僕は自分の秘密を正直に明かすことにした。状況からして、愛子は僕が荒唐無稽な嘘をついているとは思わない気がした。
「全部きちんと話すから、君も座って聞いてくれないかな?」
 愛子は不信感に満ちた顔のまま、僕の向かいに腰を降ろした。
「細かいことは置いといて、単刀直入に言おう。僕の本当の名前は『山口隆史』で、『桑原久雄』は僕の祖父だ。僕は西暦2024年現在で16歳、高校一年生だ。どういうわけか、僕の魂はこの時代にやってきて祖父の体に宿ってしまったんだ。それから僕は祖父の立てた計画通りに旅をしてきたんだ。祖父はこの旅の途中で祖母と出会ったそうだ。祖父が祖母と出会わなければ、僕は消滅してしまう。だから、僕は旅をしながら祖母を探していたんだ。そして、さっきここの入口で君に会った時、僕は君が祖母だと思ったんだ。君は『愛子』という祖母の名前を名乗ったし、実を言うと僕の母と顔が似ているんだ。とりあえず言うべきことはこんな所だ。今度は君のことを聞かせてもらおうかな」
 僕の話を聞いて、愛子は唖然としていた。しかし、その顔は、もはや歪んではいなかった。愛子は小さく息をすると、意を決したように話し始めた。
「単純に言うと、あなたと同じことが私にも起こったっていうこと。私の本当の名前は『大沢裕子』。でも、この体はあなたのお祖母さんのものよ。詳しいことは後で話すけど、私とおばあちゃんは赤の他人よ。あなたと一緒で、2024年現在で私は16歳、高校一年生よ。私は、おばあちゃんの計画通りに旅をしながら、おばあちゃんの旦那さんを探していたの。歴史が変わってしまって、おばあちゃんと出会えた未来が消えないようにね。でも、まさか探していた相手が、同じような状況にいるとは思いもよらなかったわ」
「僕たちは似た者同士ってことだね」
「そうね」
 愛子、いや裕子と呼ぶべきか。彼女の顔にはすっかり笑顔が戻っていた。僕は、ようやく祖父ではなく、自分自身が出会うべき人に出会えたような気がした。
 
 すっかり気分が楽になった僕は裕子のことをもっと知りたいと思った。
「さて、裕子さん、お互いのことをきちんと話そうか」
「そうね」
  話したくないこともあったのか、裕子は少しだけ顔をこわばらせた。
「じゃあ、まずは、僕からだ」
 そう切り出した僕は、引きこもりに陥った末に、時を越え、祖父として旅を始めたことを裕子に打ち明けた。それほど笑える話ではないのに、聞き終えると、なぜだか裕子はクスクスと笑い始めた。
「何がそんなにおかしいの?」
 思わず僕は尋ねてしまった。
「ああ、ごめんなさい。馬鹿にしてるわけじゃないのよ。ただ、隆史さんと私って、本当に似た者同士なんだなって思ったの」
 裕子は咳ばらいをすると今度は自分のことを話し始めた。
「私はね、女子高に通ってたんだけど、SNSがらみでクラスメートとうまくいかなくなってしまって、不登校の引きこもりになってしまったの」
「なるほど、確かに似た者同士だ」
「そうでしょう」
 裕子はまた、クスクスと笑い始めた。
「じゃあ、どうやって僕のお祖母さんと出会ったわけ?」
 僕は話の続きを急がせた。
「私はねSNSでおばあちゃんと知り合ったの。おばあちゃんは、そこで、若い子の相談役みたいなことをしていたの。ある意味で、もう教祖様みたいだったわ。私は、そのうち、どうしても直接おばあちゃんと会って話がしてみたくなったの。必死に頼み込んでようやく会ってもらえることになったの」
「なるほど、そういうことか」
「おばあちゃんは本当に親身になって相談に乗ってくれたわ。その中で、私に旅に出ることを勧めてくれたの。そして、おばあちゃんが、高一の夏休みに旅をして、その旅の途中で隆史さんのお祖父さんと出会ったことも教えてくれたの」
「なんか、夫婦だけあって、発想が一緒だな」
「そうね」
「それで、その後は」
「ゴールデンウィークが終わった頃に、私はおばあちゃんと会う約束をしていたんだけれど、おばあちゃんは約束の場所に現れなかったの」
 僕は、祖母が亡くなったことをまだ裕子に話していなかったことに今更ながらに気づいた。
「裕子さんには言ってなかったけど・・・」
