「一杯だけね」なんて、あれはたぶん、あいさつみたいなものだった。
彼と飲むと、だいたい三杯目からが本番だってこと、私たちはお互いに知っている。今日もまた、そうなる気がしていた。
約束したのは一週間前。社内チャットで彼がぽつんと、「最近疲れてるっぽいね。ちょっと飲まない?」と送ってきた。
そのメッセージには特に絵文字も顔文字もなかったけれど、私はなぜか何度もそれを読み返していた。言葉数は少ないのに、不思議と温度があった。
画面に映る彼の名前を指先でなぞると、いつもより鼓動が速くなるのを感じた。返信するのに少しだけ時間を要したのは、きっと胸の奥で期待が膨らみすぎていたからだろう。
夜のオフィスはすでに薄暗くなり、窓の外に見える都会の灯りがちらちらと瞬いている。今日のタスクを終えたふりをして、私は何度もスマホを手に取っては、彼のメッセージを読み返していた。
画面の文字を何度も目で追いながら、胸の奥にじわじわと溶け込むような期待と不安が混ざっていた。彼の言葉の裏に隠された意味を深読みしたり、逆に何の他意もないメッセージだと自分に言い聞かせたり。
そんな思考のループが、定時までの時間を妙に長く感じさせた。
定時を過ぎて、待ち合わせ場所のハチ公前に向かう。夜風は思ったより冷たくて、私の頬をさらっていった。行き交う人々の波に逆らうように歩きながら、私は何度か深呼吸をした。
この胸の高鳴りが、ただの気のせいであってほしいような、けれどこのままであってほしいような、複雑な感情が渦巻いていた。
人混みに紛れて立っている彼を見つけたとき、心臓がわずかに跳ねた。彼は薄い黒のコートに身を包み、無造作に髪をかき上げていた。その立ち姿は、いつも通り無頓着に見えて、どこか私の視線を惹きつけてやまない魅力があった。
「おつかれ」と彼が言った瞬間、その言葉だけで、私の中の緊張がふっと溶けた。彼の声は、雑踏の中でも不思議と耳に心地よく響く。
気負わなくていい安心感が胸に広がっていく。街のざわめきや雑踏の中に、まるで自分だけの小さな静寂があるようだった。彼が視線を合わせるたびに、私の心は透明な水の中に落ちた一滴のインクのように、静かに、けれど確かに広がっていくのを感じた。
今夜の店は渋谷、駅から少し外れた地下の居酒屋。雑多な看板の光が漏れる路地をくぐり抜け、細い階段を降りる。
店内は薄暗くて、壁には古いポスターが貼られている。木のテーブルと掘りごたつの座席が、どこか昔懐かしい居心地を作り出していた。
週末の渋谷にもかかわらず、そこだけ時間がゆっくり流れているようだった。奥の席に通され、私たちは向かい合わせに座った。居酒屋特有の喧騒が、かえって私たちの会話を際立たせるように感じられた。
メニューを広げながら、彼がふと顔を上げて私を見た。その視線に、私は少しだけ戸惑った。
「最近どう? 仕事、忙しいんでしょ?」
その言葉は、いつもの業務連絡の延長のような響きだったけれど、彼が私のことを気にかけてくれている、その事実が静かに胸に広がった。
「うん、まあね。でも、最近はちょっと落ち着いてきたかな」
そう答えると、彼は小さく頷いた。
店内のざわめきが、ちょうどいい距離感で響いている。周囲のテーブルから聞こえる笑い声や、焼き鳥の香りが混じる空気が心地いい。
注文した料理が運ばれてくると、彼は小皿を私の方に押しやってくれた。
「はい、お疲れ様のやつ」
そう言って、軽くグラスを掲げる。カランと氷の音が響いた。
「おつかれさま」
乾杯のあと、ひとくち飲んで、ふうと息を吐いた彼がぽつりと言った。
「……やりたいって思ってることほど、後回しにしちゃうんだよな。なんでだろうな、あれ」
その声は、誰かを責めるでもなく、自分自身に語りかけているようだった。
私が口にした「時間がなくて、つい後回しにしちゃってるんだよね」という言葉に、正面から反論するでもなく、横に並んで、そっと気持ちを重ねてくれたような気がした。
「ああ……わかるかも」
私は思わず笑った。
「“本当はやりたい”ってことを認めちゃうと、できてない自分にちょっとだけがっかりしちゃうから……それを避けてるのかもしれない」
「そうそう。だから、俺も『忙しかったから』とかって言ってるけど、ほんとは……ちょっと怖いだけだったりもする」
彼は酎ハイのグラスを回しながら、少し恥ずかしそうに言った。
