった。
「いただきます」
「いただきます」
ほぼ同時にそう言って、僕たちは夕食を食べ始めた。
僕は目の前の夕食よりも、祖母らしき佐々木さんのことが気になって仕方がなかった。仲良くなるためには、とにかく、まず話し掛けるしかなかった。僕はとりあえず無難な話題から入ることにした。
「あの、佐々木さんは学生さんですか?」
「美容専門学校の二年生よ」
佐々木さんが気持ちよく答えてくれたので、少し安心した。専門学校の二年生ということは、今は十九歳、僕や祖父より三歳年上ということになった。
「君は高校生かしら?」
佐々木さんが僕のことを聞いてきた。悪くない展開だと思った。
「はい、一年生です」
「まあ、高一で一人旅なんて、凄いわね」
「どうでしょう。家は東京なんですが、自転車を電車に乗せて福井県の敦賀まで行って、そこからここまで自転車で来たんです」
「ええ!本当?なんか信じられないな」
佐々木さんは僕の旅に感心してくれた。幸先の良い出だしだと思った。
「ここまで来るのも結構大変でしたが、これからがもっと大変らしいんです」
「あら、どうして?」
「高山から北アルプス越えをして松本方面に行くんですが、坂道がとんでもなく険しいそうです」
「うわあ、なんか聞いただけでも大変そう。君、すごく根性があるのね」
「はい、最近、よくそう言われます」
『根性』、僕が嫌いな昭和の言葉だが、佐々木さんに言われると悪い気がしなかった。
「凄いなあ。私なんて、ただ電車とバスを乗り継いできただけだから」
「いえ、それが普通だと思います」
「自転車で何百キロも旅行したりする方がどうかしているんですよ」
つい僕自身の本音が出てしまった。まずいと思った。
「あら、それじゃあ、どうして君は自転車で旅行をしているの」
当然のような質問が佐々木さんから返ってきた。
「ええ、まあ、何というか、仕方なくというか」
「何か秘密でもあるのかしら?」
一瞬、自分の正体を見破られたかとドキンとしたが、そんなことがある訳もなかった。
「いやあ、別に秘密なんてありませんよ。ところで佐々木さんは大阪の方なのにバリバリの標準語ですね」
僕は慌てて話題を逸らした。
「高校を卒業するまでは東京に住んでいたから。親の都合で引っ越したんだけど、やっぱり、言葉は身についてしまうと変わらないのね」
「なるほど、そうでしたか」
落ち着きを取り戻した僕は、無難な方向で会話を続けるべく佐々木さんに質問をした。
「ところで、佐々木さんは、どうして白川郷のような田舎にわざわざいらしたんですか?」
「昔、東京に住んでいた子供の頃にね、電力会社のコマーシャルで、合掌造りの家に電灯がつくシーンがあったの。そこに住んでいる家族の温かみまで伝わってくるような、ほのぼのとした感じがとてもいいなと思ったの。だから、いつかはそこに行ってみたいなって、ずっと思ってたの」
「そうですか。僕はただ通過点っていう感じで特に思い入れはなかったんですけど、思いの他良い所でラッキーでした」
それは嘘ではなかった。夕暮れの白川郷の景色は如何にも日本的な情緒が感じられ、良い所だと思ったのは事実だった。佐々木さんが白川郷に魅かれた訳にも大きく頷けた。更には祖母らしき佐々木さんに会えたことも、白川郷をより良い場所だと思わせた。
その後、僕たちは、それまでに自分たちがしてきた旅のことを語り合った。佐々木さんとは別の時代に生きる僕にとっては、正直、それ以外の話題を見つけるのは難しかった。
しかし、出会ったばかりの佐々木さんは、とても感じの良い女性で、話していて楽しかった。僕は、急に自分に姉ができたような気分になった。佐々木さんはゲームやアニメに出てくる優しいお姉さん系のキャラのようで、実に魅力的な女性だった。
夕食がとても良い雰囲気で終わったものの、その程度で良いはずはなかった。祖父と佐々木さんが遠距離恋愛を経て結婚に至るまでの仲になるその始まりとしては、とてもそれだけでは十分とは思えなかった。
しかし、突然現れた姉のような佐々木さんは、そんな僕の心配を吹き飛ばすような素晴らしい提案をしてくれた。
「ねえ、さっきお婆さんが言っていた喫茶店に行ってみない?」
