『それ』は、突然始まった。
『yuuri123456:ねぇ、『エンコー』してみない?』
「えっ……」
 画面に表示されたシンプルな四文字。僕はそれについて必死に頭の中の細胞を総動員させる。
「え、『エンコー』って……もしかして……」
 一瞬他の可能性も考えたが、そんな事は正解ではない事を瞬時に頭で把握する。
 僕が必死に頭を働かせていると、ユーリは躊躇(ためら)う事なくその単語を送信してきた。
『yuuri123456:そう。援助交際の事だよ』
「……っ!」

 その言葉にハッと息が詰まる。
 ……援助交際。その言葉が一体何を表し、一体何をする行為なのかも僕は知っていた。
 僕はすぐさま拒絶の連絡を送信する。
『satuki329:ありえない』
『satuki329:やる訳ないだろ』
 すると、ユーリからすぐに連絡が返ってきた。
『yuuri123456:まぁまぁ』
『yuuri123456:とりあえず聞くだけ聞いてみてよ』
『yuuri123456:私の『お願い』』
 僕が返信せずに黙っていると、ユーリは話し始めた。
『yuuri123456:今違うサイトで話してるおじさんがいるんだけど、こっちから持ち掛けて実際に会う事になったの』
『yuuri123456:サツキ君には私の代わりにその人の相手をしてほしくて』
『yuuri123456:もちろん、援助交際の事はお互いに知ってて、私は男って設定にしてある』
『yuuri123456:あ、ちなみにお金はサツキ君が全部貰っていいから』

 すると突然、ユーリから思ってもない情報が飛んできた。
『yuuri123456:サツキ君、澄川に住んでるんだよね?』
「なっ……!?」
 な、なんでその事を……!? しかもユーリが知ってるんだ……っ!?
 突然、自分の情報を出された事によって僕は動揺した。まさか自分の住んでいる場所を当てられるなんて思ってもみなかったからだ。仮に当てずっぽうに言っているんだとしても、あまりにも当たりすぎている。

 僕がどうして知っているのかと聞く前に、ユーリは話し始めた。
『yuuri123456:豚骨野郎さんから聞いたよ。クエストの時に遠回しに聞いてみたら全部教えてくれた』
『yuuri123456:サツキ君、澄川高校に通ってるんだよね? 澄川に住んでて』
『yuuri123456:ダメだよー? 簡単に他人に自分の行ってる学校なんて教えちゃ』
『yuuri123456:そういえばバイトもしてるんだよね? じゃあ電車代とかは大丈夫か』

 バ、バイトの事まで……!
「あ……あいつ……っ!」
 全部筒抜けじゃねぇか……っ!
 簡単に自らの情報が次々と出てくる事に本来ならば驚くのが一般的な反応なのだろうが、僕の気持ちはそれ以上に豚骨野郎さんへの怒りで溢れていた。確かにネットの人間に簡単に情報を教えてしまった僕にも非はあるかもしれないが、それをいとも容易く他人に流出する豚骨野郎さんにも腹が立つ。もはや豚骨野郎さんというより豚骨野郎である。
『yuuri123456:そういえば、学校近いんだね』
『yuuri123456:ビックリしたよ。私も結構近いんだ』
「え……? そうなのか……?」
 一瞬、学校が近いというユーリの情報に気を引かれかけたが、そんな事は豚骨野郎への怒りと援助交際の話ですぐにどこかへ飛んでいってしまった。
『yuuri123456:ちなみに、集合する場所とラブホテルはこっちで既に指定してあるから』
『yuuri123456:それと、当日は制服で来てほしいって』
『yuuri123456:こんな感じだけど、どうする?』
「ど、どうするって……」
 僕は心の中に浮かんだ純粋な疑問をユーリにぶつける事にした。
『satuki329:元々俺に行かせる予定だったの?』
 ユーリからの連絡はすぐに返ってくる。
『yuuri123456:そうだよ。じゃなきゃ男のフリなんてしないでしょ?』
「……どうして」
 そう、口から言葉が漏れていた。
『satuki329:どうして俺に、そんな事させるの?』
『yuuri123456:理由?』
 僕の問いに対して、ユーリはあまりにもあっさりと答えた。
『yuuri123456:そんなの、面白いからに決まってるじゃん』
「……っ!」
 その瞬間、まるで僕の体に電流が走ったようだった。
『yuuri123456:どうする? やる?』
「そ、そんなの……」
「……やる訳ないだろっ!」
 つい怒った勢いで立ち上がってしまう。
 それは当然の答えであった。
 無意識にそう口から飛び出していた。いくらユーリの頼みといえどさすがに限度がある。
 そしてもう一つの理由として、僕の頭の中であのユーリの言葉が浮かび上がっていた。

