深夜零時二十分。琴は真夜中の新宿の街をブラブラと歩いていた。その日の最終で行き着いた先は新宿だった。終着駅でこの場所に辿り着いたのはまだ良かったのかもしれない。終電後とは思えない程人がまばらに散らばっている。
「東京ってすごいな……。こんな真夜中でも人がたくさんいるんだ」
慣れない大都会の夜にどうしていいかわからず、駅前付近をブラブラ歩くしかない。今夜は帰るつもりなんかなかったから帰りのことなんて考えていなかった。何がどうしてこうなってしまったのだろう。
わざわざ仕事帰りに新幹線に飛び乗って名古屋から東京までやって来たというのに。たった一人で慣れない土地を彷徨うことになるなんて、新幹線に乗っていた時は夢にも思わなかった。
*
琴には会社の同期で付き合って二年になる彼氏、祐介がいた。地元名古屋に住み、名古屋の会社に勤めていたが祐介が東京に転勤になったのが二ヶ月前程。遠距離恋愛となった二人だが、毎日連絡を取り合ったり週末は会いに行ったりしていた。
名古屋と東京までの距離は一時間半から二時間程度。日帰りできる距離だと思い、琴はそこまで気にしていなかった。
今日は祐介と付き合い始めて二年目の記念日。祐介のことを驚かせようと、彼には秘密で新幹線のチケットを取った。仕事終わりにそのまま新幹線に乗り、東京まで会いに行った。彼の家までの道のりも慣れたものだった。
「祐介!」
合鍵を使って入ったら、玄関に女物の靴が脱ぎ捨てられていた。琴の血の気が一気に引く。どくどくと高鳴る心臓を押さえながら、恐る恐る部屋の中に入る。
「祐介……?」
そんなわけない、何かの間違いだ。そう思いたくて必死に祈っていた。だけど祈りは届かず、琴が見たのは見知らぬ女と裸で抱き合う祐介の姿だった。
「な、にしてるの……?」
「はあっ!? 琴!?」
琴が来るとは思っていなかったのか、祐介は飛び起きる。
なんで? なんでなの? 日付が変わったら記念日で、日付が変わる前に祐介の家に着けるように計算していたのに。なのに祐介は知らない女と浮気していたなんて――……。
「……っ!」
琴はその場から飛び出した。そのまま駆け出して、足がもつれて思い切り転んでしまった。ストッキングは破れ、膝から痛々しく血が滲み出る。
「……何してんだろ」
本当に何してるんだろう。悲しくて悔しくて惨めで、泣きたかったけど絶対に泣くまいと堪えた。泣いたら負けだと思った。
琴はコンビニで絆創膏と新しいストッキングを買い、トイレでストッキングを履き替えた。そのまま駅に着いて停まった電車に乗り、行き着いた先が新宿だった。それが最終電車だった。
「やっぱり遠距離なんて、無理だったのかな」
友人は遠距離するくらいなら別れる、それか覚悟を決めて結婚してついて行くと言っていた。東京なんかに一人で行ったら絶対浮気する、なんて言われたこともある。祐介なら大丈夫だと思っていたのに、結局友人の言う通りになった。
これからどうしよう。始発の新幹線は朝六時。新宿から東京駅に行くまでの時間を考えてもまだまだ夜は長い。どうやって朝を迎えたらいいのだろう。
「――ねぇ」
突然声をかけられ、一瞬自分のことかわからなかった。
「そこのおねーさん」
「……私?」
「そう。大丈夫?」
声をかけてきたのは、二十代前半くらいに見える若い男性だった。黒いパーカーを被り、暗いこともあって顔がよく見えないけれど、何となく怪訝そうな視線を感じる。
「大丈夫、って?」
「さっきから行ったり来たりフラフラして。心ここに在らずって感じだけど、酔ってるの?」
「酔ってない……」
「じゃあ尚更大丈夫? 変な輩に捕まるよ」
「あなたは変な輩じゃないの?」
「一人でふらつくヤバいおねーさんに興味ないけど」
酷いな、と思った。恐らくだが二十五歳の琴よりも年下のような気がした。
「終電逃した感じ? タクシー捕まえて帰れば?」
「無理」
「なんで?」
「名古屋までいくらかかると思う?」
「えっ、名古屋から来たの?」
