残業の末、終電を逃した。
今日は定時で帰ろうと思っていたのに。
定時上がりを目指して定時が過ぎ、あと1時間を目標にした後、只今の時刻23時。
電球が切れかけて点滅している街灯の下、フラフラとビジテスホテルを探す。
ビジネスホテルを探すのは、あの時以来か。
家の冷蔵庫に入れたビールとコップを思い出して、〝飲みたかったー!〟と迷惑極まりない発言をして、アスファルトに目をやる。
「終われなかった自分が悪いよな。分かってるけど…」
思い出したくない過去が、終電を逃したことで蘇ってきた。
忘れたい。あれは黒歴史だ。
携帯で、近くのホテルを探すと、徒歩3分ほどの場所にあるのが分かり、小走りでフロントに駆け込んだ。
「すみません。安い部屋で、今から泊まれる部屋、空いてませんか?」
「ございますよ。朝食は付けられますか?」
「いらないです」
朝ごはんより、始発で家に帰って着替える方が大事。
それに、2日連続同じ服で出社は、夏の時期に最も避けたい。
ルームキーを渡され、指定された階までエレベーターで上がると、廊下には何人か居た。
俺と同じように終電に乗りそびれたやつか、ただの夜更かしか。
理由は何であれ、この時間に部屋に居ないやつは不気味だ。
あの時のあの人も、そうだった。
日付が変わりかけの時間、ホテルのフロントに駆け込んで、1部屋ギリギリ空いていたので入ると、ルームキーを受け取ったところで、見知らぬ女性が息を切らせて俺の隣に立った。
「助けて!あなたの部屋に、私も入らせて!」
「は!?」
「あの、お客様。落ち着いてください…」
「落ち着いてられないんです!誰かにつけられてるのに!」
返事もしていないのに、私可哀想でしょ!危ないでしょ!という雰囲気を出して、俺の手を引っ張った。
「おい!」
フロントを通り過ぎてエレベーターに乗り、〝閉〟ボタンを連打して、ようやく閉まると目的の階にゆっくり動き出す。
俺の手はまだ見知らぬ女性に掴まれたまま。
「誰かにつけられてるって、嘘じゃないだろうな?」
「嘘じゃないよ」
「いや、絶対嘘だな。どこのキャバ嬢か知らないけど、誘うような服装して俺の手握ってるし」
「誘うような服装だって思うんだ?こういう趣味だっていう場合もあるでしょ」
何か言えば、上に乗っかって返ってくる言葉。
口が立つな。やっぱりキャバ嬢だろ。
「どうせ客に思わせぶりな態度取ったから勘違いされて、断ったら逆上されたんだろ」
「キャバ嬢っていうのは、そういうものなの。それでお金もらってるんだから。勘違いする方が馬鹿なのよ」
認めた。しかも、さらっと客のことを貶したし。
そりゃ勘違いもしたくなるわ。胸をギリギリまで見せてスカートの丈は短くて。
お酒も入った状態で手なんか握られたら、調子にも乗りたくなる。
ま、俺はお酒は入ってないし、調子に乗る気もないから。
「手、離してもらえます?」
「嫌だって言ったら?」
「力尽くで剥がす」
そう言いながら離そうとしたら、俺の腕にしがみついて本当に離してくれなさそうだったから、力尽くで腕から剥がした。
「痛いんだけど!」
「離さない方が悪い」
「…お兄さん、意地悪」
突然俺の泊まる部屋に入ろうとする、あんたの方がよっぽど意地悪だって言おうとしたけど、キャバ嬢の方を見た時に手が小刻みに震えていて、その言葉は喉から出ることはなかった。
〝チン〟と鈴の鳴る音がして扉が開くと、俺より先にエレベーターから降りたキャバ嬢。
「本当に部屋に泊まる気?」
「じゃなかったら、ここまで来てない」
部屋番号を知らないから、フラフラと歩き回るキャバ嬢の手を掴んで、渡されたルームキーに書かれている部屋番号を目指す。
この状況、今部屋から出てきた誰かが見たら、俺がこのキャバ嬢を誘ってるって思われるよな。
この時間に廊下に居るやつは、きっとろくなやつじゃないから、出くわしたところで気にもしないけど。
「…あった」
泊まる部屋を見つけて鍵穴に鍵を挿して回すと、〝ガチャン〟と大きく響いて扉が開いた。
「お先にどうぞ」
「ありがとー」
「少しは遠慮しろよ…」
