午後十一時五十九分、佐倉碧は駆け足で駅の改札を抜けた。心臓が嫌な音を立てていた。間に合う。そう信じて、ひたすら走った。会社を出るのが遅すぎた。システムのエラー対応に追われ、気づけば日付が変わる寸前だったのだ。**今日のプロジェクトも、あと少しで形になるはずだったのに、最後の最後で予期せぬバグが発生した。**ディスプレイに映る赤文字のエラーコードが、まるで自分の疲弊しきった心を表しているようだった。
「あ、あの!」
ホームへ滑り込んだところで、無情にもドアが閉まる金属音が響いた。目の前で、最終電車はゆっくりと滑り出していく。車両の窓を流れゆく光が、碧の諦めをさらに濃くした。
「嘘……」
碧は、がっくりと肩を落とした。疲労と、途方に暮れる気持ちが同時に押し寄せる。普段は人でごった返すホームも、この時間になるとまばらだ。数人の同じ「終電難民」たちが、それぞれの諦め顔でスマホを弄っている。皆、自分と同じような絶望を抱えているのだろうか。
重い足取りでベンチに座り込む。リュックからスマホを取り出し、地図アプリを開く。最寄り駅まで歩く?いや、片道二時間はかかる。ヒールでそんな距離を歩けるはずもない。タクシーは……とてつもない金額が表示された。どうする、私。頭の中で、明日の朝からの仕事の段取りがぐるぐると回り出す。早く家に帰ってシャワーを浴びたい。温かい布団に潜り込みたい。そんなささやかな願いすら、この夜は叶えてくれないのか。
その時だった。
「うわっ!」
背後から、低いけれど少し間の抜けた声が聞こえた。振り返ると、若い男が大きなギターケースを抱えて立っていた。彼がバランスを崩し、そのギターケースが碧の腕に軽くぶつかる。碧の手から、力が抜けていたスマホがすり抜け、宙を舞った。まるでスローモーションのように、銀色の機体が夜の闇に吸い込まれていく。
「あ……」
声にならない悲鳴が口から漏れる。碧のスマホは、ホームの縁を滑り、そのまま線路へと転がり落ちていった。カシャン、と微かな音が、耳の奥で大きく響いた。
「まじか……」
男は、自分のギターケースを見下ろし、次いで線路に落ちたスマホを見つめた。茶色がかった少し癖のある髪に、気だるげなTシャツ姿。見るからに路上ミュージシャン風のその男は、碧の絶望顔に気づくと、「すいません!」とひと言謝罪した。
「どうしよう……」碧は震える声で呟いた。会社支給のスマホだ。しかも、明日の朝イチで必要なデータが入っている。**万が一、故障していたら……。明日からの仕事に差し障るだけでなく、始末書案件になるかもしれない。**頭の中が真っ白になる。
「ちょっと待っててください!」
男はそう言うと、駅員を呼ぶでもなく、線路を覗き込むでもなく、まるで閃いたかのようにダッシュで駅の事務所らしき方向へと消えていった。彼の背中に、碧は「え……?」と呆然とした。一体、何をするつもりなんだろう。駅員室に駆け込んで状況を説明するのか?でも、それなら一緒に来てくれてもいいのに。
数分後、男が戻ってきた。彼の手に握られていたのは、目を疑うようなものだった。全長が軽く二メートルはありそうな、やたらと長いマジックハンド。まるでUFOキャッチャーのアームのような、その突拍子もない道具を碧は初めて間近で見た。
「これ!これならいけるっしょ!」
彼は悪びれる様子もなく、カラリと笑った。まるで子供がおもちゃを見せびらかすかのように、得意げな顔をしている。長いマジックハンドを線路に伸ばし、男は器用にスマホを掴み上げた。その手つきは驚くほど確かで、迷いがなかった。
「ほら、どうぞ!」
差し出されたスマホを受け取ると、画面は割れていなかった。奇跡だ。安堵の息が漏れる。
「あの……ありがとうございます。でも、これ、どこで……」
「あー、ちょっとそこの警備室で借りてきました。深夜で人いなくてよかったー。いやー、駅員さん呼んでどうこうしてる暇なかったんで、一か八かでしたけど」