その言葉に、私は胸の奥をそっと突かれたような気がした。
「ほんとそれなあ……」と笑うと、彼も顔をゆるめた。
氷の音がカランとグラスに響き、酎ハイの甘酸っぱい匂いが鼻先をくすぐる。喉を通り過ぎたあとに、悔しさがじわっと胸に残った。
その悔しさは、彼への感謝と、自分を変えたいという微かな決意の入り混じった、複雑な感情だった。
彼とは同期。部署は違えど、仕事の終わりにこうして飲みに行くのが自然な時間になっていた。
同じ年に社会に出て、同じような壁にぶつかり、同じような喜びを分かち合ってきた。その経験が、私たちを特別に繋いでいる気がしていた。
最初はくだらない仕事の愚痴や趣味の話ばかりだったのに、ここ数ヶ月で会話が変わってきた。互いの輪郭をそっとなぞるように、心の奥に触れていくような会話に。
それは、お互いの価値観や、過去の経験、未来への漠然とした不安、そんなパーソナルな部分に触れていく時間だった。
「そういえばさ、初めて飲んだとき覚えてる?」
私がそう切り出すと、彼は少し考えてから、懐かしそうに目を細めた。
「もちろん。みんなまだ敬語で堅苦しかったよな。俺なんて、お前とどう話していいか分かんなくて、ずっと様子見てた気がする」
彼の意外な言葉に、私は思わず吹き出した。
「え、そうなの?全然そんな風に見えなかったけど。なんか、最初から堂々としてるなーって思ってた」
「まさか。めちゃくちゃ緊張してたよ。お前もそうだったんじゃないの?」
「そりゃもちろん。でも、一番印象に残ってるのはAさんが酔っ払って、ずっと上司の悪口言ってたのが面白かった」
「アイツ、翌日めちゃくちゃ反省してたよな。俺たちの前では、あんなに大人しいフリしてたのにさ」
笑い合ううちに、距離は自然と縮まっていく。共有した記憶は、ふたりだけの秘密の財産のように心に刻まれていく。それは、他の誰にも触れられない、私たちだけの時間だった。
グラスを重ねるたびに、緊張や気負いは解けていった。アルコールのせいか、それとも彼の存在のせいか、心が裸になっていくような感覚があった。
「最近、部署の新人がうまくいってなくてさ。なんか自分の若い頃を見てるみたいで」
彼がそう言うと、私は深く頷いた。
「わかる。口を出したくなるけど、見守るのも難しいよな。良かれと思って言ったことが、かえって彼らを傷つけることもあるし」
「そうなんだよな。言うのが優しさか、黙るのが優しさか。正解が見えない」
彼の言葉に、私も同じような葛藤を抱えていることを知る。自分たちが少しずつ、教える立場に近づいていることを感じる。成長はしているけど、まだ迷いの中で模索している。
彼も私も、完璧な人間ではない。けれど、その不完全さや迷いさえも、この瞬間、私たちを強く結びつけているように感じられた。
話は仕事からプライベートへと自然に流れていった。最近観た映画の話、休日の過ごし方、学生時代の思い出。
彼の口から語られるエピソードは、どれも私にとって新鮮で、彼の多面的な魅力に触れるたびに、彼への興味が深まっていった。
時折、彼が私に質問を投げかけると、私の言葉を遮ることなく、じっと耳を傾けてくれた。その真剣な眼差しに、私は自分の心を、普段以上にオープンにしていることに気づいた。
時計を見ると、午前0時を過ぎていた。外の喧騒が少しずつ静かになり始める時間。
「あれ、終電やばくない?」
言いながらスマホを取り出す。案の定、もう終電はなかった。最終電車のアナウンスが頭の中で響く。
焦りよりも、どこか安堵に近い気持ちが湧いた。
──終電を逃したのは、時間より気持ちの方が先だったのかもしれない。
その言葉がふと頭をよぎる。電車のダイヤより早く、私たちの心は帰らないことを選んだのだろう。
彼もスマホを見ながら小さく笑っている。
その顔が、ほんの少しだけ嬉しそうに見えた。私もまた、彼のそんな表情を見て、そっと笑みを返した。
「歩いて帰る?」
氷の入ったグラスがカランと鳴る。私はなんとなく頷いた。今夜はまだ、この時間が終わってほしくなかった。
駅前のネオンは煌々と輝き、渋谷の夜はまだ眠る気配がない。居酒屋を出ると、ひんやりとした夜の空気が頬を撫でた。
酔った大学生、キャリーケースを引く観光客、始発を待つカップル。
