朝、起きた途端に僕は失望した。目が覚めたら自分の部屋にいるのではないかという期待は見事に裏切られた。7月30日の朝を、僕は芦原温泉駅のベンチの上で迎えていた。体のあちこちがなんとなく痛み、疲れはまるでとれていなかった。
待合室の立ち食いそばを朝食とした。そんなに旨いはずがないのに、やけに旨い気がした。人が増える前に駅を出ようと思った。
朝、芦原温泉駅を出ると、僕は一路金沢に向かった。金沢までは祖父が見学を予定していた場所はなく、ただペダルを漕ぎ続けるだけだった。
金沢の市街地の外れに入った頃、僕は昼食を取ることにした。貨幣価値が分からない僕は、様子が分かるまで極力お金を節約しなければならない、とはいうもののコンビニはもちろん存在しない。できればラーメン屋、定食屋などにしたかったが、残念ながらそういう店は見つからなかった。
仕方なく僕は軽食も取れそうな喫茶店に入ることにした。祖父の高校時代には、令和ならどこにでもある有名チェーンのコーヒーショップはまだ存在しておらず、喫茶店はそのほとんどが個人経営の店だったようだった。僕はそういう個人経営の喫茶店に入るのは初めてだったが、炎天下の道を何時間も自転車を漕ぎ続けてきた自分にとって、冷房の効いた店内は正に天国だった。
僕が腰を降ろした席のテーブルは、なんと伝説のインベーダーゲームが組み込まれたものだった。コンピューターゲームの歴史にも興味があった僕は知っていた。今、僕がいる1978年の8月、それはインベーダーゲームが正に大ブームを巻き起こしている最中のはずだった。
インベーダーゲームは簡単に言うとこういうゲームだ。教室に並べられた机みたいに縦横奇麗に隊列を組んだ宇宙船の艦隊が左右に移動しながら少しずつ下に降りてくるのを砲台から弾を発射して撃ち落とすというものだ。敵の宇宙船を全て撃ち落とせば何度でもゲームを続けられるが、敵が一機でも砲台に達すればゲームオーバーだ。
戦闘中、艦隊の上に突然現れる母船を撃ち落とした場合の得点は不定で最高点は五百点だ。
令和の時代から見れば、インベーダーゲームは極めて原始的なゲームだが、シューティングゲームの元祖とも言うべきもので、コンピューターゲームの地位を確立させたと言っても良い存在だった。そんなわけで、僕も一度、懐かしいゲームを集めた店にわざわざ出かけてプレーしたことがあった。感慨深げにゲームの画面を眺めていて僕はふと思った。今は手元にないスマホについてだ。
僕が昨日まで当たり前のものとして使っていたものは、実はとてつもない技術の集合体だった。1978年には、家にしかなかった電話、家にすらなかったビデオカメラ、デジカメ、パソコン、ネット端末、更にはコンピューターゲーム、その他色々が手のひらに収まる機器に詰まっているのだから。196?年に、初めて月面に茶栗したアポロ11号に搭載されていたコンピューターはスマホ以下の処理能力しかなかったらしいが、それでも人は月に行ったのだ。それを考えたら、紙の地図だけを頼りに安曇野まで行く僕は、ずっとましだと思うべきだとは思った。とは言うものの当たり前だと思っていたスマホの恩恵を失くした喪失感は大きかった。
しかし、インベーダーゲームを見つめているうちに、僕は少し違った観点が芽生えた。それは、スマホに詰まっている技術をこれから少しずつ獲得してゆく喜びを味わえる祖父の世代の人々は案外幸せなのかもしれないということだった。
そんなことを考えているうちに店員がやってきた。サンドイッチを注文したところ、それはいくらも待たないうちに運ばれてきた。味も悪くなく、リーズナブルな価格ではあったが、苦行を続けてきた体には少々物足りなかった。そんなわけで、僕はあっという間にサンドイッチを完食してしまった。
とはいうものの、せっかく冷房の効いた店をさっさと出てしまうのはもったいない気がした。かといって追加の注文をするのも、手持ちの資金を考えると贅沢に過ぎた。
その時、ふと名案が浮かんだ。インベーダーゲームをすれば店に堂々と居座れると。出資はわずか五十円で済む。
実はインベーダーゲームにはバグがあった。それを発見したプレーヤーが「N打ち」という無敵の攻略法を編み出したのだ。その「N打ち」を使えば誰でも延々とゲームを続けることができた。更には一見不定に見える母船を撃ち落とした時の得点にも実は法則があり、それを心得ていれば、毎回最高の五百点をゲットできるのだった。
僕は五十円玉を投入すると、インベーダーゲームを始めた。僕はとうに昼食を済ませたとは言え、ゲームを続けているので、店員の目を気にすることなく冷房の効いた店に居座ることができた。
しかし、僕の休息を邪魔する予想外の人物が現れた。ちょっとガラの悪そうな二十歳くらいの青年が正面から僕とインベーダーゲームを見下ろしていた。
「兄ちゃん、今のゲームが終ったら代わってくれよ」
それは依頼というよりを命令に聞こえた。
「はい、分かりました」
そうは言ったものの、冷房の効いた店に居座るために貴重な50円を投資した身としては、簡単には引き下がれなかった。元を取ったと思えるまではゲームを止めるつもりなどなかった。
だから、僕は黙々とゲームを続けた。青年は、僕の隣の席に腰を降ろし、コーヒーを飲みながら僕が負けるのを今か今かと待ち望んでいた。しかし、一向に席を離れる気配のないことに気づくと、とうとうしびれを切らした。
「おい、兄ちゃん、こっそり次のゲームを始めたりしてないだろうな」
青年は僕を疑っていた。長時間ゲームを続けられる人間などまだいないはずだから、当然の反応と言えた。
「してませんよ」
僕はゲームの盤面から目を離さずに答えた。
「もし、嘘ついていやがったら...」
言いかけた青年の言葉は、僕のスコアを見て途中で途切れた。
「嘘だろう...」
言ったきり、青年の目は僕のプレーに釘付けになった。僕は母船を撃ち落とす度に必ず最高得点の500点をゲットし、青年には理解できない戦略でインベーダーの船団を繰り返し全滅させていたからだ。
そのうち、青年が口を開いた。
「なあ、兄ちゃん、それ、どうやってやってるんだ?俺にも教えてくれないか?」
その言葉を聞いて僕ははっとした。「N打ち」も「母船の法則」も、今の時点では、まだ発見されていなかったことに気づいたからだ。
本来の発見者ではない青年が、今の時点で「N打ち」や「母船の法則」を知ること、それは歴史が変わることを意味していた。ことの重大性に愕然とした僕は、すぐさま敵の攻撃を受け続けゲームを終わらせた。
「すみません。お待たせしました。どうぞ」
僕は慌てて席を立った。
「待てよ、兄ちゃん、俺にも秘密を教えてくれよ」
「秘密なんてありませんよ。じゃあ、僕はこれで...」
店から逃げ出そうとすると、僕は更に声を掛けられた。
「おい、ちょっと待てよ。飯おごるからさあ」
「いえ、先を急ぎますので」
引き留める青年を振り切って僕は店を出た。そして、自転車に跨ると、全速力で走りだした。『歴史を変えるような行動を取らないように最大限の注意を払わなければならない』と僕は走りながら肝に命じた。
喫茶店を出て間もなく、文豪・室生犀星のペンネームの由来となる犀川を渡り、僕は金沢の中心部に着いた。芦原温泉駅から、約60キロ、つまり東京の中心から横浜まで一往復するくらいの距離を漕いだわけだ。
金沢は加賀百万石の城下町だ。初代藩主を務めた前田利家は豊臣秀吉の五大老の一人で歴史の教科書には必ず登場する人物だ。しかし、金沢と聞いて僕が思い出す人物は前田利家ではなく前田慶次だった。
前田慶次は漫画の主人公にもなった人物だ。権威に阿ることなく、しばしば奇行に走る存在である傾奇者(かぶきもの)の慶次の活躍は爽快だった。前田家という枠に捕らわれなかった慶次は、前田家を捨てて金沢を去る。その後、慶次は益々自由闊達に生きてゆくのだが、敷かれた線路から外れてしまったものの何もできないでいる僕には慶次の姿はひどく眩しかった。
そんなことを考えながら僕はペダルを漕ぎ、祖父が計画した最初の見学地にたどり着いた。武家屋敷跡だ。歴史を感じさせる黄色がかった塀に挟まれた小道を、自転車を押して歩いた。既に四十年以上もタイムスリップをしてきたと言うのに、僕は更に昔へタイムスリップしたような感覚を覚えた。
向こうから前田慶次が愛馬・松風に乗って現れそうな気がした。僕の情けない様を見たら、慶次は何というのだろうかと思った。
「どおせなら、思い切り傾(かぶ)いて見せよ」と叱咤されそうな気がした。
祖父の計画書のあった次の見学地は兼六園だった。そこが日本三名園の一つであることは僕も知っていた。小さな石の太鼓橋の後ろ、池の中に二本の足を降ろす灯篭が見える光景は、金沢のポスターやパンフレットなどには必ず見られるものだ。
風情のある園内を歩いていると、自転車を漕ぎつかれた気分もかなり和らいだ。とはいうものの、やはり苦労して自転車を漕いで来なくても良いだろうという気持ちはやはり消えなかった。新幹線も開通した令和なら、東京からわずか2時間半程で金沢には来られるのだ。
ただ、アクセスがよくなったことに加えて、円安によるインバウンド景気のおかげで、金沢ではオーバーツーリズムが問題になっていると聞いたことがあった。しかし、僕が今いる1978年には、まだ、外国人観光客の数もそれほどではなかった。ゆったりとした時間を過ごすことができたという観点からすると、この時代に兼六園に来られたことは、幸運と言えなくもなかったが、僕にはそこまで思える心の余裕はなかった。
兼六園の次に向かったのは。金沢城跡だ。城跡への入口の一つである石川門が中々印象的だった。全体的にやけに白く見えるなと思った。その理由を知って少々驚いた。なんと瓦が鉛でできているというのだ。戦になったら、瓦を溶かして鉄砲の弾を作ろうとしていたというのだから用意周到だ。
もう一つ驚いたのは門の先の城跡は金沢大学のキャンパスだということだった。そんな場所で送る大学生活は、なんとなく格調が高そうな気がした。東京で生まれ育った僕は、自宅から東京の大学にゆくことしか考えていなかった。だが、一人で親元を離れて地方の大学で学ぶという選択肢も無くはなかったのだと、ふと気づいた。もっとも高校に行っていない僕は、このままでは大学には行けないのだが。
祖父の見学予定地の見学を済ませると僕は金沢のユースに向かった。ユースは駅の近くにあったが、ハンドブックに載っていた地図は分かりにかった。少し道に迷ったりしたが、僕はどうにかたどり着くことができた。
