(……え?)
 気付けば、目の前には死んだはずのカノが立っていた。
 カノは無表情でこちらを見つめている。
 どうして、と聞こうとした瞬間、カノは表情を変える事なく口を開いた。
「……最低だね、サツキ君」
 カノは続けた。
「あんな事、するなんて」
(あ、あんな事って……)
 僕の脳裏にはすぐに、榛野さんを隠れて撮影したあの記憶が甦った。
(ち、違うんだ! あれは……)
「下らない」
 カノに対して僕が弁解しようとしたところを、背後からの声が遮った。
 どこから現れたのか、気付けば背後には腕を組んだミナミが立っていた。
「だから無駄だって言ったのに」
 ミナミもカノと同じように表情を変える事なくそう言った。
(だから違うんだ! 僕は……)
 弁解を口にしても、二人は聞く耳を持たずに非難の言葉を口にする。
「最低」
「下らない」
「ありえない」
 二人の声は声量を増し、頭の中で反響し続ける。
(違うんだ! 僕は……僕は……っ!)
 弁解を口にしながら手を伸ばしても、二人はただ離れていくばかり。僕は二人に向かって必死に手を伸ばす。
(僕は……僕は……っ!)

 ***

「……はっ!」
 ハッとそこで目を覚ます。
 ドアの向こうからは母さんの声が聞こえてくる。
「皐月ー? 聞こえてるのー?」
 どうやら母さんの声で目を覚ましたらしい。
 僕は返事をせず、無言でドアを見つめていた。
「皐月ー? ここにご飯置いておくからねー?」
 僕の部屋の前に料理を置くと、母さんはそれだけ言い残して部屋を離れていった。
 僕はおもむろに体を起こし、目をこすりながら机の前に座るとそのままパソコンへ向かって突っ伏した。
 窓からは外で遊んでいる子供達の声が蝉の声と共に聞こえてくる。

 撮影の事が学年中に知られたあの日以降、僕は学校へ行く事をやめた。
 学校へ行かなくなった日の事は今でも鮮明に覚えている。

 *

『皐月ー? 今日学校でしょ? 行かないの?』
 母さんがドア越しに声を掛けてくる。
『……今日は』
 僕は振り絞るように声を出した。
『今日は、頭が痛いから行かない』
 もちろん、嘘だった。
 他のクラスの女子生徒を盗み撮りしたのが学年中に知られたので行けないなんて、言えるはずがなかった。

 *

 僕は日を数える毎に嘘を重ねていき、学校へ行く事を拒否するようになっていった。流石に母さんも僕の嘘を察したようで、何日か学校を休んだら理由を聞いてくる事もなくなった。
 結局僕は最後の最後まで嘘をつき続け、学校へ行く事なくそのまま夏休みに突入したのであった。
 学校へ行かなくなった事で僕は部屋から出なくなった。
 それにつれて、母さんと一緒に食事をとる事もなくなっていった。
 学校から帰宅したら母さんと一緒に食事をとるといった僕のこれまでの生活習慣は、部屋の前に置かれた食事を僕が好きな時に食べるという生活習慣に変わっていった。
 おそらく僕が学校を休んでいる間に僕の担任、林先生から母さんに連絡をするという事はあったのだろう。
 しかし母さんから直接何かを言われるという事はなかった。何故なら僕が母さんと関わる事を避けていたからだ。
 僕は誰とも話したくなかった。誰にも触れてほしくなかった。誰とも関わり合いになりたくなかった。
 特に何か目的があって距離を置いていた訳ではないが、とにかく僕は一人にしておいてほしかったのだ。
 こうして僕は母さんとやり取りを交わす事無く、空虚な時間を過ごしていったのだ。

 ちなみにユーリはというと、写真撮影の話をしたあの日以降一度も話してはいない。正確に言うと一度も話していないというよりかは、僕が一方的に無視しているといった感じだ。
 僕が学校で変態扱いまでされて撮った榛野さんの写真は結局のところ、ユーリに送信する事はなかった。
 理由は特に無かった。強いて言うなら『気が向かなかったから』ぐらいの事であった。
 当然、ユーリからは催促のメッセージや脅迫じみた文章が何度も届いたりしたが、僕は気にしなかった。それもそのはずだ。学校では既に榛野さんの写真の事が知れ渡っており、変態扱いされるには十分事足りているのだから。今更援助交際の写真が出回ろうが、メイド服の写真をばら撒かれようが、僕にとって大した違いは無いのだ。
 というより、僕は写真の件がどうなろうがどうでもよかったのだ。
 僕にとって重要な事は『学校生活が終わってしまった』という陰鬱な一つの事実だけだった。