彼らの中に溶け込むように、私たちはゆっくり歩き出す。繁華街の喧騒はまだ残っているものの、先ほどまでの店内の熱気とは異なり、どこか静かで、私たち二人の世界を包み込むようだった。
コンビニの明かりに照らされ、夜風が頬を撫でる。
「帰り道、あえて遠回りしてみるのって、なんかいいよね」
私が言うと、彼はすぐに同意した。
「わかる。普通の時間にはできないから。普段は効率とか考えて最短距離を選んじゃうけど」
「そうそう。夜なら許される気がする。ちょっとくらい無駄な時間があっても」
街のざわめきの中、何気ない言葉がじんわり胸に染みた。
それは、私たちの関係性そのものを表しているようだった。日常の忙しさの中で見過ごされがちな、ささやかな喜びや、普段は言えない本音が、この夜には許されるような気がした。
センター街を抜けて代々木公園へ向かう途中、彼がふと足を止めた。彼の横顔が、コンビニの明かりに照らされて、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「ねえ、もし仮にさ。お前が彼氏だったとして、どんなタイプがいいの?」
「は?」
急な問いに、私は戸惑いを隠せない。心臓がまた跳ねる。
「真面目に。どんな恋愛観か気になって」
彼は私の目をまっすぐ見つめ、冗談ではないことを示した。
「うーん、安心できる人かな。派手じゃなくて、毎日ちょっとずつ好きが増える感じ」
私は少し考えながら答えた。それは、私自身が漠然と抱いていた理想の姿だった。
「そういうのいいよな。俺は昔、“最初から全部くれる人”に惹かれてたけど、燃えるのも早かった」
彼の言葉に、私は妙に納得した。
「わかる。“手に入った感”があると、安心しすぎて慢心するよね。相手への感謝とか、努力とか、忘れちゃう」
「安心って大事だけど、時に自分を甘やかすんだよな。だから、俺はそういう恋愛はもういいかなって思う」
彼の過去の恋愛話を聞くのは初めてだった。夜の静けさに包まれ、普段しない話が自然とこぼれ落ちた。
彼の言葉の一つ一つが、彼の内面を少しずつ私に教えてくれるようだった。それは、私がこれまで知らなかった彼の「色」を見るような感覚だった。
公園に着くとベンチに腰を下ろす。風が冷たく、彼の髪が揺れていた。街灯の光が、私たちの影を長く伸ばす。
「前に終電逃して、はじめて野宿したことあるんだ」
彼の言葉に、私は驚きを隠せない。
「え、マジで?あの、どこで?」
「新宿で。始発まで公園で寝てた。あのときは失恋しててさ、もう何もかもどうでもよくなってた時期」
彼の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。
「ドラマみたい」
「ガチだよ。蚊に刺されまくって、全然ロマンチックじゃなかったけど」
彼は笑いながらそう言ったが、その一言は私の胸に深く刺さった。彼の過去の傷に触れるような気がして、少しだけ息をのんだ。
「そのとき、好きだった人?」
「うん。4年付き合った子」
「長いね」
私の知る彼からは想像できないほど、彼はその関係に深くコミットしていたのだろう。
「最後は何を話しても喧嘩ばかりで、気づけば一緒にいる意味もわからなくなってた」
「別れって、言葉より会話の質で決まる気がする。言葉を交わしていても、心が通じ合ってないなら、それはもう別れへのカウントダウンだよね」
私の言葉に、彼は静かに頷いた。
彼の横顔が少し遠く感じる。彼が経験してきた時間の中で、私はまだ、ほんの一瞬にしか過ぎない存在なのだと感じた。
手の中の缶を見つめる。そこに映る自分の顔はどこかぼやけていて、今の心情そのものだった。
こういう話をしているとき、私はいつも感じる。彼の過去の中に自分は存在していないこと、彼の心はどこか遠い場所にあることを。
けれど、その距離感は怖いよりも、どこか心地よさにも似ていた。彼の人生のいくつもの時間があって、今ここで隣にいる私もまた、その一瞬を共にしているだけなのだと。
それは、彼という存在の奥深さを知るような感覚でもあった。彼の過去の痛みが、今の彼を形作っているのだと感じると、彼への理解が深まるように思えた。不思議と、そんな時間が愛おしく感じられた。
彼の隣にいること、彼の言葉を聞くこと、それが私にとって、どれほど尊い時間であるかを改めて実感した。
沈黙がしばらく続き、彼がぽつりと言った。
「お前って、付き合ったらめんどくさそう」