男は得意げな顔で肩をすくめた。碧は呆れと同時に、彼の予測不能な行動と、その場の状況を楽しむような笑顔に、ふっと笑みがこぼれた。こんな状況なのに、なんだか少し気分が軽くなった。凍りついていた心が、少しだけ解けた気がした。
「俺、奏多。橘奏多。あなた、この時間まで残業?大変だね」
「佐倉碧です。はい、まあ……いつもこんな感じです」
奏多と名乗った彼は、ギターケースを背負い直しながら言った。
「そっかー。俺もこれから始発まで、どこかで時間潰さないと。いつもはそのまま寝袋で寝ちゃうんだけど、今日なんか、やたらと元気で」
「寝袋で……?」
「はい。たまに駅の地下通路とかで。あ、今日はいませんよ?さすがにこの寒さだとキツいんで」
「そうですか……」
碧は少し迷った。普段なら、こんな見知らぬ男と二人で夜の時間を過ごすなんてありえない。警戒心が呼びかける。けれど、この疲労困憊の状況で、一人でいるのは心細かった。それに、マジックハンドでスマホを救ってくれた彼に、少しだけ恩義も感じていた。何より、彼の周りだけ、どこか不思議な空気が漂っているような気がした。それが、碧の中に眠っていた、少しだけ冒険心を刺激する。
「どこか、静かなところがいいな……」
碧は、気づけばそう答えていた。
展開:深夜の巡り合わせ
駅を出て、二人で少し歩く。終電後の駅前は、普段の喧騒が嘘のように静まり返っていた。飲み屋街のネオンだけが、寂しげに光を放っている。シンとした空気の中で、時折遠くを走る車の音が響く。
「この辺、あんまり来ないんですけど、どこかありますかね……」碧が呟いた。
「俺も、ライブ終わってすぐ移動しちゃうから、あんまり詳しくないんだよなー」
そんな会話をしながら、路地裏に入り込んだ時だった。どこか懐かしい、温かいオレンジ色の光が、視界の隅に飛び込んできた。
「あ、ここ、なんかいい感じじゃない?」
奏多が指差す先には、年季の入った木製の看板があった。**「夜更かしアリア」**と書かれた文字は、少し掠れていて、けれどどこか愛着を感じさせる。ガラス戸の向こうから、温かい光と共に、微かにコーヒーの香りが漏れてくる。
「こんなところに喫茶店が……」碧は驚いた。普段、このあたりを通ることはめったにない。こんな深夜まで開いている喫茶店があるとは知らなかった。
「なんか、吸い寄せられるな」奏多がそう言って、古びたドアに手を伸ばした。カランコロンと鈴の音が鳴り、二人は店の中へ。
中は、想像以上にレトロで落ち着いた雰囲気だった。カウンター席と、いくつかのテーブル席。奥には使い込まれたグランドピアノが置かれている。壁には、昔のジャズミュージシャンらしきモノクロ写真が飾られていた。先客は、カウンターに座る年配の男性が一人だけ。静かに本を読んでいる。
「いらっしゃい」
マスターらしき、穏やかそうな老人が迎えてくれた。白髪交じりの髪に、優しい目元。その声は、深夜の静けさに溶け込むように心地よかった。二人は窓際のテーブル席に座った。碧はホットコーヒーを、奏多はアイスコーヒーを注文した。温かいコーヒーカップを両手で包み込むと、冷え切っていた指先がじんわりと温まっていく。疲れた体に、その温かさが染み渡るようだった。
店内に流れる音楽は、最初はかすかなジャズの調べだったが、やがて馴染み深いJ-POPの名曲が流れ始めた。**竹内まりやの「プラスティック・ラブ」だ。**少し前の、けれど色褪せないヒット曲。
「あー、これ懐かしいな。中学の時、よく聞いてた」奏多が口笛を吹くように呟いた。
「私も。この曲、好きだったな。あの頃のJ-POPって、なんか全部エモいんですよね」碧も同調する。自然と口元が緩んだ。
「そうそう!メロディラインも歌詞も、グッとくるんですよね。佐倉さん、音楽、好きなんですか?」奏多が尋ねた。
「はい。昔、学生の時に少しだけバンドやってて……。ボーカルやってたんですけど、下手くそで、全然ダメで。趣味の延長でした」