その青年は信じられないとばかりに目を見開く。彼の視線が「馬鹿じゃないの?」と言っているように思えた。実際自分でもなんて馬鹿なんだろうと思う。
「今日ね、彼氏との記念日だったの」
初対面の人に何を言っているんだと思いながらも口が止まらなかった。
「今日で丸二年。驚かせようと思ってわざわざ名古屋から会いに行ったの。でも、浮気してた」
「うわ……」
「飛び出してきたら帰れなくなった。馬鹿すぎるでしょ?」
自分で言っていて嫌になる。本当に何してるんだろう。私の二年は今まで何だったのだろう。今思い返せば、最近祐介との連絡の頻度が減っていた。寂しい気持ちもあったけど、きっと仕事が忙しいんだと思って理解のある彼女でいようと思った。その結果がこのザマだ。
「こんな慣れない土地で何したらいいのかわかんなくて、ぼうっと歩いてたの。間抜けだよね」
「馬鹿でも間抜けでもないよ」
「え……」
「悪いのは彼氏じゃん。おねーさんは何も悪くないでしょ」
「……っ」
いきなり泣いたら困らせるだけだと思って我慢したかったのに、涙腺が緩んでしまう。無意識に自分の何がダメだったんだろうと考えてしまっていた。だから、彼の言葉に救われた。
初対面の人物に一方的に失恋話を聞かされ、その上泣かれてしまったら困らせるに決まっている。頭ではわかっているのに、一度緩んだ涙腺はどうしようもなかった。
「ふっ、う……っ」
「あのさ――一夜だけ俺と一緒にいる?」
ダムが決壊したみたいに溢れ出ようとしていた涙は、彼の思わぬ一言で引っ込んでしまう。
「え……?」
「始発が来るまでの時間、俺と一緒にいるのはどう?」
「えっ、えっ?」
あまりの急展開に戸惑いしかなかった。同時に軽く恐怖もあった。都会の人間とはこうも軽いのだろうか。
「俺もさ、今日失恋したんだよね」
「え、そうなの?」
その言葉にやや警戒心が緩まる。
「彼女に他に好きな男がいるって言われてフラれた。ヤケクソで一人で呑んでたら終電逃した」
「そうだったんだ」
「逃したっつうか、見送ったって感じ。一人で帰りたくなかったんだよな」
その気持ち、痛い程わかる。わかってしまうからこそ、こんなことを言ってしまっていた。
「わかる、わかるよ。私も一人でいたくない」
良くないことだとはわかっていても、胸にぽっかりと空いた寂しさを埋めるために差し出された手を取ってしまった。
「一夜だけ、一緒にいてください」
「喜んで」
月明かりに照らされて彼の顔がよく見えた。改めて見るととても整った顔立ちをしており、わずかに心臓が高鳴る音が聞こえた。
*
「……え、ここ?」
「そう」
真夜中のデート先に訪れた場所は、まさかの映画館だった。映画館の入っているビルは当然閉まっているが、映画館へ行く人用の通用口が空いている。
「映画館とは、思わなかった」
「何だと思ったの?」
彼はあからさまに意地悪な笑みを浮かべる。こんな真夜中に男女が二人きりで――となればそれを想像してしまうのは仕方ないのではないだろうか。
「だって、あんなこと言うから……」
「単純に始発までの時間潰しに付き合うって意味だったんだけど。何想像したの?」
「うるさい」
「ははっ。ごめんて、機嫌直してよ」
明るいところにいるとはっきりわかる、やはり彼は端正な顔立ちをしている。こんな人と付き合っていながら他に好きな人ができるなんて、彼の元カノはどういう神経をしているのだろうと思った。
「何観る? つっても一つしかやってないけど」
深夜一時過ぎから観られる映画は、シリーズ化されているアクション映画の三作目だった。タイトルは知っているものの一度も観たことはない。
「これ、三から観てもわかる?」
「わかると思うよ。人間関係がわからないかもしれないけど、それなりに楽しめるんじゃない」
「適当だなぁ」
「大丈夫だって」
はい、とチケットを手渡されたので財布を出そうとしたら断られた。
「いいよ、一応デートだし」
「デートって、いや払うよ。私が付き合ってもらってるんだから」
「お互い様でしょ。じゃあ後でなんか奢って」
「ほんとにいいの?」
「いいよ」
「ありがとう」