その突然の言葉に、私の緊張は一気に解けた。
「なにそれ偏見!」
「だって、『なんで既読ついてるのに返事ないの?』とか言いそうじゃん」
彼はにやにやしながら私を見た。
「言うよ」
即答した私に、彼は大笑いした。彼の笑い声が、夜の公園に響き渡る。その無邪気な笑顔が、私の心を温かく包み込んだ。
笑いが落ち着いた頃、私は缶を置き、彼の目をまっすぐ見つめた。
「‘好き’って、ちゃんと伝えないと、わかんないじゃん?」
私の言葉に、彼の笑顔が消え、少しだけ真剣な表情になった。彼は一瞬考え込み、ゆっくり頷いた。
「……そうかもな」
その笑顔はいつもより柔らかく、温かかった。私の言葉が、彼の心の奥に何かを響かせたような気がした。
私たちはしばらくの間、言葉を交わすことなく、ただお互いの存在を感じていた。夜風が、私たちの間をそっと通り過ぎていく。
始発まであと二時間ほど。空が少しずつ明るくなり始める気配がする。
カラスの鳴き声が遠く響き、新聞配達のバイクの音が静かに夜を包む。街が目覚める前の、ほんの少しの静寂。
夜と朝がゆっくり混ざり合うように、私たちの距離も少しずつ縮まっていた。言葉だけでは表現できない、心の距離が。
やがて彼は「眠い」と言い、ベンチに横になる。その姿は、まるで猫のようだった。私は隣に座り、そっと缶をもう一本開けた。
彼の寝息が静かに響く。公園の木々の隙間から、月がかすかに輝いている。
指先の小さな動きや呼吸の揺れに、彼の存在を確かめる。こんなに近くにいるのに、触れたら壊れてしまいそうな繊細さがあった。彼の寝顔を見つめる。普段の彼からは想像できない、無防備で穏やかな表情。彼の瞼の奥に、どんな夢が広がっているのだろう、そんなことを考えた。
遠くで誰かがギターを弾く音が風に乗って届く。曲名は知らないけれど、懐かしく胸に響いた。それは、この夜の思い出に、さらに深い色を添えるようだった。
彼の寝顔を見つめながら、心の中でそっと願う。
「こんな時間がずっと続けばいいのに」
言葉にはならない、けれど確かな願い。このまま時間が止まってしまえばいいと、心の底から思った。彼との出会いが、私の日常にこんなにも温かい光を灯してくれていることに、感謝の気持ちでいっぱいになった。
空を見上げると、朝焼けがビルの隙間からゆっくり差し込んでいた。夜の闇が、柔らかなオレンジ色に染まっていく。そのグラデーションは、まるで私たちの関係性の変化を映し出しているようだった。
空が白み始めた頃、彼が目を覚まし、小さく呟く。
「始発、そろそろかな」
彼の声は、まだ少し眠たげだった。
「うん、帰ろうか」
私は立ち上がり、彼もゆっくりと体を起こした。
渋谷駅の改札前で彼は立ち止まり、まだ眠そうな人々の流れを見つめていた。始発の電車から降りてくる人々は、疲れと希望がない混ぜになったような顔をしている。
朝の冷たい空気が肌を刺し、遠くから車の音が響く。新しい一日が始まる気配がする。
彼は小さく伸びをして、私に向き直った。その目は、少しだけ名残惜しそうに揺れていた。
「じゃあ、また飲もうな」
その言葉は、いつもの別れの挨拶と同じはずなのに、今夜は特別に響いた。
「また“一杯だけ”って言いながら?」
私が意地悪く聞くと、彼は笑って答えた。
「当然」
笑いながら改札を抜ける彼の背中は、いつもより少しだけ遠く感じられた。それは、彼との距離が縮まったからこそ感じる、次のステップへの予感のようなものだった。
スマホを取り出し画面を見つめる。通知は何もなかった。誰からの連絡も入っていないことに、少しだけ寂しさを感じたが、すぐにその気持ちは消え去った。
でも、それでいいと思った。この夜の記憶は、誰かに共有するものではなく、私だけの、彼との秘密の時間として大切にしたかった。
メモアプリを開こうとしてやめて、代わりに胸にだけこの夜の記憶を刻もうと決めた。
彼の言葉、彼の笑顔、彼の寝顔、そして、あの優しい沈黙。全てが鮮明に、私の心に焼き付いていた。
終電を逃したのは、時間より気持ちの方が先だったのかもしれない。
この気持ちはきっと、誰よりも早く、彼に向かっていた。
街が完全に朝に染まる前に、私はゆっくりと、一歩歩き出した。彼の背中が小さくなるのを確かめるように、私はゆっくりと歩き出した。
そして、次に彼と会える日が、今から待ち遠しいと、心の中でそっと呟いた。