譲っておいて変な言い方だけど、ここは一応レディーファーストで。
入ってすぐにベッドにダイブするキャバ嬢に、子どもだなと冷たい視線を送って、鍵をテレビの前の机に放り投げる。
「お兄さん、物を放り投げるタイプなんだ」
「だから何」
「女の子もそういう扱いっていうじゃん?」
「そんなの、聞いたことねぇよ」
物と女性を一緒にする方も、どうかと思う。
雑に扱うからって、女性まで雑にはしない。
始発まで、あと4時間。
とにかく寝て、夜中まで働いた疲れを取りたい。
「シャワー浴びてくるけど、先に浴びる?浴びない?」
「浴びない」
「…汚ねぇ」
「浴びるか浴びないか、選択肢作ったのそっちじゃん」
何でも言い返してくるな。少しは言い返さずに、無言になってみろよ。
「それに、シャワー浴びたって着替えないし」
「俺も着替えなんてないよ」
〝じゃあ、入るからな〟キャバ嬢の顔も見ずに、浴室に入った。
安い部屋だし、バスローブも置いていなかった。仕方ないけど、スーツで眠るのは良い夢を見れる気がしない。
頭からシャワーの湯を被り、上がってからのことを考える。
ベッドは当然、1つしかない。キャバ嬢を床で寝かせるわけにもいかない。
俺が床か。そうだよな。当たり前だよな。
でもキャバ嬢が部屋に居て、俺がシャワーを終えて部屋を出ても、すぐに寝れるのか。
「…ここで考えても、仕方ないよな」
成り行きで良い。何もなく眠れたらラッキーってことで。
シャワーを止めて、余計な水分を浴室に置いてあったタオルで拭き取り、さっきまで着ていたスーツをまた身につけた。
体を綺麗にしたのに、1日着て汚れたスーツをまた着るなんて、汚い。
でも今日だけの我慢。明日になれば、家に帰って綺麗な服が着れる。
上着は羽織らず、シャツとズボンだけ着て、浴室を出た。
キャバ嬢はどこに居るんだ。
浴室を出てそっと部屋を覗くと、まだベッドの上にいて、ゆっくり近づいてみると、寝息を立てている。
俺がシャワーを浴びた、数分の間に寝てしまうとは。
しかも、上掛け布団も被らずに足が丸出しで、風邪を引いてしまう。
布団を取ろうとしたけど、その上にどっしりと寝転がっているものだから取れず、俺の上着をお腹の辺りにかけた。
そのついでに、上着がかかり切らなかった胸に視線が行ってしまい、俺もちゃんと男なんだなと少し自分が気持ち悪くなってしまった。
俺は女の、そういう性的なものに興味はないと思っていたけど、それなりに大きい胸をしているし、これだけ足も出していたら、見てしまう。
きっとキャバクラに来ている男は、やたら大きい胸と綺麗な足にしか目が行かず、顔とか性格は眼中にないだろう。
俺はそういう男になりたくないな。そう思って、一応寝顔に視線をやった。
「…案外幼いな」
厚化粧をしていたから気づかなかったけど、成人したてじゃないだろうか。
いくらお金を稼ぎたいからと言って、方法は選んだ方が良い。
つけまつげも口紅も、服装と合わされば、大人の女性を演じられるが、よく見れば幼さが残っている。
寝姿だって、無防備だし初対面の俺に対して警戒心がなさすぎるのも、俺としては傷つく。
寝ている間に襲われるかもしれないとか、考えなかったんだろうか。
仕事のしすぎで頭もパンク寸前だし、襲うつもりもないけどさ。
そんなことを考えながらキャバ嬢を上から見ていると、寝ているのか起きているのか分からない状態で、手首を握られた。
「!?」
考えもしなかった行動に、全身が強張る。
抵抗もできず、その場で固まると目を閉じたままムニャムニャと何か言っている。
「何?」
「…怖いから、そばに居て」
「呑気に寝てるやつが、怖いとか言うなよ」
絶対寝言だ。
エレベーターに乗っていた時にみたいに、振り解いてやろうかと思ったけど、震えていた手を思い出して、踏みとどまった。
きっと本当に怖かったんだろう。本気にされて追いかけられて、必死に逃げて。
社会経験の少ない少女はお金を稼ぎたい一心で、対価なんて気にせずに、目の前の金額だけに釣られる。
このキャバ嬢も、釣られたんだな。世の中に、おいしい話なんてないのに。
