新羅の嫁になってから、一年の月日が流れた。

 つまり、夕霧と偽って生活し始めて一年。私は幸せだ。
 新羅と拠点を移しながら、様々な物を見てきた。沢山の人に出会った。沢山の美しい物に触れてきた。

 しかし、あやかしの力が徐々に強くなっているようだ。

「新羅様。この村も静かですね」

「そうだな」

 昼間なのに、農作業をしている者も子供らの無邪気な笑い声も聞こえない。あやかしに怯えて出て来ないのか、はたまた既に襲撃に遭った後なのか……とにかく、最近はこんな村々が多い印象だ。

 シンと静まり返った村を二人で歩いていたら、七歳くらいの少年が一人、やや遠くの家屋から大きな荷物を持って出てきた。何やら急いでいる様子。

「どうかしたのでしょうか」

「さぁな。他所の男など視界に入れるな」

「はは……そう言われましても」

 苦笑で返すが、新羅は至極不愉快そうだ。

 ちなみに、新羅は束縛が激しい。私が他の殿方と話すのも、ましてや手でも握ろうものなら子供でさえ嫉妬する。人間に危害は加えないものの、『あやつ、地獄へ落としてやろうか』と、常々呟いている。本当にしそうで恐ろしい。

 先程の少年がコチラに向かって走ってきた。そして、盛大に私達の前ですっ転んだ。

 やや斜め後ろから、新羅の圧がかかる。声をかけるなと言いたいのだろう。けれど、転んだ子供を無視など出来ようか。いや、出来ない。

「大丈夫?」

 手を差し伸べれば、新羅に大きく溜め息を吐かれた。

 少年は、泣きそうな顔になって言った。

「母ちゃんが、母ちゃんが……」

「お母様がどうかしたの?」

「お腹に赤ちゃんがいるのに、あやかしに。みんな逃げちゃって、誰もいなくて。オイラ、手ぬぐいとってきて」

 少年は、焦りのあまり上手く言葉がまとまらない様子。私は、少年の目線まで屈んで言った。

「君、名前は?」

又兵衛(またべえ)

「又兵衛、落ち着いて。ゆっくり息吸って……吐いて」

 又兵衛が深呼吸をすれば、少し落ち着いた様子。先程よりも分かりやすく説明してくれた。

「この村を守ってくれていた巫女様の札が効かなくなって、何人か死んだんだ。みんな、この村はもうダメだって、他の安全な村に移住するって逃げちゃって」

「だから人がいなかったのね。又兵衛は逃げなかったの?」

「逃げたよ。けど、母ちゃんのお腹に赤ちゃんがいて、みんなみたいに早く走れなくて、結局戻ってきた」

「お母様は今どちらに?」

「そうだった。赤ちゃん産まれそうなんだよ! でも誰もいなくて、どうしたら良いか分かんなくて、オイラ手拭い集めてたんだ。前に、赤ちゃん産むときは、とりあえず布が沢山いるって聞いて。姉ちゃん、助けて」