彼と飲むと、だいたい三杯目からが本番だってこと、私たちはお互いに知っている。今日もまた、そうなる気がしていた。
約束したのは一週間前。社内チャットで彼がぽつんと、「最近疲れてるっぽいね。ちょっと飲まない?」と送ってきた。
そのメッセージには特に絵文字も顔文字もなかったけれど、私はなぜか何度もそれを読み返していた。言葉数は少ないのに、不思議と温度があった。
画面に映る彼の名前を指先でなぞると、いつもより鼓動が速くなるのを感じた。返信するのに少しだけ時間を要したのは、きっと胸の奥で期待が膨らみすぎていたからだろう。
夜のオフィスはすでに薄暗くなり、窓の外に見える都会の灯りがちらちらと瞬いている。今日のタスクを終えたふりをして、私は何度もスマホを手に取っては、彼のメッセージを読み返していた。
画面の文字を何度も目で追いながら、胸の奥にじわじわと溶け込むような期待と不安が混ざっていた。彼の言葉の裏に隠された意味を深読みしたり、逆に何の他意もないメッセージだと自分に言い聞かせたり。
そんな思考のループが、定時までの時間を妙に長く感じさせた。
定時を過ぎて、待ち合わせ場所のハチ公前に向かう。夜風は思ったより冷たくて、私の頬をさらっていった。行き交う人々の波に逆らうように歩きながら、私は何度か深呼吸をした。
この胸の高鳴りが、ただの気のせいであってほしいような、けれどこのままであってほしいような、複雑な感情が渦巻いていた。
人混みに紛れて立っている彼を見つけたとき、心臓がわずかに跳ねた。彼は薄い黒のコートに身を包み、無造作に髪をかき上げていた。その立ち姿は、いつも通り無頓着に見えて、どこか私の視線を惹きつけてやまない魅力があった。
「おつかれ」と彼が言った瞬間、その言葉だけで、私の中の緊張がふっと溶けた。彼の声は、雑踏の中でも不思議と耳に心地よく響く。
気負わなくていい安心感が胸に広がっていく。街のざわめきや雑踏の中に、まるで自分だけの小さな静寂があるようだった。彼が視線を合わせるたびに、私の心は透明な水の中に落ちた一滴のインクのように、静かに、けれど確かに広がっていくのを感じた。
今夜の店は渋谷、駅から少し外れた地下の居酒屋。雑多な看板の光が漏れる路地をくぐり抜け、細い階段を降りる。
店内は薄暗くて、壁には古いポスターが貼られている。木のテーブルと掘りごたつの座席が、どこか昔懐かしい居心地を作り出していた。
週末の渋谷にもかかわらず、そこだけ時間がゆっくり流れているようだった。奥の席に通され、私たちは向かい合わせに座った。居酒屋特有の喧騒が、かえって私たちの会話を際立たせるように感じられた。
メニューを広げながら、彼がふと顔を上げて私を見た。その視線に、私は少しだけ戸惑った。
「最近どう? 仕事、忙しいんでしょ?」
その言葉は、いつもの業務連絡の延長のような響きだったけれど、彼が私のことを気にかけてくれている、その事実が静かに胸に広がった。
「うん、まあね。でも、最近はちょっと落ち着いてきたかな」
そう答えると、彼は小さく頷いた。
店内のざわめきが、ちょうどいい距離感で響いている。周囲のテーブルから聞こえる笑い声や、焼き鳥の香りが混じる空気が心地いい。
注文した料理が運ばれてくると、彼は小皿を私の方に押しやってくれた。
「はい、お疲れ様のやつ」
そう言って、軽くグラスを掲げる。カランと氷の音が響いた。
「おつかれさま」
乾杯のあと、ひとくち飲んで、ふうと息を吐いた彼がぽつりと言った。
「……やりたいって思ってることほど、後回しにしちゃうんだよな。なんでだろうな、あれ」
その声は、誰かを責めるでもなく、自分自身に語りかけているようだった。
私が口にした「時間がなくて、つい後回しにしちゃってるんだよね」という言葉に、正面から反論するでもなく、横に並んで、そっと気持ちを重ねてくれたような気がした。
「ああ……わかるかも」
私は思わず笑った。
「“本当はやりたい”ってことを認めちゃうと、できてない自分にちょっとだけがっかりしちゃうから……それを避けてるのかもしれない」
「そうそう。だから、俺も『忙しかったから』とかって言ってるけど、ほんとは……ちょっと怖いだけだったりもする」
彼は酎ハイのグラスを回しながら、少し恥ずかしそうに言った。
