夫を寝取られ、双子の姉である夕霧よりも幸せになると決意してから一週間。
 私は、巫女様の数珠のおかげで、何とか生きている。

 ただ、とりあえず食い繋いでいるだけな気もしなくもない。

 今日も、木の実や山菜やらを採って、寝床にしている森の奥の洞窟に持ち帰る。

「スゥ……スゥ……」

 洞窟の前で、私は立ち止まった。

 洞窟の中から、何かの気配……というか、寝息が聞こえてきたのだ。巫女様の数珠がしっかりと手首についていることを確認してから、ゆっくりと中に一歩足を踏み入れた。

 少し奥へと進めば、藁を敷き詰めている所に、誰かが横たわっているのが見えた。それは大きく、おそらく男性で人間だ。あやかしなら、小気味悪い容姿をしている。

「あの、そこ私の……」

 私の寝床と言おうとしてやめた。

 ここは、誰の場所でもない。私が勝手に住み着いているだけだ。寝床を変更しよう。

 そう思って、私は持っていた木の実等を机がわりにしていた岩の上に置き、そこにいる彼に、藁で作った掛け物をそうっとかけた。

「んん……」

 彼は寝返りを打ち、今掛けた掛け物もずれた。
 その時、外から光が差し込み、丁度彼を照らした。

「キャッ」

 彼の着物を見て驚いた。

 服に赤黒い染みがべっとりとついているのだ。おそらく血液。寝ているものだとばかり思っていたが、気を失って危ない状態なのかもしれない。

「あの! 大丈夫ですか!? 怪我、お怪我をされているのですか!?」

 彼の頬をペチペチと叩き、意識を確認する。

「ん? 何だ?」

 彼はムクッと起き上がり、虚ろな目で私を見下ろした。

「あ、あの……お怪我、大丈夫ですか?」

「怪我……?」

 彼は下を見た。

 すると、思い出したように自身の着物を触って言った。

「これは返り血だ。問題ない」

「返り血……」

 つまり、誰かの血。

 あやかしがこの世界に現れてから、人間同士の戦は無くなったはず。皆が怯えて隠れているから、それどころではないのだ。

 ということは、ここにいるのは、ただの人殺し?

 私は一歩後ずさる。

「ん? 良い匂いだな」

 後ずさった私に、彼は手と膝を地に付きながら一歩近付いてきた。更に一歩、また一歩と下がるが、彼もまた近付いて来る。

「キャッ」

 私は石に躓いて尻餅を付いた。彼にクンクンと匂いを嗅がれ、萎縮する。

「よし、お前に決めた。お前、名は?」

「え、えっと……朝霧……じゃなくて、夕霧です」

「左様か。俺は新羅(しんら)だ」

 ニカッと笑う新羅にドキリとしてしまう。

 だって、さっきまで気付かなかったが、新羅は、顔が美しすぎるのだ。切れ長な瞳に凛々しい眉。鼻筋はスッと通って、とにかく整った顔をしている。歳も二十歳前後か、見た目も若く、女性が放っとかないだろう。しかも、血塗れの着物は高級品。位の高い身分なのだろうか。

 しかし、美しさに惑わされちゃいけない。彼は、返り血を浴びる程の悪党だ。着物も盗んだ物かもしれない。

「あ、あの……私、金目の物とか持ってなくて、さっき採ってきた食料ならそこに」

 さっき採ってきた木の実やら山菜を震える手で指差せば、新羅はそれを見た。そして、再び顔がこちらに向き、私と目が合う。

「俺は、葉っぱなど食べん」

 その言葉にカチンときた。

 幾ら身分の高い相手だったとしても、私が小さい頃から食べていた食材を馬鹿にされたのだ。黙ってはいられない。

「あれは葉っぱでは御座いません」

「どっからどう見ても葉っぱだろう」

 再び言い返され、山菜を見る。

「葉っぱ…………」

 つい、心に迷いが生じる。

「いや、葉っぱかもしれませんが、調理次第で美味しくなるのです」

「ほぅ? 夕霧より美味いのか?」

「私……?」

 比較対象が違う気もするが、ここは頷く他ない。

「ええ。少々お待ち頂けますか?」

「良かろう。はよう作って見せろ」

「はい」

 私は、寝床に置いておいた風呂敷から、小さな鍋を一つ取り出し、早速調理に取り掛かる——。


 ◇◇◇◇


 完成した山菜の汁。

 偉そうに啖呵を切って作ったのは良いものの、自信が無くなってきた。いや、自信なんて鍋を引っ張り出した時点で打ち砕かれた。

 この汁は、絶対不味い!