予約も無しに泊めてもらえるのだろうか不安になったが、杞憂だった。飛び込みでやってきた十六歳の少年を、あっさりと泊めてくれるなんて令和ではありえないような気がした。バス・トイレ共同のドミトリー形式の宿とは言え、一泊二食付きで2200円という料金にも驚いた。
指定された部屋に行ってみると、そこは定員8人の相部屋で、二段ベッドが二つずつ通路を挟んで並べられていた。僕は窓に近い方の右側、下の段のベッドを確保した。すでに他の泊り客がいた相部屋は気分が落ち着かず、寝転んでみたベッドも自分の部屋のものとは違い、快適とは言えなかったが、昨夜野宿した芦原温泉駅のベンチに比べれば天国だった。
入浴を済ませ、ベッドで体を休めていると夕食の時間になった。食堂の中には長いテーブルを繋いだ列が何列も並んでいて、すでに多くの人が食べ始めていた。厨房前のカウンターの上には、ご飯やおかずがセットされたトレーが並んでいて、自分でそれを取って空いた席に座って食べるようだった。
食事中の人たち中には僕と同世代の女の子の姿もちらほらと見えた。この中に祖母もいるのだろうか?そうは思ったものの、なんの手掛かりもないままに、適当に女の子を選び、まだ空席がいくらでもあるのにも関わらず、隣や前に座るというのもはばかられた。
だからぼくは、前も左右も空いた席を選んで腰を降ろした。食べ始めると、徐々に僕の周囲にも人が集まり始めたが、男性ばかりだった。夕食時に祖母と出会うかもしれないという淡い期待はあっさりと裏切られた。
部屋に戻り、ベッドでくつろいでいると、アナウンスが入った。8時から食堂でミーティングが行われるという内容だった。できることなら、そのままベッドで休んでいたかったが、僕はミーティングという黒ミサの如くおぞましい集会に出席しなければならなかった。そこで祖母と出会う可能性が高いと斉藤さんに言われていたからだ。
ベッドから這い出て食堂に入ると、職員の若者の指示で『テーブルを後ろに移動させ、椅子だけを横に列を作って並べる』ように言われた。
並べ終わった後、僕は食堂の中央の左右が開いた場所に腰を降ろした。本当は人との関りを避け、最後尾の角にでも席を取りたかったが、祖母と出会わなければ消滅する身としてはそうする訳にもいかなかった。しかし、そんな僕の思惑とは裏腹に、僕の周囲に座ったのはやはり男性ばかりだった。
こんな恐ろしい会に出席する人など、そうはいまいと思っていたのに、あっという間に席は九割がた埋まってしまった。しかも、参加者の顔はどれも皆楽し気で驚いてしまった。
唖然としていると、先ほどの若者が、まるで教師みたいな面持ちで前方正面に現れた。
「皆さん、ご参加ありがとうございます。それでは、ミーティングを始めたいと思います」
彼が怪しい教団の教祖で、説教を始めるのか、あるいは参加者の前で宙にでも浮くのかと思ったがそうではなかった。
彼は観光マップが張られたホワイトボードを脇から持ってくると、金沢の観光案内を始めた。彼の観光案内は、所々笑いを取る楽しいもので、僕も何度か笑ってしまった。興味深い内容も含まれていて、僕は翌日、彼が勧める場所を訪れてみたいと素直に思った。しかし、これは参加者を安心させ怪しい信仰に導く手段かも知れず、油断はできないと、僕は身を引き締めた。
観光案内が終ると、彼は大きな声で参加者に呼び掛けた。
「それでは皆さん、この後は一緒に歌いましょう」
いよいよこれからが黒ミサの本番かと僕が身構えていると、隣の人から怪しげな歌集を手渡された。中を開くのが怖かった。僕が怯えている間に、先ほどの彼がギターと椅子を持って来て参加者の正面に座った。
「それでは皆さん、まずは17ページを開いてください」
言われて参加者たちは一斉に歌集のページをめくり始めた。いよいよ教祖を称える歌が始まるのかと思ったが、彼が弾き始めた歌のイントロは、父方の祖父が好きな懐メロの番組で聞いたことのある有名な歌のものだった。
それからしばらく歌が続いた。他の参加者たちはきちんと声を出して楽し気に歌っていた。歌の大半は聞いたこともないものばかりだった。仕方なく、僕は口パクをして歌っている振りをした。
令和の高校生からすると、異様としか思えない会の様子に圧倒され、僕は参加した理由を忘れかけていた。僕は祖母を探しにここに来たのだった。参加者の男女比はほぼ同じだったが、僕の周りは男性ばかりだった。この状態では、僕が祖母に出会う可能性はゼロに等しかった。僕は少し焦った。
歌の時間が終ると、先ほどの彼が次の指示を飛ばした。
「では、みなさん、椅子を食堂の真ん中に向けて楕円形に並べてください」
言われた途端に参加者たちは、まるでクラスメートみたいな雰囲気でテキパキと椅子を並べ替えていった。その様子を僕は呆然と見ていた。あっという間に椅子は楕円形に並べ替えられ、みんながそれぞれ腰を降ろした。先ほどの彼は、いつの間にか食堂の中央に立っていた。
「それでは・・・」
彼が口を開いた瞬間に、いよいよ空中浮揚の儀式が始まるのかと鳥肌が立ったが、そうではなかった。彼は僕の予想とはまるで見当違いなことを話し始めた。
「これからフルーツバスケットを始めます。このゲームのルールはみなさんご存じと思いますが・・・」
そう断ってから、彼はルールの説明を始めた。それは要するに椅子取りゲームの変形だった。真ん中に立ったオニが、例えば「眼鏡を掛けた人」と言ったら、眼鏡を掛けた人は席から立って空いた別の席に移動しなければならない。モタモタしていて座る席がなくなってしまった人が次のオニになるということを繰り返す馬鹿馬鹿しいゲームだった。
とはいえ、僕は参加せざるを得なかった。この愚かなゲームの途中で祖母と出会う機会があるかもしれなかったからだ。「T‐シャツを着ている人」とか、「短パンをはいている人」とか言われて、僕は何度か席を立って他の席に移動するはめになった。女性の隣に座ることもあったが、そんなゲームの途中では、話をする機会などまるでなかった。
こんなことをしていたら祖母と出会うことはできないと思った。それならば、こんなバカなゲームに付き合う必要はないと感じ始めた頃、ふと名案が浮かんだ。それを実行すべく、次に立った時にわざと負けてオニになった。そして、僕は叫んだ。
「愛子という名前の人」
しかし、世の中はそうは甘くなかった。誰一人立ち上がる人はなく、僕は周り中からの嘲笑に包まれた。
翌朝、目が覚めた途端に僕は、また失望を味わった。僕の目に映ったものはやはり自宅の天井ではなく、二段ベッドの上の段の底だった。僕は長い夢を見ていたわけではなく、やはり1978年にいて、7月31日の朝を迎えていた。
朝食の時も、僕の周りには女の子の姿はなく、祖父が祖母に出会ったのは金沢のユースではなかったのだと僕は思った。
早々に支度を済ませると、僕は妙立寺という寺に向かった。祖父は10時にその寺の見学の予約を入れていた。昨夜のミーティングで知ったことだったが、妙立寺は忍者寺の異名を持つ寺で、見学には予約が必須だった。見学時にはガイドさんが付き、寺の中の案内をしてくれるということだった。本来は気乗りしない旅ではあったが、
忍者寺という言葉に、漫画やアニメが好きな僕は少しワクワクした。
妙立寺に着き、建物の外の指定された場所で他の見学者と共にツアーの開始を待っていた時、予想外のことが起こった。
「あら、愛子ちゃんの彼氏じゃない」
声を掛けられて横を向くと、そこには僕と同年代の少女が立っていた。彼女は僕の顔を正面から見て、いやらしい笑みを浮かべた。
「ねえ、あなた、フルーツバスケットの途中で、あんな風に言われて、愛子という名前の人が出てくると思ったの?もし、私が愛子という名前だったとしたら、とても恥ずかしくて出て行けないわ」
彼女に言われて、昨夜、嘲笑を買った恥ずかしさがぶり返した。彼女の顔に見覚えはなかったが、彼女も昨夜、ユースに泊まっていたのは発言から明らかだった。
「ねえ、愛子って誰の名前なの?ガールフレンドの名前かしら?」
実質的に初対面の彼女が訊いてくるのがうっとうしかったので、僕はぶっきら棒に答えた。
「違うよ」
「あら、そう。じゃあ、振られたガールフレンドの代わりに別の愛子を探しているのかしら?」
「そんなんじゃないよ」
さすがに少し腹が立った。
「もしかしたら、愛子っていう名前の架空の恋人を現実の世界で探しているの?」
少し前の自分の行いを見透かされたような気がして、怒りは恥ずかしさに転じた。返す言葉もなく黙り込んでいると、運良く寺のガイドさんが現れた。
「それではこれからお寺の中に皆さんをご案内いたします」
ガイドさんに声を掛けられ、見学者は寺の中に足を踏み入れた。なぜか彼女は僕の後についてきた。
「見学者のみなさん。この寺は忍者寺などと呼ばれていますが、実際には忍者とは一切関係はありません。この寺は前田家の出城あるいは要塞のようなもので、そのため、いくつか興味深い仕掛けがあるのです」
ガイドさんの話を聞くなり彼女は僕に話しかけてきた。
「この寺、忍者とは関係なかったんだね」
「君、昨夜のユースの人の話を聞いてなかったの?」
「へえ、そんなこと言ってたっけ?」
「言ってたよ」
僕が少し呆れて言い返した時、ガイドさんが次の説明に入った。
「この寺の賽銭箱は落とし穴にもなっています」
それに対して彼女は大袈裟に反応した。
「落とし穴だって。すごいね。あなたも落としとか作ったことあるよね」
「無いよ」
「あら、男の子はみんな落とし穴とか作ったことがあるものだと思ってたわ」
確かに昔は、そんな遊びもあったことは僕も知っていた。しかし、それは僕の祖父母さえ子供の頃の話だ。僕の時代には論外だ。誰かに怪我でもさせたら、それこそすぐに裁判沙汰になるからだ。
その後も彼女は寺に施された仕掛けに出会う度に妙に陽気な反応を見せた。
「引き戸が抜け穴の出入り口の蓋を押さえてるなんて、すごいアイデアだね」
「こんなところに二階に上る階段があるなんてビックリだね」
「切腹用だって言ってたけど、四畳の部屋ってやっぱり変だね」
と、言った具合にだ。
僕はそれらの発言にいい加減な反応を繰り返した。祖母でもない彼女に付き合うのは面倒だったし、せっかく面白い場所にいるのだから、ガイドさんの話に集中して、しっかりと見学をしたかったからだ。
ガイドツアーが終ると、彼女はユースで借りたという自転車に跨ってさっさと消えてしまった。さっきまであれこれと話し掛けてきた割には、最後は「じゃあね」という一言を残しただけだった。
