夫を寝取られ、双子の姉である夕霧よりも幸せになると決意してから一週間。
私は、巫女様の数珠のおかげで、何とか生きている。
ただ、とりあえず食い繋いでいるだけな気もしなくもない。
今日も、木の実や山菜やらを採って、寝床にしている森の奥の洞窟に持ち帰る。
「スゥ……スゥ……」
洞窟の前で、私は立ち止まった。
洞窟の中から、何かの気配……というか、寝息が聞こえてきたのだ。巫女様の数珠がしっかりと手首についていることを確認してから、ゆっくりと中に一歩足を踏み入れた。
少し奥へと進めば、藁を敷き詰めている所に、誰かが横たわっているのが見えた。それは大きく、おそらく男性で人間だ。あやかしなら、小気味悪い容姿をしている。
「あの、そこ私の……」
私の寝床と言おうとしてやめた。
ここは、誰の場所でもない。私が勝手に住み着いているだけだ。寝床を変更しよう。
そう思って、私は持っていた木の実等を机がわりにしていた岩の上に置き、そこにいる彼に、藁で作った掛け物をそうっとかけた。
「んん……」
彼は寝返りを打ち、今掛けた掛け物もずれた。
その時、外から光が差し込み、丁度彼を照らした。
「キャッ」
彼の着物を見て驚いた。
服に赤黒い染みがべっとりとついているのだ。おそらく血液。寝ているものだとばかり思っていたが、気を失って危ない状態なのかもしれない。
「あの! 大丈夫ですか!? 怪我、お怪我をされているのですか!?」
彼の頬をペチペチと叩き、意識を確認する。
「ん? 何だ?」
彼はムクッと起き上がり、虚ろな目で私を見下ろした。
「あ、あの……お怪我、大丈夫ですか?」
「怪我……?」
彼は下を見た。
すると、思い出したように自身の着物を触って言った。
「これは返り血だ。問題ない」
「返り血……」
つまり、誰かの血。
あやかしがこの世界に現れてから、人間同士の戦は無くなったはず。皆が怯えて隠れているから、それどころではないのだ。
ということは、ここにいるのは、ただの人殺し?
私は一歩後ずさる。
「ん? 良い匂いだな」
後ずさった私に、彼は手と膝を地に付きながら一歩近付いてきた。更に一歩、また一歩と下がるが、彼もまた近付いて来る。
「キャッ」
私は石に躓いて尻餅を付いた。彼にクンクンと匂いを嗅がれ、萎縮する。
「よし、お前に決めた。お前、名は?」
「え、えっと……朝霧……じゃなくて、夕霧です」
「左様か。俺は新羅だ」
ニカッと笑う新羅にドキリとしてしまう。
だって、さっきまで気付かなかったが、新羅は、顔が美しすぎるのだ。切れ長な瞳に凛々しい眉。鼻筋はスッと通って、とにかく整った顔をしている。歳も二十歳前後か、見た目も若く、女性が放っとかないだろう。しかも、血塗れの着物は高級品。位の高い身分なのだろうか。
しかし、美しさに惑わされちゃいけない。彼は、返り血を浴びる程の悪党だ。着物も盗んだ物かもしれない。
「あ、あの……私、金目の物とか持ってなくて、さっき採ってきた食料ならそこに」
さっき採ってきた木の実やら山菜を震える手で指差せば、新羅はそれを見た。そして、再び顔がこちらに向き、私と目が合う。
「俺は、葉っぱなど食べん」
その言葉にカチンときた。
幾ら身分の高い相手だったとしても、私が小さい頃から食べていた食材を馬鹿にされたのだ。黙ってはいられない。
「あれは葉っぱでは御座いません」
「どっからどう見ても葉っぱだろう」
再び言い返され、山菜を見る。
「葉っぱ…………」
つい、心に迷いが生じる。
「いや、葉っぱかもしれませんが、調理次第で美味しくなるのです」
「ほぅ? 夕霧より美味いのか?」
「私……?」
比較対象が違う気もするが、ここは頷く他ない。
「ええ。少々お待ち頂けますか?」
「良かろう。はよう作って見せろ」
「はい」
私は、寝床に置いておいた風呂敷から、小さな鍋を一つ取り出し、早速調理に取り掛かる——。
◇◇◇◇
完成した山菜の汁。
偉そうに啖呵を切って作ったのは良いものの、自信が無くなってきた。いや、自信なんて鍋を引っ張り出した時点で打ち砕かれた。
この汁は、絶対不味い!
