〈7番線のドアが閉まります。ご注意ください〉
電車の出発を告げるアナウンスが階段の上から聞こえる。でも大丈夫。まだ間に合う。いける。そう手を伸ばした先で――無情にもドアが閉まった。プシューと意気込むように空気が抜け、最終電車が、出発する。
「ああぁぁぁぁぁああああ」
その前で私は盛大に膝から崩れ落ちた。
タッチの差だった。あと30秒、いや10秒あれば絶対に間に合っていたというのに。
悔しいとうなだれていると半歩後ろから声がかかった。
「うるさいよ」
澄ました猫のような声。
肩で息をしながらじろりと見やると「うるさいよ」と繰り返された。
「俺の言った通りじゃん。どうせ間に合わないって」
「でもっ……ちょっと、あと、ちょっと、早かったら……間に、合って……たし」
途切れ途切れに言い返すと、彼は憐れむような視線を寄越してきた。非常にわざとらしい。その表情のまま私の隣にしゃがみ込み、そっと水の入ったペットボトルを渡してきた。相変わらずわざとらしいがそれはそれ、これはこれと割り切ってありがたくちょうだいし、ほぅ、と息をついた。呼吸が整ったところでこれからどうしようかと思考を巡らせる。
3月31日。
大学受験を終え、高校生としての特権を行使できる最後の日。
クラスのみんなで集まって焼肉に行きたんまりとお肉を食べた後二次会と称してボーリングに行き肩が壊れるほど遊び倒しお開きとなった、と、ここまではよかった。問題はこの後。なんか遊び足りないねという話になり彼――芹沢とカラオケに入ったのが間違いだった。2、3曲歌った後睡魔に襲われソファの上で寝落ち。で、目が覚めたら終電ギリギリの時間になっていたという。
「これからどうする? カラオケ戻る?」
「えー……もうお金ないんだけど」
「それくらい貸すけど」
「断る」
「断るな貧乏人」
彼の提案を拒否するとおでこをグイッと押された。痛くはないけど立ち上がれない。
「だって芹沢、明日から他県行くでしょ」
私のおでこを押す彼の手と葛藤しながら口にすると、だからどうしたと首を傾げられ、それと同時におでこから手が離された。その隙をみてすくっと立ち上がる。
この1年の激闘とも言える受験の末、彼は隣の隣の県にある国公立大学、私は電車で片道30分の地元の私立大学に行くことに決まった。つまり、今日が終わってしまえば、私たちは当分会えなくなるということ。にもかかわらずお金を借りるというのはどうしてもはばかられる。
それ以前に、私たちには「またね」があるかどうかすら確かじゃない。――私たちには、決定的に違うところがあるから。
「ね、芹沢」
「なに」
「高校行こ」
突拍子もない誘いに怪訝な顔をされた。
「それまたなんで」
「夜の高校ってちょっと行ってみたくない?」
「あー……」
面倒くさそうに言っているがこれは共感の「あー……」だ。クラスメイトの前では硬派っぽく振舞っていたが、私といるときは年相応の俗っぽさが顔を出す。
目的地は決まったと、私たちと同じように終電を逃した人々の間を通り過ぎ、改札を出た。暦の上では春だというのに、この季節の夜はまだ少し肌寒い。それでも身を震わせないでいられるのは隣に彼がいて、わずかばかりのぬくもりを感じるからだ。
駅前にはタクシーに乗り込む人や電話で迎えを呼ぶ人、途方に暮れている人などさまざまなな人がいた。その誰もが私たちよりも少し大人に見える。大学生、もしくは社会人だろうか。大人でも高校生と同じ失敗をするんだな、とわずかに親近感を覚えたが、すぐにいや大人の方が案外だらしないところがあるぞと思い直した。
ひとは歳を重ねてるごとに言わないことが増えていく。その方が人間関係が上手くいくと知ってしまうからだ。ことさら恋愛に関してはそれが顕著にあらわれる。幼い頃は好きだの嫌いだの簡単に口にしてたくせに、告わない方が美徳とでも言わんばかりに曖昧な関係が築かれる。「雰囲気で付き合うことになった」はその代表例だ。
現に彼と私の関係も薄氷の上に成り立っている。どちらも強く踏み込まないから氷が割れない。割れないから地続きの今がある。それが永遠ではないことを知っていながら、一瞬のきらめきを手放せないでいる。一度でもはなしたらもう戻れないと分かっているから。
何度もふたりで通った道をなぞるように歩を進める。会話はない。でも居心地がいい。この3年間ずっと一緒に登下校していたからだろうか。
私たちの関係は、入学して間もない頃、私が話しかけたのがきっかけで始まった。
――えっっっ。
新入生テストを受け、早帰りした日。
桜の花びらが散りばめられた駅のホームで、私の素っ頓狂な声が響き渡った。まさか同じ最寄り駅を使う同じ高校の人、しかもクラスメイトがいるなんて思ってもみなかったものだから、身体に電流が走ったような衝撃を受けたのだ。なんせここは都心から離れた田舎だし、高校まで往復4時間はかかる。
目を微かに見開いた彼のもとに駆け寄り、興奮冷めやらぬまま話しかけた。
――芹沢もこの駅最寄りなの!?