忍者寺を離れ、東に向かった僕は、浅野川の橋を渡り、忍者寺同様に祖父が見学を予定していた東の廓跡にたどり着いた。着いた途端に僕は、そこが2024年には「ひがし茶屋街」と呼ばれている場所であることに気づいた。テレビで見たことがあったからだ。石畳の道の両側に古い家が並ぶ「ひがし茶屋街」は、着物をレンタルした女性がそぞろ歩きする金沢随一の観光スポットだ。お洒落な店が揃うそこは、多くの人で溢れていて、廓跡という印象はなかった。
しかし、今、僕の目の前にあるのは、まだ東の廓跡だった。午前中ということもあったが、通りはひっそりとしていて、微かに三味線の音も聞こえてきた。ちょっと見た限りでは観光客用のお洒落な商売をしている店があるようには見えなかった。
ここはゆっくりと歩くべき場所だろうと感じた。自転車を押して歩き出すと、ふとあるサイトの記述を思い出した。
僕の好きな「魔滅の剣」という、妖怪退治の少年剣士を主人公とする漫画には、遊郭を舞台とするエピソードがあった。ネットでそれに関するサイトを閲覧しているうちに、僕はネット上の百科事典の遊郭のページにたどり着いたことがあったのだ。
そこには残酷な事実が記載されていた。遊郭が舞台のドラマや映画では、花魁道中のような華やかな場面が取り上げられることも多いが、やはり遊郭は遊女たちにとっては苦界でしかなかったようだ。自由を奪われたまま感染症や栄養失調のために若くして命を落とした者も多かったらしい。
とはいうものの、東の廓跡にはかつての遊郭に直接つながるようなものは何も見られなかった。昨夜のユースのミーティングで知ったことだったが、東の廓跡の建物は、
かつて金沢によく見られたごく普通の町家の造りだと言うのだ。出格子と呼ばれる通りに面した部分には、細い木の板がわずかな隙間を開けて縦に並んでいた。外からは中が良く見えない工夫だという話だった。
そんな町並みを歩きながら、ある建物の前でふと足を止めた時、聞き覚えのある声がした。
「あら、また会ったわね」
声のする方を見ると、忍者寺で会った少女がそこにいた。
「ああ、珍しい偶然もあるもんだね」
僕がそう返すと、彼女はぎこちなく笑った。
「そうね。結構な偶然ね」
そんな言葉を交わしたのがまるで合図だったように、僕たちは並んで通りを歩き始めた。忍者寺では妙に饒舌だった彼女は、なぜか不思議と無口になっていた。忍者寺の時には気がつかなかったが、明るい光の中で見ると彼女の肌はやけに白かった。そして、その白さはあまり健康的なものには見えなかった。
なぜだか、彼女はさっきよりも存在感が希薄になったような気がした。だが、そのどこか儚げな彼女の姿は、東の廓跡の町並みと妙に溶け合っているような気がした。しかし、もちろん僕はそんな感想を口にはしなかった。
通りの一番奥まで行くと僕たちは無言のままに来た道を引き返した。そうして、廓跡の入り口付近まで戻ってきた時、彼女は不意に足を止めた。
僕が振り向きざまに見た彼女の顔は、白を通り越して青ざめているようにさえ思えた。彼女は出格子の細い板の隙間から家の中を覗き込んでいた。そして、彼女は僕には見向きもせずに、自分自身に語るように言葉を発した。
「遊女の人たちは、希望もないままに廓に閉じ込められて、さぞ辛かったんでしょうね。彼女たちの気持ち、よく分かるわ」
彼女は、まるで遊女だった前世の自分の姿を出格子の向こうに見ているようだった。
とはいうものの、彼女の言葉には少し違和感を覚えた。
『呑気に旅行している君に、彼女たちの何が分かるんだ?』と反論したい気になった。しかし、彼女の周りには、そんな反論を許さない空気が漂っていた。それから、僕の方を向くと、彼女は冷たく言い放った。
「私、もう少しここにいたいから、あなたは先に行って頂戴。お話しできて楽しかったわ」
発言の後半は正に取ってつけたように味気ない響きだった。祖母でもない彼女と無理に関わる理由もなかったので、「そう、じゃあね」とだけ声を掛けて僕はその場を立ち去った。
彼女と別れ、東の廓跡を離れて少しすると、浅野川沿いに公園があるのが目についた。中にはトイレとベンチも見えたので、僕は用を足すと共に地図を確認しようと思い、公園の中に自転車を乗り入れた。
用を足して、地図を確認し、道に出たところで、なんとまた先ほどの少女に出会った。道端に自転車を止め、自転車の後輪を見つめる彼女の顔には困り果てた様子が見てとれた。
「どうしたの?」
そう声を掛けて、僕はその場所に自転車を止めた。
「後ろのタイヤがパンクしちゃったみたいなの」
「ええ、そうなの」
僕は彼女の自転車の脇に屈みこむとタイヤを指で押してみた。確かに彼女の言うようにタイヤはパンクしていた。
「困ったな。ユースまでは遠いし、自転車屋さんもどこにあるか分からないし」
ネットもスマホもない時代だから彼女としては正に万事休すだ。
「どうしよう」
困り果てた顔でつぶやく彼女の顔を見ていたら、僕はふと敦賀に向かう列車の中で出会った斉藤さんの言葉を思い出した。『サイクリング仲間は助け合うものだ』という奴だ。ここで彼女の手助けをすることは斉藤さんへの恩返しにもなるような気がした。パンク修理のやり方は列車内で斉藤さんに教わっていた。
「よし、僕がパンク修理をしてあげるよ」
「ええ、どうして、あなたが、そんなことしてくれるの?」
「『サイクリング仲間は助け合うものだ』って、ある人に教わったからさ」
「私、あなたの仲間でもなんでもないと思うけど」
「その人によると、見ず知らずの人でも、サイクリングをしている人は皆、仲間なんだってさ。貸自転車で町中を走っているだけでもサイクリングには変わりないだろう。だから君は僕のサイクリング仲間って訳さ」
僕の話には納得がいかないという顔を彼女はしていた。
「とにかく、このままじゃあ、どうしようもないだろ。公園の中にベンチもあるから、修理はあっちでやろう。さあ、自転車を運んで」
気乗りしない様子だったが、他に選択肢はなかったので、彼女は自転車を押し始めた。その時、僕の頭の中にある可能性が浮かんだ。もしかしたら、彼女は祖母かもしれないということだった。
『もし、私が愛子という名前だったとしたら、とても恥ずかしくて出て行けない』
と彼女は言ったが、『恥ずかしくて出ていけなかった』というのが事実だったかもしれないのだ。
祖父と彼女は同じ時刻に忍者寺の予約をしていた。しかも、その後二度も偶然の再会をし、おそらく祖父は彼女の自転車のパンク修理をしたのだろう。かなり運命的な出会いと言える。
そうであるならば、僕はここで彼女と親しくならなければいけないことになる。今の僕と彼女は少々気まずい雰囲気だから軌道修正が必要だ。ろくに女の子と接したことのない僕にとってはパンク修理よりそちらの方が厄介な問題だった。
ベンチのある所まで来ると、僕と彼女は共に自転車を止めた。
「君はベンチに腰を降ろして待っていてよ」
「うん」とだけ言って彼女はベンチに腰を降ろし、僕は荷物の中からパンク修理キットを取り出した。修理を始める前に、僕は彼女に声を掛けることにした。きまずい雰囲気を作り出したのは彼女の方だったが、こちらから謝ってしまうという戦略を取るのがよさそうな気がしたのだ。
「さっきはごめんね。君は一人で東の廓跡を歩きたかったのに、僕が邪魔をしてしまったみたいだね」
「いえ、私の方こそごめんなさい。なんだかあなたを追い払うような言い方をしてしまって。私、廓跡に着いてからなんだか妙な気分に襲われてしまって・・・」
「今は、もう大丈夫なの?」
「ここに腰を降ろしたら、少し落ち着いてきたわ。どうもありがとう」
「それは良かった」
僕の戦略は取りあえず功を奏したようだった。僕は少し安心してパンク修理に取り掛かったが、会話は途切れないようにしようと思った。まずは無難な質問から始めた。
「君は、どうして金沢に来たの?」
「ああ、ええとね。歌に惹かれてきたの。ラジオで録音した私の好きな歌の歌詞の中に『憧れた金沢』っていうフレーズがあってね、それで私、歌と一緒にここまで来たの」
「なるほど、カセットテープで歌を聴きながら来たんだね」
僕は修理の手を止めずに彼女の話に対応した。
「まさか、ラジカセ持って旅する人なんていないでしょう。私、声を出さずに頭の中で歌ってただけよ」
「え、そうなの」
僕はうっかりしていた。カセットテープを録音媒体に用いた携帯用音楽プレーヤーであるS社のWマンは、まだ生まれていなかったのだ。ということは、この時代は、どんなお金持ちでも、家から気軽に音楽を持ち出すことはできなかったのだ。
Wマンができた後も、ラジオやレコードから音楽をカセットテープに録音するのは手間もお金もかかったはずだ。父方の祖父は、今でもたまに、古いカセットテープを再生したりしていたので知っているが、一本のカセットテープに録音できる曲数は30曲にも満たない。配信でいとも簡単に、しかも好きなだけスマホに音楽が入れられる僕の時代とは大違いだ。
「あら、なんか可笑しいかしら」
彼女が少し怪訝そうな表情を見せたので僕は少し慌てた。
「ああ、いや、そんなことないよ。う~んと、ところで君は、次はどこに行く予定なの?」
僕は話題を少しそらすことにした。
「今日はもう、汽車で家に帰るの。」
蒸気機関車は存在せず、列車のほとんどが電車になったにも関わらず、この時代の人は長距離列車のことを「汽車」と呼ぶことは、この時代に来てから知ったことだった。
「そうか、君の旅は今日で終わりなんだ。今まではどこを回ってきたの?」
パンク修理の手は止めず僕は話を繋ごうとした。
「回ったのは金沢だけよ。一泊二日の短い旅だから」
「そうなんだ」
「一泊二日なんて、旅の内に入らないよね。丸一日、日常から離れられる時間がないんだから」
日常から離れ旅をしたい彼女と、旅にはうんざりして日常に戻りたい僕。正反対の二人だった。
「あなたは、今までどこを回ってきたの、それから、この後、どこへ行くの?」
彼女の方から話を振ってくれたのが少し嬉しかった。僕は修理を続けながら、これまでの経路とこれからの計画を彼女に伝えた。
「すごいなあ。私もそんな旅がしてみたかったな」
できることなら代わって欲しいと僕は思ったが、もちろんそれは口にしなかった。
妙な気分からはすっかり抜け出したらしく、彼女は自分の方から話題を振ってきた。
「私ね、『宇宙鉄道X9』のグレーテルみたいに汽車で長い旅がしてみたかったんだ。あと、私、結末がすごく気になるの。ああ、あなた『宇宙鉄道X9』は知ってる?」
「ああ、知っているよ。僕も好きだよ」