手首を握られたまま、床には寝転べず、ベッドに顔を伏せた状態でベッドの横に腰を下ろした。
俺も疲れていたし、キャバ嬢も起きそうになかったし、そのまま気づいたら眠ってしまっていた。
どれくらい眠ったのか、足と腕が痺れて痛くて、目が覚めた。
寝ぼけて目を開けたら目の前が暗くて、目やにで瞼が開かないのかもしれないと、目を擦ろうとする。
でも自分の目には当たらず、ざらっとした何かに当たった。
何だこれ。…髪の毛?でも俺、触れるほど髪長くなかったよな。
ここで、俺の今の状態に気づいて、目の前のものを退かそうと押した。
「おい!お前、何のつもりだよ!」
まさか、キャバ嬢にキスされていたとは。
目の前が暗かったのは、キャバ嬢が目の前に居たから。触ったのは、キャバ嬢の髪の毛だった。
「お兄さんにキスした」
「だから何のつもりだって」
「お礼」
「お礼って…。お前そういうとこだぞ。勘違いされるの」
外はまだ暗く、キャバ嬢の顔もはっきり見えない。
俺が押したことで、キャバ嬢がどうなっているのかも、いまいち見えていない。
「お兄さんになら、勘違いされても良いもん」
「俺は勘違いしない。20歳そこそこの子には靡きません」
「えっ。私の歳知ってんの?」
「知らないけど、雰囲気で分かるよ」
こんな暗がりで、いつキャバ嬢が仕掛けてくるかも分からない状況で、また寝ようとしても眠れるわけもなく、電気をつけに玄関に向かう。
豆電球のボタンがあったのでそれを付けると、俺の後ろを付いてきていて、両手を塞ぐように抱きしめられた。
「勘違いされて追いかけられて、怖かったんだろ?俺に引っ付くなよ」
「何で」
「また怖い思いするかもしれないだろ」
「お兄さんは怖い思いさせないでしょ?」
ったく。俺を下に見てる言い方だ。
大丈夫だって、俺は安全だって暗示をかけられてる気がする。
「分かんないよ。豹変するかも」
「それはないと思う」
「お前、俺をバカにしてるだろ」
「へへっ」
認めた。余計ムカつく。
〝そんなことないよ〟って言われたら許そうと思ったけど。
ちょうど左側に壁がある。
塞がれていた両手を軽く払い除けて、キャバ嬢を壁の方へ押してみた。
当然キャバ嬢の目は大きく見開き、ほんの少し俺を押し返して抵抗してきた。
「女の子は、こうやって簡単に襲われちゃうんだよ。あんたが抵抗しようとしても、男からしたらただの興奮材料なの」
本当に襲うつもりもないし、すぐに壁に追いやった手を離す。
壁と俺に挟まれていたキャバ嬢は、俺が離れてもそこから動くことなく、ぼーっと突っ立っている。
少しやりすぎたかな。
世の中に散らばっている男は、ろくなやつじゃないってことを知ってほしくて、代表して壁ドンをしてみたけど。
怖がらせただろうか。もしそうなら、それは謝らないと。
「だから、そういうことは本当に好きな人にしかしない方が…」
ドンっという鈍い音とともに、今度は俺がキャバ嬢と壁に挟まれた。
壁に両手をついて、俺はその間に直立でいる。
「これは、何の真似?」
「キャバクラに来てくれたお客さんには、勘違いするようなことはしてない。向こうが勝手に私の足触ってきて、やめてって言ったら足出してる方が悪いって」
きっと、追いかけてきた客のことだな。
「うん」
「それで、手を払い除けたら客に対する態度が良くないって、押し倒されそうになったから、何とか店を出て逃げてきたの。でも胸をわざと見せたり足出すような服着たり、普段こんなの着ないから、気持ち悪いよ。変なお客さんの相手してる時なんか、吐きそう」
この状況で事情を聞かされても、本心なのか正しい判断はできない。
でもエレベーターに乗っていた時に震えていたし、ここは本心と捉えよう。
「何で俺を壁に追いやってるのか知らないけど、君の気持ちは分かったから、一旦離れようか」
「やだ。私の気持ち、分かるんでしょ?だったら、今慰めてよ。もう怖くないよって安心させてよ」
安心したいなら、今すぐここを離れて家に帰るべきだ。
正しい道を歩む少女に戻れば良い。深夜のホテルで、健全な少女でいられるわけがない。
慰めるんじゃなくて諭そうと押し返す。
