新羅の嫁になってから、一年の月日が流れた。
つまり、夕霧と偽って生活し始めて一年。私は幸せだ。
新羅と拠点を移しながら、様々な物を見てきた。沢山の人に出会った。沢山の美しい物に触れてきた。
しかし、あやかしの力が徐々に強くなっているようだ。
「新羅様。この村も静かですね」
「そうだな」
昼間なのに、農作業をしている者も子供らの無邪気な笑い声も聞こえない。あやかしに怯えて出て来ないのか、はたまた既に襲撃に遭った後なのか……とにかく、最近はこんな村々が多い印象だ。
シンと静まり返った村を二人で歩いていたら、七歳くらいの少年が一人、やや遠くの家屋から大きな荷物を持って出てきた。何やら急いでいる様子。
「どうかしたのでしょうか」
「さぁな。他所の男など視界に入れるな」
「はは……そう言われましても」
苦笑で返すが、新羅は至極不愉快そうだ。
ちなみに、新羅は束縛が激しい。私が他の殿方と話すのも、ましてや手でも握ろうものなら子供でさえ嫉妬する。人間に危害は加えないものの、『あやつ、地獄へ落としてやろうか』と、常々呟いている。本当にしそうで恐ろしい。
先程の少年がコチラに向かって走ってきた。そして、盛大に私達の前ですっ転んだ。
やや斜め後ろから、新羅の圧がかかる。声をかけるなと言いたいのだろう。けれど、転んだ子供を無視など出来ようか。いや、出来ない。
「大丈夫?」
手を差し伸べれば、新羅に大きく溜め息を吐かれた。
少年は、泣きそうな顔になって言った。
「母ちゃんが、母ちゃんが……」
「お母様がどうかしたの?」
「お腹に赤ちゃんがいるのに、あやかしに。みんな逃げちゃって、誰もいなくて。オイラ、手ぬぐいとってきて」
少年は、焦りのあまり上手く言葉がまとまらない様子。私は、少年の目線まで屈んで言った。
「君、名前は?」
「又兵衛」
「又兵衛、落ち着いて。ゆっくり息吸って……吐いて」
又兵衛が深呼吸をすれば、少し落ち着いた様子。先程よりも分かりやすく説明してくれた。
「この村を守ってくれていた巫女様の札が効かなくなって、何人か死んだんだ。みんな、この村はもうダメだって、他の安全な村に移住するって逃げちゃって」
「だから人がいなかったのね。又兵衛は逃げなかったの?」
「逃げたよ。けど、母ちゃんのお腹に赤ちゃんがいて、みんなみたいに早く走れなくて、結局戻ってきた」
「お母様は今どちらに?」
「そうだった。赤ちゃん産まれそうなんだよ! でも誰もいなくて、どうしたら良いか分かんなくて、オイラ手拭い集めてたんだ。前に、赤ちゃん産むときは、とりあえず布が沢山いるって聞いて。姉ちゃん、助けて」
有無を言わさず、又兵衛は私の手を取って走り出した。私も転ばない様に付いていく。
そして、更に不機嫌になる新羅。今は何も言わず付いてくるが、きっと後でお説教を食らうことだろう。
◇◇◇◇
「おぎゃぁ、おぎゃぁ」
赤子は、女の子だった。
又兵衛とその母に泣きながらお礼を言われた。
そして、何故か誰よりも号泣している新羅の姿。
「新羅様……大丈夫ですか?」
「いや、感動してな。はよう俺と夕霧の子も見てみたい」
「新羅様ったら」
照れながら赤子を湯につけていると、新羅の顔付きが一変し、険しいものとなった。あやかしがいるようだ。
「新羅様」
「夕霧は待っておれ」
「はい」
新羅は、いつも私を守ってくれる。不思議な力で、難なくあやかしを倒す。今回も、きっと守ってくれる。しかし、いつも思うことがある。
私だけが守られていて良いのだろうか。
私は、新羅に何も返せていない。特別な力があると言われたが、未だにそれが何かも分からない。
「私にも霊力があればな……」
私が本物の夕霧だったなら、新羅と共に戦えたのに。札に新たに霊力を込めて、村や街を救うことだって出来るのに。私が朝霧ではなく、夕霧だったなら……。
たらればを言っても仕方がないが、自分の無力さ故に、言わずにはいられない。
新羅の無事を祈りながら、赤子を大きな手拭いに包んでいると、縁側にいた又兵衛が悲鳴をあげた。
「ギャー!!」
すぐに又兵衛の元に駆け寄れば、又兵衛は上を向いて固まっていた。
私も視線を上に向ければ、目が複数ある黒いあやかしが、そこにいた。
「又兵衛、大丈夫。新羅様が守ってくれるから。奥へ」