それは事実だった。父方の祖父は原作漫画を全巻揃えていた。また、アニメ映画版のDVDも持っていて、僕はそのどちらも気に入っていた。これは良い話題を振ってくれたものだと思ったが喜んでばかりはいられなかった。この時代よりも後にできたエピソードについて語ったりしてはいけなかったからだ。
『宇宙鉄道X9』は、道夫という少年が、謎めいた女性グレーテルと共に、『永遠の命をくれるという星』を目指して宇宙列車で旅を続けるとい物語だ。終盤に道夫は、『永遠の命をくれるという星』とグレーテルに関わる意外な事実を知ることになるのだが、それが分かるのは漫画とテレビアニメの完結を待たずに映画版が公開された時だ。
自慢ではないが、僕は日本のアニメの歴史にも結構詳しかった。令和では年間の興行収入第一位は、実写映画ではなく、アニメ映画であるのが当たり前になっているが、以前はそうではなかった。『宇宙鉄道X9』の映画版は、アニメ映画が初めて実写映画を押しのけて年間の興行収入第一位を獲得した名作だった。受験勉強の影響もあってか、歴史上の事件の年号を暗記するみたいに、僕は映画版の封切りの時期を覚えていた。1979年8月。今いる時代からすると来年の夏だ。
僕は『宇宙鉄道X9』のごく初期のエピソードだけを選んで彼女と感想などを語り合った。その間にパンク修理は無事に進み、終わった時には、僕たちはすっかり意気投合していた。東の廓跡でのことがまるで嘘のようだった。
パンク修理が終わった後は、僕もベンチに腰を降ろし、彼女と語り合った。これならば、彼女の連絡先を訊くことによって、実は彼女が「自分は愛子ではない」と偽っていたことを認めざるを得なくなっても何も問題はなさそうな気がした。
しかし、しばらくすると、彼女は少し寂しそうにこう切り出した。
「ありがとう。お話しできてとても楽しかったわ。でも、私、そろそろ行かなきゃ。汽車に乗り遅れちゃうから」
「そうか、もう少し話したかったけど残念だね」
僕が明るく応じると、彼女は立ち上がった。僕も腰を上げ、フロントバッグからメモ帳を取り出すと彼女に声を掛けた。
「ねえ、君の連絡先を書いてくれないかな。君とはもっと話がしたいんだ。『X9』のこととか、僕のこの後の旅のこととかね」
僕の言葉を聞いた途端に、彼女は再び廓跡の時の沈んだ表情に戻った。
「ごめんなさい」
彼女の拒絶は意外だった。まずいことになったと思った。とはいえ、断る理由を問いただすのも気が引けた。
僕の落胆に気づいたのか、彼女はすぐに言葉をつないだ。
「あのね、私も本当はあなたとお友達になりたいのよ。でもね、できないの」
『どうして?』とは聞かなかったが、その言葉は僕の顔に出ていたようだった。友達になれない理由を、彼女は自ら語り始めた。
「『ボーイフレンドがいるから』とかいう、安易な嘘をついた方が良いのは分かっているんだけど、私、あなたには本当のことを言った方が良いような気がするの。だから言うね。私、実は余命6カ月の宣告を受けているの」
『まさか』と思ったことも彼女にすぐに見抜かれた。
「ああ、普通は嘘だと思うよね。でも、これを見れば信じてもらえるかな」
言うなり彼女は頭に手をやり、髪の毛を全て取り去ってみせた。鬘の下からは髪の毛がすべて抜け落ちた頭皮が顔を出した。医者の息子でなくても、癌治療の副作用だとすぐに分かった。
鬘を元に戻すと、彼女は無理に笑顔を作った。
「私ね、もう何年も入院したままで、ずっと窓の外ばかり見ていたの。私は、何の希望もなく、ここに閉じ込められたままで死んでゆくのかなって思って」
僕はようやく廓跡での彼女の様子に合点がいった。彼女は、かつてそこにいた遊女たちに自分を重ねていたのだ。あるいは僕が想像したように、彼女は本当に遊女たちの姿をそこに見たのではないかという気がした。
続く彼女の言葉は僕の心に突き刺さった。
「私、高校にも行けなかったの。大学にも行ってみたかったな」
行けるのに高校にも行かず、このままでは大学にも行けなくなる自分が少し後ろめたくなった。もちろん彼女はそんなことには気づくわけもなく、そのまま話を続けた。
「今回は無理を言って外出許可をもらってきたの。実は私の病室の窓からは汽車が見えるの。だから、死ぬまでに一度くらいは『宇宙鉄道X9』のグレーテルみたいに汽車に乗って旅をしてみたいなって思って。でも、最初で最後の旅の停車駅は金沢だけだったけどね」
彼女の憧れのグレーテルの旅の結末が明らかになるのは一年先だった。余命半年の彼女が、『気になる』と言っていたその結末を知ることはない。そう思った途端、心が鉛のように重くなった。しかし、その重さが生んだ言葉は自分でも意外なものだった。
「でもさあ、『余命半年の人は友達を作ってはいけない』って、誰が決めたの?僕たちが友達になることは悪いことじゃないと思うけど」
言いながら僕は感じた。人づきあいが苦手なくせに、祖母ではありえない彼女と繋がりを保とうとしている自分が不思議だった。
「ありがとう。でもね、私と友達になったら、あなたは辛い思いをすることになるわ。次第に弱っていって、やがては死んでゆく、そういう人と関わる苦痛を、あなたが抱え込む必要はないわ」
父も母も、日々、そういう苦痛を抱え込んで生きているはずだった。僕はそこから逃げた。彼女に『そういう苦痛を抱え込む必要はない』と言われたことは、逆に僕がしたことを強く非難されているような気がした。僕が黙り込んでしまうと、彼女は優しく語り掛けてきた。
「私ね、忍者寺であなたを見た時、なんだか『宇宙鉄道X9』の道夫君に会えたような気がしたの。自分がグレーテルになった様な気分になって、ちょっと嬉しかったのよ。あなたには迷惑だったみたいだけどね」
「今は、そんな風には思ってないよ」
「そうよね。『友達になろう』って言ってくれたんだものね。この旅であなたに会えたことは良い思い出になったわ」
言うなり彼女は自転車のハンドルを掴んだ。
「そろそろ行かなくちゃ。汽車に乗り遅れちゃうから」
「駅まで送ろうか」
そう声を掛けると、彼女は軽く首を振った。
「ううん、ここで『さよなら』しよう。『じゃあね』って感じで」
彼女が、重々しい別れを避けたのだと分かったので、僕は応じるしかなかった。
「そう、じゃあね」
「パンク修理してくれてありがとう。じゃあね」
軽く言い放つと、彼女は自転車に跨り、道に向かって漕ぎ出すと、あっと言う間に僕の視界から消えた。
僕は、すぐに今日の宿泊地である常花駅に向かう気にもなれず、再びベンチに腰を降ろした。すると『本当にこれで良かったのだろうか?』という思いが頭をもたげてきた。
そうして、『彼女のために、もっとしてあげられることがあるのではないか?』という自らの問いに対する答えを探した。しかし、その答えは見つかりそうにもなかった。
そうしているうちに、一つの考えが頭に浮かんだ。でも、それは冷静に考えれば極めて馬鹿げたことだった。令和に居た頃ならば、思いもつかない程に愚かしい行いに思えた。正直言って実際にやりたいとは思わなかった。
決心がつきかねていると、僕の心の中の前田慶次に尻を叩かれたような気がした、『どうせなら、思い切り傾(かぶ)いて見せよ』と。
傾く(かぶく)という程のことではないが、馬鹿な行いをしてみようと思った。自分の部屋に閉じこもっていた時のように何もせずに、後になって後悔するよりは少しはましのような気がした。
そうして僕は、金沢駅に向かって自転車を漕ぎ始めた。
金沢駅に着くと、僕は、まず待合室を覗いた。しかし、そこに彼女の姿はなかった。そこで、僕は入場券を買ってホームに足を踏み入れた。運が良いことに、ベンチに腰を降ろして電車を待つ彼女の姿がすぐに見つかった。
「良かった。間に合った」
そう言って僕は彼女の隣に腰を降ろした。
「どうしたの。さっきお別れしたはずなのに」
「いや、やっぱり、きちんと君を見送りたかったんだ。それとね、君は『宇宙鉄道X9』の結末がすごく気になるって言っていただろう。だから僕が予想する『宇宙鉄道X9』の結末を聞いてもらいたいと思ってね」
「へえ、そうなんだ。それで、あなたの予想では結末はどうなるの」
彼女が興味を示してくれたので僕は安心した。それから僕は予想と称して『宇宙鉄道X9』のアニメ映画版の終盤の展開を彼女に話して聞かせた。
そして「永遠の命をくれる星」に着いたものの、結局は「いつかは死ぬ命」を選んだ道夫が、グレーテルと共に地球に戻ってきた所までを一気に語って一度話を切った。
「面白いわね。それでその後はどうなるの?」
彼女がそう言ってくれたのが嬉しかった。
道夫を愛しながらも、再び一人、X9号で宇宙に旅立つグレーテルを、道夫が駅で見送る最後の場面は、日本アニメ史上に燦然と輝く名場面として有名だ。だから、僕の語りにも力が入った。良い気になって台詞やカット割りまで細かく再現してしまった僕に、彼女は少し呆れた笑いを返してよこした。
「なんだかすごくリアルね。本当に結末を観てきたみたい」
「ごめん。つまらなかったかな?」
「ううん。最後の場面の予想、特に良かったな。アニメで観たら泣いちゃいそう」
「良かった。ありがとう」
「あなた、アニメ作家になれるんじゃない」
「まさか、無理だよ」
褒められても、後ろめたい気分になるだけだった。
それから程なくして、彼女の電車がやってきた。
「じゃあね。色々ありがとう」
電車に乗り込んだ彼女が振り向きざまにそう言った時、彼女の姿は本当にアニメのグレーテルと重なって見えた。次の瞬間、僕は予定通り愚かな台詞を吐いた。
「グレーテル、僕は、もう君には会えないのかな?」
「え?」
戸惑った表情を見せた後、彼女は、僕の思惑通り昭和じみたくさい芝居に乗ってくれた。
「ええと、ああ、そうだ。『そうよ、私はあなたの旅の思い出の中にしかいないのよ』」
芝居じみたタイミングで電車のドアが閉まった。彼女が座席に移動した時には、すでに電車は走り始めていた。僕が走って電車の後を追うと、彼女は窓を開けて少し顔を出した。それから彼女はシナリオ通りに、電車を追って走る僕に向けて髪を掻き上げてみせた。その髪が本物でないことが悲しかった。僕が足を止めると電車は速度を上げて、彼女の姿はあっという間に見えなくなった。
癌の治療がここ数十年で飛躍的に進歩していたことを僕は知っていた。昭和に生まれていなかったら、あるいは彼女も命を落とさずに済んだのだろうかと思った。
僕が医者であろうとなかろうと、僕が生まれる何十年も前に亡くなったはずの彼女の命を、僕が救うことなどできようはずがなかった。にもかかわらず、僕は無力感にさいなまれた。『もし、僕が将来医者になったら、彼女のような少女の命を救うことができるのだろうか?』、遠ざかってゆく電車を見つめながら、僕はそんなことを考えていた。
