「皐月ー。ご飯だよー」
「はーい」
 母さんの声に返事をする。
 どうやら夕食の時間らしい。
 僕は母さんの待っている台所へと向かう。
「皐月ー。テーブルの上の料理持っていっておいて」
「うん! 分かった!」
 テーブルの上には色々な料理が置かれてあり、僕はそれらを居間へと運んでいく。
 全ての料理が居間のテーブルに並ぶと、僕達は向かい合って座り食事開始の挨拶をした。
「いただきます」
「いただきます」
 僕達は目の前の料理から好きなものを取り始め、次々に口へ運んでいった。
 すると、母さんが食事をとりながら話し掛けてきた。
「ちゃんと勉強はしてるの?」
 突然の質問に、僕は少し考える。
「勉強? うーん、どうだろうな……まぁまぁかな」
 少し歯切れが悪くなってしまったような気もするが、まぁ大丈夫だろう。
「まぁまぁじゃダメでしょう? ちゃんと勉強しなきゃ」
「どうせ、あと二ヶ月も休みなんだから」
 母さんに痛いところを突かれ、つい苦しい声が出てしまう。
「うっ……」
「そ、それは言わないでよ……」
 苦笑いを浮かべながら、僕は母さんに言い方を優しくするように頼んだ。

 母さんと和解したあの日から一ヶ月。
 僕は母さんと言葉を交わすようになっていた。
 今まで二つに分かれて暮らしていた僕達の生活は、和解した事によって一つになった。
 母さんと和解してからというもの、四六時中、自分の部屋に引きこもって憂鬱な気持ちで過ごすだけだった僕の生活は、好きな時に部屋の外に出て母さんと話すという生活に変わっていった。
 以前までは別々にとっていた食事も、母さんと時間を合わせる事で二人でとるようになり、日常的な会話も次第に増えていった。
 母さんと話すようになった事で僕は自分の部屋を開放し、自由に家の中を動けるようになった。
 僕は些細な話でも母さんに話す事が多くなり、母さんの方からも僕に対して気軽に話してくれる事が多くなった。
 家族の不和から解放された事で、これまで遠く離れていた僕達の距離感はだんだんと普通の家族の距離感に戻っていった。
 仲が悪い時期もあったが、こうして僕と母さんは普通の家族の形に戻る事ができたのだった。

 母さんは僕の目の前で、微笑みながら料理を口に運んでいる。
 その母さんの様子を見て、僕は母さんと久しぶりに食事をとった時の事を思い出す。
 今でこそ慣れてはいるが、母さんと和解してからの初めての食事は緊張したものだ。
 緊張のあまり、僕の前で食べている母さんに対して視線も合わせられず、返事もしどろもどろになってしまっていたあの時の自分の滑稽さを思い出してつい笑ってしまう。
「ふふっ……」
 小さく笑っている僕に気付いた母さんが声を掛けてくる。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない……」
 なんとか誤魔化そうとするが、あの時の自分を思い出してしまい、僕は笑いが止まらない。
「ははははっ……はははっ……」
 すると、母さんも僕につられたのか小さく笑い出した。
「ふふふふ……」
「ははははは……」
 僕達はお互いに笑っているのが面白くて、しばらく笑い続けた。
 僕達は何を話すでもなく、料理を食べながら温かい団らんの時間を過ごしていた。

