「あと、ライはママのお気に入りだからね。まさか女を連れてくるなんて思いもしなかっただろうから、ショックを受けて反動でってのもあるかも」
「たまたま、終電を逃してなりゆきでってだけの話ですよ」
「なるほどねぇ」

 後ろに立っていた店員さんは軽く頷きながら、私の隣へ座った
なにかをおもしろがっているような笑みを浮かべ、スクリュードライバーをごくごく飲み干す私越しに彼を見つめている
 ただのよくある話のどこが気に入ったんだろう……?

「僕は男女どっちも好きになれるんだよね」
「恋愛感情の意味でってことですか?」
「そう、バイセクシュアルって部類」

 さっきゲイバーについて調べてるときに、ネットで見た単語だ
 ゲイの方だけじゃない、いろんな性の方たちが集う場所だって書かれていた
 なるほど、と納得していると、片肘をついた店員さんが私と目線を合わせるように顔を覗き込む

「そういえば、おねーさんは名前なんて言うの? 僕はユウ」
「えっと、みや―――」
「ミヤだよ」
「ライに聞いてない~」
「ごめんごめん。ほら、グラスを下げて、ミヤが好きそうなお酒をお任せで頼むね。他のお客さんも呼んでるよ」
「あ、ほんとだ。ミヤ、また後でね」

 ユウは軽く手を振って去っていった
 ちょっと座ったらすぐにいなくなって……接客業というのは大変だなぁ

「こういうところは、真面目に本名を言わなくて大丈夫だよ。俺はライって名乗ってるから、ここではそう呼んで」
「そういう感じなんだ、わかった」

 今までの人生で来たことのない場所。知らなかった文化
 きっと、私のすぐそばにずっとあったけど気づけなかった当たり前のこと
 ママの毒を浴びて嫌な気持ちになったことさえも、全部含めておもしろい。楽しい
 ふと、聞き馴染みのある音楽が流れてきたと思ったら、他のお客さんが歌い始めた
 お酒を飲んで、言いたいことを言って、絡みたい人とおしゃべりをして、歌って、口説いて……この空間はなんて自由なんだろうか
 彼らを見ていると、私ももう少し自分勝手にふるまっても許されるような気がしてくる
 社会人だからって周りを気にし過ぎると苦しい。そんな当たり前のことに、いまさら気づいた

「みんなやりたいことをやってるでしょ。だから俺はこの場所が好きで、たまに来るんだよね」

 そう言ってあんまり減っていないグラスに口をつける彼
 ため息が混じったような声と表情に、職場で上手くやれてるように見える彼にも、それなりの辛さはあるのかもしれないと気づいた。空気を読めるから、人の感情に敏感だからこそ、我を出せないことが多いんだろうな
 彼にとって、ここは唯一のなんの気兼ねもなく過ごせる場所なのかもしれない

「ここに来てよかった。連れてきてくれてありがとう」
「……どういたしまして」

 一瞬フリーズした彼は、なにかを誤魔化すみたいにお酒をあおった
 そして、誤魔化すついでみたいに、下ろしている髪を指先でつままれる
 髪の手入れをしていないからか、近すぎる距離のせいか、一気に恥ずかしさが押し寄せてきた

「ミヤはさ、隙がありすぎ。もっと警戒心をもちなよ」
「ライ相手に壁作れってこと? どうして?」
「そうじゃないけど……え、この無防備な生き物、どうやったらこの先生き残れるんだ?」

 そんな、絶滅危惧種みたいな言い方をされても困る
 彼が言うほど、普段の私は無防備じゃないし……彼相手だからゆるんでるみたいなところがあるし
 と、心の中で言い訳をしていると、彼は私の髪で遊び始めた
 これまでの飲みの中で、彼が私に触れてきたことは1回もない
 今日はよほど酔いが回っているのか、深夜をとうに過ぎている時間のせいなのか
 私も、いつもみたいに平常心を保てていない
 指先で髪の毛を梳かれる度に、鼓動が騒がしくなっていく
 周りがうるさくて良かったと思えるほどに

「とにかく、さっきみたいな顔をユウとか他のお客さんに簡単に見せちゃダメ。近づかれたら距離を取ること。わかった?」

 ちょっとだけ不機嫌そうで不満そうな顔
彼の初めて見る表情に、よほど気に食わないことだけはわかる
 でも、一つだけわからない

「ライはどうしてお母さんみたいなこと言うの? 過保護なの?」
「……ふっ。くくくっ」

 どうやら少し離れたところから、ユウが聞き耳を立てていたらしい
 笑いを堪えようとして耐えきれませんでした、みたいな声が聞こえてきた
 隣の彼は、まるでショックを受けたように呆然としている
 さすがにお母さん発言はまずかったかもしれない。せめてお父さんにすべきだった

「あのね、ミヤが鈍感すぎるから言わせてもらうけど―――」
「ちょっとー。ここ、カップルがイチャつくところじゃないんですけどー?」
「ユウ、お願いだから邪魔しないで。いじわるしないで」
「ライのレアな表情を見たくて、つい」

 ユウと彼がじゃれ合っている
 彼が誰かと話している姿はよく見るけど、彼が仮面をかぶらずに気軽に話している姿は珍しい
 そういう意味では、ユウに共感しまくりだ。私は置いてけぼりを食らって会話に混ざれなくて寂しいけど

「でもさぁ、焦って酔った勢いなのもどうかなって思って」
「……一理ある。酔ってはないけど、焦りすぎた」

 言い負かされたらしい彼は、頭を抱えて反省している
 酔ってないと言いつつ、念のためにとユウへお冷を頼んだ
 ユウが離れていくのを見守り、彼は一息ついてから口を開く

「ミヤ、明日飲みじゃなくて、昼ごはん食べに行きたい」
「いいよ。楽しみだね」

 一秒と考えることもなく、即答した私
 どこか緊張した面持ちだった彼は、私の返事を聞いてほっと肩の力を抜いた
 たった一夜の間の、いろいろな発見と経験。普通だったら気づけなかったことも教えてもらった、特別な夜
 現状に不満も、未来に希望もなかった私だけど……明日からは少しだけ、毎日に期待をしながら過ごせる予感がする

「飲みな」

 不愛想に目の前へ置かれたモスコミュール
 しゅわしゅわとライムの香りをまとって弾ける泡が、そっと私を応援してくれている気がした