声をかけ、手を取る。しかし、又兵衛は、恐怖のあまり足がすくんで動けない様子。
私は赤子を抱いているので、又兵衛まで抱き抱えることは難しい。又兵衛の母も赤子を産んだ直後で、随分と体力を消耗している。動ける状態ではないだろう。
「又兵衛、又兵衛!」
必死に声をかけるが、又兵衛は動かない。
「夕霧! 中に入っとれ!」
「新羅様! 又兵衛。新羅様が来てくれたから、もう大丈夫」
そう言ったと同時に、あやかしが又兵衛を襲った。
「また……べえ?」
何が起こったか分からなかった。突如として、又兵衛の腹部から大量に血が吹き出したのだ。血飛沫は私にもかかり、余計に頭が真っ白になる。
「夕霧! 早く逃げろ!」
新羅が、複数の目を持つあやかしの尻尾のようなものを鷲掴みにして、私と又兵衛から遠ざけた。そして、新羅の鋭い爪があやかしを切り裂いた。
あやかしは跡形も無く消失した。同時に、私の胸にもぽっかりと穴が空いた。
「夕霧、大丈夫か?」
「新羅さま、又兵衛が……又兵衛が……」
私は赤子を新羅に託し、必死に又兵衛の腹部を手で押さえた。既に又兵衛の着物は真っ赤に染まり上がり、私の手も真っ赤になっていく。
「又兵衛……?」
又兵衛の母も、ふらふらの体で部屋の奥から出てきた。そして、その場に泣き崩れた。
「いやぁぁぁぁぁああああ」
「又兵衛、又兵衛、大丈夫、大丈夫だから! 今すぐ助けるから!」
必死に泣きながら声をかけるが、又兵衛は、横たわったままピクリとも動かない。
「夕霧、諦めろ。いくらお前の力でも無理だろう」
「でも、でも……」
「夕霧、所詮つい先程知り合ったばかりの赤の他人だ。情けをかける必要もない」
新羅に肩をポンと叩かれ、諭される。けれど、私の涙は止まらない。
「そうだけど、そうだけど……知り合っちゃったから。又兵衛の笑顔を見ちゃったから……」
「夕霧」
「死んで欲しくないよ」
又兵衛の傷の上に、ポツリ、ポツリと落ちる涙が光に反射して輝いた。否、涙自身が不思議な光を放っている。
「夕霧、やはり俺の見立ては間違いではなかったようだ」
以前にも言われた言葉。前よりも誇らしげに言われた気がした。
「着物を履いでみろ」
新羅に言われ、又兵衛の襟元を持ち、着物をカバッと開いた。
「え……?」
傷口が塞がっている。
胸板を見れば、しっかりと上下している。
「良かった……生きてる」
又兵衛の母も泣くのをやめて、ゆっくりと近付いて来た。
「——ッ!!」
意識はまだ無いものの、生存が確認出来た事で安堵した様子。口元を押さえながら再び泣き崩れた。
「でも、これは一体……?」
「夕霧、お前が癒したのだ」
「私が? そういえばさっき新羅様……」
新羅が言った言葉を思い出す。
『夕霧、諦めろ。いくらお前の力でも無理だろう』
「私の力って何ですか? 新羅様は、何かご存知なのですか?」
新羅は、赤子をあやしながら言った。
「お前は、癒しの力を持っておる。自分では気付いていないようだが、お前の作る飯」
「飯……?」
「そう、お前の飯を食う度に俺の傷は癒やされ、体力が回復する。ついでに性欲も高まる」
「今、冗談いりませんから」
「冗談じゃ無いんでちゅけどねー。怖いでちゅねー」
赤子に赤ちゃん言葉を使う新羅が新鮮で、つい笑みが溢れる。
「夕霧は、笑った顔の方が可愛いぞ」
優しく微笑まれ、新羅への愛しさが増す。
「でも、どうして教えて下さらなかったのですか?」
「それは、だって……」
「だって……?」
「夕霧は、皆に食事を振る舞い出すだろう? 夕霧の手料理を食べるのは、俺だけで良い」
「新羅様」
何処まで嫉妬深いのか。しかし、それが嬉しいのも事実。
「新羅様、愛しております」
ニコリと微笑めば、新羅がチュッと触れるキスをしてきた。
「本来なら抱きしめるところだが、許せ」
赤子が腕の中にいるから出来ないようだ。
「では、今日から又兵衛に手料理を作ることも許して下さいませ」
「むぅ……致し方ない。今回だけだぞ」
「ありがとうございます」
◇◇◇◇
それから、看病の甲斐あってか、三日も経たない内に、又兵衛は元気に走り回る程に回復した。
「姉ちゃん、もう行っちゃうのか?」
「うん。新羅様が、したいことがあるんですって」
「したいこと?」