琴は有り難くチケットを受け取り、財布をしまう。映画館は誰もいなかった。中央の席に二人だけで貸切状態だった。
「なんかすごく贅沢だね」
「ミッドナイトショーって一回行ってみたかったんだよね。最高だわ」
正直映画というのはとても助かった。約二時間は時間が潰せるし、初対面で何を話したらいいのか朝まで間が持つのか不安だったが、そんなことを気にしなくていい。他に誰もいない映画館で、静かに映画を楽しめるというのも魅力的だ。
「おねーさん、名前は?」
「え?」
「名前。なんていうの?」
「あ、ああ。琴だよ」
「俺はナギト」
「ナギトくん。ナギトくんって多分年下だよね」
「年下だよね、と言われても。今二十一」
「若っ! 四つも下だった」
「二十歳過ぎたらそんなに変わらなくない? 今更敬語なんて使わないよ」
「あ、うん、いいよ」
「一応琴さんって呼んであげる」
「何それ」
そんな風に話していたら、予告が終わって本編が始まる。横を向いていた視線を真正面に戻した。
*
「かんぱ〜い」
「乾杯」
琴とナギトはコンビニ前の開けた場所で缶チューハイで乾杯する。グイッと飲むと炭酸が喉を潤してくれる。深夜三時過ぎのチューハイは何故こんなにも美味しいのだろう。
「思ってたより話理解できたし面白かった」
「良かったじゃん」
「字幕って苦手に思ってたけど意外といけたかも。ちょっと賢くなった気分」
「字幕観たくらいで? 思いっきり日本語書いてあるのに?」
「ちゃんと頭が映画の内容と字幕を追えてたんだよ。やばい、自分賢い! って思わない?」
「めっちゃ自分褒めるじゃん」
ナギトは笑いながらチューハイを飲む。
「真面目な映画の話なんだけど、ちょっとよくわかんなかったところもあったんだよね。アランと一緒にいたあの黒人の人、何者?」
「あー、ラルフね。ラルフは二作目観てないとわからないかも」
「うん、急に出てきて何? って思った」
ナギトはかいつまんで一作目、二作目の大まかなあらすじを教えてくれた。
「なるほどね。最初から観たくなってきたなぁ。動画配信サイトにあるかな」
「あるでしょ。入ってるなら観なよ」
「帰ったらそうする」
琴はおつまみ用に買ったポテトチップスを開けた。一つ摘んで袋ごとナギトに差し出す。
「深夜のポテチ背徳すぎて最高」
「絶対太るやつ」
「やめて、それは言わないで」
「なんか食ったら腹へってきた」
「わかる。わかりたくないけどわかる」
「わかりたくないって何だよ」
「このままいったら太るから抗ってみてる」
「無駄な抗いだね」
ナギトはチューハイ片手にスマホをいじり始めた。
改めて見ても綺麗な顔をしているなぁと思う。年下イケメンと終電後の深夜に映画、そして外で晩酌。新宿に辿り着いたばかりの時は不幸のドン底にいたけれど、今はお酒も入ったせいかとても気分が良い。
「あっ、このガチャガチャ!」
コンビニの前に何台かあったガチャガチャの一つが目に止まる。
「懐かしい、このキャラクターすごく好きだったなぁ」
それは琴が小学生の時に見ていた子ども向けアニメのキャラクターだった。傘の柄につける目印キーホルダーのガチャガチャだった。
「え、俺知らない」
「知らないの!? ここでジェネギャ感じるのつらいんだけど」
「女子向けアニメだったからじゃない?」
「そうかも」
琴は財布から百円玉を四枚出して投入し、グルグルと回す。ガチャン、と落ちてきたカプセルを開いてみるとうさぎのベリーちゃんがドーナツを持っているキーホルダーだった。
「え〜! ベリーちゃんめっちゃかわいい!」
「ベリーちゃんっていうんだ」
「え、想像以上にかわいい。もう一回やりたい」
次の狙いは猫のカフェ。念を込めて回してみたが、カプセルから出てきたのはまたもやベリーちゃんだった。しかも全く同じドーナツを持っている。
「被ったんだけど」
「どんまい」
「こっちはあげる」
「え? あー、ありがとう」
明らかにいらないという表情をしていたが、ナギトは受け取った。
琴はとりあえずスマホケースに引っかけることにした。ぶらんとぶら下がるベリーちゃんがかわいくてテンションが上がる。