女の力なんて、少し力を入れれば返せるほどのもので、壁からキャバ嬢の手が離れる。
「始発で帰りなさい。もうこの街には来ない方が良い。夜の街は誘惑がたくさんあるし、君みたいな子には危険が多すぎる」
「そんなの分かってる。分かってるけど、お金がもらえるから」
「君は身売りされてるようなもんだよ?」
だんだん勢いがなくなり、萎んでいくキャバ嬢に、もう諭しはこの辺で良いかなと、俺も気を緩めた。
その瞬間、この隙を待っていたかのように、抵抗できる間もないスピードで視界が揺れて、気づいたらキャバ嬢とその奥にある天井を見ていた。
「…冗談だよな?」
「ううん、本気だよ。お兄さんなら、私嬉しい」
「俺は嬉しくない」
「何で?」
「当たり前だろ!?未成年とホテルで…なんて」
「じゃあ未成年じゃないって言ったら、受け入れる?」
「そういう問題じゃない!」
上から押さえつける力と、下から抵抗する力とでは、上からの力が強いに決まってる。
俺がどれだけ抵抗しても、何も変わらず、馬乗りになられる始末。
「お兄さんになら、勘違いされても良い」
その言葉が鮮明に耳に響いて、そこからの記憶はない。
体は恐怖を覚えているけど、内容までは覚えていない。
ただ、服が乱れていくだけ。
「…、やめてくれ!……はぁ、」
全身が拒否反応を示して体を起こすと、俺の上に乗っていたキャバ嬢は居なくて、俺だけが床に倒れ込むように寝ていた。
「夢だったのか…」
キャバ嬢に襲われた、あの日の夢を見ていたらしく、昨日は玄関に入ってすぐ寝落ちしていたらしい。
腕で目を覆うようにして溜め息を吐き、起き上がった体を仰向けに倒した。
〝勘違いされても良い〟と言われた後のことは、思い出せる記憶は全くなくて、スーツが乱れて下半身が激痛だった現実だけが残っている。
思い出したくなかったから、あれ以来残業はやりすぎないと決めていたのに。
上着のポケットに入っていた携帯を取り出して、画面を見ると〝4:02〟の数字が浮かび上がる。
「始発だ」
あと20分で始発が出る。
それまでに駅に向かわないと。
シャワーも浴びれず、床で寝ていたものだから、体は全身バキバキで髪の毛もボサボサ。
仕方ない。家に帰ってゆっくりシャワーを浴びて、新しいスーツに着替えよう。
ホテルのフロントで会計を済ませ、いつもの駅に向かう。
この時間に外を歩いたことはないけど、案外人っているもので、飲み歩いていたのかアスファルトを布団にして2人重なって寝ている人たちもいれば、背中からお尻まで隠れるほどのリュックを背負っている学生もいる。
始発まで、あと8分。
駅の改札が見えてきた。これなら、余裕を持って家に帰れる。
人ごみのない駅は久しぶりで、でも良い思いはない風景で。
人をかき分けて通らなくても良いから楽だけど、首元の詰まりは増す。
頭をぐるぐる巡る嫌な考えを、腹の底から吐き出して、止まりかけていた足を動かすと、見覚えのある女性が目の前を通った。
その女性は、この時間帯に通っていても違和感のない年齢になっていて、俺もその分おじさんになったんだと感じる。
懐かしいんだか、苦いんだか。
向こうも、この時間に通っているおじさんに興味を持ったのか、こちらを向いていて、目が合うと〝あっ〟と小さく声を漏らす。
3年じゃ、大きく雰囲気は変わらないよな。そりゃ、バレるよな。
「お兄さんだ」
「生きてたんだな」
「何その言い方。誰にも恨まれてないし、殺されてないから」
あの時の奇抜な格好はしていなくて、リクルートスーツを着て後ろで髪を1つに括っている。
相変わらずやんちゃに見える色はしているけど、必死に印象の良い女性を演じようとしているのが分かる。
でも話し方は、ホテルで話した時と同じ。
見つけた時は一瞬体が強張ったけど、懐かしさが勝って、久しぶりに姪っ子に会ったような感覚がした。
「もう酔っ払ったおじさんに追いかけられる仕事は、してないみたいだね」
「変な言い方しないでよ。もう真面目になったから」
「就活?」
「うん」
不思議と話は弾み、始発のことは忘れて話し始めてしまった。
ホテルでの一夜のことも聞きたいと思ったし。