「ああ、はい、もう、よ、喜んで」
あまりの嬉しさに僕は少し噛んでしまった。
「どうしたの?喫茶店がそんなに珍しいわけでもないでしょう?彼女とだって行ったことあるでしょう」
「いえ、あの、僕、彼女とかいたことありません」
「あら、そうなの?モテそうに見えるけど」
「いや、その、とんでもない。まったくモテませんよ」
「そうなの、君の周りの女の子は見る目がないのね」
子供っぽい僕の対応が可笑しくて仕方がないとい言わんばかりの笑顔を佐々木さんは浮かべていた。
「私、お財布取って来るから、玄関で待っててね」
「はい、分かりました。僕も財布を取ってきます」
「そう、じゃあ玄関でね」
「はい」
僕が玄関で待っていると、佐々木さんはすぐにやってきた。
「お婆さんに場所をきちんと聞いてきたわ」
「ああ、すみません」
「じゃあ、行こうか?」
「はい」
僕たちが外に出ると、もうすっかり夜になっていた。佐々木さんを惹きつけたという合掌造りの家々の明かりが優しかった。
「佐々木さんがここに魅かれた理由、少し分かったような気がします」
「そう、なんか本当に温かみが感じられるわね。私、来て良かったわ」
「僕は、たまたまですが、やっぱり来られて良かったと思います」
「そう、良かったね。じゃあ、行こうか」
「はい」
佐々木さんに促され、僕は、優しい明かりを放つ合掌造りの家並みが続く道を歩き始めた。
喫茶店はすぐに見つかった。やはり合掌造りの家で、僕の時代で言えば、古民家カフェといった場所だった。令和ならば、長時間並ばないと入れない、あるいは予約が必要な店のような気がした。
店の中には大きな囲炉裏があった。僕たちは店員さんに導かれて、囲炉裏の角に九十度角に並んで座った。コーヒーを注文すると、すぐに届けられた。
「とても素敵なお店ね」
佐々木さんはコーヒーを一口飲むと周囲にぐるりと目を回した。
店内には民芸品のおみやげがあちこちに並び、飾りつけの一部として古い民具などが壁に掛けられていた。僕は、展示品の一つ、白川郷の全景の写真に目を止めた。高台から撮られたと見られるその写真の中には、緑に囲まれて合掌造りの家々が点在する白川郷の美しい姿が映っていた。明日は、是非その場所に行ってみたいと思った。
さて、僕は金沢に向かう途中、喫茶店で昼食を取ったが、喫茶店に入ったのはそれが初めてで、基本的には僕には喫茶店に入るという習慣がなかった。僕の時代の人間なら誰でも知っているようなチェーン店の店にすら足を踏み入れたことがなかった。増して、昭和の匂いがする個人経営の昔ながらの喫茶店など全く縁がなかった。
更に言えば、今回は佐々木さんのような素敵な女性が一緒だった。お受験の末に、中学から男子校の僕にすれば、たかが喫茶店が飛び切り貴重な体験になった。
コーヒーを飲む佐々木さんの姿は、やはりアニメやゲームに出てくる素敵なお姉さまキャラそのもの、いや、現実に存在する人物だけにそれ以上だった。
女の子と付き合った経験はなかったが、十六歳の少年の僕が、佐々木さんのような素敵な女性に心魅かれたのは当然のことだった。とはいえ、祖母かもしれないに佐々木さんに対して明確な恋愛感情は湧かなかった。しかし、僕の中では魅力的な年上の従姉に抱くような淡い思いが芽生え始めていた。
「ねえ、久雄君は漫画とか読むの?」
楽しい会話の最中、佐々木さんが格好の話題を振ってきた。
「はい、大好きです」
「どんな漫画が好きなの?」
「そうですね、今、一番好きなのは….」
言いかけた漫画のタイトルを僕は慌てて飲み込んだ。僕はあやうく、昭和にはまだ存在しない令和の人気作品のタイトルを言ってしまう所だったのだ。僕はどうにか動揺を隠し、父方の祖父が物置にしまっていた古い漫画のタイトルを慌てて言った。それは、令和では既に故人となっていた漫画界の大御所が描いた有名な作品のタイトルだった。
「あ、それ、私も好きよ」
「え、佐々木さん、少年漫画なんて読むんですか?」
「うん、弟と一緒に住んでいた頃は、弟が友達から借りてきたものを読んだりしていたから」