 ***

 昼、自宅の自室にて僕は何冊もの教材と向き合っていた。
 三ヶ月の停学処分を受けた事で、僕には大量の時間ができた。
 それを見た母さんは僕に対して、三ヶ月の間どうせ時間が空くのだから勉強していたらどうかと勧めてきたのだ。
 確かに僕は人より成績が良い訳ではないし、特にこれといってやる事もなかったので可能といわれれば可能なのだが、正直な気持ちを言うと面倒で仕方がなかった。
 僕自身勉強はあまり好きではなかったし、気も全くといっていいほど進まなかったが、和解した後という事もあり、母さんの純粋な気持ちからの提案を断る事はその時の僕にとってとてもではないができる事じゃなかった。
 という流れで、僕は今こうして机の前に座って目の前の教材と対峙している訳なのだが、和解してからの一ヶ月、つまり僕が自宅で勉強を始めてからの一ヶ月の間にある一つの問題点が浮き彫りになった。
 それは勉強時間だ。
 勉強時間といっても、ただの勉強時間ではない。『圧倒的な』勉強時間なのである。
 僕には、外で運動したりアウトドアの趣味に時間を使ったりという概念がない。
 休日を過ごす時は家で過ごすのが基本だし、外に出る事もあまり好きではない。
 となると、この停学処分期間中の三ヶ月間は家で過ごすのが基本となるのだが、母さんからの提案によってそれは大きく変わってしまう。
 家にいるという事はその時間は全て勉強できる時間という事。
 常に休日を自宅で過ごしている僕にとって、ただのいつもと変わらない休日だったはずの時間は全て勉強しなければならない時間に変わってしまったのだ。
 スーパーのパートか用事が入っていなければ母さんは常に家にいる。
 僕は常時母さんの監視下に置かれながら勉強をしなければいけなくなってしまったのだ。
 いくら自分のせいとはいえ、三ヶ月の停学処分というものは暇なもので、どうしても時間が空いてしまう。
 その有り余る時間が全て勉強の時間に変わるのだから僕にとってそれ以上の苦痛はない。
 僕は勉強による精神的苦痛に耐えながら日々の生活を送っていた。
「うーん……今日はここまででいいか」
 勉強が一段落したところで、僕は伸びをして何時間にもわたる勉強で疲労した体をゆっくりとほぐした。
 すると、部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。
「皐月ー? 入っても大丈夫?」
 音の主はもちろん母さんだった。
 勉強していた僕を気遣っての事だろうか、片手にはお菓子と飲みものが載ったお盆を持っている。
「これでよかった? 今家にあるものこれしかないんだけど」
「全然大丈夫だよ! ありがとう!」
 お菓子と飲みものが載ったお盆を渡される際に、僕はふと母さんの顔を見つめる。
 母さんが僕の視線に気付く。
「……ん? どうかした?」
「え? あぁ、いや……」
「なんていうか、前まではこんなの絶対なかったじゃん? だから、今こうして話せてるのが嬉しいなって……」
 僕がそう言うと、母さんはにっこりと微笑んだ。
「ふふふふ……」
 母さんの幸せそうな表情を見ていると、僕の方まで胸の奥が温かい気持ちでいっぱいになるのを感じる。
「はは、ははははは……」
 僕はなんとなく恥ずかしくなって、笑って誤魔化した。おそらく今の僕は上手く笑えていないだろう。
「ふふ、ふふ……」
「はははは……」
 僕達はお互いに笑い合っていた。
 幸せだった。これ以上の幸せはこの世には存在しないんじゃないかと思ってしまうほど、僕は心の底から満たされていた。

 ***

 母さんがいなくなった部屋で、僕はお菓子を食べていた。
 お菓子を食べていた手を止め、僕はこれまでの事を思い返す。
 学校の事、バイトの事、qQuitで出会った人達の事、自分自身の事。そして――ユーリの事。

 あの頃は何をしていても憂鬱で、苦痛に埋もれながら必死に救いだけを求めて足掻き続ける日々だった。
 現実はどうしても変える事ができなくて、ただ辛さや苦しみを受け入れる事しか自分はできないんだと思い込んでいた。
 救いを求めれば求めるほど陰鬱な現実はさらに増えていって、僕はどうしようもないほどに追い詰められていた。
 僕は幸せになっていい人間ではないんだと。
 救われていい人間ではないんだと。
 本気でそう思い込んでいた。
 しかし今はどうだろう。
 学校で問題を起こし停学処分にまでなったのに、僕は満たされている。
 心から幸せだと感じている。
 あの頃の僕からしてみれば、とても考えられない事である。
(……あの頃は、辛かったなぁ)
 過去の事を思い出そうとすると、頭の中で鮮明に様々な人との記憶が映し出される。
 石田達、店長、伊藤、榛野さん、ミナミ、カノ、ユーリ。
「……ユーリは、何してるんだろう」
 無意識に、そう口にしていた。