 そっちの自信ならある。
 私が持ち合わせているのは、夕霧の持参していた旅の荷物だけ。その中に、鍋と包丁、火打石はあるものの、ほぼ使用された形跡は無く、調味料も塩だけだった。

 つまりは、汁と言っても、山菜を食べやすい大きさに切って、塩を混ぜた水で茹でただけの代物。私でさえ、毎日不味いと思って食べている。

 味噌や醤油があれば違ったのだが、今回は私の負けだろう。別に、勝ち負けを競っている訳ではないが。

「すみません。お口に合わなければ、私が食べますので」

 謝罪しながら、山菜汁をお椀に注ぐ。新羅に手渡せば、躊躇うことなく、ずずいッとそれを飲んだ。

「なんと!」

 新羅の箸は止まらず、そのまま一気に一滴残らず飲み干した。

「おかわり」

「え?」

 これが美味しかったのだろうか? 新羅の舌は大丈夫だろうか。逆に不安になってくる。

「おかわり」

「た、ただいま」

 新羅が催促してくるので、私は急いでお椀を受け取り、もう一杯山菜汁をお椀に注ぐ。新羅は、それを奪い取るようにして、あっという間に山菜汁を平らげた。

 そんなに美味しいのだろうか。

 私も、ひと匙掬って口の中に入れてみた。

「ん……」

 いつもと変わらない。葉の香りがする汁。山菜の葉の部分を食べてみても、いつもと変わらない苦味。

「これ、そんなに美味しいですか?」

「ああ、力が戻ってくるのが分かる」

「力……ですか?」

「全部ではないがな。ほら、見てみろ」

 新羅が自身の頭を指さしたので、視線をそちらに向ける。

「……え?」

 にょきにょきと二本の角が生えてきた。

 ニカッと笑う新羅の口元も、さっきまで無かった鋭い八重歯が見える。

「やはり、俺の見立ては間違いじゃなさそうだ」

「これは、どういう……」

「俺は、神鬼(しんき)だ」

「しんき……?」

「いわゆる、鬼の」

「え、鬼!? あなた、鬼なんですか!? 見た目、人間。だけど、鬼ってことは人外だから、あやかし……だよね?」

 頭の中は、大混乱だ。何を口走っているのかも分からない。

 そして、返り血のことを思い出す。

 まさか、あれは人間を喰らった時の血? もしかして……もしかしなくとも、私は今から新羅に喰われる?

 青ざめながら、私は右手につけていた数珠を新羅に向ける。あやかしならこれ以上近付けないはず。

「夕霧、顔が真っ青だぞ。体調が悪いのか?」

 新羅は、その辺にいるあやかしと違い、私に一歩近付いてきた。

「な、何で、何で数珠が……」

 また一歩近付いてくる新羅に恐怖を覚え、目をギュッと瞑ってしゃがみ込んだ。

 数珠が効かない今、私は今から新羅に喰われる。

 震える手を握り、覚悟を決めた時だった。ふわっと抱き上げられた。

「え……」

 山賊抱きされ、洞窟の奥へと進む。

「まさか、中でゆっくりと……?」

「こんな開けた場所より、その方が夕霧も良いだろう」

 いや、その配慮はなんだ。どの道喰われるなら、ひと思いに喰われた方がマシだ。

 なんて言えるはずもなく、私はされるがまま、先程まで新羅が寝ていた藁の上に寝かされた。

 仰向けで目を瞑り、両手をしっかりと胸の前で組んだ。

「…………」

「…………」

 寝かされてから、沈黙が続くことおよそ一分。

(あれ? 中々食べられない)

 恐る恐る片目を薄っすら開ける。

 目の前に新羅の美しすぎる顔面があって、悲鳴をあげそうになる。それを我慢しながら再び目を瞑る。

「少しは良くなったか?」

「……?」

 今から喰われるはずなのに、何故か病人になった気分にさせられる。

「よく見たら、手足も細すぎるな」

 手を握られ、ビクッとする。けれど、その触り方が優しいからか、恐怖よりも安心感を覚える。今から喰われるというのに。

「早めに契りを交わしておくか。その方が回復も早いはずだ」

 はて、新羅は何を言っているのか。

 言葉の意味を理解しようと思考を巡らせるが、今から喰われるのだから考えても無駄だ。思考を一時停止させる。

 目を瞑ることに専念していると、唇にふにッと柔らかい何かが当たった。

「……ッ!?」

 柔らかい何かは、新羅の唇だった。

 私は、大きく目を見開く。反対に、新羅は穏やかに目を瞑る。
 そして、薄暗い洞窟のはずなのに、そこは柔らかい光でいっぱいだ。
 
 新羅の唇が離れると、光はゆっくりと消え、先程までのシンと静まり返った洞窟に戻った。

「少しは調子が戻ったか?」

「え? あ、今、何を……?」

 呆気に取られながら、私は目をパチクリとさせる。新羅は、それを見てフッと笑って言った。

「契りを交わしただけだ。不貞など働いたら容赦せんぞ」

 冗談まじりに笑う新羅の言葉の意味が理解出来ない。

 契り? 不貞? 