彼は数歩後退り、たじろぎながら口を開く。
――え、あまもり……だっけ?
――ううん。雨森。
首を振りながら訂正すると彼は気まずそうに視線を逸らした。その様子が面白くて。
――ね、毎日ひとりで電車4時間も乗るの暇だし、良かったら一緒に登下校しない?
気がついたときにはそんな提案をしていたのだ。
それ以来、私たちはずっと行動を共にしている。
元々クラスの女子と価値観が合わず、彼も上手く馴染めていないようだったので必然といえば必然だった。
別にクラスメイトと仲が悪かったわけじゃない。ただ単にキャラが違ったのだ。女子は室内でTikTokを撮る派手な子かアニメオタクの子しかいなかったし、男子はウェイウェイ言っているような一軍か休み時間になる度に机に突っ伏して寝るような人しかいなかった。
そんな中、どっちつかずな私たちには居場所なんてなく、ふわふわと浮いていた。だから私は「芹沢」という名前を知っていたわけだけど。
ちらっと斜め上に視線を向けると、彼の横顔がぼんやりと見えた。思えば、私は彼の正面より側面をよく見てきた。電車に乗っているときもこうして歩くときも、ずっと。
赤くチカチカと瞬く信号を前に足を止めた。
こんな何の変哲もない場所にも彼との思い出があるから不思議だ。確か2年の梅雨の時期に虹がかかっているのを発見し歓喜して写真を撮るもピントが合っておらず苦戦している私の隣で、彼は教科書に載りそうなくらい鮮明な虹を切り取っていた。懐かしい。
車が通っていないので再び歩き始めた。
この交差点を右に曲がったらおしゃれなカフェがある。格好つけてそこで勉強会を開いたが話に夢中になってしまい全く身につかず、赤点ギリギリの点数をとってしまった私に対し、同じくらい話してたにもかかわらず80点以上の高得点を獲得した彼がどれほど恨めしかったことか。
ただ通学路を歩いているだけで彼との思い出が次々と浮かんでくる。
今までこんなことなかったのにどうしてだろうか。
もうすぐ高校生じゃなくなるからかな。それとも――。
考えに浸っていたところで突然、腕をグイっと引かれた。
「え、なに?」
「車」
「え?」と聞き返すよりも先に車が目の前を通りすぎた。もし彼が止めてくれていなかったらそのまま突っ込んでいただろう。
「わ、セーフ。ありがと」
「お前そんなんでどうすんの。いつ轢かれてもしらないよ」
「そのときはお葬式来て泣いてね」
冗談めかすと眉を顰められた。だから安心させるように続ける。
「まぁ今は芹沢がいるから気を抜きまくってるけど、明日からはちゃんとするから安心して。さすがに私も不注意が原因で死ぬとか嫌だもん」
ねっ、と笑いかけると顔を背けられたが、その瞳にはもう、さっきまであった心配の色はなかった。
それから数分歩くとようやく高校にたどり着いた。
当然のことながら明かりはついておらず、校門も施錠されていた。
近くにぽつんと立っている街灯の光が弱いからか、はたまた月が出ていないからか、広い夜空の中、星だけがきらきらと瞬いていた。
――今見えてる星ってほんとはもうないかもしれないんだって。
ふと、彼に教えてもらったことがよみがえる。ある冬の夜の会話だった。
星の光は何億光年と長い時間をかけて地球にいる人々を照らしてくれるらしい。
だからもしすでに星が消失していたとしても、私たちには気づきようがないのだ。
はかり知らないところで、緩やかに終わりへの一途をたどっている、星。
まるで今の私たちみたいだ。
静かに目を伏せ、現状を噛み締める。
何はともあれせっかくここまで来たのだ。感傷にばかり浸ってないで記念撮影をしようとポケットからスマートフォンを取り出したとき、ふいに画面に表示された日付が目に留まった。
4月1日。
どうやら私たちは大学生になった、らしい。
実感が湧かない。正確には大学生になったというより、高校生が終わった感じがする。いや、"感じ"じゃない。本当に終わったんだ。
本当に、もう、高校生じゃなくなった。
自覚してしまったら、どうしようもなく喪失感が胸に広がった。
なぜだか分からないけれど、彼と私を結んでいた縁が途切れた気がした。
それを彼も感じたのか、私たちの間を風が通り抜けた。少し湿り気を帯びた春風だった。