そっちの自信ならある。
私が持ち合わせているのは、夕霧の持参していた旅の荷物だけ。その中に、鍋と包丁、火打石はあるものの、ほぼ使用された形跡は無く、調味料も塩だけだった。
つまりは、汁と言っても、山菜を食べやすい大きさに切って、塩を混ぜた水で茹でただけの代物。私でさえ、毎日不味いと思って食べている。
味噌や醤油があれば違ったのだが、今回は私の負けだろう。別に、勝ち負けを競っている訳ではないが。
「すみません。お口に合わなければ、私が食べますので」
謝罪しながら、山菜汁をお椀に注ぐ。新羅に手渡せば、躊躇うことなく、ずずいッとそれを飲んだ。
「なんと!」
新羅の箸は止まらず、そのまま一気に一滴残らず飲み干した。
「おかわり」
「え?」
これが美味しかったのだろうか? 新羅の舌は大丈夫だろうか。逆に不安になってくる。
「おかわり」
「た、ただいま」
新羅が催促してくるので、私は急いでお椀を受け取り、もう一杯山菜汁をお椀に注ぐ。新羅は、それを奪い取るようにして、あっという間に山菜汁を平らげた。
そんなに美味しいのだろうか。
私も、ひと匙掬って口の中に入れてみた。
「ん……」
いつもと変わらない。葉の香りがする汁。山菜の葉の部分を食べてみても、いつもと変わらない苦味。
「これ、そんなに美味しいですか?」
「ああ、力が戻ってくるのが分かる」
「力……ですか?」
「全部ではないがな。ほら、見てみろ」
新羅が自身の頭を指さしたので、視線をそちらに向ける。
「……え?」
にょきにょきと二本の角が生えてきた。
ニカッと笑う新羅の口元も、さっきまで無かった鋭い八重歯が見える。
「やはり、俺の見立ては間違いじゃなさそうだ」
「これは、どういう……」
「俺は、神鬼だ」
「しんき……?」
「いわゆる、鬼の」
「え、鬼!? あなた、鬼なんですか!? 見た目、人間。だけど、鬼ってことは人外だから、あやかし……だよね?」
頭の中は、大混乱だ。何を口走っているのかも分からない。
そして、返り血のことを思い出す。
まさか、あれは人間を喰らった時の血? もしかして……もしかしなくとも、私は今から新羅に喰われる?
青ざめながら、私は右手につけていた数珠を新羅に向ける。あやかしならこれ以上近付けないはず。
「夕霧、顔が真っ青だぞ。体調が悪いのか?」
新羅は、その辺にいるあやかしと違い、私に一歩近付いてきた。
「な、何で、何で数珠が……」
また一歩近付いてくる新羅に恐怖を覚え、目をギュッと瞑ってしゃがみ込んだ。
数珠が効かない今、私は今から新羅に喰われる。
震える手を握り、覚悟を決めた時だった。ふわっと抱き上げられた。
「え……」
山賊抱きされ、洞窟の奥へと進む。
「まさか、中でゆっくりと……?」
「こんな開けた場所より、その方が夕霧も良いだろう」
いや、その配慮はなんだ。どの道喰われるなら、ひと思いに喰われた方がマシだ。
なんて言えるはずもなく、私はされるがまま、先程まで新羅が寝ていた藁の上に寝かされた。
仰向けで目を瞑り、両手をしっかりと胸の前で組んだ。
「…………」
「…………」
寝かされてから、沈黙が続くことおよそ一分。
(あれ? 中々食べられない)
恐る恐る片目を薄っすら開ける。
目の前に新羅の美しすぎる顔面があって、悲鳴をあげそうになる。それを我慢しながら再び目を瞑る。
「少しは良くなったか?」
「……?」
今から喰われるはずなのに、何故か病人になった気分にさせられる。
「よく見たら、手足も細すぎるな」
手を握られ、ビクッとする。けれど、その触り方が優しいからか、恐怖よりも安心感を覚える。今から喰われるというのに。
「早めに契りを交わしておくか。その方が回復も早いはずだ」
はて、新羅は何を言っているのか。
言葉の意味を理解しようと思考を巡らせるが、今から喰われるのだから考えても無駄だ。思考を一時停止させる。
目を瞑ることに専念していると、唇にふにッと柔らかい何かが当たった。
「……ッ!?」
柔らかい何かは、新羅の唇だった。
私は、大きく目を見開く。反対に、新羅は穏やかに目を瞑る。
そして、薄暗い洞窟のはずなのに、そこは柔らかい光でいっぱいだ。
新羅の唇が離れると、光はゆっくりと消え、先程までのシンと静まり返った洞窟に戻った。
「少しは調子が戻ったか?」
「え? あ、今、何を……?」
呆気に取られながら、私は目をパチクリとさせる。新羅は、それを見てフッと笑って言った。
「契りを交わしただけだ。不貞など働いたら容赦せんぞ」
冗談まじりに笑う新羅の言葉の意味が理解出来ない。
契り? 不貞?