(そんなの、面白いからに決まってるじゃん)

 僕は許せなかった。
 こいつならやるだろう。こいつならどうせ従うだろう。そんな思いがユーリの言葉の節々から伝わってきている事が、ユーリに下に見られている事が僕は許せなかった。
 僕は怒りのままに拒絶の言葉を入力する。
『satuki329:やらない』
『satuki329:やる訳ないだろ』
 断りを入れると、しばらくしてユーリから連絡が返ってきた。
『yuuri123456:ふーん』
『yuuri123456:やんないんだ』
『yuuri123456:まぁいいけど』

 ……何だ、これは。
 なんで、僕がモヤモヤするんだ?
 こう言うのは当たり前の事なのに。
 断って当然の事なのに。
 間違ってるのは向こうの方なのに。
 どうして僕が間違ったような気になるんだ?

 ……いや、違う。
 僕はきっと、もう気付いている。
 もう気付いてしまっている。
 学校ではいじめられ、バイトでは蔑まれ、こんな僕に現実世界での居場所なんてものはどこにも無かった。
 こんな僕が存在していいと初めて心から思えたのはネットの世界だけ――ユーリと話している時だけだった。
 僕はきっと、認められたいんだ。ユーリの欲求を満たす事でユーリ自身に僕は存在していいって認めてもらいたいんだ。そして僕は――。

 それを『気持ちいい』と思ってしまっている。
 ユーリの欲求を、『お願い』を叶える事を快感に感じてしまっている。僕はもうその事に気付いてしまっているんだ。例え利用されていたとしても、それでいいさえと思ってしまっているんだ。
 もっとユーリの欲求に応えたい。もっと僕を必要としてほしい。

 僕はきっと、どうしようもないんだと思う。どうしようもないからこそ、ユーリの欲求を満たす事で自分自身の存在を認めてもらいたい。ユーリは僕を使う事で欲求を満たしたい。僕はある意味、ユーリとの関係に依存していると言っても過言ではないのかもしれない。
 間違っているのは分かっている。歪んでいるのは分かっている。しかしもう僕は、その関係に(すが)る事でしか自分を満たせないのだ。

 僕らはきっと、どうしようもないくらいに『間違ってしまっている』。

 僕は、ゆっくりとキーボードに文字を打ち込んでいく。
『satuki329:ごめん、やっぱり――』
 僕が文面で目的を伝えると、ユーリはその男の名前と集合日時、集合場所について伝えてきた。

 ***

 電車の中で揺られながら、僕は集合場所に着いた後の事を考えていた。
 一体何をされるんだろう……。
 手すりを掴んでいる手に力が入る。
 ……緊張? 緊張しているのか、僕は。
 その恐怖にも緊張にも似た感情を胸に、僕は目的の場所へと向かっていた。