 僕はこんな薄暗い部屋で目的も無く机に向かって突っ伏しているというのに、窓の外からは子供達が楽しそうに遊ぶ声が蝉の声と共に絶える事なく聞こえてくる。
 子供達の楽しげな声は、暗い部屋で塞ぎ込んでいる僕にこの陰鬱な現実を思い知らせるようでさらに憂鬱にさせる。
 机に突っ伏した僕は、これまでの事を思い返す。
 本当に、終わってしまった。
 僕の高校生活が。僕の青春が。僕の人生が。誇張した表現や大袈裟な考え方などではなく、本当に。
 現実は見るに堪えないものであり、目が覚めていると嫌でも頭に思い浮かんでくる。今の事も、先の事も考えたくない。
 憂鬱な現実、変わらない毎日。
 僕は今日も机に突っ伏し、いつもと同じように現実から逃げていた。

 もう二度と、学校には行けないのだろうか。
 撮影の事が知られた以上、クラスメイト達からはもちろん、同じ学年の人間からも、僕は『犯罪者』のような目で見られる事になる。
 そんな事を考えていると、ふと脳裏にあの日の言葉が浮かんでくる。

 *

『マジありえないよね』
『最悪』
『飯田やばすぎだろ……』
『マジでキモい』

 *

 あの日クラスメイト達に言われた言葉を思い出し、つい服の袖を握り締める。あの時の事を思い出すだけで、全身から冷や汗が一気に吹き出すのを感じる。塞ぎ込んで過去の事を考えないようにしてても、トラウマから逃げ切るのは簡単な事ではないらしい。
 頭から雑念を取り払おうとしていると、今度は榛野さんとの事が浮かんできた。
(榛野さん……)
 榛野さん。学校でいじめられていた僕に唯一笑いかけてくれた天使のような人。
 どんな時だって、こんな僕にも笑顔で接してくれた。榛野さんとの事を思い出すと、脳裏にはすぐにあの照らすような笑顔が浮かんでくる。
(それなのに、僕は……!)
 しかし、その笑顔は僕の中にある汚れた記憶によってすぐに曇ってしまった。
 榛野さんが笑いかけてくれた記憶は、僕が夏祭りで写真撮影した記憶によってすぐに塗り潰され、学校で僕が避けられた記憶へと変換されてしまった。
(僕は……っ!)
 素晴らしかったはずの記憶が、自分の行いによって黒く塗り潰されていく。僕を見つめるあの優しかった目が、疑念と嫌悪の目に変わっていく。
(やめてくれ……っ! やめてくれ……っ!)
 美しく、純粋だったはずの榛野さんとの記憶が黒く(けが)され、薄暗い記憶の淵に沈んでいく。
 僕は、それを黙って見ているしかなかった。
 今更どうにかしようにも、過去の過ちはもう修正する事は出来ない。
 気付いた時には、もう全ては遅すぎたのだ。
「……くそっ!」
 どうしようもなくなった僕は、物に当たる子供のように突っ伏していたテーブルの上に置いてあった物を乱暴に払い落とした。学校の教材やノート、筆記用具などが勢いよく床へ落ちていく。
 僕は壁にもたれ掛かり、現実から逃げるように頭を抱えた。
「僕は悪くない……僕は悪くない……僕は悪くない……僕は悪くない……!」
 そう必死に自分に言い聞かせた。
 しかしそう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、頭の中の声はどんどんと大きくなっていくばかりであった。

