気がついた時、僕は長い長い夢を見ていたような気がした。母方の祖母の通夜のために、生まれて初めて祖父母の家に来たものの、物置小屋に逃げ込んでスマホゲームに興じているうちに、僕はほんの一瞬だけ眠りに落ちたようだった。
するとそこに、一人の老人が入ってきた。
「ん。お前は隆史か?こんな所で何をしている?しかし、お前、若い頃のお前の父親そっくりだな」
僕の名前や、父の若い頃の顔まで知っているということは、彼は、一度も会ったことのない僕の祖父なのだろうと思った。
「すみません。周りが皆、知らない人ばかりなので気が重くなってしまい、ここに逃げ込んでしまいました」
祖父が少し不機嫌な顔をして言った。
「お前、高校に行ってないそうだな。愛子がそう言っていた」
僕の家族と祖父母は絶縁状態だったが、僕の母は祖母とは連絡を取り合っていたようだ。愛子とは亡くなったばかりの祖母の名前だ。
「はい、でも明日のお葬式が済んだら、明後日からは登校しようと思っています」
僕は自分で自分の発言に驚いていた。ついさっきこの物置小屋に入る前は、そんなことはまるで考えていなかったからだ。
「そうか、それは良かった」
祖父は拍子抜けしたようだった。小言を言うつもりだったのだろう。
僕は生まれて初めて会った祖父にも特別な興味は湧かなかったが、黙ったままも気まずいので、何か話題を探そうと思った。そして、辺りを見回すと、隅の方に卓球台が畳んで置かれているのに気付いた。その隣にあるガラス張りの陳列ケースの中には賞状やトロフィー、カップなどが収まっていた。どうやら祖父は卓球が得意だったようだ。
近づいてみると、一枚の写真が目についた。高校時代の祖父らしい少年と、同年代の女の子がそこには映っていた。見るからに元気そうなその女の子だった。僕は写真を指さしながら祖父に尋ねた。
「あの、この写真は、いつ撮ったものですか?」
「ああ、それか、高校二年の時に全国大会出場を決めた時の写真だ」
「隣に映っているのは僕のお祖母さんですか?」
「いや、それは玲子だ。玲子は私のダブルスパートナーだったんだ。高一の秋からペアを組んでいたんだ。こう見えても私たちは実業団でプレーしていてな、最後は、後一つ勝てばオリンピックに出られる所まで行ったんだが、負けてしまった。そして、それが私たちの引退試合になった。年齢的には、もう次はなかったからな」
祖父は少し寂しそうに言った。
何度でもやり直しのきくコンピュータゲームなどと違って、本物の勝負には、多くの場合は次などないのだと今更のように気づかされた気がした。
その後、僕は陳列ケースの中に、気になるものを見つけた。小さな額縁の中に、なぜか伊藤博文の千円札と封筒が収まっていたのだ。
「あの、どうして千円札と封筒がこんなに大事に保管してあるんですか?」
僕は遠慮もせずに聞いてしまった。
「その千円札はな、高一の夏の一人旅の最中にお世話になったご家族の方から『昼食代』として頂いたものだ。もったいなくて使う気になれずに取っておいたんだ。その後、そのご家族とはずっと交流がなかったんだが、何年も経ってから、その家の娘さんからファンレターを貰ったんだ。それがその手紙だ。『結婚して幸福に暮らしている』と書いてあった」
何年も経ってからわざわざ手紙をくれたからには、祖父とその娘さんの間には何かがあったのだろうと思ったが、それは聞いてはいけないような気がした。
千円札の入った額縁の隣にはシングル盤のレコードが飾ってあった。「旅の終りに」という歌の曲名も、「久保長明」という歌手の名前も聞いたことが無く、ジャケットの写真の顔にも見覚えは無かった。『売れなかったのだな』と思っていたら祖父から意外な言葉を聞かされた。
「隆史、今、お前が見ているのはデビル陛下の素顔の写真だ」