第三話 終
待合室の立ち食いそばを朝食とした。そんなに旨いはずがないのに、やけに旨い気がした。人が増える前に駅を出ようと思った。
朝、芦原温泉駅を出ると、僕は一路金沢に向かった。金沢までは祖父が見学を予定していた場所はなく、ただペダルを漕ぎ続けるだけだった。
金沢の市街地の外れに入った頃、僕は昼食を取ることにした。貨幣価値が分からない僕は、様子が分かるまで極力お金を節約しなければならない、とはいうもののコンビニはもちろん存在しない。できればラーメン屋、定食屋などにしたかったが、残念ながらそういう店は見つからなかった。
仕方なく僕は軽食も取れそうな喫茶店に入ることにした。祖父の高校時代には、令和ならどこにでもある有名チェーンのコーヒーショップはまだ存在しておらず、喫茶店はそのほとんどが個人経営の店だったようだった。僕はそういう個人経営の喫茶店に入るのは初めてだったが、炎天下の道を何時間も自転車を漕ぎ続けてきた自分にとって、冷房の効いた店内は正に天国だった。
僕が腰を降ろした席のテーブルは、なんと伝説のインベーダーゲームが組み込まれたものだった。コンピューターゲームの歴史にも興味があった僕は知っていた。今、僕がいる1978年の8月、それはインベーダーゲームが正に大ブームを巻き起こしている最中のはずだった。
インベーダーゲームは簡単に言うとこういうゲームだ。教室に並べられた机みたいに縦横奇麗に隊列を組んだ宇宙船の艦隊が左右に移動しながら少しずつ下に降りてくるのを砲台から弾を発射して撃ち落とすというものだ。敵の宇宙船を全て撃ち落とせば何度でもゲームを続けられるが、敵が一機でも砲台に達すればゲームオーバーだ。
戦闘中、艦隊の上に突然現れる母船を撃ち落とした場合の得点は不定で最高点は五百点だ。
令和の時代から見れば、インベーダーゲームは極めて原始的なゲームだが、シューティングゲームの元祖とも言うべきもので、コンピューターゲームの地位を確立させたと言っても良い存在だった。そんなわけで、僕も一度、懐かしいゲームを集めた店にわざわざ出かけてプレーしたことがあった。感慨深げにゲームの画面を眺めていて僕はふと思った。今は手元にないスマホについてだ。
僕が昨日まで当たり前のものとして使っていたものは、実はとてつもない技術の集合体だった。1978年には、家にしかなかった電話、家にすらなかったビデオカメラ、デジカメ、パソコン、ネット端末、更にはコンピューターゲーム、その他色々が手のひらに収まる機器に詰まっているのだから。196?年に、初めて月面に茶栗したアポロ11号に搭載されていたコンピューターはスマホ以下の処理能力しかなかったらしいが、それでも人は月に行ったのだ。それを考えたら、紙の地図だけを頼りに安曇野まで行く僕は、ずっとましだと思うべきだとは思った。とは言うものの当たり前だと思っていたスマホの恩恵を失くした喪失感は大きかった。
しかし、インベーダーゲームを見つめているうちに、僕は少し違った観点が芽生えた。それは、スマホに詰まっている技術をこれから少しずつ獲得してゆく喜びを味わえる祖父の世代の人々は案外幸せなのかもしれないということだった。
そんなことを考えているうちに店員がやってきた。サンドイッチを注文したところ、それはいくらも待たないうちに運ばれてきた。味も悪くなく、リーズナブルな価格ではあったが、苦行を続けてきた体には少々物足りなかった。そんなわけで、僕はあっという間にサンドイッチを完食してしまった。
とはいうものの、せっかく冷房の効いた店をさっさと出てしまうのはもったいない気がした。かといって追加の注文をするのも、手持ちの資金を考えると贅沢に過ぎた。
その時、ふと名案が浮かんだ。インベーダーゲームをすれば店に堂々と居座れると。出資はわずか五十円で済む。
実はインベーダーゲームにはバグがあった。それを発見したプレーヤーが「N打ち」という無敵の攻略法を編み出したのだ。その「N打ち」を使えば誰でも延々とゲームを続けることができた。更には一見不定に見える母船を撃ち落とした時の得点にも実は法則があり、それを心得ていれば、毎回最高の五百点をゲットできるのだった。
僕は五十円玉を投入すると、インベーダーゲームを始めた。僕はとうに昼食を済ませたとは言え、ゲームを続けているので、店員の目を気にすることなく冷房の効いた店に居座ることができた。
しかし、僕の休息を邪魔する予想外の人物が現れた。ちょっとガラの悪そうな二十歳くらいの青年が正面から僕とインベーダーゲームを見下ろしていた。
「兄ちゃん、今のゲームが終ったら代わってくれよ」
それは依頼というよりを命令に聞こえた。
「はい、分かりました」
そうは言ったものの、冷房の効いた店に居座るために貴重な50円を投資した身としては、簡単には引き下がれなかった。元を取ったと思えるまではゲームを止めるつもりなどなかった。
だから、僕は黙々とゲームを続けた。青年は、僕の隣の席に腰を降ろし、コーヒーを飲みながら僕が負けるのを今か今かと待ち望んでいた。しかし、一向に席を離れる気配のないことに気づくと、とうとうしびれを切らした。
「おい、兄ちゃん、こっそり次のゲームを始めたりしてないだろうな」
青年は僕を疑っていた。長時間ゲームを続けられる人間などまだいないはずだから、当然の反応と言えた。
「してませんよ」
僕はゲームの盤面から目を離さずに答えた。
「もし、嘘ついていやがったら...」
言いかけた青年の言葉は、僕のスコアを見て途中で途切れた。
「嘘だろう...」
言ったきり、青年の目は僕のプレーに釘付けになった。僕は母船を撃ち落とす度に必ず最高得点の500点をゲットし、青年には理解できない戦略でインベーダーの船団を繰り返し全滅させていたからだ。
そのうち、青年が口を開いた。
「なあ、兄ちゃん、それ、どうやってやってるんだ?俺にも教えてくれないか?」
その言葉を聞いて僕ははっとした。「N打ち」も「母船の法則」も、今の時点では、まだ発見されていなかったことに気づいたからだ。
本来の発見者ではない青年が、今の時点で「N打ち」や「母船の法則」を知ること、それは歴史が変わることを意味していた。ことの重大性に愕然とした僕は、すぐさま敵の攻撃を受け続けゲームを終わらせた。
「すみません。お待たせしました。どうぞ」
僕は慌てて席を立った。
「待てよ、兄ちゃん、俺にも秘密を教えてくれよ」
「秘密なんてありませんよ。じゃあ、僕はこれで...」
店から逃げ出そうとすると、僕は更に声を掛けられた。
「おい、ちょっと待てよ。飯おごるからさあ」
「いえ、先を急ぎますので」
引き留める青年を振り切って僕は店を出た。そして、自転車に跨ると、全速力で走りだした。『歴史を変えるような行動を取らないように最大限の注意を払わなければならない』と僕は走りながら肝に命じた。
喫茶店を出て間もなく、文豪・室生犀星のペンネームの由来となる犀川を渡り、僕は金沢の中心部に着いた。芦原温泉駅から、約60キロ、つまり東京の中心から横浜まで一往復するくらいの距離を漕いだわけだ。
金沢は加賀百万石の城下町だ。初代藩主を務めた前田利家は豊臣秀吉の五大老の一人で歴史の教科書には必ず登場する人物だ。しかし、金沢と聞いて僕が思い出す人物は前田利家ではなく前田慶次だった。
前田慶次は漫画の主人公にもなった人物だ。権威に阿ることなく、しばしば奇行に走る存在である傾奇者(かぶきもの)の慶次の活躍は爽快だった。前田家という枠に捕らわれなかった慶次は、前田家を捨てて金沢を去る。その後、慶次は益々自由闊達に生きてゆくのだが、敷かれた線路から外れてしまったものの何もできないでいる僕には慶次の姿はひどく眩しかった。
そんなことを考えながら僕はペダルを漕ぎ、祖父が計画した最初の見学地にたどり着いた。武家屋敷跡だ。歴史を感じさせる黄色がかった塀に挟まれた小道を、自転車を押して歩いた。既に四十年以上もタイムスリップをしてきたと言うのに、僕は更に昔へタイムスリップしたような感覚を覚えた。
向こうから前田慶次が愛馬・松風に乗って現れそうな気がした。僕の情けない様を見たら、慶次は何というのだろうかと思った。
「どおせなら、思い切り傾(かぶ)いて見せよ」と叱咤されそうな気がした。
祖父の計画書のあった次の見学地は兼六園だった。そこが日本三名園の一つであることは僕も知っていた。小さな石の太鼓橋の後ろ、池の中に二本の足を降ろす灯篭が見える光景は、金沢のポスターやパンフレットなどには必ず見られるものだ。
風情のある園内を歩いていると、自転車を漕ぎつかれた気分もかなり和らいだ。とはいうものの、やはり苦労して自転車を漕いで来なくても良いだろうという気持ちはやはり消えなかった。新幹線も開通した令和なら、東京からわずか2時間半程で金沢には来られるのだ。
ただ、アクセスがよくなったことに加えて、円安によるインバウンド景気のおかげで、金沢ではオーバーツーリズムが問題になっていると聞いたことがあった。しかし、僕が今いる1978年には、まだ、外国人観光客の数もそれほどではなかった。ゆったりとした時間を過ごすことができたという観点からすると、この時代に兼六園に来られたことは、幸運と言えなくもなかったが、僕にはそこまで思える心の余裕はなかった。
兼六園の次に向かったのは。金沢城跡だ。城跡への入口の一つである石川門が中々印象的だった。全体的にやけに白く見えるなと思った。その理由を知って少々驚いた。なんと瓦が鉛でできているというのだ。戦になったら、瓦を溶かして鉄砲の弾を作ろうとしていたというのだから用意周到だ。
もう一つ驚いたのは門の先の城跡は金沢大学のキャンパスだということだった。そんな場所で送る大学生活は、なんとなく格調が高そうな気がした。東京で生まれ育った僕は、自宅から東京の大学にゆくことしか考えていなかった。だが、一人で親元を離れて地方の大学で学ぶという選択肢も無くはなかったのだと、ふと気づいた。もっとも高校に行っていない僕は、このままでは大学には行けないのだが。
祖父の見学予定地の見学を済ませると僕は金沢のユースに向かった。ユースは駅の近くにあったが、ハンドブックに載っていた地図は分かりにかった。少し道に迷ったりしたが、僕はどうにかたどり着くことができた。
予約も無しに泊めてもらえるのだろうか不安になったが、杞憂だった。飛び込みでやってきた十六歳の少年を、あっさりと泊めてくれるなんて令和ではありえないような気がした。バス・トイレ共同のドミトリー形式の宿とは言え、一泊二食付きで2200円という料金にも驚いた。