「雨森」
彼が一歩、私の方に踏み出した。自然と向き合うような形になる。途端、脳内で警鐘が鳴り響く。これ以上近づいてはいけない。
氷にヒビが入る。
待って、芹沢。
おねがい。まだ、いわないで。
彼の右手が私の左手に触れた。
「――好きだ」
氷が、割れる。
「だから俺と付き合ってほしい」
冷たい海の底へ、真っ逆さまに沈んでいく。
ついに、いわれてしまった。
彼の気持ちにはとっくの昔に気づいていた。
当然だ。毎日一緒にいたのだから。気づかないわけがなかった。
でも、ずっと見ないふりをしてきた。
さりげなく車道側を歩いてくれることも、私が笑うと顔を背けて照れるところも、クラスの子に付き合ってるのと訊かれ否定する私の隣で拳を握りしめていたことも、全部。
今日だって全力で走ってさえいれば、彼は電車に乗れていた。にもかかわらず、私がひとりにならないように残ってくれたんだ。
私はいつだって、彼のやさしさに甘えていた。
そのつけが回ってきたんだ。
ずっと目を逸らしてきたことに、正面から向き合わなければならない。
彼は、芹沢は、真剣な眼差しで私を見据えていた。その瞳は揺れているようにも見えて、泣きそうになる。
はなしたくない。はなしたら、戻れなくなる。
それでも言わないと。私は、私はね――。
「私は……付き合いたくない」
心臓をぎゅっと握りつぶされたかのように息が詰まった。
口にしたのは私なのに、彼よりも傷つくなんて卑怯だ。
「ごめん。芹沢のこと……そういう目で見れない。芹沢とはずっと、友達だって思ってて、それはきっと、この先もずっとそうだから……」
彼の気持ちに気づいたとき、私も彼のことを好きになれたらなと思ったけど、どうしても、どうしても無理だった。
私にとって芹沢は、唯一無二の友達だから。
彼が私以外の人といるのを見て嫉妬したことがないと言ったら嘘になる。でもそれだけで「恋」だとどうして断言できるだろうか。
現に私は彼に手を握られてもなんとも思わない。もちろん、これ以上のことだって想像できない。しなくない。
だからこれは「恋」じゃない。
私が楽になるために、「恋」だなんていってはいけない。
「分かってた」
果たして、彼が応えた。
星のように静かな光を纏う声。
たった今振られたというのに、彼はかすかに笑っていた。
そんな彼を見たら耐えきれなくなって、涙とともに本音がこぼれ落ちていく。
「ごめん。ごめんね。傷つけてごめん。同じ気持ちじゃなくて、ごめん」
壊れた人形のように同じことを繰り返す私に、彼はどうしていいか分からないように目を細めた。
「俺も、友達でいられなくてごめん。雨森」
震えた声だった。そこで彼も泣きそうなのだと知る。
あのね、芹沢。私、あんたに恋愛感情はないけど、でも、それでもね、死ぬほど好きだったんだと思うよ。人として。
あんたもそうなんでしょ。私のこと、それくらい、本気で好きだったんでしょ。
だから今、泣いてるんでしょう。
朝日が昇るまであと数時間。
私たちは緩やかに終わりへと向かっていく。
夜が明けてしまえば、彼とは本当の意味で離れ離れになる。
もう二度と会わないかもしれない。私たちの気持ちは、あとどれくらい一緒にいたって交わらないから。お互いのために、お互いを手放す。それがただしいことだと信じて。
顔を上げれば、彼の瞳の奥で、星が瞬いていていた。
その瞳に映る私も、きらめきの中にいた。
まばたきしてしまえば見えなくなるほど、一瞬のきらめきだった。
『これを「恋」だということなかれ』〈了〉
電車の出発を告げるアナウンスが階段の上から聞こえる。でも大丈夫。まだ間に合う。いける。そう手を伸ばした先で――無情にもドアが閉まった。プシューと意気込むように空気が抜け、最終電車が、出発する。
「ああぁぁぁぁぁああああ」
その前で私は盛大に膝から崩れ落ちた。
タッチの差だった。あと30秒、いや10秒あれば絶対に間に合っていたというのに。
悔しいとうなだれていると半歩後ろから声がかかった。
「うるさいよ」
澄ました猫のような声。
肩で息をしながらじろりと見やると「うるさいよ」と繰り返された。
「俺の言った通りじゃん。どうせ間に合わないって」
「でもっ……ちょっと、あと、ちょっと、早かったら……間に、合って……たし」