 ***

「……ふぅー」
 慣れない街、行き交う他人の群れ。目的の場所に着くと、僕は自分を落ち着かせる為に深呼吸をした。
 『援助交際』という本来僕とは違う世界の言葉であるはずの存在が、目的の場所にたどり着いた事によって現実味を帯びてくる。
 僕は気が気じゃなかった。あまりの緊張にどうにかなりそうだった。一体これから何をされるのか、僕はどうなってしまうのか。半ば勢いで来たものの、僕はやっぱり怖かった。
 目的の時間までもうすぐだ。そう思ったその時だった。
「あのぅ……さっ……サツキさん……ですか?」
 そう背後から声を掛けられる。声に引き寄せられるように振り向くと、そこにはよれた背広を着た三十代半ばの男が立っていた。背中にはリュックサックを背負っている。
「……っ」
 極度の緊張からか、つい目の前の相手に対して警戒心が態度に表れてしまう。
「あっ……い、伊藤で、す……」
 その男は(ども)りながらも自分の名前を名乗った。
(伊藤……という事は……)
 事前にユーリから聞いていた名前と一致している。つまり、僕が今日会うべき男はこの男なのだ。
「さっ……サツキさん……でっ、ですよね……」
 僕は恐る恐る、まるで生まれたての子鹿のように声を出した。
「はっ、はい……」
「い、伊藤さん……ですか……?」
「ふっ……ひひ……はい……そうです……」
 その男、『伊藤』は気味悪げに微笑しながらもそう返事をした。
「サツキさん……初めましてですね……へへ……」
 サツキ……という事は、どうやらユーリはご丁寧に普段から僕の名前を名乗っていたらしい。
「へへ……それじゃあ……」
「行きましょうか……」
 そうして僕らは、目的地のラブホテルへと向かったのである。

 ***

 伊藤の手によって、静かに部屋の鍵がかけられる。
 部屋の鍵が施錠された音は、『この部屋に僕と伊藤の二人だけしかいない』という事実をより鮮明にし、僕の緊張をさらに高まらせた。
「…………っ」
 緊張でどうにかなりそうだ。
 伊藤はベッドに背負っていたリュックサックを置くと、なにやらゴソゴソと何かを探し出した。
「あっ……いっ……!」
「言っておきますけど! 変な事はしないですからね!」
 緊張のせいで少し声がうわずってしまったが、僕は確かに伊藤にそう言い放った。にも関わらず、伊藤はこちらを気にする様子もなく、リュックの中を探しながらこう言った。
「わ……分かってますよ……。変な事はしませんから……あ、あった」
 そう言うと伊藤はリュックサックの中からハンディカメラを取り出した。
「そっ……それじゃあ、まずは……制服を脱いでください」

 ***

 部屋に鳴り響くシャッター音。脱ぎ捨てられた服の数々。僕はトランクス一枚だけを着用したまま写真を撮影していた。
「……っ」
 制服を脱がせられたあの後、僕は様々な写真を撮影された。伊藤はリュックサックに大量のコスプレ用の服を持参して来ており、僕はそれらを着て何枚もの写真を撮影したのだ。
「ひひっ……良い……良いですね……っ」
「……じ、じ、じ、じゃあ、こ、今度は違うポーズ……してみましょうか」
 伊藤は吃りながらも次の指示を出してくる。
「…………っ!」
 僕は恥ずかしい気持ちを何とか抑えて、伊藤に従った。
「いっ、ひひ……良いね……あ、そ、そうだ。飴食べる? 飴……」
「飴……?」
 そう言うと伊藤はリュックサックから様々な種類の飴が入った袋を取り出した。
「は、はい……どうぞ……」
「あ……ありがとうございます……」
 袋の中にはみかん、桃、ぶどう、マスカット。りんご、レモン、パイナップルなど、様々な味の飴が入っている。
 僕はその中からマスカットを選んで袋から取り出すとその飴を口の中に入れた。
「そ、そうだ……渡さなきゃ……」
「……?」
 渡すって、一体なんの事だ?
「は、はい……これ……」
 すると伊藤は自分の財布から万札を三枚も取り出して、こちらへ渡してきた。
「なっ……!?」
 僕は伊藤が取り出した突然の大金に驚愕する。
「いっ、いいですよ! こんな大金……!」
「いや……でも……。写真……撮ったから……」
「……あっ」
 伊藤の言葉にハッとする。
 今自分がしている行為。脱ぎ捨てられた服の数々。自分の格好。そして目の前で伊藤が取り出した大金。今自分が何をしているのかをそれらの光景を目にしてはっきりと自覚する。
「う……」
 いくら脱いでるからとはいえ少し気が引けるが、僕は伊藤から三万円を受け取った。
「…………っ」
(こ……これで……三万円……っ!)
 僕は伊藤から受け取った目の前の三万円から目が離せなかった。まるでその三枚の万札を見ていると自らの内側から金銭感覚がどんどんと塗り替えられていくようだった。
 僕はその三枚の万札によって自らの金銭感覚が狂ってしまいそうになるのをなんとか食い止めていた。
「あっ……それじゃあ……今度は、あの服……着てもらおうかな……」
「……あの服?」
 伊藤の指した方向を見てみると、そこには僕がさっきまで着用していたメイド服が脱ぎ捨ててあった。
(また着るのか……?)
 僕は少し疑問に思いながらも、もう一度メイド服を着用した。