指定された部屋に行ってみると、そこは定員8人の相部屋で、二段ベッドが二つずつ通路を挟んで並べられていた。僕は窓に近い方の右側、下の段のベッドを確保した。すでに他の泊り客がいた相部屋は気分が落ち着かず、寝転んでみたベッドも自分の部屋のものとは違い、快適とは言えなかったが、昨夜野宿した芦原温泉駅のベンチに比べれば天国だった。
入浴を済ませ、ベッドで体を休めていると夕食の時間になった。食堂の中には長いテーブルを繋いだ列が何列も並んでいて、すでに多くの人が食べ始めていた。厨房前のカウンターの上には、ご飯やおかずがセットされたトレーが並んでいて、自分でそれを取って空いた席に座って食べるようだった。
食事中の人たち中には僕と同世代の女の子の姿もちらほらと見えた。この中に祖母もいるのだろうか?そうは思ったものの、なんの手掛かりもないままに、適当に女の子を選び、まだ空席がいくらでもあるのにも関わらず、隣や前に座るというのもはばかられた。
だからぼくは、前も左右も空いた席を選んで腰を降ろした。食べ始めると、徐々に僕の周囲にも人が集まり始めたが、男性ばかりだった。夕食時に祖母と出会うかもしれないという淡い期待はあっさりと裏切られた。
部屋に戻り、ベッドでくつろいでいると、アナウンスが入った。8時から食堂でミーティングが行われるという内容だった。できることなら、そのままベッドで休んでいたかったが、僕はミーティングという黒ミサの如くおぞましい集会に出席しなければならなかった。そこで祖母と出会う可能性が高いと斉藤さんに言われていたからだ。
ベッドから這い出て食堂に入ると、職員の若者の指示で『テーブルを後ろに移動させ、椅子だけを横に列を作って並べる』ように言われた。
並べ終わった後、僕は食堂の中央の左右が開いた場所に腰を降ろした。本当は人との関りを避け、最後尾の角にでも席を取りたかったが、祖母と出会わなければ消滅する身としてはそうする訳にもいかなかった。しかし、そんな僕の思惑とは裏腹に、僕の周囲に座ったのはやはり男性ばかりだった。
こんな恐ろしい会に出席する人など、そうはいまいと思っていたのに、あっという間に席は九割がた埋まってしまった。しかも、参加者の顔はどれも皆楽し気で驚いてしまった。
唖然としていると、先ほどの若者が、まるで教師みたいな面持ちで前方正面に現れた。
「皆さん、ご参加ありがとうございます。それでは、ミーティングを始めたいと思います」
彼が怪しい教団の教祖で、説教を始めるのか、あるいは参加者の前で宙にでも浮くのかと思ったがそうではなかった。
彼は観光マップが張られたホワイトボードを脇から持ってくると、金沢の観光案内を始めた。彼の観光案内は、所々笑いを取る楽しいもので、僕も何度か笑ってしまった。興味深い内容も含まれていて、僕は翌日、彼が勧める場所を訪れてみたいと素直に思った。しかし、これは参加者を安心させ怪しい信仰に導く手段かも知れず、油断はできないと、僕は身を引き締めた。
観光案内が終ると、彼は大きな声で参加者に呼び掛けた。
「それでは皆さん、この後は一緒に歌いましょう」
いよいよこれからが黒ミサの本番かと僕が身構えていると、隣の人から怪しげな歌集を手渡された。中を開くのが怖かった。僕が怯えている間に、先ほどの彼がギターと椅子を持って来て参加者の正面に座った。
「それでは皆さん、まずは17ページを開いてください」
言われて参加者たちは一斉に歌集のページをめくり始めた。いよいよ教祖を称える歌が始まるのかと思ったが、彼が弾き始めた歌のイントロは、父方の祖父が好きな懐メロの番組で聞いたことのある有名な歌のものだった。
それからしばらく歌が続いた。他の参加者たちはきちんと声を出して楽し気に歌っていた。歌の大半は聞いたこともないものばかりだった。仕方なく、僕は口パクをして歌っている振りをした。
令和の高校生からすると、異様としか思えない会の様子に圧倒され、僕は参加した理由を忘れかけていた。僕は祖母を探しにここに来たのだった。参加者の男女比はほぼ同じだったが、僕の周りは男性ばかりだった。この状態では、僕が祖母に出会う可能性はゼロに等しかった。僕は少し焦った。
歌の時間が終ると、先ほどの彼が次の指示を飛ばした。
「では、みなさん、椅子を食堂の真ん中に向けて楕円形に並べてください」
言われた途端に参加者たちは、まるでクラスメートみたいな雰囲気でテキパキと椅子を並べ替えていった。その様子を僕は呆然と見ていた。あっという間に椅子は楕円形に並べ替えられ、みんながそれぞれ腰を降ろした。先ほどの彼は、いつの間にか食堂の中央に立っていた。
「それでは・・・」
彼が口を開いた瞬間に、いよいよ空中浮揚の儀式が始まるのかと鳥肌が立ったが、そうではなかった。彼は僕の予想とはまるで見当違いなことを話し始めた。
「これからフルーツバスケットを始めます。このゲームのルールはみなさんご存じと思いますが・・・」
そう断ってから、彼はルールの説明を始めた。それは要するに椅子取りゲームの変形だった。真ん中に立ったオニが、例えば「眼鏡を掛けた人」と言ったら、眼鏡を掛けた人は席から立って空いた別の席に移動しなければならない。モタモタしていて座る席がなくなってしまった人が次のオニになるということを繰り返す馬鹿馬鹿しいゲームだった。
とはいえ、僕は参加せざるを得なかった。この愚かなゲームの途中で祖母と出会う機会があるかもしれなかったからだ。「T‐シャツを着ている人」とか、「短パンをはいている人」とか言われて、僕は何度か席を立って他の席に移動するはめになった。女性の隣に座ることもあったが、そんなゲームの途中では、話をする機会などまるでなかった。
こんなことをしていたら祖母と出会うことはできないと思った。それならば、こんなバカなゲームに付き合う必要はないと感じ始めた頃、ふと名案が浮かんだ。それを実行すべく、次に立った時にわざと負けてオニになった。そして、僕は叫んだ。
「愛子という名前の人」
しかし、世の中はそうは甘くなかった。誰一人立ち上がる人はなく、僕は周り中からの嘲笑に包まれた。
翌朝、目が覚めた途端に僕は、また失望を味わった。僕の目に映ったものはやはり自宅の天井ではなく、二段ベッドの上の段の底だった。僕は長い夢を見ていたわけではなく、やはり1978年にいて、7月31日の朝を迎えていた。
朝食の時も、僕の周りには女の子の姿はなく、祖父が祖母に出会ったのは金沢のユースではなかったのだと僕は思った。
早々に支度を済ませると、僕は妙立寺という寺に向かった。祖父は10時にその寺の見学の予約を入れていた。昨夜のミーティングで知ったことだったが、妙立寺は忍者寺の異名を持つ寺で、見学には予約が必須だった。見学時にはガイドさんが付き、寺の中の案内をしてくれるということだった。本来は気乗りしない旅ではあったが、
忍者寺という言葉に、漫画やアニメが好きな僕は少しワクワクした。
妙立寺に着き、建物の外の指定された場所で他の見学者と共にツアーの開始を待っていた時、予想外のことが起こった。
「あら、愛子ちゃんの彼氏じゃない」
声を掛けられて横を向くと、そこには僕と同年代の少女が立っていた。彼女は僕の顔を正面から見て、いやらしい笑みを浮かべた。
「ねえ、あなた、フルーツバスケットの途中で、あんな風に言われて、愛子という名前の人が出てくると思ったの?もし、私が愛子という名前だったとしたら、とても恥ずかしくて出て行けないわ」
彼女に言われて、昨夜、嘲笑を買った恥ずかしさがぶり返した。彼女の顔に見覚えはなかったが、彼女も昨夜、ユースに泊まっていたのは発言から明らかだった。
「ねえ、愛子って誰の名前なの?ガールフレンドの名前かしら?」
実質的に初対面の彼女が訊いてくるのがうっとうしかったので、僕はぶっきら棒に答えた。
「違うよ」
「あら、そう。じゃあ、振られたガールフレンドの代わりに別の愛子を探しているのかしら?」
「そんなんじゃないよ」
さすがに少し腹が立った。
「もしかしたら、愛子っていう名前の架空の恋人を現実の世界で探しているの?」
少し前の自分の行いを見透かされたような気がして、怒りは恥ずかしさに転じた。返す言葉もなく黙り込んでいると、運良く寺のガイドさんが現れた。
「それではこれからお寺の中に皆さんをご案内いたします」
ガイドさんに声を掛けられ、見学者は寺の中に足を踏み入れた。なぜか彼女は僕の後についてきた。
「見学者のみなさん。この寺は忍者寺などと呼ばれていますが、実際には忍者とは一切関係はありません。この寺は前田家の出城あるいは要塞のようなもので、そのため、いくつか興味深い仕掛けがあるのです」
ガイドさんの話を聞くなり彼女は僕に話しかけてきた。
「この寺、忍者とは関係なかったんだね」
「君、昨夜のユースの人の話を聞いてなかったの?」
「へえ、そんなこと言ってたっけ?」
「言ってたよ」
僕が少し呆れて言い返した時、ガイドさんが次の説明に入った。
「この寺の賽銭箱は落とし穴にもなっています」
それに対して彼女は大袈裟に反応した。
「落とし穴だって。すごいね。あなたも落としとか作ったことあるよね」
「無いよ」
「あら、男の子はみんな落とし穴とか作ったことがあるものだと思ってたわ」
確かに昔は、そんな遊びもあったことは僕も知っていた。しかし、それは僕の祖父母さえ子供の頃の話だ。僕の時代には論外だ。誰かに怪我でもさせたら、それこそすぐに裁判沙汰になるからだ。
その後も彼女は寺に施された仕掛けに出会う度に妙に陽気な反応を見せた。
「引き戸が抜け穴の出入り口の蓋を押さえてるなんて、すごいアイデアだね」
「こんなところに二階に上る階段があるなんてビックリだね」
「切腹用だって言ってたけど、四畳の部屋ってやっぱり変だね」
と、言った具合にだ。
僕はそれらの発言にいい加減な反応を繰り返した。祖母でもない彼女に付き合うのは面倒だったし、せっかく面白い場所にいるのだから、ガイドさんの話に集中して、しっかりと見学をしたかったからだ。
ガイドツアーが終ると、彼女はユースで借りたという自転車に跨ってさっさと消えてしまった。さっきまであれこれと話し掛けてきた割には、最後は「じゃあね」という一言を残しただけだった。