途切れ途切れに言い返すと、彼は憐れむような視線を寄越してきた。非常にわざとらしい。その表情のまま私の隣にしゃがみ込み、そっと水の入ったペットボトルを渡してきた。相変わらずわざとらしいがそれはそれ、これはこれと割り切ってありがたくちょうだいし、ほぅ、と息をついた。呼吸が整ったところでこれからどうしようかと思考を巡らせる。
3月31日。
大学受験を終え、高校生としての特権を行使できる最後の日。
クラスのみんなで集まって焼肉に行きたんまりとお肉を食べた後二次会と称してボーリングに行き肩が壊れるほど遊び倒しお開きとなった、と、ここまではよかった。問題はこの後。なんか遊び足りないねという話になり彼――芹沢とカラオケに入ったのが間違いだった。2、3曲歌った後睡魔に襲われソファの上で寝落ち。で、目が覚めたら終電ギリギリの時間になっていたという。
「これからどうする? カラオケ戻る?」
「えー……もうお金ないんだけど」
「それくらい貸すけど」
「断る」
「断るな貧乏人」
彼の提案を拒否するとおでこをグイッと押された。痛くはないけど立ち上がれない。
「だって芹沢、明日から他県行くでしょ」
私のおでこを押す彼の手と葛藤しながら口にすると、だからどうしたと首を傾げられ、それと同時におでこから手が離された。その隙をみてすくっと立ち上がる。
この1年の激闘とも言える受験の末、彼は隣の隣の県にある国公立大学、私は電車で片道30分の地元の私立大学に行くことに決まった。つまり、今日が終わってしまえば、私たちは当分会えなくなるということ。にもかかわらずお金を借りるというのはどうしてもはばかられる。
それ以前に、私たちには「またね」があるかどうかすら確かじゃない。――私たちには、決定的に違うところがあるから。
「ね、芹沢」
「なに」
「高校行こ」
突拍子もない誘いに怪訝な顔をされた。
「それまたなんで」
「夜の高校ってちょっと行ってみたくない?」
「あー……」
面倒くさそうに言っているがこれは共感の「あー……」だ。クラスメイトの前では硬派っぽく振舞っていたが、私といるときは年相応の俗っぽさが顔を出す。
目的地は決まったと、私たちと同じように終電を逃した人々の間を通り過ぎ、改札を出た。暦の上では春だというのに、この季節の夜はまだ少し肌寒い。それでも身を震わせないでいられるのは隣に彼がいて、わずかばかりのぬくもりを感じるからだ。
駅前にはタクシーに乗り込む人や電話で迎えを呼ぶ人、途方に暮れている人などさまざまなな人がいた。その誰もが私たちよりも少し大人に見える。大学生、もしくは社会人だろうか。大人でも高校生と同じ失敗をするんだな、とわずかに親近感を覚えたが、すぐにいや大人の方が案外だらしないところがあるぞと思い直した。
ひとは歳を重ねてるごとに言わないことが増えていく。その方が人間関係が上手くいくと知ってしまうからだ。ことさら恋愛に関してはそれが顕著にあらわれる。幼い頃は好きだの嫌いだの簡単に口にしてたくせに、告わない方が美徳とでも言わんばかりに曖昧な関係が築かれる。「雰囲気で付き合うことになった」はその代表例だ。
現に彼と私の関係も薄氷の上に成り立っている。どちらも強く踏み込まないから氷が割れない。割れないから地続きの今がある。それが永遠ではないことを知っていながら、一瞬のきらめきを手放せないでいる。一度でもはなしたらもう戻れないと分かっているから。
何度もふたりで通った道をなぞるように歩を進める。会話はない。でも居心地がいい。この3年間ずっと一緒に登下校していたからだろうか。
私たちの関係は、入学して間もない頃、私が話しかけたのがきっかけで始まった。
――えっっっ。
新入生テストを受け、早帰りした日。
桜の花びらが散りばめられた駅のホームで、私の素っ頓狂な声が響き渡った。まさか同じ最寄り駅を使う同じ高校の人、しかもクラスメイトがいるなんて思ってもみなかったものだから、身体に電流が走ったような衝撃を受けたのだ。なんせここは都心から離れた田舎だし、高校まで往復4時間はかかる。
目を微かに見開いた彼のもとに駆け寄り、興奮冷めやらぬまま話しかけた。
――芹沢もこの駅最寄りなの!?