その言葉に、私は胸の奥をそっと突かれたような気がした。
「ほんとそれなあ……」と笑うと、彼も顔をゆるめた。
氷の音がカランとグラスに響き、酎ハイの甘酸っぱい匂いが鼻先をくすぐる。喉を通り過ぎたあとに、悔しさがじわっと胸に残った。
その悔しさは、彼への感謝と、自分を変えたいという微かな決意の入り混じった、複雑な感情だった。
彼とは同期。部署は違えど、仕事の終わりにこうして飲みに行くのが自然な時間になっていた。
同じ年に社会に出て、同じような壁にぶつかり、同じような喜びを分かち合ってきた。その経験が、私たちを特別に繋いでいる気がしていた。
最初はくだらない仕事の愚痴や趣味の話ばかりだったのに、ここ数ヶ月で会話が変わってきた。互いの輪郭をそっとなぞるように、心の奥に触れていくような会話に。
それは、お互いの価値観や、過去の経験、未来への漠然とした不安、そんなパーソナルな部分に触れていく時間だった。
「そういえばさ、初めて飲んだとき覚えてる?」
私がそう切り出すと、彼は少し考えてから、懐かしそうに目を細めた。
「もちろん。みんなまだ敬語で堅苦しかったよな。俺なんて、お前とどう話していいか分かんなくて、ずっと様子見てた気がする」
彼の意外な言葉に、私は思わず吹き出した。
「え、そうなの?全然そんな風に見えなかったけど。なんか、最初から堂々としてるなーって思ってた」
「まさか。めちゃくちゃ緊張してたよ。お前もそうだったんじゃないの?」
「そりゃもちろん。でも、一番印象に残ってるのはAさんが酔っ払って、ずっと上司の悪口言ってたのが面白かった」
「アイツ、翌日めちゃくちゃ反省してたよな。俺たちの前では、あんなに大人しいフリしてたのにさ」
笑い合ううちに、距離は自然と縮まっていく。共有した記憶は、ふたりだけの秘密の財産のように心に刻まれていく。それは、他の誰にも触れられない、私たちだけの時間だった。
グラスを重ねるたびに、緊張や気負いは解けていった。アルコールのせいか、それとも彼の存在のせいか、心が裸になっていくような感覚があった。
「最近、部署の新人がうまくいってなくてさ。なんか自分の若い頃を見てるみたいで」
彼がそう言うと、私は深く頷いた。
「わかる。口を出したくなるけど、見守るのも難しいよな。良かれと思って言ったことが、かえって彼らを傷つけることもあるし」
「そうなんだよな。言うのが優しさか、黙るのが優しさか。正解が見えない」
彼の言葉に、私も同じような葛藤を抱えていることを知る。自分たちが少しずつ、教える立場に近づいていることを感じる。成長はしているけど、まだ迷いの中で模索している。
彼も私も、完璧な人間ではない。けれど、その不完全さや迷いさえも、この瞬間、私たちを強く結びつけているように感じられた。
話は仕事からプライベートへと自然に流れていった。最近観た映画の話、休日の過ごし方、学生時代の思い出。
彼の口から語られるエピソードは、どれも私にとって新鮮で、彼の多面的な魅力に触れるたびに、彼への興味が深まっていった。
時折、彼が私に質問を投げかけると、私の言葉を遮ることなく、じっと耳を傾けてくれた。その真剣な眼差しに、私は自分の心を、普段以上にオープンにしていることに気づいた。
時計を見ると、午前0時を過ぎていた。外の喧騒が少しずつ静かになり始める時間。
「あれ、終電やばくない?」
言いながらスマホを取り出す。案の定、もう終電はなかった。最終電車のアナウンスが頭の中で響く。
焦りよりも、どこか安堵に近い気持ちが湧いた。
──終電を逃したのは、時間より気持ちの方が先だったのかもしれない。
その言葉がふと頭をよぎる。電車のダイヤより早く、私たちの心は帰らないことを選んだのだろう。
彼もスマホを見ながら小さく笑っている。
その顔が、ほんの少しだけ嬉しそうに見えた。私もまた、彼のそんな表情を見て、そっと笑みを返した。
「歩いて帰る?」
氷の入ったグラスがカランと鳴る。私はなんとなく頷いた。今夜はまだ、この時間が終わってほしくなかった。
駅前のネオンは煌々と輝き、渋谷の夜はまだ眠る気配がない。居酒屋を出ると、ひんやりとした夜の空気が頬を撫でた。
酔った大学生、キャリーケースを引く観光客、始発を待つカップル。
彼らの中に溶け込むように、私たちはゆっくり歩き出す。繁華街の喧騒はまだ残っているものの、先ほどまでの店内の熱気とは異なり、どこか静かで、私たち二人の世界を包み込むようだった。