 有無を言わさず、又兵衛は私の手を取って走り出した。私も転ばない様に付いていく。

 そして、更に不機嫌になる新羅。今は何も言わず付いてくるが、きっと後でお説教を食らうことだろう。
 

◇◇◇◇


「おぎゃぁ、おぎゃぁ」

 赤子は、女の子だった。

 又兵衛とその母に泣きながらお礼を言われた。

 そして、何故か誰よりも号泣している新羅の姿。

「新羅様……大丈夫ですか?」

「いや、感動してな。はよう俺と夕霧の子も見てみたい」

「新羅様ったら」

 照れながら赤子を湯につけていると、新羅の顔付きが一変し、険しいものとなった。あやかしがいるようだ。

「新羅様」

「夕霧は待っておれ」

「はい」

 新羅は、いつも私を守ってくれる。不思議な力で、難なくあやかしを倒す。今回も、きっと守ってくれる。しかし、いつも思うことがある。

 私だけが守られていて良いのだろうか。

 私は、新羅に何も返せていない。特別な力があると言われたが、未だにそれが何かも分からない。

「私にも霊力があればな……」

 私が本物の夕霧だったなら、新羅と共に戦えたのに。札に新たに霊力を込めて、村や街を救うことだって出来るのに。私が朝霧ではなく、夕霧だったなら……。

 たらればを言っても仕方がないが、自分の無力さ故に、言わずにはいられない。

 新羅の無事を祈りながら、赤子を大きな手拭いに包んでいると、縁側にいた又兵衛が悲鳴をあげた。

「ギャー!!」

 すぐに又兵衛の元に駆け寄れば、又兵衛は上を向いて固まっていた。
 私も視線を上に向ければ、目が複数ある黒いあやかしが、そこにいた。

「又兵衛、大丈夫。新羅様が守ってくれるから。奥へ」

 声をかけ、手を取る。しかし、又兵衛は、恐怖のあまり足がすくんで動けない様子。

 私は赤子を抱いているので、又兵衛まで抱き抱えることは難しい。又兵衛の母も赤子を産んだ直後で、随分と体力を消耗している。動ける状態ではないだろう。

「又兵衛、又兵衛!」

 必死に声をかけるが、又兵衛は動かない。

「夕霧! 中に入っとれ!」

「新羅様! 又兵衛。新羅様が来てくれたから、もう大丈夫」

 そう言ったと同時に、あやかしが又兵衛を襲った。

「また……べえ?」

 何が起こったか分からなかった。突如として、又兵衛の腹部から大量に血が吹き出したのだ。血飛沫は私にもかかり、余計に頭が真っ白になる。

「夕霧! 早く逃げろ!」

 新羅が、複数の目を持つあやかしの尻尾のようなものを鷲掴みにして、私と又兵衛から遠ざけた。そして、新羅の鋭い爪があやかしを切り裂いた。

 あやかしは跡形も無く消失した。同時に、私の胸にもぽっかりと穴が空いた。

「夕霧、大丈夫か?」

「新羅さま、又兵衛が……又兵衛が……」

 私は赤子を新羅に託し、必死に又兵衛の腹部を手で押さえた。既に又兵衛の着物は真っ赤に染まり上がり、私の手も真っ赤になっていく。

「又兵衛……?」