 *

『きっしょ』
『気持ち悪』
『やばいわ……』
『学校来んなよ』

 *

「うるさい! もう誰も僕を責めないでくれ!」
 それは心の底から出た本音だった。
 仮に僕が学校へ行ったとしてどうなる?
 クラス中に指を差されて、榛野さんには嫌われて。
石田達のいじめはさらに悪化して、撮影の事に関しては学年中に知られているだなんて。想像するだけで眩暈(めまい)がする。僕は一体学校に何をしに行くんだ?
 現実を変えようにも、事態の深刻さを痛切に感じてまたさらに憂鬱になる。
 こんな僕がこの状況で学校に行って一体何になる?
 ……変わらない。
 こうなってしまった以上、現実は変えられないのだ。
 絶望的な現実を前に、僕はまた塞ぎ込む。
「僕は悪くない……僕は……っ!」
 壊れたように、そう唱え続けていた。
 もう限界だった。
 目を覚ましていれば、トラウマに追われ自責の念に駆られる毎日。
 僕はただ逃げ出したかった。誰でもいいから、僕の事を許してほしかった。
 僕の頭の中で、僕を責める声が最大限にまで膨れ上がったかと思われたその時だった。
「……ユーリ」
 気付けばそう口にしていた。
 今思えば、全てはこの人と話した時から始まったのだ。
 一体どこで何を間違えたのだろうか。
 そもそも、ユーリが写真を撮ってこいなんて言わなければこんな事にはならなかったのだ。
 小さな『お願い』に始まり、援助交際から知らない人とのデートまで、ユーリが無茶なお願いをしていなければ今頃こんな事にはなっていなかったはずなのだ。
 そうだ。ユーリが全ての元凶なのだ。
 僕が今ここまで追い詰められているのも、学校の人間に榛野さんの写真の事が知られているのも、援助交際やメイド服の写真の事が弱みとして握られているのも、ここまでの何もかも全て!
 元はと言えば、全てユーリが悪いんじゃないか。
 そうだ! 僕は悪くない。
 悪いのは全てユーリの責任だ。ユーリさえいなければこんな状況にはなっていなかったのだ。
 ユーリさえいなければ。
 ユーリさえ、いなければ……。

 ……分かってる。本当は全て僕が悪いのだ。
 誰かのせいにしようとしても、本当に誰が一番いけないのかは僕自身でよく分かっている。
 ここまで僕が追い詰められているのも、学校の人間に榛野さんの写真の事が知られているのも、援助交際やメイド服の写真の事が弱みとして握られているのも、何もかも全て。
 本当は全て僕がいけないのだ。
 ユーリのお願いを聞き、援助交際を引き受け、榛野さんの写真を撮り、その上で誰かのせいにしようとしている僕。
 醜い僕が全ての元凶なのだ。
 本当なら榛野さんの写真を撮るあの時にやめておけばよかったのだ。
 本当にその行為は間違っていないのかと、僕自身に問い掛ければよかったのだ。
 全て分かっている。
 僕が全て間違っているのだと。
 もう過去はどうしようもないのだと。
 もう間違ってしまったのに。
 もうどうしようもないと分かっているのに。
 パソコンの電源に手を伸ばしてしまっているのは、僕がどうしようもなく『歪んで』しまっている人間だからだろうか。

 僕は物憂げにゆっくりとパソコンの電源を入れる。
 画面が表示されると僕はqQuitにログインした。目的はもちろん、ユーリのチャット欄だった。
 ユーリの個人メッセージを確認すると、そこにはユーリからの一方的なメッセージが大量に並べられていた。
『yuuri123456:ねぇ、写真の件はどうしたの?』
『yuuri123456:どうして返信しないの? さっさと返信して』
『yuuri123456:本当に写真ばら撒いちゃうよ?』
『yuuri123456:本当に写真ばら撒いてほしいんだ』
『yuuri123456:もう許さないからね』
 もう許さないからねという文を最後にメッセージはそこで止まっている。
 何をするのか多少は気になるが今となってはそれもどうでもいい。
 ちなみに、ガストロの方にもあまりログインしなくなった。未だにあのチャット欄を見ているとカノの事を思い出してしまうからだ。
 カノの事、ミナミの事、ユーリの事。
 結局僕は、誰かに対して救いを求めていたんだと思う。僕の人生を一から塗り替えてくれるような、そんな奇跡の出会い。ヒーローや突飛な空想を信じないように、そんな可能性の低い偶然に期待しないようにしていたが、結局心のどこかでは僕は他人と妄想が入り交じったネットの世界に救いを求めていたのだと今となってはそう思う。
 ユーリとのやり取りを見返してその事を心から実感する。
「本当に、どこで間違えたんだろうな……」
 画面の中で交わされる文字列を眺めながら、物憂げに呟く。
 僕はパソコンの前で頭を抱えた。
 もしも時間が戻せたのなら。
 そんな子供みたいな願望にも満たない我儘(わがまま)を頭の中に思い浮かべる。
 もしも、過去の過ちを全てやり直せたなら。
 全てやり直せて、一から真摯に生きていけたのなら。
 少しは、幸せになれたのかな。
 少しは、笑えたのかな。
 そんな事を心に思う。
 それと同時に、そんな事はこの世に起こり得ない事を頭で理解している事に気付く。いや、気付いてしまう。
 だってここは現実なのだから。漫画やドラマの世界でも、ましてやアニメの世界でもない。
 都合よく時間が巻き戻る訳でも、人生を変えるような都合のいい出会いが起きる訳でもない。
 一分一秒がしっかりと歴史に刻まれ、都合よく時の流れが早くなったり遅くなったりする事の無い現実の世界。それが、僕達が生きているこの世界。
 一分一秒を現実として受け入れ、地道に生きていくしかないのがこの世界の摂理、法則なのだ。
 その事を頭でしっかりと認識して、さらに憂鬱になる。
 僕はもう、どうしようもなかった。
 これから一体どうしたらいいのか、さっぱり分からなかった。
 自分の人生の切り開き方なんて、この深刻な状況に陥った今の僕にはそんなもの分からなかった。