朝っぱらから話すことじゃないかもしれないけど、向こうも警戒心なく話しかけてきたんだし、俺のことは怖がってない、拒否してないってことだよね。
「あのさ、変なこと聞くんだけど」
「彼氏はいないよ」
「そうじゃないって。お前はすぐ、そういう方に持って行くんだから」
「私のこと、ちゃんと覚えててくれてるんだね」
「当たり前だろ。あんなことされたら…」
詳しいことは声に出せず、〝あんなこと〟と言いながら、視線を下に逸らす。
向こうも〝あ、あれは…〟と目を泳がせている。
若気の至りってやつだな。でも俺はそれで片付けられないようなことを、させてしまった気がして、元キャバ嬢のお腹を見た。
でも3年経っているんだから、今大きいのなら真面になったってことだけど、お腹の膨らみはなかった。
「お兄さん、覚えてないよね。周りに迷惑になるくらい、混乱して叫んでたし」
「それは申し訳なかったけど…。でも叫ぶのは当然だろ」
「大丈夫。お兄さんが想像するようなこと、何もしてないし」
「…は!?」
元キャバ嬢の話は、信じようにも信じられない。だって下半身痛かったし。
「パニックみたいになってたから、落ち着かせてあげてたの。肩摩ってあげたら、そのまま寝ちゃったし」
「そうなのか…」
「ずっと強く目を瞑ってたから、余程怖かったんだと思って。私も怖い思いしたのに、お兄さんに同じことしちゃダメだと思って、何もしなかった」
じゃあ痛かったのは、自分で思い込みして痛がってたってことか。恥ずかしすぎるな。
「でもお前、逃げるのはないだろ。起きたら居なくて、俺の人生終わったと思ったんだからな?」
「ごめんって。お兄さんの顔見てたら、誠実に生きなきゃって思って、あの後店辞めて家帰っちゃった」
「その日に辞めたの!?」
「そうだよ。お兄さんにつり合う人間になろうと思って」
俺につり合う人間。
会話が止まって、俺と元キャバ嬢の間を生温かい風がゆったりと流れた。
額の汗もじんわりと浮かんできて、昨日の汚いスーツのままで、体も臭いことを思い出した。
「あ、始発」
「始発?…電車、乗ろうと思ってたの?」
「うん。帰ってシャワー浴びて、会社行かないと」
携帯を開けば、もう始発は出てしまっていた。
「次、40分くらいに出るから、それに乗れば良いよ」
元キャバ嬢の言う通り、次の電車は16分後に出る。まぁ、これでも良いか。
「ありがと。じゃあ、行くわ。またな」
また会うのを当たり前のようにして、挨拶してしまった。
振り返って、もう会うことはないと思うと付け足そう。
「お兄さん」
俺が振り返る前に、元キャバ嬢が俺を呼び止めてきた。
「…何だよ」
「ペンかボールペン、持ってる?」
「あったと思うけど。ちょっと待って」
何の企みなのか、要求されたペンを探したら、ボールペンが出てきた。
「ボールペンなら」
「貸して」
ペン1本くらい、貸さなくてもあげる。
また買えば良いし、会社の備品もある。
〝返さなくて良いよ〟とボールペンを差し出すと、ボールペンだけでなく、俺の手も掴んできて、少し手を引っ込めた。
俺とつり合う人間に、全然なれてないじゃん。
早速、誘おうとしてる。
俺の手からボールペンを引っこ抜くと、甲を見せていた手を裏返されて、掌に数字を書き始める。
何か気になって覗くと、〝090〟と見えた。
「電話番号?」
「うん」
俺の手を細い指たちで必死に押さえて、書きにくい皺が寄った場所に、真剣に数字を書いている。
いつもふざけた表情ばかりだったから、真剣な表情は珍しく、可愛らしいと思った。
「笑わないで」
にやけていたのが、バレたらしい。
横目で睨まれたので、掌に視線を戻すと、電話番号が完成していた。
「これ、私の番号。会いたいなって思ったら、連絡して?私はいつでも会いたいから」
「何だよ、それ。俺が会いたくないって思ってたら?」
「それはないと思う」
「…やっぱりお前、俺をバカにしてるよな」
「へへっ」
今日はムカつかなかった。
元キャバ嬢と同じように笑い、〝早く電車乗って!〟と背中を押されて見送られ、改札を通った。