まるで、夫婦の誓いでも立てたかのような言い草。
「あの……今から、私を食べるんですよね?」
一向に喰われる気配がない。
いや、喰われたい訳ではないのだが、状況の理解が追いつかない。
キョトンとしている私に、キョトン顔で返された。
「俺の嫁は大胆なんだな」
「嫁?」
「望みとあらば、早速……」
新羅は私の上に跨った。そして、新羅は羽織を脱いで、自身の着物の帯を外していく。
「えっと、何を……」
「何って、夜伽がしたいのであろう? 性に貪欲な嫁も悪くない」
そう言いながら、新羅の肌が露わになっていく。
そして、私はようやく今の状況を理解し、慌てふためく。
「あ、あの。私、違いますから! それに嫁って、嫁ってどういうことですか!? あなた、鬼なんですよね? あやかしなんですよね? 私を喰らうんですよね?」
「は?」
「いや、こっちが『は?』なんですけど」
戸惑う私に、新羅は残念な子をみるような目で見てきた。
「いくら嫁でも、言っていいことと悪いことがある。神鬼とあやかしを一緒にするなど、仕置きが必要か」
新羅の顔が近付いてくるが、今はそれどころではない。
「え、神鬼とあやかしって別物なんですか?」
唇と唇が触れる寸前、新羅がピタリと止まった。
「それ、本気で言っておるのか?」
「私は生まれてこの方、冗談を言った試しがありません」
事実を言えば、新羅は溜め息を吐きながら私の横にゴロンと寝転がった。私は思わず起き上がって、その場に正座した。
新羅が、腕を頭の下に組みながら言った。
「神鬼は、いわゆる神だ」
「え!? 神様ですか!? 本当に存在するのですね!」
驚く私を横目に見て、神羅は続けた。
「左様。俺は、元は人間……死者の霊魂から産まれた存在。あやかしなんぞと一緒にされては困る」
「申し訳ございませんでした。しかし、神様がどうしてこんな所に……」
「それは、神龍とやり合った時にな。多少油断してしまって」
「え?」
新羅の声が小さくてうまく聞き取れなかった。聞き返せば、バツが悪そうに新羅はもう一度言った。
「昔から相性の悪い神龍がいるんだが、そいつといつもの様に喧嘩しておったら、油断してこの地に落とされた」
「では、その返り血は神龍様の?」
「いや、これはこの地に落ちた後、狼の群れに襲われてな。その時のものだ。散々だったが、良縁に恵まれたので良しとしよう」
「何だ……」
ただの殺人鬼ではないことが分かり、妙にホッとする。しかし、相手が神なので別の意味で緊張してしまう。
「で、では、私はこの辺で……」
何食わぬ顔で、着衣の乱れを直しつつ立ちあがろうとすれば、左腕を掴まれた。
「待て、俺を置いて何処へ行く気だ?」
「あ、あの……置いてと言われましても」
「契りを交わしたのだ。俺達はもう夫婦だ」
「は? 夫婦?」
先程から嫁、嫁と何度も言われていたが、それはそのままの意味なのか?