 まるで、夫婦の誓いでも立てたかのような言い草。

「あの……今から、私を食べるんですよね?」
 
 一向に喰われる気配がない。

 いや、喰われたい訳ではないのだが、状況の理解が追いつかない。

 キョトンとしている私に、キョトン顔で返された。

「俺の嫁は大胆なんだな」

「嫁?」

「望みとあらば、早速……」

 新羅は私の上に跨った。そして、新羅は羽織を脱いで、自身の着物の帯を外していく。

「えっと、何を……」

「何って、夜伽がしたいのであろう? 性に貪欲な嫁も悪くない」

 そう言いながら、新羅の肌が露わになっていく。

 そして、私はようやく今の状況を理解し、慌てふためく。

「あ、あの。私、違いますから! それに嫁って、嫁ってどういうことですか!? あなた、鬼なんですよね? あやかしなんですよね? 私を喰らうんですよね?」

「は?」

「いや、こっちが『は?』なんですけど」

 戸惑う私に、新羅は残念な子をみるような目で見てきた。

「いくら嫁でも、言っていいことと悪いことがある。神鬼とあやかしを一緒にするなど、仕置きが必要か」

 新羅の顔が近付いてくるが、今はそれどころではない。

「え、神鬼とあやかしって別物なんですか?」

 唇と唇が触れる寸前、新羅がピタリと止まった。

「それ、本気で言っておるのか?」

「私は生まれてこの方、冗談を言った試しがありません」

 事実を言えば、新羅は溜め息を吐きながら私の横にゴロンと寝転がった。私は思わず起き上がって、その場に正座した。

 新羅が、腕を頭の下に組みながら言った。

「神鬼は、いわゆる神だ」

「え!? 神様ですか!? 本当に存在するのですね!」

 驚く私を横目に見て、神羅は続けた。

「左様。俺は、元は人間……死者の霊魂から産まれた存在。あやかしなんぞと一緒にされては困る」

「申し訳ございませんでした。しかし、神様がどうしてこんな所に……」

「それは、神龍とやり合った時にな。多少油断してしまって」

「え?」

 新羅の声が小さくてうまく聞き取れなかった。聞き返せば、バツが悪そうに新羅はもう一度言った。

「昔から相性の悪い神龍がいるんだが、そいつといつもの様に喧嘩しておったら、油断してこの地に落とされた」

「では、その返り血は神龍様の?」

「いや、これはこの地に落ちた後、狼の群れに襲われてな。その時のものだ。散々だったが、良縁に恵まれたので良しとしよう」

「何だ……」

 ただの殺人鬼ではないことが分かり、妙にホッとする。しかし、相手が神なので別の意味で緊張してしまう。

「で、では、私はこの辺で……」

 何食わぬ顔で、着衣の乱れを直しつつ立ちあがろうとすれば、左腕を掴まれた。

「待て、俺を置いて何処へ行く気だ?」

「あ、あの……置いてと言われましても」

「契りを交わしたのだ。俺達はもう夫婦(めおと)だ」

「は? 夫婦(めおと)?」

 先程から嫁、嫁と何度も言われていたが、それはそのままの意味なのか?

「腕を見てみろ」

「腕?」

 新羅に言われ、掴まれていない右腕を上げてみた。薄暗くてよく分からないが、二の腕の内側に何か描いてある。

「これで見易いか?」

 新羅がパチンと指を鳴らせば、ポゥッと私の真上に優しい光が現れた。

 驚きながらも、二の腕を見れば、華のような模様が描かれていた。

「それは、俺らが夫婦になった証だ。こんなのが無くとも、俺が夕霧を一生守る」

 そう言って、新羅に数珠を外された。

「あ、あの……」

 話が先々進んで理解に苦しむ。そして何より——。

「私は、巫女ではないのですが」

「巫女?」

「神様は、巫女様と性的な交わりを持つとか何とか……だから、巫女様は結婚出来なくて、処女を貫いているって」

「ああ、それか」

 ひとまず座れと、横に座る様に新羅は自身の隣をポンポンと叩いた。

 私が素直に座れば、ニコッと微笑まれた。顔が赤くなる。

「純潔でなければならないのは絶対条件だが、巫女でなければならないという決まりはない」

「え……?」

「神鬼だけでなく他の神々も同様だが、清い心を持っている者に惹かれるのだ。ただ、それが巫女に多いというだけの話」

「そ、そうなんですね」

「清い心を持っている者には特別な力があり、神を強くさせる。その代わり、神は、その者を生涯かけて幸せにする。それが習わしだ」

 清い心と言われ、照れてしまう。

 しかし、腑に落ちない点が一点。

「私、特別な力なんて無いのですが。巫女様に鑑定して頂いても、夕霧……じゃなくて、双子の姉のような霊力は全く無いと言われまして……」

「お前には特別な力がある。現に、俺の力を回復させた。それが何よりの証拠だ」

「ですが……」

「否定的な言葉が多いな。しのごの言わず俺に付いてこい! 契りを交わしたのだから、お前はもう俺の嫁だ」

 一方的な新羅だが、初めて自分を認められた気がして嬉しかった。

 私は新羅に向き直り正座した。両の指先を揃えて地に付け、頭を下げた。

「不束者ですが、どうぞ宜しくお願い致します」

 ——こうして、私は神鬼である新羅の嫁となった。