彼は数歩後退り、たじろぎながら口を開く。
――え、あまもり……だっけ?
――ううん。雨森。
首を振りながら訂正すると彼は気まずそうに視線を逸らした。その様子が面白くて。
――ね、毎日ひとりで電車4時間も乗るの暇だし、良かったら一緒に登下校しない?
気がついたときにはそんな提案をしていたのだ。
それ以来、私たちはずっと行動を共にしている。
元々クラスの女子と価値観が合わず、彼も上手く馴染めていないようだったので必然といえば必然だった。
別にクラスメイトと仲が悪かったわけじゃない。ただ単にキャラが違ったのだ。女子は室内でTikTokを撮る派手な子かアニメオタクの子しかいなかったし、男子はウェイウェイ言っているような一軍か休み時間になる度に机に突っ伏して寝るような人しかいなかった。
そんな中、どっちつかずな私たちには居場所なんてなく、ふわふわと浮いていた。だから私は「芹沢」という名前を知っていたわけだけど。
ちらっと斜め上に視線を向けると、彼の横顔がぼんやりと見えた。思えば、私は彼の正面より側面をよく見てきた。電車に乗っているときもこうして歩くときも、ずっと。
赤くチカチカと瞬く信号を前に足を止めた。
こんな何の変哲もない場所にも彼との思い出があるから不思議だ。確か2年の梅雨の時期に虹がかかっているのを発見し歓喜して写真を撮るもピントが合っておらず苦戦している私の隣で、彼は教科書に載りそうなくらい鮮明な虹を切り取っていた。懐かしい。
車が通っていないので再び歩き始めた。
この交差点を右に曲がったらおしゃれなカフェがある。格好つけてそこで勉強会を開いたが話に夢中になってしまい全く身につかず、赤点ギリギリの点数をとってしまった私に対し、同じくらい話してたにもかかわらず80点以上の高得点を獲得した彼がどれほど恨めしかったことか。
ただ通学路を歩いているだけで彼との思い出が次々と浮かんでくる。
今までこんなことなかったのにどうしてだろうか。
もうすぐ高校生じゃなくなるからかな。それとも――。
考えに浸っていたところで突然、腕をグイっと引かれた。
「え、なに?」
「車」
「え?」と聞き返すよりも先に車が目の前を通りすぎた。もし彼が止めてくれていなかったらそのまま突っ込んでいただろう。
「わ、セーフ。ありがと」
「お前そんなんでどうすんの。いつ轢かれてもしらないよ」
「そのときはお葬式来て泣いてね」
冗談めかすと眉を顰められた。だから安心させるように続ける。
「まぁ今は芹沢がいるから気を抜きまくってるけど、明日からはちゃんとするから安心して。さすがに私も不注意が原因で死ぬとか嫌だもん」
ねっ、と笑いかけると顔を背けられたが、その瞳にはもう、さっきまであった心配の色はなかった。
それから数分歩くとようやく高校にたどり着いた。
当然のことながら明かりはついておらず、校門も施錠されていた。
近くにぽつんと立っている街灯の光が弱いからか、はたまた月が出ていないからか、広い夜空の中、星だけがきらきらと瞬いていた。
――今見えてる星ってほんとはもうないかもしれないんだって。
ふと、彼に教えてもらったことがよみがえる。ある冬の夜の会話だった。
星の光は何億光年と長い時間をかけて地球にいる人々を照らしてくれるらしい。
だからもしすでに星が消失していたとしても、私たちには気づきようがないのだ。
はかり知らないところで、緩やかに終わりへの一途をたどっている、星。
まるで今の私たちみたいだ。
静かに目を伏せ、現状を噛み締める。
何はともあれせっかくここまで来たのだ。感傷にばかり浸ってないで記念撮影をしようとポケットからスマートフォンを取り出したとき、ふいに画面に表示された日付が目に留まった。
4月1日。
どうやら私たちは大学生になった、らしい。
実感が湧かない。正確には大学生になったというより、高校生が終わった感じがする。いや、"感じ"じゃない。本当に終わったんだ。