「腕を見てみろ」
「腕?」
新羅に言われ、掴まれていない右腕を上げてみた。薄暗くてよく分からないが、二の腕の内側に何か描いてある。
「これで見易いか?」
新羅がパチンと指を鳴らせば、ポゥッと私の真上に優しい光が現れた。
驚きながらも、二の腕を見れば、華のような模様が描かれていた。
「それは、俺らが夫婦になった証だ。こんなのが無くとも、俺が夕霧を一生守る」
そう言って、新羅に数珠を外された。
「あ、あの……」
話が先々進んで理解に苦しむ。そして何より——。
「私は、巫女ではないのですが」
「巫女?」
「神様は、巫女様と性的な交わりを持つとか何とか……だから、巫女様は結婚出来なくて、処女を貫いているって」
「ああ、それか」
ひとまず座れと、横に座る様に新羅は自身の隣をポンポンと叩いた。
私が素直に座れば、ニコッと微笑まれた。顔が赤くなる。
「純潔でなければならないのは絶対条件だが、巫女でなければならないという決まりはない」
「え……?」
「神鬼だけでなく他の神々も同様だが、清い心を持っている者に惹かれるのだ。ただ、それが巫女に多いというだけの話」
「そ、そうなんですね」
「清い心を持っている者には特別な力があり、神を強くさせる。その代わり、神は、その者を生涯かけて幸せにする。それが習わしだ」
清い心と言われ、照れてしまう。
しかし、腑に落ちない点が一点。
「私、特別な力なんて無いのですが。巫女様に鑑定して頂いても、夕霧……じゃなくて、双子の姉のような霊力は全く無いと言われまして……」
「お前には特別な力がある。現に、俺の力を回復させた。それが何よりの証拠だ」
「ですが……」
「否定的な言葉が多いな。しのごの言わず俺に付いてこい! 契りを交わしたのだから、お前はもう俺の嫁だ」
一方的な新羅だが、初めて自分を認められた気がして嬉しかった。
私は新羅に向き直り正座した。両の指先を揃えて地に付け、頭を下げた。
「不束者ですが、どうぞ宜しくお願い致します」
——こうして、私は神鬼である新羅の嫁となった。
私は、巫女様の数珠のおかげで、何とか生きている。
ただ、とりあえず食い繋いでいるだけな気もしなくもない。
今日も、木の実や山菜やらを採って、寝床にしている森の奥の洞窟に持ち帰る。
「スゥ……スゥ……」
洞窟の前で、私は立ち止まった。
洞窟の中から、何かの気配……というか、寝息が聞こえてきたのだ。巫女様の数珠がしっかりと手首についていることを確認してから、ゆっくりと中に一歩足を踏み入れた。
少し奥へと進めば、藁を敷き詰めている所に、誰かが横たわっているのが見えた。それは大きく、おそらく男性で人間だ。あやかしなら、小気味悪い容姿をしている。
「あの、そこ私の……」
私の寝床と言おうとしてやめた。
ここは、誰の場所でもない。私が勝手に住み着いているだけだ。寝床を変更しよう。
そう思って、私は持っていた木の実等を机がわりにしていた岩の上に置き、そこにいる彼に、藁で作った掛け物をそうっとかけた。
「んん……」
彼は寝返りを打ち、今掛けた掛け物もずれた。
その時、外から光が差し込み、丁度彼を照らした。
「キャッ」
彼の着物を見て驚いた。
服に赤黒い染みがべっとりとついているのだ。おそらく血液。寝ているものだとばかり思っていたが、気を失って危ない状態なのかもしれない。
「あの! 大丈夫ですか!? 怪我、お怪我をされているのですか!?」
彼の頬をペチペチと叩き、意識を確認する。
「ん? 何だ?」
彼はムクッと起き上がり、虚ろな目で私を見下ろした。
「あ、あの……お怪我、大丈夫ですか?」
「怪我……?」
彼は下を見た。
すると、思い出したように自身の着物を触って言った。
「これは返り血だ。問題ない」
「返り血……」
つまり、誰かの血。
あやかしがこの世界に現れてから、人間同士の戦は無くなったはず。皆が怯えて隠れているから、それどころではないのだ。
ということは、ここにいるのは、ただの人殺し?