 この世に真の救いなんてものは、無い。
 そんな事、初めから分かっていた。
 それでも、僕は誰かに救われたかった。
 救ってもらえるって、自分はまだ救われてもいい人間なんだって信じたかった。
 僕は、まだ……。
「救いは……」
 ぐちゃぐちゃに暴れ出しそうな感情を必死に抑えながらそう口にした、その時だった。
 突然、部屋にqQuitの通知音が響いた。
「!」
 音に吸い寄せられるように、バッと顔を上げる。
『yuuri123456:ねぇ、会おうよ』
 画面には、そう表示されていた。
 そのメッセージを見た瞬間、僕は全身から血の気が引いていくのを感じた。
 それはユーリからのメッセージであった。

 監視されてるのか?
 そう思い込んでしまうくらい、タイミングの良いメッセージだった。
 これは何かの罠なのか?
 それとも、陰謀?
 それとも……運命?

 都合のいい事など、ありえない。
 そう分かっているはずなのに。

 僕はキーボードへ手を伸ばす。
 手を伸ばしかけたところで、僕は自らの意思を遮るようにその手をグッと握り締めた。
(ダメだダメだ! 何度こうして騙されてきたか……!)
 しかし一体どういう訳か、その時の僕にはユーリの言葉がとても嘘には思えなかったのだ。
 画面に映し出されたその一行の文を見て考える。
 僕は再び頭を抱えた。
(どうする……? 僕は一体、どうしたらいいんだ……?)
 悩みを前にして、頭をわしゃわしゃと掻きむしる。
 僕は画面の文字をじっと見つめた。

 ……そうだ。初めから、やる事は決まっていたんだ。
 学校生活は苦しみにまみれ、希望も、救いも見当たらない。
 僕とユーリが出会った時から、僕はユーリに従わなければいけなかったんだ。
 初めから、こうなる予定だったんだ。

 僕は再びキーボードに手を伸ばす。
 その時の僕に、ユーリの誘いを断る余裕は無かった。
 ユーリを受け入れる事で、僕もまたユーリに救われたかったのだ。
 救われる為にキーボードに手を伸ばす。救われる為に、キーボードに文字を打ち込んでいく。

 そして今日もまた、僕は騙される。
 今日も君に、騙される。

 ***

 外に出るのは、いつぶりだろうか。
 僕は集合場所である澄川駅で、目的の人物のユーリが来るのを待っていた。

 誰かと待ち合わせるのもこれで何回目だろう。
 待ち合わせの時間まではまだ少し時間がある。
 僕はこれまでの事を思い返す事にした。

 あの時、qQuitでユーリと話してから色々な人間と会った。
 伊藤、ミナミ、カノ、そして榛野さん。
 ここに来るまでに色々な事があった。
 伊藤の援助交際に付き合わされたり、ミナミと色々な所を回ったり、カノと雨の中でずぶ濡れになりながらはしゃぎ合ったりもした。
 そして……榛野さんの事。
 榛野さんの事は僕が全て悪いとは分かっているが、もう話す事も関わる事もないと思うとやはり幾らか悔やまれるところはある。
 カノと榛野さんは悲しい思い出になってしまったが、出会ってきた人間の思い出の全てが自分の一部になっていると思うと少し不思議な気分になる。
 これまでの事を思い返すとミナミとカノの言葉が脳裏に浮かび上がってくる。