 言いかけた言葉は裕子に制止された。
「おばあちゃん、亡くなったんでしょう」
「どうやって知ったの?」
「その日に夜、おばあちゃんが夢枕に立ったの。約束を破ってごめんって謝ってた。それから、私にもう一度、旅に出るのを勧めてくれたの。そうして、目が覚めたら、私はおばあちゃんになって列車に乗っていたの。後は隆史さんと一緒ね。私も、おばあちゃんの立てた計画通りに行動しながら、隆史さんのお祖父さんを探していたわけ」
「しかし、なんとも不思議な話だな」
「そうね」
「でも、無事に出会えて良かった」
「うん、まったくその通り」
 僕らはお互い顔を見合わせて笑い出してしまった。
「ねえ、裕子さん、明日は僕と一緒に自転車で道祖神巡りをしてくれないか」
「ええ、さっきその約束はしたじゃない」
「いや、さっきのは僕のお祖母さんに向けた言葉だったからね。今度は君に、裕子さんに頼んでいるんだよ」
「そう、嬉しいな。明日は一緒に自転車で走ろうね」
 その言葉を聞いて、僕は僕自身の自転車の旅がようやく始まるような気がした。

 旅の最終日、8月5日の朝、僕は気持ちよく目が覚めた。朝食前に、僕はユースの外に出てみた。高原のひんやりとした風が心地よかった。朝霧に包まれた安曇野は陽が高くなるに連れて、ゆっくりとその全貌を現し、昨日僕が越えてきたアルプスの山々は優しく僕に微笑みかけてくれているような気がした。
 裕子と共に朝食を取り、部屋に戻ると久保長さんが、ほぼ出発の準備を終えていた。
「あれ、もう出発するんですか?」
少々、足早な出発だなと思い、僕は声を掛けた。
「ああ、昨夜、夕食の時に知り合った女の子たちの車に東京まで乗せてもらえることになってね」
「そうでしたか」
 応じながら僕は、年上の彼女にバレたら困りはしないだろうかと少し心配になった。
「ああ、久保長さん、昨夜は夕食後に話す機会がなくて言いそびれていましたが、昨日の久保長さんの歌、みんな素晴らしかったです。特に『旅の終わりに』は泣きそうになりました」
「はは、大げさだな。でも、気に入ってくれて僕も嬉しいよ」
「あの歌を、また聴いてみたいと思いました」
 本心だった。
「そうか、ありがとう。ああ、そうだ。じゃあ、今度、僕のコンサートを聴きに来てくれないかな?九月の終わりにやるんだ」
「すごいですね」
「いや、とても小さな会場なんだけどね。それと、昨日、一緒にいた彼女も誘ってみたらいいよ。再会を呼びかける良い口実になるんじゃないかな」
 久保長さんは少しいたずらっぽく笑った。
「はい、そうします」
「じゃあ、君の連絡先を書いてもらえるかな?」
 久保長さんは荷物からメモ帳を取り出した。
「ああ、僕もお願いします」
 僕も慌ててフロントバッグからメモ帳を引っ張り出した。連絡先の交換を終えると久保長さんは立ち上がった。
「じゃあ、またね」
「はい、ご連絡お待ちしています」
 そう返した後、部屋を出て行く久保長さんを見送った僕は、妙な気分に襲われた。久保長さんが歌う「旅の終わりに」を僕はもう一度聴いてみたかった。それは嘘ではなかった。しかし、それは、旅が終わり、9月が来ても、この時代に留まっていなければできないことだった。それを望む気持ちが意識のどこかにあるのかもしれないと気付くと、なぜか笑いたくなった。

 朝食後、出発の準備を終えると、僕は裕子一緒にペダルを漕ぎ出した。
 最終日の今日は、何もかもか今までと違っていた。もはや、必死に走る必要はなかった。安曇野を散策した後にたどり着くべき場所は、昨日通過してきた穂高駅だった。おおむね下りになるので、今までの旅路に比べれば、ほんの散歩程度の距離と運動量でしかなかった。
 そして僕は、もう孤独ではなかった。裕子という道連れもできた。もう、祖母を探さなくても良かったし、裕子に対しては祖父を演じる必要もなかった。
 状況は裕子も同じだった。僕たちの会話が聞こえるくらいの距離に人がいなければ、ごく普通の令和の高校生でいられた。
 
 僕たちはユースで貰った地図を頼りに道祖神巡りの旅を始めた。
 道祖神とは民間信仰の神様だ。大抵は高さ1メートルにも満たない小さな石板に寄り添う男女の姿が浮き彫りにされているものだ。