私は一歩後ずさる。
「ん? 良い匂いだな」
後ずさった私に、彼は手と膝を地に付きながら一歩近付いてきた。更に一歩、また一歩と下がるが、彼もまた近付いて来る。
「キャッ」
私は石に躓いて尻餅を付いた。彼にクンクンと匂いを嗅がれ、萎縮する。
「よし、お前に決めた。お前、名は?」
「え、えっと……朝霧……じゃなくて、夕霧です」
「左様か。俺は新羅だ」
ニカッと笑う新羅にドキリとしてしまう。
だって、さっきまで気付かなかったが、新羅は、顔が美しすぎるのだ。切れ長な瞳に凛々しい眉。鼻筋はスッと通って、とにかく整った顔をしている。歳も二十歳前後か、見た目も若く、女性が放っとかないだろう。しかも、血塗れの着物は高級品。位の高い身分なのだろうか。
しかし、美しさに惑わされちゃいけない。彼は、返り血を浴びる程の悪党だ。着物も盗んだ物かもしれない。
「あ、あの……私、金目の物とか持ってなくて、さっき採ってきた食料ならそこに」
さっき採ってきた木の実やら山菜を震える手で指差せば、新羅はそれを見た。そして、再び顔がこちらに向き、私と目が合う。
「俺は、葉っぱなど食べん」
その言葉にカチンときた。
幾ら身分の高い相手だったとしても、私が小さい頃から食べていた食材を馬鹿にされたのだ。黙ってはいられない。
「あれは葉っぱでは御座いません」
「どっからどう見ても葉っぱだろう」
再び言い返され、山菜を見る。
「葉っぱ…………」
つい、心に迷いが生じる。
「いや、葉っぱかもしれませんが、調理次第で美味しくなるのです」
「ほぅ? 夕霧より美味いのか?」
「私……?」
比較対象が違う気もするが、ここは頷く他ない。
「ええ。少々お待ち頂けますか?」
「良かろう。はよう作って見せろ」
「はい」
私は、寝床に置いておいた風呂敷から、小さな鍋を一つ取り出し、早速調理に取り掛かる——。
◇◇◇◇
完成した山菜の汁。
偉そうに啖呵を切って作ったのは良いものの、自信が無くなってきた。いや、自信なんて鍋を引っ張り出した時点で打ち砕かれた。
この汁は、絶対不味い!
そっちの自信ならある。
私が持ち合わせているのは、夕霧の持参していた旅の荷物だけ。その中に、鍋と包丁、火打石はあるものの、ほぼ使用された形跡は無く、調味料も塩だけだった。
つまりは、汁と言っても、山菜を食べやすい大きさに切って、塩を混ぜた水で茹でただけの代物。私でさえ、毎日不味いと思って食べている。
味噌や醤油があれば違ったのだが、今回は私の負けだろう。別に、勝ち負けを競っている訳ではないが。
「すみません。お口に合わなければ、私が食べますので」
謝罪しながら、山菜汁をお椀に注ぐ。新羅に手渡せば、躊躇うことなく、ずずいッとそれを飲んだ。
「なんと!」
新羅の箸は止まらず、そのまま一気に一滴残らず飲み干した。
「おかわり」
「え?」
これが美味しかったのだろうか? 新羅の舌は大丈夫だろうか。逆に不安になってくる。
「おかわり」
「た、ただいま」
新羅が催促してくるので、私は急いでお椀を受け取り、もう一杯山菜汁をお椀に注ぐ。新羅は、それを奪い取るようにして、あっという間に山菜汁を平らげた。
そんなに美味しいのだろうか。
私も、ひと匙掬って口の中に入れてみた。
「ん……」
いつもと変わらない。葉の香りがする汁。山菜の葉の部分を食べてみても、いつもと変わらない苦味。
「これ、そんなに美味しいですか?」
「ああ、力が戻ってくるのが分かる」
「力……ですか?」
「全部ではないがな。ほら、見てみろ」
新羅が自身の頭を指さしたので、視線をそちらに向ける。
「……え?」
にょきにょきと二本の角が生えてきた。
ニカッと笑う新羅の口元も、さっきまで無かった鋭い八重歯が見える。
「やはり、俺の見立ては間違いじゃなさそうだ」
「これは、どういう……」
「俺は、神鬼だ」
「しんき……?」
「いわゆる、鬼の」
「え、鬼!? あなた、鬼なんですか!? 見た目、人間。だけど、鬼ってことは人外だから、あやかし……だよね?」
頭の中は、大混乱だ。何を口走っているのかも分からない。
そして、返り血のことを思い出す。
まさか、あれは人間を喰らった時の血? もしかして……もしかしなくとも、私は今から新羅に喰われる?