 ***

「……あの、これでいいですか」
 僕は恥ずかしながらもそう口を開いた。
「ふっ……ひひ……うん」
「こっ、これで……これでいいよ」
(どうして……またこんな……っ!)
 一度着用したとはいえ、恥ずかしいものは何度着ても恥ずかしい。フリフリのレースにふわっとした黒い生地。男子には似つかわしくない、可愛げのあるシルエット。
 メイド服の二度目の着用に、僕は顔から火が出そうだった。
「こ、ここって、外出OKだよね?」
「……え?」
「……確か、よかったと思いますが」
「じ、じゃあ、大丈夫か、へへ……」
 僕は一瞬、伊藤が何を言いたいのかがよく理解できなかった。しかし、すぐにその意図が分かると僕はありえないと言わんばかりに猛反対した。
「……っ!」
「……いっ、嫌ですよ!」
「まさかこんな格好で……そっ……外に出るなんて……っ!」
 それは僕にとって最悪の選択だった。今この格好をしているだけでもどうにかなりそうだというのに、まさかこのまま外に出るなんて、それこそ(もっ)ての(ほか)だ。

「こっ、こっ……これ……これで……」
 伊藤は吃りながらそう言うと、なんと財布から万札を四枚も取り出してきたのだ。
「なっ……!」
 僕はその圧倒的な金額に声も出なかった。いや、出せなかったのだ。
「こっ……これっ……で……!」
「ぐっ……!」
 ありえない。こんな金額で承諾するはずがないだろう。そうだ。言ってしまえ。
 こんな大金を払っていれば人をなんでも自分の思い通りにできると思ったら大間違いだと。はっきり言ってしまえばいいのだ。
 ……そのはずなのに。
 僕は声が出なかった。
 そう。メイド服を着用したままの外出を断固として拒否している高校生の僕を揺るがすのに四万円という金額はあまりにも大きすぎたのだ。

 ***

『あれ何……?』
『なんかの撮影……?』
『何だ……アレ……?』
 近くを通り過ぎる人達の声が容赦なく背中に突き刺さる。結局僕は伊藤の大金に釣られて、メイド服の姿のまま伊藤と共に外へ出てきてしまったのであった。
「うっ……うぅ……」
 夜の街を似つかわしくもないこんなメイド服の姿で歩いているのだ。当然周りの人間はどういう事かとこちらへ視線を向ける。まるで全ての人間が僕を見ているかのように感じる。僕は緊張とあまりの恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだった。
「へへ……欲しいCDがあるから、し、CD屋に、い、行こっか……」
 吃りながらも、伊藤はそう言いながら僕の前を悠々と歩く。その手には先ほどまでラブホテルで手にしていたハンディカメラは持ち合わせてはいない。
 おそらく、メイド服の姿をした僕を連れ回せるだけで十分なのであろう。
「……っ!」
 僕は恥の感情をなんとか押し殺し、出来るだけ人に見られないように小さく体を縮こませながら、伊藤の後を付いていった。