 それらの多くは社もなく野ざらしのまま田んぼや畑の角に点在していた。
 青空の下、緑豊かな田畑に挟まれた道をたどり、僕たちは地図に示された道祖神たちを訪ねて回った。
 道祖神巡りの途中、僕たちは、ワサビ田にも立ち寄った。
 川から水を引いてできたワサビ田は、まるで川そのものにワサビを植えているかのように見えた。ワサビの緑と水路がストライプを描いて伸びるその様は見た目の涼しさを呼び、水のきらめきは信州の短い夏を謳歌しているようだった。

 そんな自転車の旅の途中で僕たちは、裕子の希望で「絵本の家」という所に立ち寄った。木立に囲まれて静かに佇むその施設は、洒落た洋館で、元は裕福な外国人の別荘だったとのことだった。かなりの大きなその家は、今は書店兼美術館という感じの場所になっていた。高校生の男子としては、少々場違いな所に連れてこられてしまったような気もしたが、いざ中に入ってみるとそうでもなかった。
 入り口を入ってすぐの広間からすでに絵本がいっぱい展示されていた。ガラスケースに入ったそれらは売り物ではないようだった。そこにはグランドピアノも置かれていた。そのピアノの音ではなかったが、館内には心が落ち着くような静かなピアノ曲が流れていて、その甘美なメロディは絵本の絵と美しく調和していた。父方の祖父はクラッシックも聴く人だったが、聴いているのは交響曲ばかりで、ピアノ曲というのは新鮮な気がした。
 裕子の後について歩きながら、僕も売り物の本のページをいくつかめくってみた。それらはほとんどが海外からの輸入品のようだった。僕のイメージでは絵本というものは子供向きに作られた低級な内容の書物で、ストーリーも絵もクオリティーが高くないものと決めつけていたようなところがあったが、「絵本の家」に並んでいた絵本たちはそうではなかった。
 絵は大人が見ても美しいと思える程にしっかりと描かれていた。英語圏から来たと思われる本の文章には少し目も通してみたが、一般的な日本の中学生ではスラスラと読めるとは思えず、自分が知らない単語もちらほらと見えた。
 どの絵本の絵も、とにかく美しかった。特に異世界の美しさに目を引かれた。僕にとって馴染み深いゲームの中の異世界は、ドラゴンを初めとする恐ろしい生き物が溢れ、狡猾な魔法使いなどが、いつも陰謀を巡らしているようなおぞましい世界で、常に戦いの場だった。そういう絵本もなくはなかったが、「絵本の家」に並ぶ絵本の中の異世界はゲームとは一線を画したような美しい世界がほとんどだった。
 英語圏以外から来た本の言語は単語一つさえ理解不能で、絵本全体が正真正銘の異世界の産物のように思えた。聴きなれない甘美なピアノ曲の効果もあってか、僕はすっかり異世界に迷い込んでしまったような感覚に捕らわれた。
「驚いたわ。隆史君、随分と絵本がお気に召したようね」
 裕子に声を掛けられ、ふと我に返った僕は、要領を得ない返答をしてしまった。
「ああ、いや、なんというのかな。絵本って自分が想像していたよりもクオリティーが高いもの多いんだなって思ってね。あと、もしかしたら、今、掛かっているBGMも絵本の美しさを引き立てているような気がするんだ」
「ああ、さっきからかかっているこれは、ショパンのノクターンのアルバムね」
 ショパンぐらいはもちろん知っていた。しかし、『ノクターン』。クラッシックには馴染みのない僕には異世界の言葉だった。僕は知ったかぶりせず、素直に裕子に尋ねることにした。
「ノクターンって何?」
「日本語だと『夜想曲』。漢字にすると『夜を想う曲』って書くんだけど、まあ、こういう感じの静かな夜に似合いそうな曲のことよ。ショパンのノクターンは結構あちこちで耳にするけどな」
「そうなんだ。僕は初めて聴く感じだけど、悪くないね」
「あら、趣味が合うわね。私、ピアノを習ってるんだけど、ショパンのノクターンって大好きよ」
「へえ、裕子さんピアノが弾けるんだ。聴いてみたいな」
「あら、意外と社交辞令も得意なのね」
「違うよ。本当に聴いてみたいって思ったんだよ」
 その言葉に嘘はなかった。
「へえ、そうなんだ」