「ガチャガチャって大人になってからの方がやっちゃわない?」
「ちょっとわかるな。大人になると自分の金使い放題だもんね」
「そうなの! 出るまで回すとかやりがち」
「それはやりすぎ」
ナギトがスマホをいじりながら言う。
「ところで琴さん、もっと背徳的なことするのどう?」
「もっと背徳的なこと?」
「深夜ラーメン」
「背徳すぎて最高。行きましょう」
もうすぐ深夜四時。あと一時間もすれば始発電車が動き始める時間になる。新幹線の始発を考えるとまだ二時間あるが、ナギトのおかげで時間があっという間に感じる。
一人きりではこうはいかなかっただろう。漫画喫茶に一人閉じこもり、寂しい夜が明けるのを待つしかなかった。
先程スマホをいじっていたのはラーメン屋の場所を調べていたらしく、チューハイの缶とポテトチップスの袋を空にしてからラーメン屋に向かった。
「はー、やばい。めちゃくちゃ美味しい」
特にスープが心に染み渡る程美味しい。
「替え玉頼んじゃおうかな」
「めっちゃ食うじゃん」
「そう、私よく食べるんだよ。でも祐介の前では少食ぶってた」
少食な女の子の方がかわいいと思っていたから。本当はもっと食べられるのに「もうお腹いっぱいかも」なんて嘘をついていた。「ほんとに琴は少食だよな」って言われると何だか嬉しかった。
「思い返すとね、浮気の気配はあったんだ。明らかに連絡の頻度減ったし、電話したら女の声聞こえたことあったし」
「は? 絶対クロじゃん」
「その時は流石に聞いたよ。誰かと一緒にいるの? って。会社の人たちと飲み会してるって言われた。彼女と電話してるってからかわれるから切るねって」
「信じたんだ」
「信じるよ。だって浮気してるなんて思いたくなかったもん」
現実から顔を背けたくて、見て見ぬフリをした。会社の付き合いもあるし、慣れない東京で仕事を頑張っているから忙しい。そう思い込むことで自分を守ろうとした。
「馬鹿だよね。自分でも思う」
聞き分けのいい彼女になんてならなければ良かった。自分には何が足りなかったのか、せっかく上がりかけていた気持ちがまた沈みそうになる。
「馬鹿なのは彼氏じゃん。なんでそんな風に信じてくれる彼女のこと、平気で裏切れるんだろうね」
「……っ」
また涙腺が緩みそうになって大袈裟に鼻を啜った。
「ナギトくんの彼女だって馬鹿だよ。こんなにいい人、なかなかいないのに」
「そう思ってくれるんだ?」
「そうだよ。だって普通、フラフラしてる初対面の女に話しかけたりしないのに」
「だって危なっかしいんだよ。あのままほっといたら変なやつにホテル連れ込まれるだろうなって思ったから」
本当に声をかけてくれたのがナギトで良かったなぁと思った。
「ありがとうございます」
「奢り?」
「ここも!? いや、奢りますよ。チューハイだけじゃ足りないなって思ってましたよ」
「冗談だけど」
「いや奢る、奢らせてください」
「ごちそうさまです」
ラーメン屋を出る頃にはだいぶ外は明るくなっていた。もうそろそろ電車も動き始める頃だろう。
ここを出たら、ナギトとは二度と会えなくなる。
「ナギトくん、もう一個だけ付き合ってもらってもいいかな」
「いいけど、どこ行くの?」
「どこに行くとかじゃなくて、見届けて欲しい」
そう言って琴はスマホのメッセージ画面を開く。祐介とのトークルームだった。
「ブロックする」
「あ、マジで? 話し合いとかしないんだ」
「何聞いても納得できそうにないから、もうバイバイする」
トーク画面に指を伸ばす。このブロックマークを押せば、祐介とはサヨナラだ。
「……」
「早く押しなよ」
「待って、今心の準備してるから」
「そんなのいらなくない?」
「いるって、あっ」
指が滑ってブロックが完了してしまった。これでもう祐介と話すことはない。同じ会社に勤めている以上、全く会わないというのは難しいかもしれないが、恋人という関係は終わる。
ブロックしたんだから、自分から終わりにしたのだ。そう思いたいのは精一杯の強がりだった。