コンビニの明かりに照らされ、夜風が頬を撫でる。
「帰り道、あえて遠回りしてみるのって、なんかいいよね」
私が言うと、彼はすぐに同意した。
「わかる。普通の時間にはできないから。普段は効率とか考えて最短距離を選んじゃうけど」
「そうそう。夜なら許される気がする。ちょっとくらい無駄な時間があっても」
街のざわめきの中、何気ない言葉がじんわり胸に染みた。
それは、私たちの関係性そのものを表しているようだった。日常の忙しさの中で見過ごされがちな、ささやかな喜びや、普段は言えない本音が、この夜には許されるような気がした。
センター街を抜けて代々木公園へ向かう途中、彼がふと足を止めた。彼の横顔が、コンビニの明かりに照らされて、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「ねえ、もし仮にさ。お前が彼氏だったとして、どんなタイプがいいの?」
「は?」
急な問いに、私は戸惑いを隠せない。心臓がまた跳ねる。
「真面目に。どんな恋愛観か気になって」
彼は私の目をまっすぐ見つめ、冗談ではないことを示した。
「うーん、安心できる人かな。派手じゃなくて、毎日ちょっとずつ好きが増える感じ」
私は少し考えながら答えた。それは、私自身が漠然と抱いていた理想の姿だった。
「そういうのいいよな。俺は昔、“最初から全部くれる人”に惹かれてたけど、燃えるのも早かった」
彼の言葉に、私は妙に納得した。
「わかる。“手に入った感”があると、安心しすぎて慢心するよね。相手への感謝とか、努力とか、忘れちゃう」
「安心って大事だけど、時に自分を甘やかすんだよな。だから、俺はそういう恋愛はもういいかなって思う」
彼の過去の恋愛話を聞くのは初めてだった。夜の静けさに包まれ、普段しない話が自然とこぼれ落ちた。
彼の言葉の一つ一つが、彼の内面を少しずつ私に教えてくれるようだった。それは、私がこれまで知らなかった彼の「色」を見るような感覚だった。
公園に着くとベンチに腰を下ろす。風が冷たく、彼の髪が揺れていた。街灯の光が、私たちの影を長く伸ばす。
「前に終電逃して、はじめて野宿したことあるんだ」
彼の言葉に、私は驚きを隠せない。
「え、マジで?あの、どこで?」
「新宿で。始発まで公園で寝てた。あのときは失恋しててさ、もう何もかもどうでもよくなってた時期」
彼の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。
「ドラマみたい」
「ガチだよ。蚊に刺されまくって、全然ロマンチックじゃなかったけど」
彼は笑いながらそう言ったが、その一言は私の胸に深く刺さった。彼の過去の傷に触れるような気がして、少しだけ息をのんだ。
「そのとき、好きだった人?」
「うん。4年付き合った子」
「長いね」
私の知る彼からは想像できないほど、彼はその関係に深くコミットしていたのだろう。
「最後は何を話しても喧嘩ばかりで、気づけば一緒にいる意味もわからなくなってた」
「別れって、言葉より会話の質で決まる気がする。言葉を交わしていても、心が通じ合ってないなら、それはもう別れへのカウントダウンだよね」
私の言葉に、彼は静かに頷いた。
彼の横顔が少し遠く感じる。彼が経験してきた時間の中で、私はまだ、ほんの一瞬にしか過ぎない存在なのだと感じた。
手の中の缶を見つめる。そこに映る自分の顔はどこかぼやけていて、今の心情そのものだった。
こういう話をしているとき、私はいつも感じる。彼の過去の中に自分は存在していないこと、彼の心はどこか遠い場所にあることを。
けれど、その距離感は怖いよりも、どこか心地よさにも似ていた。彼の人生のいくつもの時間があって、今ここで隣にいる私もまた、その一瞬を共にしているだけなのだと。
それは、彼という存在の奥深さを知るような感覚でもあった。彼の過去の痛みが、今の彼を形作っているのだと感じると、彼への理解が深まるように思えた。不思議と、そんな時間が愛おしく感じられた。
彼の隣にいること、彼の言葉を聞くこと、それが私にとって、どれほど尊い時間であるかを改めて実感した。
沈黙がしばらく続き、彼がぽつりと言った。
「お前って、付き合ったらめんどくさそう」