又兵衛に聞き返されるが、私も聞かされていないので笑って誤魔化しておく。
「この度は、何から何まで本当にありがとう御座いました!」
又兵衛の母は、会った時からずっと謝罪か礼を述べている気がする。子供二人の命を救ったのだから、母親として頭が上がらないのも分からなくはないが。
「でも、この村に三人で暮らすんですか? また、あやかしが襲って来たら……」
心配していると、又兵衛の母は、キョトンとした顔で新羅に聞いた。
「ここは、もう安全なんですよね?」
「え? でも、巫女様の札の効力が無くなったって……」
私も新羅を見れば、新羅は至極当然とばかりに言った。
「俺を誰だと思っているのだ? 神鬼だぞ。あやかし何ぞ、俺の残り香だけで退散して行くわ」
「それは、いわゆる犬が自身の縄張りだと主張するものと一緒ですか?」
「例えが不愉快だが、まあ、そうだ。こうやってな、引っ掻き傷を作る程度で問題ない」
新羅は、鋭い爪を立て、又兵衛の家の扉に痕を付けた。
「これをこの村の家屋に、いくらか付けておいたから問題ない」
「それで新羅様、昨日暫しの間いらっしゃらなかったのですね」
「ちなみに、今まで夕霧と旅をしてきた村や街、道中にも付けておいたぞ」
「え?」
「夕霧との思い出をあやかしなんぞに壊されたくないからな。次に出向いた時に、夕霧が泣く姿は見たくない」
「新羅様……」
「ただ、それもあってか、あやかしは徐々に居場所を失い、俺達が訪れていない土地で暴れ回っているのだろう。今回の様にな」
「なるほど」
つまり、私達が全国各地を渡り歩けば、この世界は平和になると。そういうことだろうか。
「とにかく、そういうことだ。達者でな、朝霧」
新羅が、又兵衛の妹である赤子の朝霧をツンツンと突いた。
何の皮肉か、名付ける際、私に救われたという理由でこの名前に決めたよう。嬉しいが、複雑な気分だ。
「夕霧……?」
「いえ、何でもないです。行きましょう」
別れの挨拶をし、私と新羅は二人で歩き出した。
——さて、次はどんな場所を見て歩こうか。新羅と二人なら何処でも良い。
「次はどちらの方角に向かいますか? 西? それとも南に行ってみます?」
「夕霧の実家」
「え……」
「夕霧は帰りたくないというが、やはりケジメはしっかりしたい」
「実家……ですか」
今、私の代わりに夕霧が幸せそうに太助との子を抱いていると思うと、胸が苦しくなる。夕霧より幸せに……そう思っているのに、どこか夕霧には勝てないような気がして仕方ない。
そして、これ以上新羅を騙しきれそうにない。いや、自分が新羅を欺きたくない。新羅なら分かってくれる。新羅なら……。
「実はですね————」
私は、幼少期からの出来事、全てを話すことにした。
◇◇◇◇
新羅に全てを話した。
私が朝霧であること。夕霧に全てを奪われて来たこと。両親や周りからの仕打ち。その全容を。
「だから、だから私——」
「朝霧、辛かったな」
誰もいない海辺で、私は新羅の胸に縋りながら泣いた。わんわん子供のように泣いた。
言葉にすることで過去を思い出し、隠してきた感情をも思い出す。本当の私は、清い心なんて持っていない。嫉妬、憧れ、羨望……私は、そんな醜い感情でいっぱいなのだ。
それなのに、新羅は優しい言葉をかけてくれる。そんな私をも愛してくれると言ってくれる。それだけで十分だ。親兄弟にどんな仕打ちをされようと、たとえ愛されなくとも、新羅に愛されるだけで、私は幸せだ。
「分かった。もう良い」
新羅の大きな手に、頭を優しく包む様に撫でられ、ひどく安心する。
新羅に話して良かった。憑き物が落ちた様に、心が晴れやかになった。
そして、もうあの村には帰らなくて良い。夕霧の顔を見なくて済む。幸せそうに笑う夕霧を見なくて……安堵したのも束の間、新羅は私の頭を撫でながら言った。
「実家に帰るのが……双子の姉に挨拶に行くのが楽しみだ」
私の涙は、ピタリと止まった。
顔を上げ、新羅を見据えて言った。
「新羅様、聞いておりました?」
「勿論だ。俺が朝霧の話を聞かなかったことがあるか?」
だったら何故、今の話を聞いても尚、実家に挨拶に行くと言えるのか。
「それに、太助とやらを寝取ったことに感謝しないとな」
「は?」
感謝? 夕霧に?