 ユーリとはあの文化祭の一件以降、話していない。
 ユーリからも連絡はこないし、僕からユーリに連絡する事もなかった。
 嫌いになったからとか興味がなくなったからとかそんな単純な理由ではない。
 僕は、母さんと和解する事で本当の幸せを見つける事ができたからだ。
 僕は母さんと言葉を交わすようになって心から母さんの事を思いやるようになった。
 母さんも思いやりを持って接してくれている。
 そうしてお互いがお互いを思いやり、共に時間を重ねる事によって、今こうして真に心で繋がっていると感じられるようになったのだ。
 そしてその心で繋がっている相手と交わすちょっとしたやり取りや共に過ごす時間、その相手との思い出こそ本当の幸せ、かけがえのない財産なのだと僕は気付いたのだ。
 これまでのような、苦痛から目を逸らしお互いに依存する事で傷の痛みを誤魔化し続けるだけのユーリとの関係ではなく、互いに思いやりを持って接する事で真に心で繋がる事のできる母さんとの関係の方が本当の幸せだと気付いたからだ。
 そしてその事実に気付いた瞬間。
 それは僕の中で、ユーリが僕にとって必要のない存在になったのだと気付いた瞬間でもあった。

 ユーリと初めて会った日の事を思い出す。
 あれから長い時間が経った。
 ユーリは今、何をしているんだろうか。
 僕は目の前にある電源の入っていないパソコンを見つめ、少し考える。
「……よし!」
 意を決し、僕がパソコンの電源を入れようとしたその時だった。
「皐月ー! ちょっとこれ手伝ってくれないー!?」
 母さんに呼ばれてしまった。
「えっ!? あっ、うん! 今行くー!」
 突然だったので驚いたが、僕は返事をする。
 結局、パソコンの電源に手は触れる事なく僕は母さんのもとへと向かった。

 ***

 その日の深夜、僕は机の前に座りおもむろにパソコンの電源を入れる。
 部屋に電子の光が灯ると、僕はqQuitへログインした。
 目的はただ一つ、ユーリのチャット欄だけだった。
 僕は、qQuitに熱中していた頃の記憶を思い出していた。
 メッセージを確認する。
 そこにはたった一件、誰かからのメッセージが届いていた。
 僕は静かに、差出人とメッセージの内容を確認する。
「……やっぱり、俺らって気が合うんだね」
 そのメッセージを見た瞬間、僕はそう口を開いていた。
 画面には僕の予想していた相手――ユーリからのメッセージが表示されていた。
『yuuri123456:ねぇ、もう一回会おうよ』
 それはユーリからの誘いだった。
 メッセージの送信日は昨日になっている。
「一日違いか……」
 送信日を見ながら僕は小さく呟き、立ち上がって伸びをした。
「こんなに気が合うなんてね」
 ユーリの誘いに応じるか、応じないか。
 僕は迷う余地などなかった。
 というより、初めから心に決めていた。
 僕はすぐにユーリのメッセージに対して返信する。
 後は、その日がやってくるのを待つだけだった。