青ざめながら、私は右手につけていた数珠を新羅に向ける。あやかしならこれ以上近付けないはず。
「夕霧、顔が真っ青だぞ。体調が悪いのか?」
新羅は、その辺にいるあやかしと違い、私に一歩近付いてきた。
「な、何で、何で数珠が……」
また一歩近付いてくる新羅に恐怖を覚え、目をギュッと瞑ってしゃがみ込んだ。
数珠が効かない今、私は今から新羅に喰われる。
震える手を握り、覚悟を決めた時だった。ふわっと抱き上げられた。
「え……」
山賊抱きされ、洞窟の奥へと進む。
「まさか、中でゆっくりと……?」
「こんな開けた場所より、その方が夕霧も良いだろう」
いや、その配慮はなんだ。どの道喰われるなら、ひと思いに喰われた方がマシだ。
なんて言えるはずもなく、私はされるがまま、先程まで新羅が寝ていた藁の上に寝かされた。
仰向けで目を瞑り、両手をしっかりと胸の前で組んだ。
「…………」
「…………」
寝かされてから、沈黙が続くことおよそ一分。
(あれ? 中々食べられない)
恐る恐る片目を薄っすら開ける。
目の前に新羅の美しすぎる顔面があって、悲鳴をあげそうになる。それを我慢しながら再び目を瞑る。
「少しは良くなったか?」
「……?」
今から喰われるはずなのに、何故か病人になった気分にさせられる。
「よく見たら、手足も細すぎるな」
手を握られ、ビクッとする。けれど、その触り方が優しいからか、恐怖よりも安心感を覚える。今から喰われるというのに。
「早めに契りを交わしておくか。その方が回復も早いはずだ」
はて、新羅は何を言っているのか。
言葉の意味を理解しようと思考を巡らせるが、今から喰われるのだから考えても無駄だ。思考を一時停止させる。
目を瞑ることに専念していると、唇にふにッと柔らかい何かが当たった。
「……ッ!?」
柔らかい何かは、新羅の唇だった。
私は、大きく目を見開く。反対に、新羅は穏やかに目を瞑る。
そして、薄暗い洞窟のはずなのに、そこは柔らかい光でいっぱいだ。
新羅の唇が離れると、光はゆっくりと消え、先程までのシンと静まり返った洞窟に戻った。
「少しは調子が戻ったか?」
「え? あ、今、何を……?」
呆気に取られながら、私は目をパチクリとさせる。新羅は、それを見てフッと笑って言った。
「契りを交わしただけだ。不貞など働いたら容赦せんぞ」
冗談まじりに笑う新羅の言葉の意味が理解出来ない。
契り? 不貞?