「ええ、本当ですか」
驚きだった。デビル陛下を知らない人などいない。悪魔のような化粧をして歌う有名な歌手だ。演歌からポップス、果てはヘビメタまで、様々なジャンルの歌詞と曲が書ける才能の持ち主でもある。更に驚くべきはT大法学部中退という彼の経歴だ。
僕が目を丸くしていると、祖父は更に興味深い話をしてきた。
「デビル陛下も、最初は化粧などせずに本名で活動していたんだ。それがデビューレコードだったんだが、まるで売れなくてな。その後、ああいう化粧をしてデビル陛下として再デビューしたのさ」
悪魔を自称し、正体を明かさないデビル陛下の秘密を、なぜ祖父が知っているのだろうかと気になり、僕は尋ねた。
「もしかして、お祖父さんは陛下と知り合いなんですか?」
「さっき話した、高一の夏の旅の途中に出会って友達になったんだ。ああ、ダブルスパートナーの玲子に出会ったのも、その旅の途中だ」
妙に出会いの多い祖父の一人旅のことにも、それほど興味はわかなかったが、僕は話をつなぐために訊いてみることにした。
「あの、お祖父さんは、高一の夏に、一体、どんな一人旅をしたんですか?」
僕の言葉に祖父の顔が輝いた。
「隆史、ちょっと来てみろ」
祖父は嬉々として、僕を物置小屋の隅に連れて行った。そこにはビニールのカバーが掛けられた何かが置かれていた。
「あの旅で、私は色々な人に出会った。どれも素晴らしい出会いだったが、一番の出会いは、お前の祖母・愛子との出会いだった」
祖父はそこで一度言葉を切るとカバーに手を掛けた。
「16歳の夏、私はこれで旅をしたんだ」
言いながら祖父はカバーを取り払った。現れた祖父の自転車を見たその瞬間、僕は初めて見る祖父の自転車に何故かしら懐かしさを覚えた。
『そうだ、この夏休みは、この自転車を借りて、祖父の足跡をたどる旅をしてみよう』、僕は瞬時にそう決めていた。そうして、なぜだか、その旅の先には、祖父と祖母と同じような素晴らしい出会いが待っているような気がした。
終
するとそこに、一人の老人が入ってきた。
「ん。お前は隆史か?こんな所で何をしている?しかし、お前、若い頃のお前の父親そっくりだな」
僕の名前や、父の若い頃の顔まで知っているということは、彼は、一度も会ったことのない僕の祖父なのだろうと思った。
「すみません。周りが皆、知らない人ばかりなので気が重くなってしまい、ここに逃げ込んでしまいました」
祖父が少し不機嫌な顔をして言った。
「お前、高校に行ってないそうだな。愛子がそう言っていた」
僕の家族と祖父母は絶縁状態だったが、僕の母は祖母とは連絡を取り合っていたようだ。愛子とは亡くなったばかりの祖母の名前だ。
「はい、でも明日のお葬式が済んだら、明後日からは登校しようと思っています」
僕は自分で自分の発言に驚いていた。ついさっきこの物置小屋に入る前は、そんなことはまるで考えていなかったからだ。
「そうか、それは良かった」
祖父は拍子抜けしたようだった。小言を言うつもりだったのだろう。
僕は生まれて初めて会った祖父にも特別な興味は湧かなかったが、黙ったままも気まずいので、何か話題を探そうと思った。そして、辺りを見回すと、隅の方に卓球台が畳んで置かれているのに気付いた。その隣にあるガラス張りの陳列ケースの中には賞状やトロフィー、カップなどが収まっていた。どうやら祖父は卓球が得意だったようだ。
近づいてみると、一枚の写真が目についた。高校時代の祖父らしい少年と、同年代の女の子がそこには映っていた。見るからに元気そうなその女の子だった。僕は写真を指さしながら祖父に尋ねた。
「あの、この写真は、いつ撮ったものですか?」
「ああ、それか、高校二年の時に全国大会出場を決めた時の写真だ」
「隣に映っているのは僕のお祖母さんですか?」