私の怒りは沸点に達しそうだ。
しかし、それは新羅の次の言葉で穏やかな物へと変わる。
「朝霧が、そやつと初夜を迎えておったら、俺は朝霧と夫婦になれなかった」
「そうですね」
私は、新羅の胸に再び顔を埋めた。
新羅の温もり、匂い、心臓の音……全ては、他の誰かのものになっていたのかもしれないと思うと、私も太助を寝取った夕霧に感謝だ。
——太助と結婚しても、それなりに幸せだったかもしれない。今とは違った穏やかな日々が過ごせたかもしれない。
しかし、今となっては、それは幻想。現実は、現実離れした神鬼に恋をした。
契りを交わしたばかりの時は、戸惑うことばかりだった。それでも、新羅と時を重ねるごとに、新羅が愛おしい存在に変わっていった。私は新羅を愛している。それで良い。
「よし、そうと決まれば、巫女の衣装を手に入れるぞ」
「巫女装束ですか?」
「朝霧が、夕霧を演じる為だ。夕霧の化けの皮を剥がしに行くぞ。俺が朝霧を誰よりも幸せにしてやる」
「もう、十分幸せです」
互いに見つめ合い、キスをした。互いを求めるように深い深い口付けを——。
つまり、夕霧と偽って生活し始めて一年。私は幸せだ。
新羅と拠点を移しながら、様々な物を見てきた。沢山の人に出会った。沢山の美しい物に触れてきた。
しかし、あやかしの力が徐々に強くなっているようだ。
「新羅様。この村も静かですね」
「そうだな」
昼間なのに、農作業をしている者も子供らの無邪気な笑い声も聞こえない。あやかしに怯えて出て来ないのか、はたまた既に襲撃に遭った後なのか……とにかく、最近はこんな村々が多い印象だ。
シンと静まり返った村を二人で歩いていたら、七歳くらいの少年が一人、やや遠くの家屋から大きな荷物を持って出てきた。何やら急いでいる様子。
「どうかしたのでしょうか」
「さぁな。他所の男など視界に入れるな」
「はは……そう言われましても」
苦笑で返すが、新羅は至極不愉快そうだ。
ちなみに、新羅は束縛が激しい。私が他の殿方と話すのも、ましてや手でも握ろうものなら子供でさえ嫉妬する。人間に危害は加えないものの、『あやつ、地獄へ落としてやろうか』と、常々呟いている。本当にしそうで恐ろしい。
先程の少年がコチラに向かって走ってきた。そして、盛大に私達の前ですっ転んだ。
やや斜め後ろから、新羅の圧がかかる。声をかけるなと言いたいのだろう。けれど、転んだ子供を無視など出来ようか。いや、出来ない。
「大丈夫?」
手を差し伸べれば、新羅に大きく溜め息を吐かれた。
少年は、泣きそうな顔になって言った。
「母ちゃんが、母ちゃんが……」
「お母様がどうかしたの?」
「お腹に赤ちゃんがいるのに、あやかしに。みんな逃げちゃって、誰もいなくて。オイラ、手ぬぐいとってきて」
少年は、焦りのあまり上手く言葉がまとまらない様子。私は、少年の目線まで屈んで言った。
「君、名前は?」
「又兵衛」
「又兵衛、落ち着いて。ゆっくり息吸って……吐いて」
又兵衛が深呼吸をすれば、少し落ち着いた様子。先程よりも分かりやすく説明してくれた。
「この村を守ってくれていた巫女様の札が効かなくなって、何人か死んだんだ。みんな、この村はもうダメだって、他の安全な村に移住するって逃げちゃって」
「だから人がいなかったのね。又兵衛は逃げなかったの?」
「逃げたよ。けど、母ちゃんのお腹に赤ちゃんがいて、みんなみたいに早く走れなくて、結局戻ってきた」
「お母様は今どちらに?」
「そうだった。赤ちゃん産まれそうなんだよ! でも誰もいなくて、どうしたら良いか分かんなくて、オイラ手拭い集めてたんだ。前に、赤ちゃん産むときは、とりあえず布が沢山いるって聞いて。姉ちゃん、助けて」