佐々木さんの口調は最後に向かうにしたがって暗くなっていった。弟と暮らせなくなった悲しい理由がそこに在りそうだった。以前の話の内容も考えると、佐々木さんの両親は離婚して、佐々木さんは母親が、弟は父親が引き取ったのではないかと、僕は推測した。
僕がそんな推測をしている間に、佐々木さんは明るい方向に話の舵を切った。
「ねえ、九人の改造人間の話って読んだことある?」
「はい、あります。僕の大好きな作品です」
それは嘘ではなかった。
その漫画の話で僕たちはかなり盛り上がり、暗くなりかけた雰囲気は一気に消えていった。
コーヒーも飲み終わり、そろそろ店を出る潮時かと思われた頃、佐々木さんが言い出した。
「ねえ、宿のお婆さんに聞いたんだけど、川の方に行くと蛍が見えるんだって。行ってみない?」
「ああ、良いですね」
僕は素直に賛同した。合掌造りの里に淡い蛍の光、なんとも素晴らしい組み合わせに思えた。
それから僕たちはそれぞれにコーヒーの代金を払って店を出た。
川は合掌造りの家が並ぶ地域からは通りを挟んで反対側を流れていた。僕たちは通りを渡り、川の方に続いていると思われる小道に足を踏み入れた。
ほとんど光のない暗い道を男と歩いているというのに、佐々木さんは警戒心を抱く様子もなく、さっさと僕の前を進んだ。
やがて、川にたどり着く少し前の、やや開けた場所に出ると佐々木さんは足を止めた。
「ほら見て、久雄君、蛍が飛んでるよ」
佐々木さんが指さした方を見ると、小さな光がふわふわと浮いているのが目についた。本物の蛍を見たのは初めてだった。
「僕、蛍、初めて見ました」
「そう。私も初めて見たわ。とても奇麗ね」
「ええ、そうですね」
その微かな光は、美しくもどこか儚げだった。まるで僕の心の中を見透かしたように佐々木さんがつぶやいた。
「蛍、奇麗だけど儚いよね。短い命だから、こうして精いっぱい光って消えてゆくんだね」
健康的に見える佐々木さんにしては、妙に感傷的で悲観的なものの言い様だった。まだ二十歳前で、これから益々美しく輝きそうな佐々木さんが、どうしてそんなことを言ったのか僕にはまるで分からなかった。
国道に戻る途中、ふと佐々木さんが空を指さした。
「ああ、北斗七星、奇麗に見えるわね」
「ああ、本当ですね。僕、なんか初めて見たような気がします」
「ええ、まさか、都会でも見える星座だよ」
「そうなんですか?」
答えながら気づいた。僕は今まで、星に興味を持って空を見上げたことなどなかったことに。
そんなことを考えていたら佐々木さんに聞かれた。
「久雄君、星座は何?」
「ああ、確か蟹座だったと思います」
「そうなんだ。じゃあ、私たち相性が良いのよ。私は蠍座だから」
「そうなんですか?」
「そう。私は蠍座の女なの」
佐々木さんは苦々しくつぶやいた。
何か意味がありそうな気がした。そう言えば、そんな歌があったことを僕は思い出した。
「蠍座の女だから嫌われちゃったのかな?」
「ええ、僕は佐々木さんのこと嫌ったりしてませんよ」
僕は驚いて否定した。
「違うよ。久雄君のことじゃないよ。私を捨てた男のことよ」
そういうことかと思った。
「白状しちゃうとね。この旅は傷心旅行だったんだ」
傷心旅行、令和では死語だ。
佐々木さんのような素敵な女性を捨てるなんて、世の中にはひどい男もいたものだと思った。
祖父の話によれば、男に捨てられた僕の母の心の隙間に父は付け込んだといつことだった。だが、母がその男に捨てられなければ、僕は生まれてこなかったのだなと変なことを思った。まだ、女の子と付き合ったこともない僕にとって、男と女の世界は実に不可解なものに見えた。
民宿に戻ると、僕たちは、障子一つ隔てた隣同士の部屋の前で挨拶を交わし、それぞれの部屋に入った。
布団を敷き、さあ、寝ようかと思った時、襖越しに佐々木さんの声が聞こえてきた。
「ねえ、久雄君、まだ起きてるよね」
「はい、起きてます」
「あの、もうちょっとお話しない?」
「ええ、いいですよ」
「ありがとう」
そうは言われたものの、佐々木さんと同じ時代を生きていない僕は、もう何を話して良いのか分からなかった。仕方なく僕はありきたりの質問をした。
「佐々木さんはどうして美容師になろうと思ったんですか?」
「どうしてか。うん、長くなるけど聞いてくれる?」