 クスクスと笑いながら聞き流されたので、その話はそれで終わったものと僕は思った。裕子が話を少し別の方向に振ったのでなお更だった。
「私のお母さんは子供の頃、よく絵本を読んでくれたのよ。だから、絵本は大好きなの。そのせいもあってか、今は小説もよく読むのよ」
 言われて、少し僕は卑屈になった。母がいつも忙しくしていたせいか、僕は絵本を読み聞かせてもらったことなどなかったことを再確認してしまったからだった。しかしそれは、悪いことばかりではなかった。
 今僕が、目にしている絵本たちも、耳にしているノクターンも、ついさっきまでは縁がなかった美しい物たちだった。勉強に明け暮れた後はひきこもりで、極めて狭い世界に生きていた僕は、ようやく僕の身近にあったそれらに出会ったのだ。そして、僕が自分の中に閉じこもろうとしなければ、これからも、未知の美しいものに出会えるかもしれないと思えた。
 館内を一通り回り終えて入り口の所に戻ると、裕子は係の人に何やら声を掛けた。その後、裕子は置いてあったグランドピアノの前に進むと椅子を自分の高さに合わせた。そのタイミングで館内のBGMが途切れた。
「弾いて良いって言ってもらえたわ」
 きょとんとしている僕に向かって裕子は嬉しそうに微笑んで見せた。
「隆史君のリクエストにお応えして弾かせてもらいます」
 裕子が、まさか先ほどの僕の言葉にこんな反応を見せるとは思ってもいなかった。僕は裕子の顔が見られるようにピアノの左側に立って裕子の演奏が始まるのを待った。
 演奏が始まった途端に鳥肌が立った。思えば僕は音楽の授業でのピアノの伴奏以外で生のピアノの演奏を間近で聴いたことはなかった。裕子が弾いている曲には聞き覚えがなかった。いかにも悲しいという曲ではなかったが、甘美でありながらどことなく切なさが感じられる曲だった。
 ピアノ曲で歌詞が無いのに、なぜか昨夜、久保長さんの『旅の終わりに』を聴いた時と同じようなことが起こった。美しい旋律は僕に旅で見た風景を思い起こさせた。そして、出会った人たちの顔が浮かんだ。
 美しい旋律が突然雰囲気を変え、曲が激しさを増すと、あやかしの恐怖や辛い坂道との戦いが蘇ってきた。
 そして、曲が終わりに近づき、再び甘美な旋律が戻ってきた時、不思議なことが起こった。ピアノを弾く裕子は祖母の顔をしていなかった。僕は見たこともない裕子の本当の顔を見たのだ。
 そして僕は思った。『本当の裕子に会いたい』と。『2024年にいる裕子に、正真正銘の僕として向き合いたい』と。そうして僕は悟った。東尋坊の少女は大した関わりもない赤の他人だ。金沢の少女はサイクリング仲間だ。清香は命の恩人であり、玲子は友人、あるいは戦友だった。佐々木さんは姉のような人であり、高山の愛子は妹のような存在だった。しかし裕子は、もはや彼女たちとは一線を画す存在になっていた。平たく言えば、僕は裕子に恋をしている自分に気づいたのだ。
 演奏が終わっても僕は自分の世界に深く入り込んだままだった。
「なに、拍手もなし。リクエストしておいてひどいんじゃない?」
「ああ、いや、そうじゃなくて。感動しすぎて固まっちゃったんだ」
「あらまあ、大げさね」
「違うよ。素直な気持ちだよ。聴いていたら、この旅の色々なことが浮かんできたんだ。出会って別れてきた人たちのこととかもね」
「ああ、それ分かるかも、だって今、弾いたのはショパンの『別れの曲』だもの。ノクターンが好きみたいだったから、『別れの曲』も好きかなって思ったんだけど正解だったみたいね」
 言われて僕は、まんまと裕子の術中にはまったのだと思った。

 道祖神巡りも終わりに近づいた頃、僕たちはある道祖神と道を挟んで向かいに置かれたベンチに腰を下ろし休憩を取った。道祖神の向こうには田んぼの緑が広がり、その向こうには北アルプスの山々が連なっていた。そんなのどかで美しい風景を眺めていたら、馬鹿にセリフを吐いても良いような気がした。
「ねえ、裕子さん、『奥の細道』の序文知ってるよね」
「うん、もちろん」
「『道祖神の招きに合いて』っていう件があったよね」
「ああ、そうね」
「もしかしたら、僕のお祖父さんとお祖母さんは、道祖神に招かれて出会ったのかな?」