 ***

「ねぇ、大丈夫なの?」
 荷物をまとめた僕に母さんが話し掛けてきた。
「うん。大丈夫だよ」
 僕は落ち着いた口調で母さんに返事をする。
 母さんは不安そうな顔でこっちを見つめていた。
「……どうしたの?」
 僕は母さんに聞いてみる。
 母さんは言葉に詰まりながら僕に言った。
「あの、なんていうか……どこに行くかは本当に言えないの?」
 母さんは心配そうな口調で僕に聞いてくる。
「……うん。ごめんね、言えなくて」
「じゃあ、何をしに行くかは? 誰と会うの?」
 不安で胸がいっぱいなのか、母さんは次々に質問してくる。
「ごめんね。それも言えないんだ」
 僕がそう返すと母さんの表情はさらに曇ってしまう。
 気付けば家を出る時間が迫ってきていた。
「あ! そろそろ行かなきゃ……」
「それじゃ、行ってくるね! 母さん!」
 そう声を掛けても母さんの表情は曇ったままだ。
「うん……行ってらっしゃい」
 母さんの声を背中で受けると、僕は玄関の前で立ち止まり振り返ってはっきりと言った。
「行ってくるよ。安心して、母さん」
「俺は絶対に母さんの子供だし、必ず帰ってくるから」
「だから……心配しないで」
 その言葉を聞いた時、それまで曇っていた母さんの表情はまるで花が咲いたように明るくなった。
「うん……! うん!」
「それじゃ、行ってくる!」
「うん! 行ってらっしゃい!!」
 母さんの明るくなった声を背中に受けながら、僕は家を出たのだった。

 ***

 見た事のある景色。
 通り過ぎていく他人の群れ。
 耳に流れ込んでくる騒音。
 僕はあの日のように、再び澄川駅へとやってきていた。
 目を閉じて、深く息を吸う。
 新しい空気が体に流れ込み、周囲の音がより一層鮮明に聞こえる。
 まるで頭が冴えていくような感覚だ。
 どういう訳か、僕の心は落ち着いていた。
 深呼吸を終えると僕はゆっくりと目を開き、あの日の事を思い出していた。
(ユーリ……あの日ももう三ヶ月前か)
 ……ユーリ。
 あの日qQuitで知り合ってからここに来るまでに、本当に様々な事があった。
 目を閉じれば、ここに来るまでの沢山の事の光景が鮮やかに脳裏に映し出される。
 これまでの事を鮮明に思い返しているその時だった。
「……サツキ君」
 背後から聞いた事のあるあの声が聞こえてきたのは。
 僕はゆっくりと振り返る。
 振り返った先の視界には、あの日僕が澄川駅で待ち合わせた見覚えのある女性――ユーリが立っていた。
「……ユーリ」
 自然にそう口からこぼれていた。
 あの時と変わらないその姿。
 僕はどうしてか、言葉を発するつもりにならなかった。
 べつにユーリの外見に失望しているからという訳ではない。
 ここに来るまでの大変だった道のりを思っての事だろうか、僕はなぜか言葉を発する気になれなかった。
「来てくれたんだね」
 先に話し始めたのはユーリだった。
 僕も自分の役割を思い出したかのように話す。
「あ、うん……ユーリこそ、来てくれたんだね」
「まぁね……」
 ユーリはさらに続けた。
「ねぇ、案内してよ……私、ここの事あんまりよく知らないから」
「いいとこ、連れてってよ」
 ユーリからの要望に対し僕はすぐに答えた。
「それならいい所があるよ」
「実はもう、行く所決めてたんだ」