「はい、もちろん」
話が長くなるのは僕にとって好都合だった。正直少しほっとした。
「私が中学を卒業するタイミングで両親が離婚して、私はお母さんと一緒に大阪に行ったの」
弟のことについては触れなかったが、僕の推測は当たっているようだった。
「大阪には母の実家があって、お母さんはそこで美容室を始めたの」
佐々木さんはそこで一度言葉を切った。
「私も心機一転頑張ろうとは思ったんだけど、文化の違う大阪の高校に馴染めなかったの。それで友達もできなくて、グレちゃったの。お母さんにも随分とつらくあたってたわ」
自分と少しだけ共通するところがあるような気がした。
「それで、高三の初めにね、とうとう髪を染めちゃったの」
染髪など令和の時代の女子高生なら珍しくもないことだが、祖父の高校時代なら、かなりの不良がやることのようだった。今の佐々木さんからは想像もできないことだった。
「家に帰ったら、お母さんは激怒すると思ったんだけど、お母さんは全然怒らなくて、平然と言ったの。『あんた、その下手くそな染髪にいくら払ったの?私に言えば、ただでもっと上手にやってあげたのに』ってね」
佐々木さんのお母さんは、いかにも昭和初期の生まれの、肝の据わった職人であり母親だったのだと思った。令和の時代にはそんな母親はいそうになかった。
佐々木さんの話は更に続いた。
「次の日、学校に行ったら、すぐに職員室に呼び出されると思ったんだけど、そんなことはなくて、担任の先生に呼び出されたのは放課後だったの。ひどく怒られるのかと思ったら先生は静かにこう言ったの。『佐々木、お前のお母さんは良い人だな。私が無理やり娘をモデルにしたのでどうか怒らないでくださいと、今朝、電話があったんだ。なあ、佐々木、もうお母さんを苦しめるような真似は止めにしないか?』ってね。先生も、なんだか涙ぐんでた」
話しながら佐々木さんも少し詰まらせていた。
僕は、黙って佐々木さんが話の続きを始めるのを待った。
「私ね、家に帰ってからお母さんに頼んだの。『私、普通の高校生になりたい』って。そうしたら」お母さんは『お店が終ったらね』って言ってくれたの」
佐々木さんは感極まったのか、一度そこで話が途切れた。
「私が椅子に座ると、お母さんは、私が早く普通の高校生に戻れるように髪を短くカットしてから黒染めをしてくれたの。その時のお母さんは本当にプロの顔をしていた。すごくカッコ良かった。そんなお母さんを見て、私も美容師になりたいって思ったの」
佐々木さんの話は、正に昭和の青春ドラマのようだった。もし、そんな話をテレビで見せられたら、僕は下らないと言い切っていただろう。
だが、僕は佐々木さんの話に素直に感動していた。直接聞いた話だけにある確かなリアリティーがそこにあり、決して作りごとのお涙頂戴ではなかったからだ。
僕はふと自分のことを振り返った。そしてしばらく黙り込んでしまうと、襖の向こうから声がした。
「久雄君、もしかして、もう寝ちゃったの?」
「いえ、とんでもない。ちゃんと聞いてましたよ」
「ありがとう。くだらない話につきあってくれて」
「とんでもない。とても良いお話で感動しました」
「大袈裟ね。ところで久雄君は、もう将来の進路とか決まっているの?」
問われて僕は返答に困った。祖父が高一の時、どんな進路を考えていたのか、僕には知る由もなかった。仕方なく、僕は無難な答えでお茶を濁すことにした。
「僕はまだ決まっていません」
「そうよね。まだ高校に入ったばかりだものね。たぶん、決まっている人の方が少ないよね」
僕は、佐々木さんの言葉にほっとした。この件については、それ以上話す必要はなさそうだった。
そして、僕はまた自分自身のことを考え直した。僕は両親の仕事中の顔を見たことがなかった。もしかしたら、いや間違いなく、二人はプロの顔をしているはずだった。しかし僕が見てきたのは家にいる時の疲れた顔ばかりだった。そんな二人の私生活の顔を見ただけで、僕は自分の進路に疑問を抱いた末に、今の情けない状態に陥っていた。僕も、一度は両親の仕事中の顔を見るべきだったのかもしれないと思った。
僕が少し物思いにふけっていると、また襖越しに佐々木さんの声がした。