「いや、それは玲子だ。玲子は私のダブルスパートナーだったんだ。高一の秋からペアを組んでいたんだ。こう見えても私たちは実業団でプレーしていてな、最後は、後一つ勝てばオリンピックに出られる所まで行ったんだが、負けてしまった。そして、それが私たちの引退試合になった。年齢的には、もう次はなかったからな」
祖父は少し寂しそうに言った。
何度でもやり直しのきくコンピュータゲームなどと違って、本物の勝負には、多くの場合は次などないのだと今更のように気づかされた気がした。
その後、僕は陳列ケースの中に、気になるものを見つけた。小さな額縁の中に、なぜか伊藤博文の千円札と封筒が収まっていたのだ。
「あの、どうして千円札と封筒がこんなに大事に保管してあるんですか?」
僕は遠慮もせずに聞いてしまった。
「その千円札はな、高一の夏の一人旅の最中にお世話になったご家族の方から『昼食代』として頂いたものだ。もったいなくて使う気になれずに取っておいたんだ。その後、そのご家族とはずっと交流がなかったんだが、何年も経ってから、その家の娘さんからファンレターを貰ったんだ。それがその手紙だ。『結婚して幸福に暮らしている』と書いてあった」
何年も経ってからわざわざ手紙をくれたからには、祖父とその娘さんの間には何かがあったのだろうと思ったが、それは聞いてはいけないような気がした。
千円札の入った額縁の隣にはシングル盤のレコードが飾ってあった。「旅の終りに」という歌の曲名も、「久保長明」という歌手の名前も聞いたことが無く、ジャケットの写真の顔にも見覚えは無かった。『売れなかったのだな』と思っていたら祖父から意外な言葉を聞かされた。
「隆史、今、お前が見ているのはデビル陛下の素顔の写真だ」
「ええ、本当ですか」
驚きだった。デビル陛下を知らない人などいない。悪魔のような化粧をして歌う有名な歌手だ。演歌からポップス、果てはヘビメタまで、様々なジャンルの歌詞と曲が書ける才能の持ち主でもある。更に驚くべきはT大法学部中退という彼の経歴だ。
僕が目を丸くしていると、祖父は更に興味深い話をしてきた。
「デビル陛下も、最初は化粧などせずに本名で活動していたんだ。それがデビューレコードだったんだが、まるで売れなくてな。その後、ああいう化粧をしてデビル陛下として再デビューしたのさ」
悪魔を自称し、正体を明かさないデビル陛下の秘密を、なぜ祖父が知っているのだろうかと気になり、僕は尋ねた。
「もしかして、お祖父さんは陛下と知り合いなんですか?」
「さっき話した、高一の夏の旅の途中に出会って友達になったんだ。ああ、ダブルスパートナーの玲子に出会ったのも、その旅の途中だ」
妙に出会いの多い祖父の一人旅のことにも、それほど興味はわかなかったが、僕は話をつなぐために訊いてみることにした。
「あの、お祖父さんは、高一の夏に、一体、どんな一人旅をしたんですか?」
僕の言葉に祖父の顔が輝いた。
「隆史、ちょっと来てみろ」
祖父は嬉々として、僕を物置小屋の隅に連れて行った。そこにはビニールのカバーが掛けられた何かが置かれていた。
「あの旅で、私は色々な人に出会った。どれも素晴らしい出会いだったが、一番の出会いは、お前の祖母・愛子との出会いだった」
祖父はそこで一度言葉を切るとカバーに手を掛けた。
「16歳の夏、私はこれで旅をしたんだ」
言いながら祖父はカバーを取り払った。現れた祖父の自転車を見たその瞬間、僕は初めて見る祖父の自転車に何故かしら懐かしさを覚えた。
『そうだ、この夏休みは、この自転車を借りて、祖父の足跡をたどる旅をしてみよう』、僕は瞬時にそう決めていた。そうして、なぜだか、その旅の先には、祖父と祖母と同じような素晴らしい出会いが待っているような気がした。
終