 *

『そんな馴れ合いで付き合ったって、誰も好きになんかなってくれないよ』

 *

 あの日ミナミに言われた言葉。
 その次にカノとのやり取りが記憶に甦る。

 *

『サツキ君!』
『……ん? どうかした?』
『ううん! なんでもない!』

 *

 思い返せば、昨日の事のように浮かんでくる。
 そんな事を考えていると、駅の改札口から続々と人が出てきた。どうやら電車が到着したらしい。
 時間を確認すると、待ち合わせの時間ちょうどを針が指していた。
 僕の近くを大勢の人が通り過ぎていく。時計の針が待ち合わせの時間を指していた事もあり、緊張感が一気に跳ね上がる。
 僕は緊張を周りに悟られまいと、強く手を握り締めた。手の中に噴き出す汗の感触を感じながら、僕は辺りを見回すとその中にユーリの姿を探した。
 といっても、僕自身ユーリの顔は知らないので向こうから僕を探してもらう事でしか僕らは会う事が出来ないのだが。
 辺りを見回していると、周りから次第に人がいなくなっていく。
 集合場所はここで合っているはず。人も少なくなってきたので近付いてくれば分かるはずなのだが、一向にユーリは現れない。
(もしかして……騙された?)
 一瞬だけ、そんな事が頭をよぎったがそんな考えはすぐに思考の波に流れていった。
(それに何だ……? この感じは……?)
 僕は言い難い不安と焦燥感を感じていた。
 べつに来ないかもしれないという事に対しての不安ではない。それならこの不安と焦燥感の正体は一体何なのかと言われると、上手く言い表す事ができない。だからこそ恐ろしいのだ。
(何なんだ? なんでこんなに不安なんだ……?)
 これからユーリに会うというのに、この不安を(はら)んだ胸騒ぎは一体何なのか。
 言葉にできない不安と焦燥感に押し潰されそうになり、堪らず胸に手を当てたその時だった。
「サツキ……君?」
 そう背後から声が聞こえた。反射的に息が止まる。
 辺りの雑音は遮断され、心臓の鼓動音だけが頭の中で鳴り響いている。
 まるでその瞬間だけ僕以外の全ての時間が停止したかのように感じられた。
 声の方にゆっくりと振り返る。
 視線を上げてその先にいる声の主を確実に視界に捉える。
 そしてその姿を見た僕は……停止した。

 僕の視界の先に佇んでいる眼鏡を掛けた女性。その女性の姿を見た瞬間に僕は呼吸ができなくなった。
 女性にしては妙に大きな体躯。ニキビに覆われた腕。乾燥した髪。そして何より、その醜い容貌。
 その顔はまさに『醜悪』そのものだった。
 そして僕は直感的に、その視線の先の女性がユーリ本人であるという事を認識していた。
 どういう訳か、息を吐いたのにも関わらず息を吸おうとしても上手く口が動かせない。
 僕は衝撃だった。まさかこの目の前の女性があのユーリだなんて。
 ユーリは何を言う事もなく、こちらを見つめている。
 僕は今にも足から崩れ落ちそうだった。
 自分の中の言葉に言い表す事のできない何かが、大きな音を立てて崩れ去っていくのを僕はただ聞いているしかなかった。
「…………っ!」
 堪らず、僕は走り出した。ユーリの方にではなく、自分の家の方角に向かって。
 僕は受け入れたくなかった。
 これまでの全てが、裏切られたような気がした。
 伊藤と援助交際をした事も、ミナミと出会った事も、カノと最期の時間を過ごした事も、榛野さんに嫌われた事も、何もかも全てユーリの為ならと自分に言い聞かせられていたような気がしていた。ユーリの為ならどんな事も乗り越えられるような気がしていた。
(それなのに……っ! それなのに……っ!)
 僕はただ、ひたすらに走った。
 後先なんて考えていなかった。
 もう何もかもがどうでもよかった。
 僕の頭は、ユーリへの失望の気持ちと裏切られたという気持ちでいっぱいだった。
 もう連絡を取ろうとは思わなかった。
 もう何も考えたくなかった。