「ねえ、襖越しじゃなくて、こっきに来て話をしない?」
思いもしなかったお誘いに僕は激しく動揺した。
この時間に佐々木さんの部屋に行けば、お話だけでは終わらないかもしれないと思った。行くべきか留まるべきか、僕はハムレットの気分だった。
僕の、いや、祖父の体は明らかに行きたがっていた。十六歳の僕としても、佐々木さんのような魅力的な女性のお誘いに心が揺れないはずはなかった。
僕にとって、顔も見たことがない祖母の人格は存在しなかった。だから僕は、佐々木さんが僕の祖母であるという感覚が持てなかった。
僕は考えを巡らせた。お誘いに乗ることが自然な流れで、断る方がむしろ流れに逆らう行いではないかと。しかし、それは僕自身の十六歳の欲望を肯定するための方便のようにも感じられた。
祖父と祖母は白川郷で出会ったその日に結ばれた。もし、それが歴史であったならば、断ることは歴史を変えることになり、それは僕の消滅に繋がるのだ。だから、僕は行く義務があるのかもしれないと思った。しかし、それも所詮は言い訳に過ぎないような気もした。『落ち着け』と思った。『落ち着いて考えろ』と自分に言い聞かせた。
気持ちが行く方に傾きかけた時、僕はふと斉藤さんの言葉を思い出した。それは『僕の判断ではなく、祖父ならばどうしたかを考えて判断する必要がある』という言葉だった。
祖父ならばどうしたのだろうと考えながら、僕はふと思い出した。祖父は、僕の父が、傷ついていた母の弱みにつけこんだと、しきりに非難していた。それはつまり、『自分ならそんなことはしない』、あるいは『自分はそんなことはしなかった』と、祖父は主張したかったのかもしれないと僕は思えてきた。
だとしたら、傷つき、弱っている佐々木さんのお誘いに祖父は乗らなかったはずだ。あの頑固そうな祖父が、自分のしたことを棚に上げて、一方的に僕の父を非難するとは思えなかった。
僕は自分の存在を左右する決断を迫られたわけだが、どうにかそれに答えを出し、その答えを佐々木さんに告げた。
「佐々木さん、僕もそっちに行ってお話ししたいところですが、そろそろ寝ないと明日に差し支えるので、もう寝ようと思います」
「そう」
佐々木さんの返答はやや寂しそうだった。
「佐々木さん、でもその代わり、明日の朝、一緒に散歩しませんか?さっき行った喫茶店で見た高台に一緒に行ってみたいんです。明日の朝、六時、玄関で待ってますから」
「うん、分かった。じゃあ、また明日ね」
佐々木さんの声は嬉しそうにも悲しそうにも聞こえた。
「はい、じゃあ、また明日」
僕は当然そこで会話が途切れるものと思ったが、襖の向こうから、また声が聞こえてきた。
「久雄君、ありがとう」
8月2日の朝が来て、六時に玄関に行くと、佐々木さんの姿があった。
「おはよう」
「おはようございます」
挨拶を交わすと、僕たちはすぐに扉を開いて宿の外に出た。ほんの少しだけ霧がかかった爽やかな夏の朝だった。僕はもらった地図を開いて高台の位置を確かめた。
「高台はこっちみたいですね」
「そうね、じゃあ行きましょうか」
僕たちは今日の予定について話しながら高台に向かった。清々しい夏の朝の空気の中に、昨夜の緊張感は奇麗に溶けていった。高台にたどり着くころには、わずかばかりあった霧もすっかり消えていた。
朝が早かったので、まだ高台の上には人の姿はなく、見下ろした村もまた、未だ目を覚ましていなかった。
合掌造りの家々が点在する白川郷を、僕たちはただ黙って見つめた。言葉など必要でないような気がした。同時に僕は、前の晩の自分の選択が間違っていなかったことを確信した。
朝食の後、朝一番のバスで高山に向かい大阪に帰る佐々木さんをバス停で見送る約束をした。
僕が玄関脇で出発の準備をしていると、やや大きな荷物を抱えた佐々木さんが現れた。
「あの、佐々木さん、一緒に写真を撮りませんか」
佐々木さんの連絡先を教えてもらうという思惑はあったが、一緒に写真を撮りたいという気持ちもまた嘘ではなかった。
「うん、いいね。じゃあ、お婆ちゃんに頼んでみよう」
佐々木さんは玄関脇の縁側に荷物を置くと、お婆さんを呼びに宿の中に戻り、お婆さんを連れてきた。そして僕たちは、僕の、いや祖父のカメラで何枚か写真を撮ってもらった。
