冷たい水で顔を癒やした。頭が冴え始める。
 共有スペースへと戻り、改めて手作りのピザを見た。俺は葵に手招きされて横に座る。対面する席には晴臣と弓弦がいる。

「食べて」
「ああ」

 あくまで。そう、あくまで。
 空腹だからなのだと言い訳して、俺は葵の言葉に手を伸ばす。蕩けたチーズが線を築く。とろり、とろり、と。薄い生地を噛む。噛み切る前に歯形がついただろう。俺の手首の傷よりは、ずっと浅い溝。美味だった。なのに味がしない。

「美味しい?」

 柔らかに笑う葵の問いかけに、俺へ返答に迷う。
 この空間を維持するための模範解答は決まっている。『美味しかった』、それだ。
 だが俺が俺の世界に戻り、ペンをノートに走らせるために必要な解答はそうではない。
 けれど俺は分かっている。
 本当に味がしないのはピザではなく、俺が取り巻かれている環境だ。パサパサに乾いたパン生地よりも空虚な胸中、ドロドロのトマトソースよりどす黒い色をしたプレッシャー。表面だけを綺麗に保っている俺は、きっと滑稽だ。素直に、感想を述べればいいのに、それにすらも解答という概念を用いてしまう。

「素直に」

 葵に続けて言われてハッとした。まるで内心を見透かされたような感覚だった。
 しかし、素直?
 俺は最後に、いつ素直になった? 記憶の彼方だ、思い出せない。だから必死で思い出す努力をした。

「……そうだな、美味い」

 するとパァっと葵の表情が明るくなった。自分は素直に言えたのだろうか。ぎこちなく俺もまた唇の片端を小さく持ち上げる。

「ねぇねぇ、そういえばさぁ」

 その時弓弦が口を開いた。肉厚の唇には、今日は紫色の口紅が塗られている。

「『歪みを喰べる神様』って知ってる?」

 視線を向けながらそれを聞き、俺は首を傾げた。流行の本や漫画、映画などはもう久しく見ていないから、同名のタイトルに心当たりはない。

 すると晴臣が後頭部で手を組んだ。

「あれだろ? 旧校舎と繋がってる四階の渡り廊下に、日曜日の四時に出るって奴だろ? 獏みたいな見た目で、背中に黒い鴉みたいな羽があって、人の言葉を喋るお化け」

 つらつらと晴臣が語ると、葵が頬に手を添えた。

「僕は聞いたことがないよ。試験の時にしか、学校に行かなくていいんだもの。海外で単位は取ってきたからね」

 それを聞いて俺は驚いた。葵も同じ学校だというのを知らなかったからだ。

「芸術コースか?」
「うん。その中の音楽専攻」
「確かに通学義務はないと聞くけどな、単位はどうしてるんだ? さすがに試験のみでは――」
「僕は留学して単位は修めてきたんだよ。だから行かなくて構わないんだ」

 にこやかな葵を見て、そういう生き方もあるのだなと思った。同時に、心を掴む歌を歌うことにもどこか納得していた。

「考成は聞いたことがある?」

 微笑した葵の問いに、俺は首を振る。

「いいや」
「ねぇ、今日は日曜日だよ? おあつらえむきじゃん。見に行こうよ」

 俺の言葉にかぶせるように、弓弦が笑いながら言った。俺は白けた気持ちになる。
 ――お化け。
 そんなものは、このようには存在しないと俺は思っている。

「凄く具体的に容姿の噂まであるから、本当に出るのかもなぁ。お化けかはともかく。誰かの悪戯とかな」

 晴臣はそう言うと、ソファの後ろの壁際に立てかけてあるバッドを見た。他にも床にはサッカーボールやバスケットボールや陸上のスパイクなどもある。スケートボードもあった。晴臣の私物らしく、その一角はスポーツ用品で埋まっている。

「ま、お化けだとして、だ。お化けって殴れると思うか?」

 にやっと晴臣が笑う。

「さぁな。ただしお化けを倒すことは出来ないだろうな」
「なんでだよ、考成」

 晴臣がきょとんとした。

「存在しないものは、殴ることも倒すことも不可能だ」

 俺が断言すると、弓弦が唇を尖らせる。

「わかんないじゃん。いるかもしれないよ? 見てもいないのにいないって断言するのっておかしくない? だからこそ、今日みんなで見に行こうよ。あ、それとも考成、怖い?」

 ニヤニヤニヤと弓弦が笑う。化粧で長く伸びた睫が揺れている。太めのアイラインを施した目には、小馬鹿にするような光りが宿っていた。

 日曜日の学校は、図書館と、自習用に各教室が解放されている。四時ならば、校舎内にいても見とがめられることはないだろう。旧校舎も改装工事中だが、立ち入り禁止というわけではなく、あちらの一階の生物室は今も使われている。渡り廊下を歩くことも、旧校舎の一階にいくために必要なことだから許されている。即ち、校舎に入って噂を確かめること自体に問題はない。

 だが――誰かに見つかり、何をしているのかと問われた時に、稚拙なデマを確認しに来たと述べる自分が滑稽に思えて、それが快くない。また、俺は他の三名と親しいと周囲に思われることも、現時点ではあまりよいことには思えないでいた。特進コースは、特別だ。優秀な者だけで、徒党を組んでいるようなクラスだ。

『付き合う者は選ぶように。朱に交われば赤くなる』

 祖父の言葉が、三半規管で再生された気がした。祖父は、きっとこの三名という俺にとって異質な存在を、より奇異の対象として見るだろう。

 ただ、本当は俺は知っている。無様に手首に線を引く俺に交わることこそ、健全な三人に悪影響を与えるはずだ。健全、なのだと思う。実際には、それを知るほどの深い付き合いですらないのだが、いまだ。今後、俺達が親しくなる日は来るのだろうか。そしてそれを俺は望むのだろうか。思考の迷宮には出口への道標など存在しなかった。

「やっぱり怖いんだ」

 にたりと弓弦が笑った声で、俺は我に返った。

「そうだな、怖いな」
「見回りの先生が? それなら日曜日は自習も――」

 先ほど俺が考えたのと同じ事を、晴臣が口にする。その時葵が、そっと俺の腕に触れた。

「なにが怖いの?」

 見透かすような声音だった。
 お前達と親しくなることだと、思い出を築くことだと、言いそうになった俺は口を噤む。

「中間テストの点数が落ちることだ。俺は部屋に戻って勉強をする」

 陳腐な嘘を吐き、俺は席を立った。
 食べかけのピザは、既に冷め切っているようだった。きっとそれは、固い。