 又兵衛の母も、ふらふらの体で部屋の奥から出てきた。そして、その場に泣き崩れた。

「いやぁぁぁぁぁああああ」

「又兵衛、又兵衛、大丈夫、大丈夫だから! 今すぐ助けるから!」

 必死に泣きながら声をかけるが、又兵衛は、横たわったままピクリとも動かない。

「夕霧、諦めろ。いくらお前の力でも無理だろう」

「でも、でも……」

「夕霧、所詮つい先程知り合ったばかりの赤の他人だ。情けをかける必要もない」

 新羅に肩をポンと叩かれ、諭される。けれど、私の涙は止まらない。

「そうだけど、そうだけど……知り合っちゃったから。又兵衛の笑顔を見ちゃったから……」

「夕霧」

「死んで欲しくないよ」

 又兵衛の傷の上に、ポツリ、ポツリと落ちる涙が光に反射して輝いた。否、涙自身が不思議な光を放っている。

「夕霧、やはり俺の見立ては間違いではなかったようだ」

 以前にも言われた言葉。前よりも誇らしげに言われた気がした。

「着物を履いでみろ」

 新羅に言われ、又兵衛の襟元を持ち、着物をカバッと開いた。

「え……?」

 傷口が塞がっている。

 胸板を見れば、しっかりと上下している。

「良かった……生きてる」

 又兵衛の母も泣くのをやめて、ゆっくりと近付いて来た。

「——ッ!!」

 意識はまだ無いものの、生存が確認出来た事で安堵した様子。口元を押さえながら再び泣き崩れた。

「でも、これは一体……?」

「夕霧、お前が癒したのだ」

「私が? そういえばさっき新羅様……」

 新羅が言った言葉を思い出す。

『夕霧、諦めろ。いくらお前の力でも無理だろう』

「私の力って何ですか? 新羅様は、何かご存知なのですか?」

 新羅は、赤子をあやしながら言った。

「お前は、癒しの力を持っておる。自分では気付いていないようだが、お前の作る飯」

「飯……?」

「そう、お前の飯を食う度に俺の傷は癒やされ、体力が回復する。ついでに性欲も高まる」

「今、冗談いりませんから」

「冗談じゃ無いんでちゅけどねー。怖いでちゅねー」

 赤子に赤ちゃん言葉を使う新羅が新鮮で、つい笑みが溢れる。

「夕霧は、笑った顔の方が可愛いぞ」

 優しく微笑まれ、新羅への愛しさが増す。

「でも、どうして教えて下さらなかったのですか?」

「それは、だって……」

「だって……?」

「夕霧は、皆に食事を振る舞い出すだろう? 夕霧の手料理を食べるのは、俺だけで良い」

「新羅様」

 何処まで嫉妬深いのか。しかし、それが嬉しいのも事実。

「新羅様、愛しております」

 ニコリと微笑めば、新羅がチュッと触れるキスをしてきた。

「本来なら抱きしめるところだが、許せ」

 赤子が腕の中にいるから出来ないようだ。

「では、今日から又兵衛に手料理を作ることも許して下さいませ」

「むぅ……致し方ない。今回だけだぞ」

「ありがとうございます」

 
 ◇◇◇◇

 