有無を言わさず、又兵衛は私の手を取って走り出した。私も転ばない様に付いていく。
そして、更に不機嫌になる新羅。今は何も言わず付いてくるが、きっと後でお説教を食らうことだろう。
◇◇◇◇
「おぎゃぁ、おぎゃぁ」
赤子は、女の子だった。
又兵衛とその母に泣きながらお礼を言われた。
そして、何故か誰よりも号泣している新羅の姿。
「新羅様……大丈夫ですか?」
「いや、感動してな。はよう俺と夕霧の子も見てみたい」
「新羅様ったら」
照れながら赤子を湯につけていると、新羅の顔付きが一変し、険しいものとなった。あやかしがいるようだ。
「新羅様」
「夕霧は待っておれ」
「はい」
新羅は、いつも私を守ってくれる。不思議な力で、難なくあやかしを倒す。今回も、きっと守ってくれる。しかし、いつも思うことがある。
私だけが守られていて良いのだろうか。
私は、新羅に何も返せていない。特別な力があると言われたが、未だにそれが何かも分からない。
「私にも霊力があればな……」
私が本物の夕霧だったなら、新羅と共に戦えたのに。札に新たに霊力を込めて、村や街を救うことだって出来るのに。私が朝霧ではなく、夕霧だったなら……。
たらればを言っても仕方がないが、自分の無力さ故に、言わずにはいられない。
新羅の無事を祈りながら、赤子を大きな手拭いに包んでいると、縁側にいた又兵衛が悲鳴をあげた。
「ギャー!!」
すぐに又兵衛の元に駆け寄れば、又兵衛は上を向いて固まっていた。
私も視線を上に向ければ、目が複数ある黒いあやかしが、そこにいた。
「又兵衛、大丈夫。新羅様が守ってくれるから。奥へ」
声をかけ、手を取る。しかし、又兵衛は、恐怖のあまり足がすくんで動けない様子。
私は赤子を抱いているので、又兵衛まで抱き抱えることは難しい。又兵衛の母も赤子を産んだ直後で、随分と体力を消耗している。動ける状態ではないだろう。
「又兵衛、又兵衛!」
必死に声をかけるが、又兵衛は動かない。
「夕霧! 中に入っとれ!」
「新羅様! 又兵衛。新羅様が来てくれたから、もう大丈夫」
そう言ったと同時に、あやかしが又兵衛を襲った。
「また……べえ?」
何が起こったか分からなかった。突如として、又兵衛の腹部から大量に血が吹き出したのだ。血飛沫は私にもかかり、余計に頭が真っ白になる。
「夕霧! 早く逃げろ!」
新羅が、複数の目を持つあやかしの尻尾のようなものを鷲掴みにして、私と又兵衛から遠ざけた。そして、新羅の鋭い爪があやかしを切り裂いた。
あやかしは跡形も無く消失した。同時に、私の胸にもぽっかりと穴が空いた。
「夕霧、大丈夫か?」
「新羅さま、又兵衛が……又兵衛が……」
私は赤子を新羅に託し、必死に又兵衛の腹部を手で押さえた。既に又兵衛の着物は真っ赤に染まり上がり、私の手も真っ赤になっていく。
「又兵衛……?」
又兵衛の母も、ふらふらの体で部屋の奥から出てきた。そして、その場に泣き崩れた。
「いやぁぁぁぁぁああああ」
「又兵衛、又兵衛、大丈夫、大丈夫だから! 今すぐ助けるから!」
必死に泣きながら声をかけるが、又兵衛は、横たわったままピクリとも動かない。
「夕霧、諦めろ。いくらお前の力でも無理だろう」
「でも、でも……」
「夕霧、所詮つい先程知り合ったばかりの赤の他人だ。情けをかける必要もない」
新羅に肩をポンと叩かれ、諭される。けれど、私の涙は止まらない。
「そうだけど、そうだけど……知り合っちゃったから。又兵衛の笑顔を見ちゃったから……」
「夕霧」
「死んで欲しくないよ」
又兵衛の傷の上に、ポツリ、ポツリと落ちる涙が光に反射して輝いた。否、涙自身が不思議な光を放っている。
「夕霧、やはり俺の見立ては間違いではなかったようだ」
以前にも言われた言葉。前よりも誇らしげに言われた気がした。