 ***

「え……えーっと……あっ二千三百四十円になります」
 そうCD屋の店員が金額を伊藤に告げる。おそらくメイド服の僕に釣られて目の前の会計どころじゃないのだろう。
「こっ……これで、お願いします……」
 僕の前で伊藤が会計を済ませようとしている。僕は一刻も早くここから立ち去りたかった。会計が終わるのを今か今かと待っていると、背後からざわざわと他の買い物客達の声が聞こえてきた。
『何……あの格好……』
『何……あれ……?』
 『普通ではない格好をしている』という認識とあまりの緊張状態からか、他の買い物客達の声がより鮮明に、より明瞭に聞こえてくる。もう誰も僕を見ないでくれ!
「あ、ありがとうございました……」
 呆気にとられる店員を横目に僕らはようやく店を出た。
「じ、じゃあ……次は、あっちね」
 そう言うと、伊藤は次に百円ショップを指差した。

 ***

「こ、こちらが一点ですね」
 どういう訳か、伊藤が購入したのは百円のプラスチックでできたバット一本であった。
 動揺する店員に、背後から聞こえてくる声。二回目ではあるが、僕はこの好奇の目に晒される状況に耐え難い緊張を覚えていた。
(早く……!)
(早く終わってくれ……っ!)
「こ、こちらがレシートになります……」
「あ、ありがとうございます……」
 伊藤が店員からレシートを受け取ると、僕らは百円ショップを後にしたのだった。

 ***

 買い物を終えた僕らは、再びラブホテルの一室に戻ってきた。
 すると伊藤は何を口にするでもなく突然服を脱ぎ始めたのだ。
「なっ……」
 突然の事に驚く僕を気にする様子もなく、まるで急かされているかのように服を脱ぐ伊藤。そのまま服を脱ぎ続け下着一枚のパンツ姿になると、伊藤はベッドの上に四つん這いになって僕に向かってこう言った。
「ば……バットで……ぼ、僕を……な……(なぶ)って……下さい……」
 その瞬間、僕の中に火がついた。
「……っ!」
 僕は近くに置いてあった飴の袋の中から適当に飴を一つ選び、袋の中から取り出すとそれを乱暴に口の中へと入れた。そして右手に持っていた百円のバットを勢いよく振りかざすと、そのバットを力のままに伊藤目掛けて振り下ろした。
 中身の無い空虚な衝撃音がラブホテルの一室に響き渡る。
 僕はそのバットを、何度も伊藤へ向かって振り下ろす。
「このっ……! このっ……! このっ……! このっ……!」
 軽いような重いような、空っぽな衝撃音が何度も部屋に響き渡る。
 僕は恥ずかしかった。いくら大金で了承したからとはいえ、メイド服姿で外を連れ回されたり好奇の目で何度も何度も自分を見られたりした事は僕にとって恥以外のなにものでもなかった。
 恥ずかしさ、怒り、不安。今日だけじゃない、これまでの生活で溜め込んできた全ての感情、鬱憤を僕は目の前の伊藤にぶつけたかったのだ。
「このっ……変態!」
「こんな格好で歩かせやがって……っ!」
 気付けばそう勝手に口が開いていた。僕は怒りと恥の感情の全てを伊藤に叩きつけたかった。
「くたばれっ……! このっ……! 変態……っ!」
「くたばれ……っ! くたばれ……っ!」
 僕は必死にバットを伊藤へ向かって振り下ろしていた。伊藤はというと、心から喜んでいるのか、本来吃った話し方をする伊藤だったが、僕に叩かれている時は吃る事なく声を上げて喜んでいた。
「はははははっ! もっとしてくれ! もっと……もっとやってくれ!」
「このっ……! 変態……っ! 変態……っ!」
「ははははは! もっと……もっとしてくれ!」
 部屋に何度も響き渡る空虚な衝撃音。僕から発せられる罵声とそれを喜んで受ける伊藤。僕らはそうして『普通じゃない』夜を過ごしていったのだ。