碧は、恥ずかしそうに答えた。あの頃は、漠然と「歌ってみたい」「表現してみたい」という衝動があった。でも、現実は厳しかった。プロになるなんて夢のまた夢。就職活動で大手企業の内定をもらった時、あっさりと音楽の道は諦めた。心のどこかで、あの時の自分を「中途半端だった」と断罪している自分がいた。
「へぇ!ボーカルかぁ!いいな!俺、シンガーソングライター目指してて。普段は路上で歌ってるんすよ。今日も、ここでライブやってきた帰りなんです」
奏多はキラキラとした目で語った。彼のギターケースが、単なる荷物ではないことを理解する。彼の瞳には、偽りのない情熱が宿っている。
「そうなんだ……すごいね。夢を追いかけてるんだ」
碧は素直に感心した。夢を諦め、日々の仕事に埋もれている自分とは、まるで違う世界に生きている人間のように感じた。彼の姿が、少し眩しかった。
「いやいや、全然ですよ。なかなか芽が出なくて。でも、音楽だけは辞められないんですよね。なんか、使命感みたいなのがあるっていうか」
奏多は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「そういえば、佐倉さんもしかして、YouTubeとかに動画上げてませんでした?」
奏多が、突然核心を突くようなことを言った。碧は飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
「え?なんで?まさか……」
「なんか、俺がずっと探してた声に似てて。ほら、少し前に、アマチュアバンドの動画で、すっげえ歌唱力なのに、顔出ししてなくて、しかもめちゃくちゃ短い曲しか上げてない謎のボーカルがいてさ。あれ、めちゃくちゃかっこよくて。俺、あれを目標にしてたんだよね」
碧は、心臓が跳ねるのを感じた。あれは、もう何年も前の話だ。大学時代、遊び半分で友人たちとバンドを組み、こっそり動画をアップロードしたことがあった。再生回数は少なかったが、確かに匿名で、顔出しもしていなかった。そして、完成した曲ではなく、短いフレーズだけをいくつか投稿していた。まさか、あの動画を、この目の前の男が知っているなんて。
「あれって、確かタイトルが『夜明けの欠片』とかそんな感じだった気がするんだけど……」
奏多の言葉に、碧は確信した。
「まさか、あの動画……私です」
「やっぱり!あの声、佐倉さんだったんだ!」
奏多は、まるで宝物を見つけたかのように嬉しそうに、まるで子供のように目を輝かせた。その純粋な喜びに、碧の心は温かくなった。
「信じられない……よくわかったね。私、全然下手くそだったのに」
「いやいや、とんでもない!あの声は唯一無二ですよ!めちゃくちゃ響いたんです。俺、ああいう声の持ち主といつか一緒に音楽やりたいなって、ずっと思ってて」
彼は得意げに胸を張った。こんな偶然があるだろうか。たまたま終電を逃し、たまたまスマホを落とし、たまたま出会った男が、自分の昔の「声」を探していたなんて。まさに、奇妙な巡り合わせだ。
コーヒーを一口飲み、碧は奏多に尋ねた。
「奏多さんは、曲は作ってるの?」
「はい。メロディは結構あるんですけど、なかなか歌詞がしっくりくるのがなくて。路上で歌うのは、自分の曲を磨きたいのもあるけど、やっぱりインスピレーションが欲しいんですよね」
奏多はそう言って、少し寂しそうに笑った。彼の目には、メロディはあるのに言葉が見つからない、もどかしさが滲んでいるように見えた。
「そうなんだ……」
碧は、ふと、自分のスマホのメモ帳に残っていたものを思い出した。学生時代、あの動画をアップロードしていた頃に、書き途中で放置していた歌詞があった。完成させる気もなかったし、誰に見せるつもりもなかった。けれど、今、奏多の言葉を聞いて、なぜかその歌詞の存在が強く心に浮かび上がってきた。
「あの……私、昔書きかけの歌詞があるんだけど、もしよかったら見てみる?すごく中途半端なやつだけど」
「え!いいんすか!?見せてください!」