「着物を履いでみろ」
新羅に言われ、又兵衛の襟元を持ち、着物をカバッと開いた。
「え……?」
傷口が塞がっている。
胸板を見れば、しっかりと上下している。
「良かった……生きてる」
又兵衛の母も泣くのをやめて、ゆっくりと近付いて来た。
「——ッ!!」
意識はまだ無いものの、生存が確認出来た事で安堵した様子。口元を押さえながら再び泣き崩れた。
「でも、これは一体……?」
「夕霧、お前が癒したのだ」
「私が? そういえばさっき新羅様……」
新羅が言った言葉を思い出す。
『夕霧、諦めろ。いくらお前の力でも無理だろう』
「私の力って何ですか? 新羅様は、何かご存知なのですか?」
新羅は、赤子をあやしながら言った。
「お前は、癒しの力を持っておる。自分では気付いていないようだが、お前の作る飯」
「飯……?」
「そう、お前の飯を食う度に俺の傷は癒やされ、体力が回復する。ついでに性欲も高まる」
「今、冗談いりませんから」
「冗談じゃ無いんでちゅけどねー。怖いでちゅねー」
赤子に赤ちゃん言葉を使う新羅が新鮮で、つい笑みが溢れる。
「夕霧は、笑った顔の方が可愛いぞ」
優しく微笑まれ、新羅への愛しさが増す。
「でも、どうして教えて下さらなかったのですか?」
「それは、だって……」
「だって……?」
「夕霧は、皆に食事を振る舞い出すだろう? 夕霧の手料理を食べるのは、俺だけで良い」
「新羅様」
何処まで嫉妬深いのか。しかし、それが嬉しいのも事実。
「新羅様、愛しております」
ニコリと微笑めば、新羅がチュッと触れるキスをしてきた。
「本来なら抱きしめるところだが、許せ」
赤子が腕の中にいるから出来ないようだ。
「では、今日から又兵衛に手料理を作ることも許して下さいませ」
「むぅ……致し方ない。今回だけだぞ」
「ありがとうございます」
◇◇◇◇
それから、看病の甲斐あってか、三日も経たない内に、又兵衛は元気に走り回る程に回復した。
「姉ちゃん、もう行っちゃうのか?」
「うん。新羅様が、したいことがあるんですって」
「したいこと?」
又兵衛に聞き返されるが、私も聞かされていないので笑って誤魔化しておく。
「この度は、何から何まで本当にありがとう御座いました!」
又兵衛の母は、会った時からずっと謝罪か礼を述べている気がする。子供二人の命を救ったのだから、母親として頭が上がらないのも分からなくはないが。
「でも、この村に三人で暮らすんですか? また、あやかしが襲って来たら……」
心配していると、又兵衛の母は、キョトンとした顔で新羅に聞いた。
「ここは、もう安全なんですよね?」
「え? でも、巫女様の札の効力が無くなったって……」
私も新羅を見れば、新羅は至極当然とばかりに言った。
「俺を誰だと思っているのだ? 神鬼だぞ。あやかし何ぞ、俺の残り香だけで退散して行くわ」
「それは、いわゆる犬が自身の縄張りだと主張するものと一緒ですか?」
「例えが不愉快だが、まあ、そうだ。こうやってな、引っ掻き傷を作る程度で問題ない」
新羅は、鋭い爪を立て、又兵衛の家の扉に痕を付けた。
「これをこの村の家屋に、いくらか付けておいたから問題ない」
「それで新羅様、昨日暫しの間いらっしゃらなかったのですね」
「ちなみに、今まで夕霧と旅をしてきた村や街、道中にも付けておいたぞ」
「え?」
「夕霧との思い出をあやかしなんぞに壊されたくないからな。次に出向いた時に、夕霧が泣く姿は見たくない」
「新羅様……」
「ただ、それもあってか、あやかしは徐々に居場所を失い、俺達が訪れていない土地で暴れ回っているのだろう。今回の様にな」
「なるほど」
つまり、私達が全国各地を渡り歩けば、この世界は平和になると。そういうことだろうか。