 ***

 伊藤の気が済むと、僕らはチェックアウトを済ませてラブホテルの外へと出てきた。
「今日はありがとう。すごく楽しませてもらったよ」
 一連のやり取りを終えて気が済んだ為か、これまでに何度も吃っていたあの話し方とは打って変わって、伊藤は吃る事なく僕に向かってそう言った。
「……え? あ……こちらこそ、ありがとうございました」
 伊藤の吃ることの無い話し方に不意を突かれ、僕も遅れて返事をする。
「それじゃあ、僕はこれで」
 そう言うと、伊藤は僕の言葉も聞かずに去っていってしまった。
「あっ……」
 去っていく伊藤の背中を見送ると、僕は思い出したように財布を出し、伊藤からもらった万札を数える。
「九万円か…………」
 手元の大金を見ながらそうため息混じりに一息つくと、僕は謎の疲労感を抱えたまま自宅に帰る事を決意したのであった。

 ***

『satuki329:帰ってきたよ』
 そうキーボードに打ち込んでいく。
 自宅に帰ってきた僕は早速、今日あった事の報告をしようとユーリにメッセージを送っている最中なのであった。
『yuuri123456:どうだった?』
 まるで待っていたかのようにユーリからの連絡はすぐに返ってきた。
『satuki329:変な事はしなかった。写真を撮ったりメイド服を着たりはしたけど、変な事は一切されなかったよ』
 僕はユーリに今日何があったかを正直に話した。
『yuuri123456:だろうね』
 ……ん? だろうね? だろうねってどういう事だ?
 まるで今日僕が何をしたかを知っているかのような話し方だ。
 ユーリの返信に疑問を抱いていると、ユーリからある一枚の画像が送られてきた。
「……ん? 何だこれ……」
 通知音とともに送られてきた一枚の画像。内容は暗くて目を凝らさないとよく見えない。
「――えっ!?」
 そこには信じられないものが写っていた。
「こ……これって……っ!?」
 制服を着た高校生、よれた背広を着た三十代半ばの男、そして後ろには堂々とそびえ立つラブホテル。
 ……間違いない。僕が伊藤とラブホテルに入る前の写真である。
「な、なんで――」
『yuuri123456:言ったでしょ。学校近いって』
 ユーリは僕が反応するのを待たずに次々と写真を送信してくる。

 僕が伊藤と初めて顔を合わせた時の写真。
 僕と伊藤が二人でラブホテルへと入っていく写真。
 僕がメイド服の格好をして伊藤とラブホテルから出てきた時の写真まで。
 その写真の数々には間違いなく『高校生の飯田皐月が成人男性と援助交際をした』という決定的な事実が捉えられていた。
『yuuri123456:いや~。私の言った通りちゃんと行ってくれて嬉しかったよ、サツキ君』
 目の前で流れるユーリの言葉は僕の頭には入ってきていなかった。僕はただ目の前の『伊藤との援助交際の写真』について様々な思考を巡らせている最中なのであった。
『yuuri123456:まぁ流石にメイド服姿で出てきた時は面白かったけど笑笑笑』

 ぐちゃぐちゃの思考の中で、僕はゆっくりとキーボードに文字を打ち込んでいく。様々な思案が頭の中を駆け巡る中で、僕はただ一つはっきりと言える事があった。
「……こ、こんなの」
 ……こんなの、間違っている。
『satuki329:こんなの、間違ってるよ』
 一瞬の沈黙があったかと思うと、すぐにユーリから連絡が返ってくる。
『yuuri123456:ふーん』
『yuuri123456:まぁ確かに私は間違ってるかもね』
『yuuri123456:でもそれはサツキ君も同じ』
『yuuri123456:この写真、間違って学校に送信したり、学校の誰かに見られちゃったりしたら一体どうなっちゃうんだろうね?』
「ぐっ……!」
 それは一種の脅迫であった。しかし、ユーリの言う事にも一理ある。もしこの写真が何かの間違いで誰かに見られたり、不意に誰かがこの写真の事を知ってしまったりしたら一体どうなる事だろう。しかも、それがもしメイド服の写真だったらと思うとゾッとする。それこそ本当の終わりだ。写真は瞬く間にクラス中、いや学年中に広まるだろう。
 そのユーリの脅迫は、僕を黙らせるのには十分すぎるほどの効力であった。

 黙った僕を見て、ユーリは最後にこう言ったのであった。
『yuuri123456:これからもよろしくね、サツキ君』