 裕子は女の子らしい目で北アルプスの向こうの空を見つめた。
「それで」
「え?」
 話の続きを期待されたのは意外だった。僕には別にその先に言いたいことなどなかったからだ。狼狽えていると裕子に先を越された。
「『僕たちも、同じなのかな』とか、そんなセリフを期待してたんだけどな」
 裕子はそう言って口を尖らせた。少しいじけたその顔を見た途端、僕は反射的に左手で裕子の肩を引き寄せていた。右手で裕子の頬に触れると、裕子は眼を閉じた。唇を重ねようとしたその瞬間に、僕はふと違和感を覚えた。
「ごめん」
 謝ると裕子は眼を開き、寂しそうな視線を返した。僕は自分が感じたことを素直に話すべきだと思った。
「ごめんね。祖母の顔をした君にキスするのは、なんか違うと思ったんだ」
「近親なんとかという気がした訳?」
「違うよ。実はさっき、君がピアノを弾いている時に、見たこともないはずなのに、君の本当の顔を見たような気がしたんだ。そのせいかな?僕は、正真正銘の本物の君にキスしたいと思ったのさ。大事な、最初のキスだからね」
 言い終えた途端に裕子が笑い出したので、僕は少し怒りたい気持ちになった。
「裕子さん、何がそんなに可笑しいんだよ?」
「だって、隆史君、まじめな顔して気障なこと言うんだもの。隆史君、すっかり昭和人になったみたい」
 反論すると更に笑われそうな気がしたので、僕はだんまりを決め込んだ。

 最後に立ち寄ったのは穂高の駅のすぐ近くにある美術館だった。美術に造詣の深くない僕は、展示品には感銘を受けなかったというのが本音だった。しかし悪いことばかりではなかった。教会のように見える美術館の庭の木陰には、のんびりとくつろげる寝椅子のようなベンチがあった。僕たちはそこに並んで体を預けた。
地球温暖化などという言葉がごく一部の人たちだけのものだった時代、信州の夏の木陰は、楽園のような場所だった。涼しげな風が吹き込んできて木々の緑の葉を揺らすと、木漏れ日がサラサラと音を立てて、気を抜いたらそのまま眠り込んでしまいそうだった。余りにも穏やかな時が、いつの間にか僕たちの間から言葉を奪っていた。しかし気まずさは欠片もなかった。
静かだった。僕は穏やかな時間の中にどっぷりと漬かっていた。敦賀から安曇野まで、苦難の道のりを無事に走り終えた。いくつもの美しいも風景を目にした。素晴らしい出会いと別れ後に、祖母を見つけ、消滅の危機も乗り越えた。そしてようやく出会うべき人にも出会えた。そんな満足感に浸っていると、不思議な感覚が芽生えた。旅が終わるのが寂しくなったのだ。あれほど嫌々始めた旅だったのに可笑しな話だった。
ふと裕子の方を見ると、裕子もまた、旅の終りの旅愁に身を任せているような気がした。そんな思いの一端がふと口からこぼれた。
「なんだか帰りたくないね」
「そうね、だけどお家に帰らないと、次の旅には出られないわよ」
「そうだね」
 答えながら僕は気づいた。僕は、また自転車の旅に出たいと思っていた。そして、更に、僕は思った。『すぐには無理で、いつかは再び裕子と共に旅をしてみたい』と。

 美術館から穂高の駅はあっという間だった。駅に着くと、僕はさっそく自転車の分解に取り掛かった。裕子も手伝ってくれた。しかし、分解した自転車を袋に収めるのは簡単な仕事ではなかった。斉藤さんに言われた通りにメモ帳の最後の数ページに詳細な図を残していなかったら絶対に無理だった。僕は改めて斉藤さんに感謝したい気持ちになった。
 ほっとして、裕子と並んでベンチに腰を下ろした時だった。突然、僕たちの正面に座っていたお婆さんが、胸に手を当て、「うっ」と呻いたかと思うと、そのまま床に崩れ落ちてしまったのだ。
「大丈夫ですか?」
 僕はすぐに倒れたままのお婆さんの脇に屈みこんで尋ねたが返答はなかった。
「大丈夫かしら?」
 裕子もすぐに僕の隣に並んだ。僕は学校の救急救命の講習を思い出した。中学に入ってから毎年行われる講習に対して、同級生たちは真剣に取り組んでいたとは言い難かったが、医師の家系に育った僕は毎回真剣に取り組んでいた。予想もしなかったことだが、僕はそれが必要な現場に居合わせたのだと思った。僕は教わった通りに、まずお婆さんの耳元で大声で尋ねた。