「とにかく、そういうことだ。達者でな、朝霧」
新羅が、又兵衛の妹である赤子の朝霧をツンツンと突いた。
何の皮肉か、名付ける際、私に救われたという理由でこの名前に決めたよう。嬉しいが、複雑な気分だ。
「夕霧……?」
「いえ、何でもないです。行きましょう」
別れの挨拶をし、私と新羅は二人で歩き出した。
——さて、次はどんな場所を見て歩こうか。新羅と二人なら何処でも良い。
「次はどちらの方角に向かいますか? 西? それとも南に行ってみます?」
「夕霧の実家」
「え……」
「夕霧は帰りたくないというが、やはりケジメはしっかりしたい」
「実家……ですか」
今、私の代わりに夕霧が幸せそうに太助との子を抱いていると思うと、胸が苦しくなる。夕霧より幸せに……そう思っているのに、どこか夕霧には勝てないような気がして仕方ない。
そして、これ以上新羅を騙しきれそうにない。いや、自分が新羅を欺きたくない。新羅なら分かってくれる。新羅なら……。
「実はですね————」
私は、幼少期からの出来事、全てを話すことにした。
◇◇◇◇
新羅に全てを話した。
私が朝霧であること。夕霧に全てを奪われて来たこと。両親や周りからの仕打ち。その全容を。
「だから、だから私——」
「朝霧、辛かったな」
誰もいない海辺で、私は新羅の胸に縋りながら泣いた。わんわん子供のように泣いた。
言葉にすることで過去を思い出し、隠してきた感情をも思い出す。本当の私は、清い心なんて持っていない。嫉妬、憧れ、羨望……私は、そんな醜い感情でいっぱいなのだ。
それなのに、新羅は優しい言葉をかけてくれる。そんな私をも愛してくれると言ってくれる。それだけで十分だ。親兄弟にどんな仕打ちをされようと、たとえ愛されなくとも、新羅に愛されるだけで、私は幸せだ。
「分かった。もう良い」
新羅の大きな手に、頭を優しく包む様に撫でられ、ひどく安心する。
新羅に話して良かった。憑き物が落ちた様に、心が晴れやかになった。
そして、もうあの村には帰らなくて良い。夕霧の顔を見なくて済む。幸せそうに笑う夕霧を見なくて……安堵したのも束の間、新羅は私の頭を撫でながら言った。
「実家に帰るのが……双子の姉に挨拶に行くのが楽しみだ」
私の涙は、ピタリと止まった。
顔を上げ、新羅を見据えて言った。
「新羅様、聞いておりました?」
「勿論だ。俺が朝霧の話を聞かなかったことがあるか?」
だったら何故、今の話を聞いても尚、実家に挨拶に行くと言えるのか。
「それに、太助とやらを寝取ったことに感謝しないとな」
「は?」
感謝? 夕霧に?
私の怒りは沸点に達しそうだ。
しかし、それは新羅の次の言葉で穏やかな物へと変わる。
「朝霧が、そやつと初夜を迎えておったら、俺は朝霧と夫婦になれなかった」
「そうですね」
私は、新羅の胸に再び顔を埋めた。
新羅の温もり、匂い、心臓の音……全ては、他の誰かのものになっていたのかもしれないと思うと、私も太助を寝取った夕霧に感謝だ。
——太助と結婚しても、それなりに幸せだったかもしれない。今とは違った穏やかな日々が過ごせたかもしれない。
しかし、今となっては、それは幻想。現実は、現実離れした神鬼に恋をした。
契りを交わしたばかりの時は、戸惑うことばかりだった。それでも、新羅と時を重ねるごとに、新羅が愛おしい存在に変わっていった。私は新羅を愛している。それで良い。
「よし、そうと決まれば、巫女の衣装を手に入れるぞ」
「巫女装束ですか?」
「朝霧が、夕霧を演じる為だ。夕霧の化けの皮を剥がしに行くぞ。俺が朝霧を誰よりも幸せにしてやる」
「もう、十分幸せです」
互いに見つめ合い、キスをした。互いを求めるように深い深い口付けを——。