 それから、看病の甲斐あってか、三日も経たない内に、又兵衛は元気に走り回る程に回復した。

「姉ちゃん、もう行っちゃうのか?」

「うん。新羅様が、したいことがあるんですって」

「したいこと?」

 又兵衛に聞き返されるが、私も聞かされていないので笑って誤魔化しておく。

「この度は、何から何まで本当にありがとう御座いました!」

 又兵衛の母は、会った時からずっと謝罪か礼を述べている気がする。子供二人の命を救ったのだから、母親として頭が上がらないのも分からなくはないが。

「でも、この村に三人で暮らすんですか? また、あやかしが襲って来たら……」

 心配していると、又兵衛の母は、キョトンとした顔で新羅に聞いた。

「ここは、もう安全なんですよね?」

「え? でも、巫女様の札の効力が無くなったって……」

 私も新羅を見れば、新羅は至極当然とばかりに言った。

「俺を誰だと思っているのだ? 神鬼だぞ。あやかし何ぞ、俺の残り香だけで退散して行くわ」

「それは、いわゆる犬が自身の縄張りだと主張するものと一緒ですか?」

「例えが不愉快だが、まあ、そうだ。こうやってな、引っ掻き傷を作る程度で問題ない」

 新羅は、鋭い爪を立て、又兵衛の家の扉に痕を付けた。

「これをこの村の家屋に、いくらか付けておいたから問題ない」

「それで新羅様、昨日暫しの間いらっしゃらなかったのですね」

「ちなみに、今まで夕霧と旅をしてきた村や街、道中にも付けておいたぞ」

「え?」

「夕霧との思い出をあやかしなんぞに壊されたくないからな。次に出向いた時に、夕霧が泣く姿は見たくない」

「新羅様……」

「ただ、それもあってか、あやかしは徐々に居場所を失い、俺達が訪れていない土地で暴れ回っているのだろう。今回の様にな」

「なるほど」

 つまり、私達が全国各地を渡り歩けば、この世界は平和になると。そういうことだろうか。

「とにかく、そういうことだ。達者でな、朝霧」

 新羅が、又兵衛の妹である赤子の朝霧をツンツンと突いた。

 何の皮肉か、名付ける際、私に救われたという理由でこの名前に決めたよう。嬉しいが、複雑な気分だ。

「夕霧……?」

「いえ、何でもないです。行きましょう」

 別れの挨拶をし、私と新羅は二人で歩き出した。

 ——さて、次はどんな場所を見て歩こうか。新羅と二人なら何処でも良い。

「次はどちらの方角に向かいますか? 西? それとも南に行ってみます?」

「夕霧の実家」

「え……」

「夕霧は帰りたくないというが、やはりケジメはしっかりしたい」

「実家……ですか」

 今、私の代わりに夕霧が幸せそうに太助との子を抱いていると思うと、胸が苦しくなる。夕霧より幸せに……そう思っているのに、どこか夕霧には勝てないような気がして仕方ない。

 そして、これ以上新羅を騙しきれそうにない。いや、自分が新羅を欺きたくない。新羅なら分かってくれる。新羅なら……。

「実はですね————」

 私は、幼少期からの出来事、全てを話すことにした。


◇◇◇◇


 新羅に全てを話した。

 私が朝霧であること。夕霧に全てを奪われて来たこと。両親や周りからの仕打ち。その全容を。

「だから、だから私——」

「朝霧、辛かったな」

 誰もいない海辺で、私は新羅の胸に縋りながら泣いた。わんわん子供のように泣いた。

 言葉にすることで過去を思い出し、隠してきた感情をも思い出す。本当の私は、清い心なんて持っていない。嫉妬、憧れ、羨望……私は、そんな醜い感情でいっぱいなのだ。

 それなのに、新羅は優しい言葉をかけてくれる。そんな私をも愛してくれると言ってくれる。それだけで十分だ。親兄弟にどんな仕打ちをされようと、たとえ愛されなくとも、新羅に愛されるだけで、私は幸せだ。

「分かった。もう良い」

 新羅の大きな手に、頭を優しく包む様に撫でられ、ひどく安心する。

 新羅に話して良かった。憑き物が落ちた様に、心が晴れやかになった。
 そして、もうあの村には帰らなくて良い。夕霧の顔を見なくて済む。幸せそうに笑う夕霧を見なくて……安堵したのも束の間、新羅は私の頭を撫でながら言った。

「実家に帰るのが……双子の姉に挨拶に行くのが楽しみだ」

 私の涙は、ピタリと止まった。

 顔を上げ、新羅を見据えて言った。

「新羅様、聞いておりました?」

「勿論だ。俺が朝霧の話を聞かなかったことがあるか?」

 だったら何故、今の話を聞いても尚、実家に挨拶に行くと言えるのか。

「それに、太助とやらを寝取ったことに感謝しないとな」

「は?」

 感謝? 夕霧に? 

 私の怒りは沸点に達しそうだ。

 しかし、それは新羅の次の言葉で穏やかな物へと変わる。

「朝霧が、そやつと初夜を迎えておったら、俺は朝霧と夫婦(めおと)になれなかった」

「そうですね」

 私は、新羅の胸に再び顔を埋めた。

 新羅の温もり、匂い、心臓の音……全ては、他の誰かのものになっていたのかもしれないと思うと、私も太助を寝取った夕霧に感謝だ。

 ——太助と結婚しても、それなりに幸せだったかもしれない。今とは違った穏やかな日々が過ごせたかもしれない。

 しかし、今となっては、それは幻想。現実は、現実離れした神鬼に恋をした。

 契りを交わしたばかりの時は、戸惑うことばかりだった。それでも、新羅と時を重ねるごとに、新羅が愛おしい存在に変わっていった。私は新羅を愛している。それで良い。

「よし、そうと決まれば、巫女の衣装を手に入れるぞ」

「巫女装束ですか?」

「朝霧が、夕霧を演じる為だ。夕霧の化けの皮を剥がしに行くぞ。俺が朝霧を誰よりも幸せにしてやる」

「もう、十分幸せです」

 互いに見つめ合い、キスをした。互いを求めるように深い深い口付けを——。