忍者寺を離れ、東に向かった僕は、浅野川の橋を渡り、忍者寺同様に祖父が見学を予定していた東の廓跡にたどり着いた。着いた途端に僕は、そこが2024年には「ひがし茶屋街」と呼ばれている場所であることに気づいた。テレビで見たことがあったからだ。石畳の道の両側に古い家が並ぶ「ひがし茶屋街」は、着物をレンタルした女性がそぞろ歩きする金沢随一の観光スポットだ。お洒落な店が揃うそこは、多くの人で溢れていて、廓跡という印象はなかった。
しかし、今、僕の目の前にあるのは、まだ東の廓跡だった。午前中ということもあったが、通りはひっそりとしていて、微かに三味線の音も聞こえてきた。ちょっと見た限りでは観光客用のお洒落な商売をしている店があるようには見えなかった。
ここはゆっくりと歩くべき場所だろうと感じた。自転車を押して歩き出すと、ふとあるサイトの記述を思い出した。
僕の好きな「魔滅の剣」という、妖怪退治の少年剣士を主人公とする漫画には、遊郭を舞台とするエピソードがあった。ネットでそれに関するサイトを閲覧しているうちに、僕はネット上の百科事典の遊郭のページにたどり着いたことがあったのだ。
そこには残酷な事実が記載されていた。遊郭が舞台のドラマや映画では、花魁道中のような華やかな場面が取り上げられることも多いが、やはり遊郭は遊女たちにとっては苦界でしかなかったようだ。自由を奪われたまま感染症や栄養失調のために若くして命を落とした者も多かったらしい。
とはいうものの、東の廓跡にはかつての遊郭に直接つながるようなものは何も見られなかった。昨夜のユースのミーティングで知ったことだったが、東の廓跡の建物は、
かつて金沢によく見られたごく普通の町家の造りだと言うのだ。出格子と呼ばれる通りに面した部分には、細い木の板がわずかな隙間を開けて縦に並んでいた。外からは中が良く見えない工夫だという話だった。
そんな町並みを歩きながら、ある建物の前でふと足を止めた時、聞き覚えのある声がした。
「あら、また会ったわね」
声のする方を見ると、忍者寺で会った少女がそこにいた。
「ああ、珍しい偶然もあるもんだね」
僕がそう返すと、彼女はぎこちなく笑った。
「そうね。結構な偶然ね」
そんな言葉を交わしたのがまるで合図だったように、僕たちは並んで通りを歩き始めた。忍者寺では妙に饒舌だった彼女は、なぜか不思議と無口になっていた。忍者寺の時には気がつかなかったが、明るい光の中で見ると彼女の肌はやけに白かった。そして、その白さはあまり健康的なものには見えなかった。
なぜだか、彼女はさっきよりも存在感が希薄になったような気がした。だが、そのどこか儚げな彼女の姿は、東の廓跡の町並みと妙に溶け合っているような気がした。しかし、もちろん僕はそんな感想を口にはしなかった。
通りの一番奥まで行くと僕たちは無言のままに来た道を引き返した。そうして、廓跡の入り口付近まで戻ってきた時、彼女は不意に足を止めた。
僕が振り向きざまに見た彼女の顔は、白を通り越して青ざめているようにさえ思えた。彼女は出格子の細い板の隙間から家の中を覗き込んでいた。そして、彼女は僕には見向きもせずに、自分自身に語るように言葉を発した。
「遊女の人たちは、希望もないままに廓に閉じ込められて、さぞ辛かったんでしょうね。彼女たちの気持ち、よく分かるわ」
彼女は、まるで遊女だった前世の自分の姿を出格子の向こうに見ているようだった。
とはいうものの、彼女の言葉には少し違和感を覚えた。
『呑気に旅行している君に、彼女たちの何が分かるんだ?』と反論したい気になった。しかし、彼女の周りには、そんな反論を許さない空気が漂っていた。それから、僕の方を向くと、彼女は冷たく言い放った。
「私、もう少しここにいたいから、あなたは先に行って頂戴。お話しできて楽しかったわ」
発言の後半は正に取ってつけたように味気ない響きだった。祖母でもない彼女と無理に関わる理由もなかったので、「そう、じゃあね」とだけ声を掛けて僕はその場を立ち去った。
彼女と別れ、東の廓跡を離れて少しすると、浅野川沿いに公園があるのが目についた。中にはトイレとベンチも見えたので、僕は用を足すと共に地図を確認しようと思い、公園の中に自転車を乗り入れた。
用を足して、地図を確認し、道に出たところで、なんとまた先ほどの少女に出会った。道端に自転車を止め、自転車の後輪を見つめる彼女の顔には困り果てた様子が見てとれた。
「どうしたの?」
そう声を掛けて、僕はその場所に自転車を止めた。
「後ろのタイヤがパンクしちゃったみたいなの」
「ええ、そうなの」
僕は彼女の自転車の脇に屈みこむとタイヤを指で押してみた。確かに彼女の言うようにタイヤはパンクしていた。
「困ったな。ユースまでは遠いし、自転車屋さんもどこにあるか分からないし」
ネットもスマホもない時代だから彼女としては正に万事休すだ。
「どうしよう」
困り果てた顔でつぶやく彼女の顔を見ていたら、僕はふと敦賀に向かう列車の中で出会った斉藤さんの言葉を思い出した。『サイクリング仲間は助け合うものだ』という奴だ。ここで彼女の手助けをすることは斉藤さんへの恩返しにもなるような気がした。パンク修理のやり方は列車内で斉藤さんに教わっていた。
「よし、僕がパンク修理をしてあげるよ」
「ええ、どうして、あなたが、そんなことしてくれるの?」
「『サイクリング仲間は助け合うものだ』って、ある人に教わったからさ」
「私、あなたの仲間でもなんでもないと思うけど」
「その人によると、見ず知らずの人でも、サイクリングをしている人は皆、仲間なんだってさ。貸自転車で町中を走っているだけでもサイクリングには変わりないだろう。だから君は僕のサイクリング仲間って訳さ」
僕の話には納得がいかないという顔を彼女はしていた。
「とにかく、このままじゃあ、どうしようもないだろ。公園の中にベンチもあるから、修理はあっちでやろう。さあ、自転車を運んで」
気乗りしない様子だったが、他に選択肢はなかったので、彼女は自転車を押し始めた。その時、僕の頭の中にある可能性が浮かんだ。もしかしたら、彼女は祖母かもしれないということだった。
『もし、私が愛子という名前だったとしたら、とても恥ずかしくて出て行けない』
と彼女は言ったが、『恥ずかしくて出ていけなかった』というのが事実だったかもしれないのだ。
祖父と彼女は同じ時刻に忍者寺の予約をしていた。しかも、その後二度も偶然の再会をし、おそらく祖父は彼女の自転車のパンク修理をしたのだろう。かなり運命的な出会いと言える。
そうであるならば、僕はここで彼女と親しくならなければいけないことになる。今の僕と彼女は少々気まずい雰囲気だから軌道修正が必要だ。ろくに女の子と接したことのない僕にとってはパンク修理よりそちらの方が厄介な問題だった。
ベンチのある所まで来ると、僕と彼女は共に自転車を止めた。
「君はベンチに腰を降ろして待っていてよ」
「うん」とだけ言って彼女はベンチに腰を降ろし、僕は荷物の中からパンク修理キットを取り出した。修理を始める前に、僕は彼女に声を掛けることにした。きまずい雰囲気を作り出したのは彼女の方だったが、こちらから謝ってしまうという戦略を取るのがよさそうな気がしたのだ。
「さっきはごめんね。君は一人で東の廓跡を歩きたかったのに、僕が邪魔をしてしまったみたいだね」
「いえ、私の方こそごめんなさい。なんだかあなたを追い払うような言い方をしてしまって。私、廓跡に着いてからなんだか妙な気分に襲われてしまって・・・」
「今は、もう大丈夫なの?」
「ここに腰を降ろしたら、少し落ち着いてきたわ。どうもありがとう」
「それは良かった」
僕の戦略は取りあえず功を奏したようだった。僕は少し安心してパンク修理に取り掛かったが、会話は途切れないようにしようと思った。まずは無難な質問から始めた。
「君は、どうして金沢に来たの?」
「ああ、ええとね。歌に惹かれてきたの。ラジオで録音した私の好きな歌の歌詞の中に『憧れた金沢』っていうフレーズがあってね、それで私、歌と一緒にここまで来たの」
「なるほど、カセットテープで歌を聴きながら来たんだね」
僕は修理の手を止めずに彼女の話に対応した。
「まさか、ラジカセ持って旅する人なんていないでしょう。私、声を出さずに頭の中で歌ってただけよ」
「え、そうなの」
僕はうっかりしていた。カセットテープを録音媒体に用いた携帯用音楽プレーヤーであるS社のWマンは、まだ生まれていなかったのだ。ということは、この時代は、どんなお金持ちでも、家から気軽に音楽を持ち出すことはできなかったのだ。
Wマンができた後も、ラジオやレコードから音楽をカセットテープに録音するのは手間もお金もかかったはずだ。父方の祖父は、今でもたまに、古いカセットテープを再生したりしていたので知っているが、一本のカセットテープに録音できる曲数は30曲にも満たない。配信でいとも簡単に、しかも好きなだけスマホに音楽が入れられる僕の時代とは大違いだ。
「あら、なんか可笑しいかしら」
彼女が少し怪訝そうな表情を見せたので僕は少し慌てた。
「ああ、いや、そんなことないよ。う~んと、ところで君は、次はどこに行く予定なの?」
僕は話題を少しそらすことにした。
「今日はもう、汽車で家に帰るの。」
蒸気機関車は存在せず、列車のほとんどが電車になったにも関わらず、この時代の人は長距離列車のことを「汽車」と呼ぶことは、この時代に来てから知ったことだった。
「そうか、君の旅は今日で終わりなんだ。今まではどこを回ってきたの?」
パンク修理の手は止めず僕は話を繋ごうとした。
「回ったのは金沢だけよ。一泊二日の短い旅だから」
「そうなんだ」
「一泊二日なんて、旅の内に入らないよね。丸一日、日常から離れられる時間がないんだから」
日常から離れ旅をしたい彼女と、旅にはうんざりして日常に戻りたい僕。正反対の二人だった。
「あなたは、今までどこを回ってきたの、それから、この後、どこへ行くの?」
彼女の方から話を振ってくれたのが少し嬉しかった。僕は修理を続けながら、これまでの経路とこれからの計画を彼女に伝えた。
「すごいなあ。私もそんな旅がしてみたかったな」
できることなら代わって欲しいと僕は思ったが、もちろんそれは口にしなかった。
妙な気分からはすっかり抜け出したらしく、彼女は自分の方から話題を振ってきた。
「私ね、『宇宙鉄道X9』のグレーテルみたいに汽車で長い旅がしてみたかったんだ。あと、私、結末がすごく気になるの。ああ、あなた『宇宙鉄道X9』は知ってる?」
「ああ、知っているよ。僕も好きだよ」
それは事実だった。父方の祖父は原作漫画を全巻揃えていた。また、アニメ映画版のDVDも持っていて、僕はそのどちらも気に入っていた。これは良い話題を振ってくれたものだと思ったが喜んでばかりはいられなかった。この時代よりも後にできたエピソードについて語ったりしてはいけなかったからだ。