「お婆さん、お婆さん聞こえますか?」
返事は無かった。意識がないことが確認できた。続いて僕はお婆さんの口元に耳を寄せた。呼吸がないことも確認できた。薬指と中指で頸動脈に触れてみると脈も無かった。学校で習った通り、心肺蘇生法が必要な状態だった。自分がやるしかないと覚悟を決めた。裕子にも手伝ってもらう必要があった。
「裕子さん、君も学校で救急救命の講習は受けているよね?」
「ええ、でも、大人の人たちに任せておいた方が良いんじゃないの?」
「いや、この時代の大人は僕たちと違って学校で救急救命の講習なんて受けていないから頼りにならないよ」
 救急救命の講習が中高で行われるようになったのは東日本大震災以降だということを僕は知っていた。
「じゃあ、裕子さん、まず、AEDを・・・」
 言いかけてから気づいた。この時代の駅にそんなものがあるはずかなかった。講習で習った通りに素手で心臓を圧迫する必要があった。
「裕子さん、君は荷物からタオルか何かを取り出して、お婆さんの頭の下に敷いて。あと、気道確保を頼む。気道確保、分かるよね」
「うん、それ習ったわ」
 裕子は、そう答えると早速、講習通りの行動に移った。僕は遠巻きに様子を眺めていた人たちの中から中年の女性を選ぶと、その人を指さして声を掛けた。
「すみません、そこのおばさん」
「え、おばさんって私のこと?」
 突然の指名を受けたおばさんは意外な顔をしていた。
「そうです、あなたです。あそこの公衆電話から119番通報をして救急車を呼んでください」
「ええ、私が?」
「そうです。あなたがです。すぐにしてください」
「ええ、どうして私が?」
「急を要するんです。早くしてください」
 僕の剣幕に気おされてか、おばさんは公衆電話に走ってくれた。
「隆君、タオルを持ってきたわ」
折よく裕子も戻ってきた。
「ありがとう。じゃあ、頭の下に敷いて気道確保をして」
「分かったわ」
 裕子は教わった通りに、お婆さんの頭を左手で押さえ、顎を右手で押し上げてくれた。
「口を開いて、喉に何か詰まっていないか見てくれないか」
 答えはすぐに返ってきた。
「大丈夫、何もつかえていないわ」
「ありがとう。マウス・トゥ・マウスのやり方は習った?」
「うん、鼻をつまんで息を吹き入れるのよね?」
「そう、僕が心臓を十回圧迫する毎に声を掛けるから、そうしたら息を吹き込んで。大丈夫、この時代のおばあさんなら、感染症などないはずだから」
「うん、わかったわ」
 そこで救急車を呼んでくれたおばさんの悲鳴のような声が聞こえてきた。
「あの、『患者さんの状態を伝えてくださいって』言っているんだけど」
「心肺停止状態で意識がないので心肺蘇生法を実施しますって伝えてください」
「分かったわ」
 おばさんが状況を伝えている間に僕は改めて覚悟を決めなおした。
「じゃあ、裕子さん、始めるよ」
「うん」
 その声を聞いて、僕は早速、お婆さんの胸に両の掌を重ねて心臓の圧迫を始めた。十回続けたところで裕子の方を見て「はい」と声を掛けた。裕子は言われた通りにお婆さんの口から息を吹き込んだ。
 同じことをどれだけ繰り返したのか、必死だった僕には分からなかった。だからそれが何度目のことだったかは分からなかったが、ある時、裕子は「はい」と声を掛けても人口呼吸を行わなかった。僕の方を見たその目は明らかに『もう、ダメなんじゃないの?』と僕に問いかけていた。
「裕子さん、素人の僕たちが判断をしちゃだめだ。どんな結果になろうとも、救急車が来るまでは続けるんだ」
 僕がそう叫ぶと、裕子は黙って人工呼吸を再開した。そうして、僕たちは繰り返しお婆さんの心肺蘇生を試みた。その後、どれくらい時が経ったのか、どれだけ処置を繰り返したのか、やはり僕には分からなかった。
 しかし、僕たちの努力は無駄にはならなかった。ちょうど救急車のサイレンが聞こえ始めた時、お婆さんが息を吹き返したのだ。お婆さんは僕の顔を見ながら何か言いたそうだったが、まだ声にならないようだった。
「安心してください。もう大丈夫ですよ。ほら、サイレンの音も聞こえるでしょう。すぐに病院に運んでもらえますから」