「ねえ、久雄君、今撮った写真、送ってくれないかな?」
都合の良いことに佐々木さんの方からそう言ってくれた。
「ああ、もちろんです。じゃあ、連絡先を書いてくださいね」
僕は嬉々としてメモ帳とペンをフロントバッグから取り出し、それらを佐々木さんに差し出した。佐々木さんはそれらを受け取るとサラサラと住所から電話番号まで何の迷いもなく書いていった。昨日会ったばかりの人間にそのような個人情報を伝えるなど令和なら考えられないことだった。佐々木さんは書き終わると、メモ帳を閉じ、ペンと一緒に僕に返した。
「じゃあ、久雄君の連絡先も書いてね」
そう言いながら、佐々木さんは自分のメモ帳を僕に渡してきた。僕は、怪しまれないようにと暗記していた祖父の連絡先をそこに書き込み佐々木さんに返した。
一応、確認しておこうと思い、自分のメモ帳を開いた途端に頭の中が真っ白になった。メモ帳に書かれていた名前は「佐々木愛華」だった。
呆然とする僕の様子があまりにもひどかったのか、佐々木さんに問われた。
「どうしたの?何か変だった?」
「いえ、佐々木さんの下の名前って、愛子だと思ってたので。ちょっと驚いただけです。昨日、お婆さんが『愛子』って言ったような気がしていたので」
「あら、そうなの。ああ、あのお婆さん、かなり訛りがきつかったから、愛華が愛子に聞こえたのかもね?」
「そうですね」
そう答えるのがやっとだった。旅の約半分はどうにか終えたものの、祖母探しは見事に振り出しに戻ってしまった。
バス停まで歩いて行った僕たちはベンチに並んで腰を降ろした。そして、ほんのわずかだったが、共に過ごした時間をあれこれと辿った。しかし、いよいよバスが来る時間が近づくと僕たちは無言になった。
佐々木さんが祖母でなかったことに落胆した気持ちなど、もはやどこにもなかった。ただ単純に別れが切なかった。白川郷の美しい思い出を僕は一生忘れないだろうと思った。
バスの到着時刻が近づいた頃、佐々木さんが口を開いた。
「久雄君が良い子でよかったわ」
僕は佐々木さんの発言の真意がつかめなかった。
「久雄君、私ね、危うく奇麗な思い出を台無しにするところだったわ」
その言葉を聞いて、ようやく僕は気づいた。佐々木さんは更に続けた。
「私、この旅のことは絶対に忘れないと思う。この旅で、久雄君に会えて良かったわ。写真送ってね」
「はい」
僕はそれしか言えなかった。本当は『僕も佐々木さんに会えて良かった』と言いたかったが、言葉にできなかった。
その後、佐々木さんは少しためらいがちに切り出した。
「久雄君、私、このままだとなんだか泣いちゃいそうだから、もう行ってちょうだい。この後の旅も頑張ってね」
「はい」
そうとだけ答えるのが良いような気がした。
「じゃあね」
そう言って佐々木さんは僕の方に右手を差し出した。僕は佐々木さんの手を取り、握手を交わした。アニメやゲームのキャラクターにはない確かなぬくもりがそこにあった。
「じゃあ、失礼します」
そう言い置いて、僕はバス停を後にした。
祖父が佐々木さんに写真を送ったことは疑いの余地がなかった。しかし、この後まもなく祖母に出会った祖父と、佐々木さんの間で、長く深い交流があったとは思えなかった。まさしくそれは、祖父の言う一期一会の出会いだったのだろう。そして、それは、たぶん僕にとっても同じことなのだろうと思った。
とはいえ、これで終わりといのは、なんとなく納得がいかなかった。もう少しきちんと佐々木さんを見送りたいと思った。どうしようかと思った時、村を見下ろせる高台のことを思い出した。『そうだ、あそこでバスを見送ろう』、そう思った。
急いで民宿に戻ると、僕は自転車を漕ぎ、高台に向かった。そうして、再び、合掌造り古民家が並ぶ集落を見下ろした。
発車時刻が過ぎた頃、一台のバスが高山の方に走ってゆくのが見えた。なぜだかその時、僕は、佐々木さんがバスの窓から僕のいる高台の方を見ているような気がした。見えるはずもないのに、僕はバスに向かって大きく手を振った。
その後すぐに、バスは合掌造りの里を見下ろす風景の中に溶けて消えた。
第五話 終