『宇宙鉄道X9』は、道夫という少年が、謎めいた女性グレーテルと共に、『永遠の命をくれるという星』を目指して宇宙列車で旅を続けるとい物語だ。終盤に道夫は、『永遠の命をくれるという星』とグレーテルに関わる意外な事実を知ることになるのだが、それが分かるのは漫画とテレビアニメの完結を待たずに映画版が公開された時だ。
自慢ではないが、僕は日本のアニメの歴史にも結構詳しかった。令和では年間の興行収入第一位は、実写映画ではなく、アニメ映画であるのが当たり前になっているが、以前はそうではなかった。『宇宙鉄道X9』の映画版は、アニメ映画が初めて実写映画を押しのけて年間の興行収入第一位を獲得した名作だった。受験勉強の影響もあってか、歴史上の事件の年号を暗記するみたいに、僕は映画版の封切りの時期を覚えていた。1979年8月。今いる時代からすると来年の夏だ。
僕は『宇宙鉄道X9』のごく初期のエピソードだけを選んで彼女と感想などを語り合った。その間にパンク修理は無事に進み、終わった時には、僕たちはすっかり意気投合していた。東の廓跡でのことがまるで嘘のようだった。
パンク修理が終わった後は、僕もベンチに腰を降ろし、彼女と語り合った。これならば、彼女の連絡先を訊くことによって、実は彼女が「自分は愛子ではない」と偽っていたことを認めざるを得なくなっても何も問題はなさそうな気がした。
しかし、しばらくすると、彼女は少し寂しそうにこう切り出した。
「ありがとう。お話しできてとても楽しかったわ。でも、私、そろそろ行かなきゃ。汽車に乗り遅れちゃうから」
「そうか、もう少し話したかったけど残念だね」
僕が明るく応じると、彼女は立ち上がった。僕も腰を上げ、フロントバッグからメモ帳を取り出すと彼女に声を掛けた。
「ねえ、君の連絡先を書いてくれないかな。君とはもっと話がしたいんだ。『X9』のこととか、僕のこの後の旅のこととかね」
僕の言葉を聞いた途端に、彼女は再び廓跡の時の沈んだ表情に戻った。
「ごめんなさい」
彼女の拒絶は意外だった。まずいことになったと思った。とはいえ、断る理由を問いただすのも気が引けた。
僕の落胆に気づいたのか、彼女はすぐに言葉をつないだ。
「あのね、私も本当はあなたとお友達になりたいのよ。でもね、できないの」
『どうして?』とは聞かなかったが、その言葉は僕の顔に出ていたようだった。友達になれない理由を、彼女は自ら語り始めた。
「『ボーイフレンドがいるから』とかいう、安易な嘘をついた方が良いのは分かっているんだけど、私、あなたには本当のことを言った方が良いような気がするの。だから言うね。私、実は余命6カ月の宣告を受けているの」
『まさか』と思ったことも彼女にすぐに見抜かれた。
「ああ、普通は嘘だと思うよね。でも、これを見れば信じてもらえるかな」
言うなり彼女は頭に手をやり、髪の毛を全て取り去ってみせた。鬘の下からは髪の毛がすべて抜け落ちた頭皮が顔を出した。医者の息子でなくても、癌治療の副作用だとすぐに分かった。
鬘を元に戻すと、彼女は無理に笑顔を作った。
「私ね、もう何年も入院したままで、ずっと窓の外ばかり見ていたの。私は、何の希望もなく、ここに閉じ込められたままで死んでゆくのかなって思って」
僕はようやく廓跡での彼女の様子に合点がいった。彼女は、かつてそこにいた遊女たちに自分を重ねていたのだ。あるいは僕が想像したように、彼女は本当に遊女たちの姿をそこに見たのではないかという気がした。
続く彼女の言葉は僕の心に突き刺さった。
「私、高校にも行けなかったの。大学にも行ってみたかったな」
行けるのに高校にも行かず、このままでは大学にも行けなくなる自分が少し後ろめたくなった。もちろん彼女はそんなことには気づくわけもなく、そのまま話を続けた。
「今回は無理を言って外出許可をもらってきたの。実は私の病室の窓からは汽車が見えるの。だから、死ぬまでに一度くらいは『宇宙鉄道X9』のグレーテルみたいに汽車に乗って旅をしてみたいなって思って。でも、最初で最後の旅の停車駅は金沢だけだったけどね」
彼女の憧れのグレーテルの旅の結末が明らかになるのは一年先だった。余命半年の彼女が、『気になる』と言っていたその結末を知ることはない。そう思った途端、心が鉛のように重くなった。しかし、その重さが生んだ言葉は自分でも意外なものだった。
「でもさあ、『余命半年の人は友達を作ってはいけない』って、誰が決めたの?僕たちが友達になることは悪いことじゃないと思うけど」
言いながら僕は感じた。人づきあいが苦手なくせに、祖母ではありえない彼女と繋がりを保とうとしている自分が不思議だった。
「ありがとう。でもね、私と友達になったら、あなたは辛い思いをすることになるわ。次第に弱っていって、やがては死んでゆく、そういう人と関わる苦痛を、あなたが抱え込む必要はないわ」
父も母も、日々、そういう苦痛を抱え込んで生きているはずだった。僕はそこから逃げた。彼女に『そういう苦痛を抱え込む必要はない』と言われたことは、逆に僕がしたことを強く非難されているような気がした。僕が黙り込んでしまうと、彼女は優しく語り掛けてきた。
「私ね、忍者寺であなたを見た時、なんだか『宇宙鉄道X9』の道夫君に会えたような気がしたの。自分がグレーテルになった様な気分になって、ちょっと嬉しかったのよ。あなたには迷惑だったみたいだけどね」
「今は、そんな風には思ってないよ」
「そうよね。『友達になろう』って言ってくれたんだものね。この旅であなたに会えたことは良い思い出になったわ」
言うなり彼女は自転車のハンドルを掴んだ。
「そろそろ行かなくちゃ。汽車に乗り遅れちゃうから」
「駅まで送ろうか」
そう声を掛けると、彼女は軽く首を振った。
「ううん、ここで『さよなら』しよう。『じゃあね』って感じで」
彼女が、重々しい別れを避けたのだと分かったので、僕は応じるしかなかった。
「そう、じゃあね」
「パンク修理してくれてありがとう。じゃあね」
軽く言い放つと、彼女は自転車に跨り、道に向かって漕ぎ出すと、あっと言う間に僕の視界から消えた。
僕は、すぐに今日の宿泊地である常花駅に向かう気にもなれず、再びベンチに腰を降ろした。すると『本当にこれで良かったのだろうか?』という思いが頭をもたげてきた。
そうして、『彼女のために、もっとしてあげられることがあるのではないか?』という自らの問いに対する答えを探した。しかし、その答えは見つかりそうにもなかった。
そうしているうちに、一つの考えが頭に浮かんだ。でも、それは冷静に考えれば極めて馬鹿げたことだった。令和に居た頃ならば、思いもつかない程に愚かしい行いに思えた。正直言って実際にやりたいとは思わなかった。
決心がつきかねていると、僕の心の中の前田慶次に尻を叩かれたような気がした、『どうせなら、思い切り傾(かぶ)いて見せよ』と。
傾く(かぶく)という程のことではないが、馬鹿な行いをしてみようと思った。自分の部屋に閉じこもっていた時のように何もせずに、後になって後悔するよりは少しはましのような気がした。
そうして僕は、金沢駅に向かって自転車を漕ぎ始めた。
金沢駅に着くと、僕は、まず待合室を覗いた。しかし、そこに彼女の姿はなかった。そこで、僕は入場券を買ってホームに足を踏み入れた。運が良いことに、ベンチに腰を降ろして電車を待つ彼女の姿がすぐに見つかった。
「良かった。間に合った」
そう言って僕は彼女の隣に腰を降ろした。
「どうしたの。さっきお別れしたはずなのに」
「いや、やっぱり、きちんと君を見送りたかったんだ。それとね、君は『宇宙鉄道X9』の結末がすごく気になるって言っていただろう。だから僕が予想する『宇宙鉄道X9』の結末を聞いてもらいたいと思ってね」
「へえ、そうなんだ。それで、あなたの予想では結末はどうなるの」
彼女が興味を示してくれたので僕は安心した。それから僕は予想と称して『宇宙鉄道X9』のアニメ映画版の終盤の展開を彼女に話して聞かせた。
そして「永遠の命をくれる星」に着いたものの、結局は「いつかは死ぬ命」を選んだ道夫が、グレーテルと共に地球に戻ってきた所までを一気に語って一度話を切った。
「面白いわね。それでその後はどうなるの?」
彼女がそう言ってくれたのが嬉しかった。
道夫を愛しながらも、再び一人、X9号で宇宙に旅立つグレーテルを、道夫が駅で見送る最後の場面は、日本アニメ史上に燦然と輝く名場面として有名だ。だから、僕の語りにも力が入った。良い気になって台詞やカット割りまで細かく再現してしまった僕に、彼女は少し呆れた笑いを返してよこした。
「なんだかすごくリアルね。本当に結末を観てきたみたい」
「ごめん。つまらなかったかな?」
「ううん。最後の場面の予想、特に良かったな。アニメで観たら泣いちゃいそう」
「良かった。ありがとう」
「あなた、アニメ作家になれるんじゃない」
「まさか、無理だよ」
褒められても、後ろめたい気分になるだけだった。
それから程なくして、彼女の電車がやってきた。
「じゃあね。色々ありがとう」
電車に乗り込んだ彼女が振り向きざまにそう言った時、彼女の姿は本当にアニメのグレーテルと重なって見えた。次の瞬間、僕は予定通り愚かな台詞を吐いた。
「グレーテル、僕は、もう君には会えないのかな?」
「え?」
戸惑った表情を見せた後、彼女は、僕の思惑通り昭和じみたくさい芝居に乗ってくれた。
「ええと、ああ、そうだ。『そうよ、私はあなたの旅の思い出の中にしかいないのよ』」
芝居じみたタイミングで電車のドアが閉まった。彼女が座席に移動した時には、すでに電車は走り始めていた。僕が走って電車の後を追うと、彼女は窓を開けて少し顔を出した。それから彼女はシナリオ通りに、電車を追って走る僕に向けて髪を掻き上げてみせた。その髪が本物でないことが悲しかった。僕が足を止めると電車は速度を上げて、彼女の姿はあっという間に見えなくなった。
癌の治療がここ数十年で飛躍的に進歩していたことを僕は知っていた。昭和に生まれていなかったら、あるいは彼女も命を落とさずに済んだのだろうかと思った。
僕が医者であろうとなかろうと、僕が生まれる何十年も前に亡くなったはずの彼女の命を、僕が救うことなどできようはずがなかった。にもかかわらず、僕は無力感にさいなまれた。『もし、僕が将来医者になったら、彼女のような少女の命を救うことができるのだろうか?』、遠ざかってゆく電車を見つめながら、僕はそんなことを考えていた。
第三話 終