本当に、もう、高校生じゃなくなった。
自覚してしまったら、どうしようもなく喪失感が胸に広がった。
なぜだか分からないけれど、彼と私を結んでいた縁が途切れた気がした。
それを彼も感じたのか、私たちの間を風が通り抜けた。少し湿り気を帯びた春風だった。
「雨森」
彼が一歩、私の方に踏み出した。自然と向き合うような形になる。途端、脳内で警鐘が鳴り響く。これ以上近づいてはいけない。
氷にヒビが入る。
待って、芹沢。
おねがい。まだ、いわないで。
彼の右手が私の左手に触れた。
「――好きだ」
氷が、割れる。
「だから俺と付き合ってほしい」
冷たい海の底へ、真っ逆さまに沈んでいく。
ついに、いわれてしまった。
彼の気持ちにはとっくの昔に気づいていた。
当然だ。毎日一緒にいたのだから。気づかないわけがなかった。
でも、ずっと見ないふりをしてきた。
さりげなく車道側を歩いてくれることも、私が笑うと顔を背けて照れるところも、クラスの子に付き合ってるのと訊かれ否定する私の隣で拳を握りしめていたことも、全部。
今日だって全力で走ってさえいれば、彼は電車に乗れていた。にもかかわらず、私がひとりにならないように残ってくれたんだ。
私はいつだって、彼のやさしさに甘えていた。
そのつけが回ってきたんだ。
ずっと目を逸らしてきたことに、正面から向き合わなければならない。
彼は、芹沢は、真剣な眼差しで私を見据えていた。その瞳は揺れているようにも見えて、泣きそうになる。
はなしたくない。はなしたら、戻れなくなる。
それでも言わないと。私は、私はね――。
「私は……付き合いたくない」
心臓をぎゅっと握りつぶされたかのように息が詰まった。
口にしたのは私なのに、彼よりも傷つくなんて卑怯だ。
「ごめん。芹沢のこと……そういう目で見れない。芹沢とはずっと、友達だって思ってて、それはきっと、この先もずっとそうだから……」
彼の気持ちに気づいたとき、私も彼のことを好きになれたらなと思ったけど、どうしても、どうしても無理だった。
私にとって芹沢は、唯一無二の友達だから。
彼が私以外の人といるのを見て嫉妬したことがないと言ったら嘘になる。でもそれだけで「恋」だとどうして断言できるだろうか。
現に私は彼に手を握られてもなんとも思わない。もちろん、これ以上のことだって想像できない。しなくない。
だからこれは「恋」じゃない。
私が楽になるために、「恋」だなんていってはいけない。
「分かってた」
果たして、彼が応えた。
星のように静かな光を纏う声。
たった今振られたというのに、彼はかすかに笑っていた。
そんな彼を見たら耐えきれなくなって、涙とともに本音がこぼれ落ちていく。
「ごめん。ごめんね。傷つけてごめん。同じ気持ちじゃなくて、ごめん」
壊れた人形のように同じことを繰り返す私に、彼はどうしていいか分からないように目を細めた。
「俺も、友達でいられなくてごめん。雨森」
震えた声だった。そこで彼も泣きそうなのだと知る。
あのね、芹沢。私、あんたに恋愛感情はないけど、でも、それでもね、死ぬほど好きだったんだと思うよ。人として。
あんたもそうなんでしょ。私のこと、それくらい、本気で好きだったんでしょ。
だから今、泣いてるんでしょう。
朝日が昇るまであと数時間。
私たちは緩やかに終わりへと向かっていく。
夜が明けてしまえば、彼とは本当の意味で離れ離れになる。
もう二度と会わないかもしれない。私たちの気持ちは、あとどれくらい一緒にいたって交わらないから。お互いのために、お互いを手放す。それがただしいことだと信じて。
顔を上げれば、彼の瞳の奥で、星が瞬いていていた。
その瞳に映る私も、きらめきの中にいた。
まばたきしてしまえば見えなくなるほど、一瞬のきらめきだった。
『これを「恋」だということなかれ』〈了〉