奏多は目を輝かせた。碧は少し照れながら、スマホのメモ帳を開き、書きかけの歌詞を見せた。タイトルはつけていなかった。
【歌詞の世界観】
題名:『夜明けの欠片』(仮)
歌い出し:
凍りつく夜の果てで
見上げた空は 星もまばら
迷い込んだ 夢の淵で
手を伸ばすけど 何も掴めない
サビに向けて:
小さな灯り 探すけど
どこにも見えない 光の跡
この胸の痛み 誰かに聞かせたい
声にならない 心の叫び
サビ:
深い闇を切り裂いて 零れ落ちるアリア
孤独な魂に 響けよ 届かぬ願い
夜明けの欠片を 両手に集めても
まだ遠い 私の場所 いつか辿り着けるのかな
全体の雰囲気:
深夜の孤独感、迷い、不安、そして微かな希望を歌い上げた歌詞。
光を求めるけれど見つけられず、もがき苦しむ魂の叫びが表現されている。
抽象的な言葉で、聴き手の解釈の余地を残しつつ、普遍的な感情を呼び起こす。
奏多は真剣な顔で歌詞を読み始めた。その表情は、普段の飄々とした彼とは違い、真剣そのものだった。眉間にしわを寄せ、何度も読み返し、まるで歌詞が持つ「声」を聴こうとしているようだった。
やがて、彼は持っていたギターを膝に置き、指で軽く弦を弾き始めた。チャラン、と音が響く。店の奥にあるグランドピアノに目をやり、一瞬迷ったようだが、最終的にギターを選んだ。アコースティックギターの音色は、深夜の喫茶店に静かに溶け込む。
最初のフレーズが奏でられる。その瞬間、碧は鳥肌が立った。
奏多が弾くメロディが、碧の書いた歌詞に、驚くほど自然に溶け込んでいく。まるで、最初からそのメロディのために書かれたかのように、言葉と音が完璧に響き合った。碧が言葉にできなかった感情が、奏多のメロディに乗って、鮮やかに色づいていく。
【メロディーと歌詞の融合】
奏多のメロディは、最初のギターのアルペジオが、凍てつく夜の静けさと孤独感を表現していた。
* 歌い出しのメロディ: 少し翳りのあるマイナーコードの進行で、碧の歌詞の「凍りつく夜の果てで」「星もまばら」といった情景と心情を見事に表現。ゆっくりとしたテンポで、聴き手に内省的な世界観を提示する。
* サビに向けてのメロディ: 徐々にコード進行が明るくなり、テンポも少しだけ速くなる。しかし、完全なメジャーコードにはならず、不安と希望の間で揺れ動く感情を表現。「小さな灯り 探すけど」「声にならない 心の叫び」という歌詞に、切実な願いが込められた旋律が重なる。
* サビのメロディ: 一気に解放されるような、しかしどこか郷愁を帯びたメジャーコードに転調。ドラマティックで力強いけれど、決して派手すぎない。サビの歌詞「深い闇を切り裂いて 零れ落ちるアリア」「夜明けの欠片を 両手に集めても」という部分で、碧が求めていた「光」を音で表現し、歌詞とメロディが渾然一体となる。
奏多は歌詞を口ずさむように、メロディを紡ぎ出す。
「凍りつく夜の果てで……うん、こんな感じか?」
「見上げた空は 星もまばら……こう、少し寂しい感じで」
碧は息を呑んで聴き入った。彼の指が、まるで歌詞の感情を読み取っているかのように動く。そして、サビの部分で奏多がギターのストロークを強めた瞬間、碧の心に電撃が走った。
「これ……俺がずっと、こんなメロディに合う歌詞を探してたんだ」奏多が呟いた。彼の声は、少し震えていた。その目には、感動と、そして「見つけた」という確かな光が宿っている。
「私も……このメロディに合う言葉を、ずっと探してた気がする」
碧の目からは、涙がこぼれ落ちそうになった。単なる偶然では片付けられない。これは、紛れもない**「不思議な縁」**だ。まるで磁石に引き寄せられるように、互いの欠片が引き合い、完璧な一つになった感覚。この出会いは、きっと何か大きな意味を持っている。私の人生は、この深夜に、たまたま終電を逃したこの瞬間に、大きく動き出したのだ。
結び:夜明けと新たな始まり