 僕がそう声を掛けると、お婆さんの目には涙が滲み始めていた。しかし、まだ、声は出せないようだった。しかし、『ありがとう、ありがとう』と何度も繰り返し訴えかけてくるお婆さんの心の声はしっかりと僕に届いていた。そして、その声は僕の心の中で大きな喜びになって広がっていった。
 救急車が駅前に止まったのか、サイレンの音が消え、お婆さんを搬送するためのストレッチャーが近づいてくる音が聞こえた。僕が立ち上がったところで、救急隊員が二人、お婆さんの元にたどり着いた。
彼らは、お婆さんの意識が回復しているのを見てほっとした表情を見せた。そのうちの一人が、お婆さんの傍にいた僕に尋ねた。
「通報をなさったのはあなたですか?」
「あちらの女性に電話を頼んだのは僕です」
 僕は先ほどのおばさんの方に手で示しながら答えた。
「あなたは患者さんのご家族の方ですか?」
 僕はすぐさま次の質問をされた。
「いいえ、たまたま居合わせただけで赤の他人です」
 答えた途端に更に質問をされた。
「心肺蘇生を行ってくれたのはどの方ですか?」
 救急隊員は辺りを見回した。
「ああ、僕と彼女です」
「え、お二人がですか?」
 僕の答えに救急隊員はひどく驚いたようだった。
「はい、そうです」
「そうでしたか、あなた方の適切な処置がなかったら、大変なことになっていたかもしれませんね。ご協力ありがとうございました。後は我々にお任せください」
 そう言うと、二人の救急隊員は手際よくお婆さんをストレッチャーの上に寝かせると、あっという間に救急車で去っていった。騒然としていた待合室もすぐに何事もなかったように静けさを取り戻し、東京行きの急行列車の発車時刻はすぐそこに迫っていた。

 東京行きの列車に乗り込むと、僕たちは直角の椅子に向き合って座った。旅の疲れが出たのか、裕子はすぐに眠りに落ち、僕もそれに続いた。目が覚めた頃には列車は、長野県はおろか山梨県の外れまで来ていた。

 列車が東京都に入ると、不意に裕子が聞いてきた。
「ねえ、隆史さん、もし、2024年に戻れたら、どうするつもり?」
 裕子のその言葉を聞いて、僕は初めて自分が先のことなどほとんど考えていなかったことに気づいた。それまでの僕は目の前の道を行くことと、祖母と出会うことしか頭になかった、その先を考える余裕などなかったのだ。
 だが、裕子に尋ねられた瞬間に僕の口からはスラスラと答えが出てきた。
「僕は、もう一度、学校に行ってみようと思うんだ」
「そうして、またお医者さんを目指すの?」
「うん、そうだね。でも、親に敷かれたレールに戻るなんてカッコよくないよな」
「そんなことないと思うな。さっき、お婆さんを助けようとしてた時の隆史さんは、とってもカッコよかったよ」
 女の子に、そんな風に褒められ、照れ臭くて顔を背けると、裕子は更にその先を続けた。
「それにさあ」
「それに」
「お医者さんになる道は敷かれたレールだったかも知れないけど、一度そこから外れた後、隆史さんは自分の意志で元のレールに戻ろうと思ったんでしょう。だったら、隆史さんがお医者さんになるのは、もう自分が選んだ道なんじゃないかしら」
 なんて優しい言い方をするのだろうと思った。自分を恥じる気持ちが薄らいだ。
「ありがとう。裕子さんにそう言ってもらえて、すごく気持ちが楽になったよ」
「そう、良かった」
 裕子の言葉が嬉しかったのか、僕は少し饒舌になった。
「それとね、もし、元の時代に戻れたら、今度は僕の家族がもっと良い家族になれるように努力したいと思うんだ。母方のお祖父さんを含めてね」
 自分のことを語り終えたら、当然、裕子のことも聞きたくなった。
「裕子さんは、どうしたいの?もし、元の時代に戻れたら」
 裕子は僕にそう訊かれて、少し恥ずかしそうに自分のことを語り始めた。
「実は私も、もう一度、学校に行ってみようと思うの」
「そうか、君も元のレールに戻るんだね」
「うん、そうだけど、少しだけ違うの」
「どう違うんだい?」