「ブロック、しちゃった」
「頑張ったじゃん」
ナギトはそう言って優しく微笑む。その笑顔を見ていたら、何だかわからないけれど嬉しくなった。
「ありがとう、ナギトくん」
「別に何もしてないけど」
「ありがとうしかないよ。ナギトくんがいなかったら、今頃路頭で彷徨ってたもん」
「本当にお礼言われることじゃないよ。……むしろ謝らなきゃいけないくらい」
「え? なんで?」
「俺、本当は失恋なんかしてない」
その言葉に思わずナギトを見返す。
「そもそも彼女なんかいないし、ナギトって名前でもない」
「え……? どういうこと?」
「俺ね、俳優やってんだ」
「えっ!?」
思わず大きな声をあげてしまう。
「すごいね!?」
「全然すごくないよ。所謂売れない俳優ってやつ。今舞台の稽古中でやっと名前のある役をもらえたのに、全然ダメでさ」
ナギトの横顔は寂しそうだった。
「今日も怒られてばっかりで、あー俺才能ないんだなーって。親に夢掴んでこいって送り出してもらったのに全然ダメな自分に苛立って。帰りたくねーって思ってたら終電なくなった」
「そう、だったんだ」
「ナギトっていうのは、役の名前。もっとナギトの気持ちを理解しろって演出家に散々怒られて、ナギトになったらちょっとは何かわかるかなって思ったんだ」
――結局よくわからなかったけどね。
そう呟いた言葉には切なさと切実さが滲んでいた。
「やっぱり才能ないんだな」
「そんなことないよ。私は今日、“ナギト”くんと出会えてすごく救われたよ」
見知らぬ土地の真夜中に一人きり。先の見えない真っ暗闇を彷徨っていたのに、ナギトが手を引っ張ってくれた。深夜に二人きりで映画を観たり、缶チューハイで乾杯したり、ラーメンを食べたり。
ナギトがいてくれたから、ナギトが「悪くないよ」と言ってくれたから、今こうして笑えているのだと思っている。
「少なくとも私はナギトくんの言葉に救われた。それってもう、誰かの心を動かしたってことじゃない?」
「いや、でも」
「あなたは誰かの心を軽くすることができるんだから、きっと良いお芝居ができると思うよ。……なんて、私みたいな素人の意見、参考にならないよね」
「ううん、響いた」
ナギトはパーカーのフードを目深に被り、ぎゅっとフードの裾を握りしめる。
「……ありがとう」
良かった、と琴は胸を撫で下ろす。あまりにも拙い素人目線すぎて気分を悪くさせたかもしれないと思った。
「俺の名前は、」
「あ、待って。ナギトくんのままでいい」
「え?」
「私が一夜を過ごしたのは、“ナギト”くん」
「……ん、わかった」
もうすっかり外は明るくなっていた。電車が動き出した音も聞こえる。あっという間に時間が過ぎ去ってしまったな、と思った。あんなにどうしよう、どうやって夜を明かそうかと思っていたのに今は朝を迎えることを心細く感じている。
「ナギトくんの舞台って名古屋ではやらないの?」
「やらない。東京と大阪だけ」
「名古屋飛ばしってやつだ」
「そうだね」
「そっか……」
ちょっぴり見てみたかったなぁとも思った。
これでナギトとはお別れ。もう会うことはないし、もし会うことがあったとしてもその時彼は“ナギト”ではない。
「そろそろ電車動き始めたし、行こうかな」
「俺も流石に帰る」
「本当にありがとう。すごく楽しかった」
「こちらこそ」
「舞台、頑張ってね」
「琴さんも、元気でね。気をつけて」
ああ、この改札口を通ってしまえばもうおしまいなのだ。何故こんなにも名残惜しいと思うのだろう。
琴の心に失恋の痛みはなかった。それよりも一夜だけの関係が終わってしまうことの方が寂しく感じる。
「あれ、私二度失恋したっけ?」
これを恋と言っていいのかわからないけれど、気分はそんな感じだった。そもそもナギトのまま別れると言ったのは琴の方だったのに。
スマホにつけたうさぎのベリーちゃんが寂しく揺れる。図らずもお揃いとなったこのキーホルダーは小さな思い出となった。捨てられないことを祈りながら、琴は早朝の始発電車に乗り込んだ。