喫茶店に流れる音楽は、いつの間にかジャズに戻っていた。外が白み始め、窓から差し込む光が少しずつ強くなっている。マスターが新聞を広げ、開店準備を始める音が微かに聞こえる。始発電車が動き出す時間になっていた。
「もう、こんな時間か……」
奏多が名残惜しそうに呟いた。彼の表情には、一夜の不思議な出来事への余韻と、別れを惜しむような感情が浮かんでいる。二人はコーヒーを飲み干し、マスターに会計を済ませて喫茶店を出た。路地裏から大通りに出ると、まだ人気はまばらだが、清掃車が通り過ぎたり、新聞配達のバイクが走っていたりと、街が少しずつ動き出しているのが分かった。夜の静寂とは違う、新しい朝の空気がひんやりと肌を撫でる。
「夜風が、もう朝の匂いになってる……」碧は、空を見上げて呟いた。東の空が、ほんのりとオレンジ色に染まり始めている。
駅のホームに着くと、すでに何人かの人が始発を待っていた。皆、少し浮かない顔をしている。同じ終電を逃した仲間たちなのかもしれない。二人はベンチに座り、まだ誰もいない線路の向こうを眺めた。
「あの、奏多さん」
「ん?」
「あの曲……一緒に完成させない?」
碧は、勇気を出して提案した。胸の奥にしまい込んでいた、音楽への情熱が、この夜、奏多との出会いによって再燃したのを感じていた。停滞していた日常。諦めかけていた夢。奏多が、それらに光を差してくれた気がしたのだ。彼のメロディに、自分の言葉が命を吹き込まれる瞬間の感動を、もう一度味わいたかった。
奏多は、目を丸くして碧を見た後、くしゃっと顔を綻ばせた。その笑顔は、朝焼けの光を浴びて、とても眩しかった。
「マジで!?やった!もちろん!俺も、佐倉さんの声で、あの曲を歌いたいって思った!」
彼の言葉に、碧の胸が高鳴る。諦めていたはずの未来が、目の前に広がるような感覚だった。
「あの、でも、私、もうバンドとかやってないし、ブランクも長いから……」
「大丈夫っしょ!俺もまだぺーぺーだし。それに、あの声、あの歌詞!絶対いけるって!」
彼の言葉は、迷いを断ち切ってくれるかのように力強かった。奏多は、誰かの可能性を信じる天才なのかもしれない。こんなふうに、無条件に信じてくれる人が、今まで私の人生にはいなかった。
やがて、始発電車がホームへと滑り込んできた。ごう、という音と共に、ゆっくりと碧たちの前で止まる。ドアが開く。
「じゃあ、これで。今日は本当にありがとう、奏多さん。スマホ、助かりました」
「こちらこそ!マジックハンドも、スマホも、そして最高の歌詞も、ありがとう!まさか、一晩でこんな奇跡みたいなこと、あるんだなぁ」
奏多は、ギターケースを背負い直しながら、屈託のない笑顔を見せた。そして、少しだけ寂しそうに言った。
「また会えるかな……。今日みたいな夜、もうないんだろうな」
「会えるよ」
碧は迷わず答えた。もう、迷いはなかった。スマホを取り出し、互いの連絡先を交換する。画面に並んだ奏多の連絡先が、まるで未来を約束する印のように見えた。
「この曲、完成したら、一番に君に聞かせたい」
奏多の言葉に、碧の心は温かくなった。電車に乗り込み、扉が閉まる。ゆっくりと窓が動き出す。窓越しに手を振る奏多の姿が見えなくなった後も、碧はしばらくその場から動けなかった。彼の、少し戸惑ったような、でも満ち足りたような笑顔が目に焼き付いていた。
電車が動き出す。車窓から流れる景色は、いつも見慣れた日常へと戻っていく。けれど、碧の心の中は、確かに昨日とは違うものになっていた。終電を逃すという最悪の始まりが、こんなにも不思議でエモい一夜になるとは思ってもみなかった。
奏多のメロディと、自分の歌詞。駅でのスマホ事件から始まった一夜の出会いは、単なる偶然ではなかった。あれは、二人の未来を繋ぐ、運命の序章だったのだ。
碧は、窓の外を流れる朝焼けの空を見上げた。希望に満ちたその光が、自分の心にも差し込んでいるのを感じる。これから始まる新しい一日が、そして奏多との未来が、どんな**「アリア」**を奏でてくれるのか。期待に胸が膨らんでいた。

Fin