「私はね、大学は経済学部とか法学部みたいな一般企業の就職に有利になりそうな大学に進学するものだって、なんとなく思っていたの。でもね、この旅をしているうちに、将来は国語の先生になりたいって思い始めたの。隆史さんのお祖母さんは国語の先生だったんだよ。私も、おばあちゃんみたいに、悩んでいる子の力になれたらいいなって。まあ、元から小説とか詩とか好きだったしね。その方が私らしいかなって思えてきたの。そして引退したら松尾芭蕉みたいな旅に出てみたいな。ついでに将来は小説家の一つも書けるようになるといいな」
 裕子の顔は希望に満ちていた。別の可能性は頭に無いように見えた。僕は消滅を免れた。しかし、僕も裕子も、元の時代には戻れない可能性もあるのだ。でも、それならば、このまま祖父の振りをして、裕子と共にこの時代で生きていくのも悪くないような気もした。
だが、次の瞬間にピアノを弾いていた裕子の顔が浮かんだ。そして僕は、やはり正真正銘の本物の裕子に出会いたいと思った。祖父の人生をリピートするのではなく、自分の人生を生きたいと思った。
 その直後、僕は大事なことを忘れていたことに気が付いた。僕たちは、まだ、お互いの連絡先を交換していなかった。
「裕子さん、大事なことを忘れていた。連絡先を交換しなきゃ」
「ああ、そうだったわ」
 僕たちは、慌ててそれぞれの荷物からメモ帳を取り出した。そうして、僕たちは、しっかりとお互いのメモ帳に連絡先を書き残した。
「さあ、これで大丈夫だね」
 裕子がそう言って、僕にメモ帳を返してよこした時、メモ帳の最後のページが目につき、『あれっ』と思った。
 僕は手元でしっかりと最後の数ページを見直して愕然とした。そこには僕が斉藤さんに言われて描いた自転車の分解図があるはずだった。しかし、メモ帳の最後の方には、白紙のページがあるだけだった。
 嫌な予感がした。分解図は本来の歴史においては最後の数ページに存在するはずのないものだった。僕と裕子が、いや、祖父と祖母が無事に出会って連絡先を交換した時点で、歴史はほぼ元に戻ったのかもしれなかった。それが、分解図が消えた理由であるとすれば・・・
 僕はふと寺の娘・清香の言葉を思い出した。『常花でのできことを僕は忘れるだろう』と清香は言った。僕への気休めの言葉だと思っていたそれは、実は清香が朧気ながら感じていた僕の未来だったのかもしれないという不安が湧き上がってきた。
 混乱し始めた頭の中で、僕は自分の記憶を確かめてみた。僕はどこから旅を始めたのか。思い出せなかった。確かあちこちで忘れがたい出会いがあったような気がしたが誰の顔も浮かんでこなかった。僕の記憶は急速に消え始めていた。
 裕子の顔にも不安が色濃く見えた。
「裕子さん、ねえ、君が最初に泊まったところ覚えている?」
「ああ、それが思い出せないの」
 僕の考えは当たっていた。
「ねえ、私たち、どうなっちゃうの?」
 裕子は今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「たぶん、僕たちの役目は終わったんだよ。祖父と祖母は無事に出会って歴史が変わることはなくなった。あとは、僕たちの旅の記憶が消えて、元の時代に戻り、それきり過去に行ったりしなければ歴史は全て元通りだ」
「いやよ、私、この旅で色々な人に出会って、たくさん良い思い出ができたのよ。それがみんな消えてしまうなんて嫌よ。隆史さんとの出会いも消えてしまうなんて耐えられないわ」
「裕子さん、それは違うよ。僕たちはお互いのことを忘れてしまうかもしれないけど、忘れてしまことと消えてしまうことは、きっと別なことなんだよ」
 僕の言葉は気休めから出たものではなかった。本当にそんな気がしたのだ。だから、僕は、その先を続けた。
「ねえ、裕子さん、約束しようよ。2024年の8月4日、安曇野で会おう」
「隆史さんの言う通りなら、そんな約束したって無駄じゃない」
「信じようよ、また会えるって」
「そんな奇跡をどうやって信じるのよ」
「僕たちは時空を超えて巡り会うなんて奇跡を経験したじゃないか。それに比べたら僕たちが元の時代で再会するなんて奇跡の内に入らないんじゃないかな。さあ、約束しようよ」
 僕は裕子の前に右手の小指を差し出した。
「2024年の8月4日、安曇野で会おう」
「うん」
 僕たちは指切りをして再会を約束した。