その突然の言葉に、私の緊張は一気に解けた。
「なにそれ偏見!」
「だって、『なんで既読ついてるのに返事ないの?』とか言いそうじゃん」
彼はにやにやしながら私を見た。
「言うよ」
即答した私に、彼は大笑いした。彼の笑い声が、夜の公園に響き渡る。その無邪気な笑顔が、私の心を温かく包み込んだ。
笑いが落ち着いた頃、私は缶を置き、彼の目をまっすぐ見つめた。
「‘好き’って、ちゃんと伝えないと、わかんないじゃん?」
私の言葉に、彼の笑顔が消え、少しだけ真剣な表情になった。彼は一瞬考え込み、ゆっくり頷いた。
「……そうかもな」
その笑顔はいつもより柔らかく、温かかった。私の言葉が、彼の心の奥に何かを響かせたような気がした。
私たちはしばらくの間、言葉を交わすことなく、ただお互いの存在を感じていた。夜風が、私たちの間をそっと通り過ぎていく。
始発まであと二時間ほど。空が少しずつ明るくなり始める気配がする。
カラスの鳴き声が遠く響き、新聞配達のバイクの音が静かに夜を包む。街が目覚める前の、ほんの少しの静寂。
夜と朝がゆっくり混ざり合うように、私たちの距離も少しずつ縮まっていた。言葉だけでは表現できない、心の距離が。
やがて彼は「眠い」と言い、ベンチに横になる。その姿は、まるで猫のようだった。私は隣に座り、そっと缶をもう一本開けた。
彼の寝息が静かに響く。公園の木々の隙間から、月がかすかに輝いている。
指先の小さな動きや呼吸の揺れに、彼の存在を確かめる。こんなに近くにいるのに、触れたら壊れてしまいそうな繊細さがあった。彼の寝顔を見つめる。普段の彼からは想像できない、無防備で穏やかな表情。彼の瞼の奥に、どんな夢が広がっているのだろう、そんなことを考えた。
遠くで誰かがギターを弾く音が風に乗って届く。曲名は知らないけれど、懐かしく胸に響いた。それは、この夜の思い出に、さらに深い色を添えるようだった。
彼の寝顔を見つめながら、心の中でそっと願う。
「こんな時間がずっと続けばいいのに」
言葉にはならない、けれど確かな願い。このまま時間が止まってしまえばいいと、心の底から思った。彼との出会いが、私の日常にこんなにも温かい光を灯してくれていることに、感謝の気持ちでいっぱいになった。
空を見上げると、朝焼けがビルの隙間からゆっくり差し込んでいた。夜の闇が、柔らかなオレンジ色に染まっていく。そのグラデーションは、まるで私たちの関係性の変化を映し出しているようだった。
空が白み始めた頃、彼が目を覚まし、小さく呟く。
「始発、そろそろかな」
彼の声は、まだ少し眠たげだった。
「うん、帰ろうか」
私は立ち上がり、彼もゆっくりと体を起こした。
渋谷駅の改札前で彼は立ち止まり、まだ眠そうな人々の流れを見つめていた。始発の電車から降りてくる人々は、疲れと希望がない混ぜになったような顔をしている。
朝の冷たい空気が肌を刺し、遠くから車の音が響く。新しい一日が始まる気配がする。
彼は小さく伸びをして、私に向き直った。その目は、少しだけ名残惜しそうに揺れていた。
「じゃあ、また飲もうな」
その言葉は、いつもの別れの挨拶と同じはずなのに、今夜は特別に響いた。
「また“一杯だけ”って言いながら?」
私が意地悪く聞くと、彼は笑って答えた。
「当然」
笑いながら改札を抜ける彼の背中は、いつもより少しだけ遠く感じられた。それは、彼との距離が縮まったからこそ感じる、次のステップへの予感のようなものだった。
スマホを取り出し画面を見つめる。通知は何もなかった。誰からの連絡も入っていないことに、少しだけ寂しさを感じたが、すぐにその気持ちは消え去った。
でも、それでいいと思った。この夜の記憶は、誰かに共有するものではなく、私だけの、彼との秘密の時間として大切にしたかった。
メモアプリを開こうとしてやめて、代わりに胸にだけこの夜の記憶を刻もうと決めた。
彼の言葉、彼の笑顔、彼の寝顔、そして、あの優しい沈黙。全てが鮮明に、私の心に焼き付いていた。
終電を逃したのは、時間より気持ちの方が先だったのかもしれない。
この気持ちはきっと、誰よりも早く、彼に向かっていた。
街が完全に朝に染まる前に、私はゆっくりと、一歩歩き出した。彼の背中が小さくなるのを確かめるように、私はゆっくりと歩き出した。
そして、次に彼と会える日が、今から待ち遠しいと、心の中でそっと呟いた。