まるで、夫婦の誓いでも立てたかのような言い草。
「あの……今から、私を食べるんですよね?」
一向に喰われる気配がない。
いや、喰われたい訳ではないのだが、状況の理解が追いつかない。
キョトンとしている私に、キョトン顔で返された。
「俺の嫁は大胆なんだな」
「嫁?」
「望みとあらば、早速……」
新羅は私の上に跨った。そして、新羅は羽織を脱いで、自身の着物の帯を外していく。
「えっと、何を……」
「何って、夜伽がしたいのであろう? 性に貪欲な嫁も悪くない」
そう言いながら、新羅の肌が露わになっていく。
そして、私はようやく今の状況を理解し、慌てふためく。
「あ、あの。私、違いますから! それに嫁って、嫁ってどういうことですか!? あなた、鬼なんですよね? あやかしなんですよね? 私を喰らうんですよね?」
「は?」
「いや、こっちが『は?』なんですけど」
戸惑う私に、新羅は残念な子をみるような目で見てきた。
「いくら嫁でも、言っていいことと悪いことがある。神鬼とあやかしを一緒にするなど、仕置きが必要か」
新羅の顔が近付いてくるが、今はそれどころではない。
「え、神鬼とあやかしって別物なんですか?」
唇と唇が触れる寸前、新羅がピタリと止まった。
「それ、本気で言っておるのか?」
「私は生まれてこの方、冗談を言った試しがありません」
事実を言えば、新羅は溜め息を吐きながら私の横にゴロンと寝転がった。私は思わず起き上がって、その場に正座した。
新羅が、腕を頭の下に組みながら言った。
「神鬼は、いわゆる神だ」
「え!? 神様ですか!? 本当に存在するのですね!」
驚く私を横目に見て、神羅は続けた。
「左様。俺は、元は人間……死者の霊魂から産まれた存在。あやかしなんぞと一緒にされては困る」
「申し訳ございませんでした。しかし、神様がどうしてこんな所に……」
「それは、神龍とやり合った時にな。多少油断してしまって」
「え?」
新羅の声が小さくてうまく聞き取れなかった。聞き返せば、バツが悪そうに新羅はもう一度言った。
「昔から相性の悪い神龍がいるんだが、そいつといつもの様に喧嘩しておったら、油断してこの地に落とされた」
「では、その返り血は神龍様の?」
「いや、これはこの地に落ちた後、狼の群れに襲われてな。その時のものだ。散々だったが、良縁に恵まれたので良しとしよう」
「何だ……」
ただの殺人鬼ではないことが分かり、妙にホッとする。しかし、相手が神なので別の意味で緊張してしまう。
「で、では、私はこの辺で……」
何食わぬ顔で、着衣の乱れを直しつつ立ちあがろうとすれば、左腕を掴まれた。
「待て、俺を置いて何処へ行く気だ?」
「あ、あの……置いてと言われましても」
「契りを交わしたのだ。俺達はもう夫婦だ」
「は? 夫婦?」
先程から嫁、嫁と何度も言われていたが、それはそのままの意味なのか?
「腕を見てみろ」
「腕?」
新羅に言われ、掴まれていない右腕を上げてみた。薄暗くてよく分からないが、二の腕の内側に何か描いてある。
「これで見易いか?」
新羅がパチンと指を鳴らせば、ポゥッと私の真上に優しい光が現れた。
驚きながらも、二の腕を見れば、華のような模様が描かれていた。
「それは、俺らが夫婦になった証だ。こんなのが無くとも、俺が夕霧を一生守る」
そう言って、新羅に数珠を外された。
「あ、あの……」
話が先々進んで理解に苦しむ。そして何より——。
「私は、巫女ではないのですが」
「巫女?」
「神様は、巫女様と性的な交わりを持つとか何とか……だから、巫女様は結婚出来なくて、処女を貫いているって」
「ああ、それか」
ひとまず座れと、横に座る様に新羅は自身の隣をポンポンと叩いた。
私が素直に座れば、ニコッと微笑まれた。顔が赤くなる。
「純潔でなければならないのは絶対条件だが、巫女でなければならないという決まりはない」
「え……?」
「神鬼だけでなく他の神々も同様だが、清い心を持っている者に惹かれるのだ。ただ、それが巫女に多いというだけの話」
「そ、そうなんですね」
「清い心を持っている者には特別な力があり、神を強くさせる。その代わり、神は、その者を生涯かけて幸せにする。それが習わしだ」
清い心と言われ、照れてしまう。
しかし、腑に落ちない点が一点。
「私、特別な力なんて無いのですが。巫女様に鑑定して頂いても、夕霧……じゃなくて、双子の姉のような霊力は全く無いと言われまして……」
「お前には特別な力がある。現に、俺の力を回復させた。それが何よりの証拠だ」
「ですが……」
「否定的な言葉が多いな。しのごの言わず俺に付いてこい! 契りを交わしたのだから、お前はもう俺の嫁だ」
一方的な新羅だが、初めて自分を認められた気がして嬉しかった。
私は新羅に向き直り正座した。両の指先を揃えて地に付け、頭を下げた。
「不束者ですが、どうぞ宜しくお願い致します」
——こうして、私は神鬼である新羅の嫁となった。