 ***

 静かな波。視界の先に延びていく浜辺。そして何より、眼前に広がる深い青。
 僕らは駅の近くにある海へとやってきていた。
 いつもは親子連れや観光客、カップルなど多くの人の姿が見られるが、今日は珍しい事に全くといっていいほど人がいなかった。
 僕は目を瞑って音を聞く事に集中する。
 すると耳には穏やかに流れる波の音が入ってきた。
「……いい所でしょ」
 僕は目を開いて、目の前の広大な景色を見ながらユーリに話し掛ける。
「……なんとなく分かってたよ」
 ユーリは小さく答える。
「ははは、そっか」
 僕は笑いながら返した。
 ここに来るまでの間、僕とユーリはあまり言葉を交わさなかった。
 ユーリが何を思ってるのかは分からないが、僕は落ち着いた気持ちでこの場所に立っていた。
「ねぇ、ユーリが嫌じゃなかったらだけどさ……」
「海、入っちゃわない?」
 僕はユーリに提案した。
「入るって?」
「浜辺の所でさ! 足だけでいいから」
「ふーん……まぁ、いいけど」
 そうして僕らは荷物を置いて靴を脱ぎ、波に接する箇所だけ服をまくり上げて足を浜辺の波に入れた。
「おぉ〜……! やっぱ冷たいね!」
 僕は小さな子供のように興奮する。
 一方ユーリはそんな僕とは対照的に無表情で喜ぶ様子も見せない。
「……まぁ、冷たいね」
 波に足を入れた勢いで僕は早速話を切り出す事にした。
「さ! じゃあ、話そうか」
「お互い、隠し事はなしでさ」
 隠す事なんて、馬鹿馬鹿しい。
 僕はそうとまで思っていた。
 ここまで僕が人に対して強気に出られるのは、これまでにqQuitで色々な事を話したユーリだからだろうという事を僕は自分で分かっていた。
「……いいよ」
 ユーリも静かに話し始める。
「何から話す? 私の事? それとも、サツキ君の事?」
「じゃあ、俺から話すよ」
「ユーリが知ってる事も……ユーリが知らない事も」
 そうして僕は波に当たりながら、僕の人生に関わる事全てを話し始めた。
 学校で石田達にいじめられている事。
 その事によってクラスの不和の中心にさせられている事。
 バイト先で店長に嫌われている事。
 母さんとの軋轢(あつれき)の事。
 qQuitは現実のストレス解消の為に始めた事。
 伊藤との援助交際の事。
 ミナミに言われた言葉の事。
 死んでしまったカノの事。
 榛野さんの写真を隠れて撮って嫌われた事。
 文化祭で問題を起こし、その後母さんと和解した事も何もかも全て。
 僕は自分の中にある全てを吐き出すかのように話した。
 ユーリはそれをただひたすらに黙って聞き続けていた。
「……こんな感じかな」
 全て話し終わると僕はユーリの方へと向いた。
「次、ユーリの番だよ」
「……うん」
 ユーリは波に当たりながら答える。
 一瞬、動きが止まったかと思うとユーリはこっちを向いて話し出した。
「それじゃあ……話すね」
 ユーリは語った。
 自身の醜悪な外見にずっと思い悩んでいる事。
 両親が裕福で何一つ不自由ない生活を送っている事。
 その事と外見が原因で学校で酷いいじめを受けている事。
 qQuitはそのストレス解消で始めた事。
 外見の事によって何度も自らの命を絶とうとした事。
 ユーリはその全てを話した。
「……これが私の全部」
「醜く生きるって、罪だよね」
 ユーリは乾いた笑いを浮かべながら呟いた。
 僕は、何も言わなかった。
 というより、何も言えなかった。
 その人が本気で悩んで、本気で苦しんで、本気で向かい合った問題について簡単に口を出していい訳がないと思ったからだ。
「ねぇ、サツキ君はどう思う?」
 ユーリはこっちを向いて問い掛ける。
「私みたいなブス、生きてる価値あると思う?」
 ユーリはヘラヘラと笑いながら聞いてくる。
「そ、それは……」
 僕は答える事ができなかった。
「ううん、ないよ」
 ユーリは自分で答えた。
「ブスにはね、生きてる価値がないの」
「だからね、死ぬしかないの」
「サツキ君だって、逃げたもんね」
 そうだ、その通りだ。
 僕はあの日逃げた。
「……うん、逃げたよ」
「自分の勝手な理想と現実の差に耐えられなくてね」
 気付けば勝手に口が開いていた。
「でも、そんなの間違ってた」
「あの日、ユーリから逃げるべきじゃなかった」
 僕は自分の愚かさがユーリを傷付けてしまった事に対する申し訳なさから頭を下げた。
「ごめん」
 頭を下げているのでユーリの表情は分からない。一体どんな表情をしているのだろう。
 そんな事を考えた時だった。
「……はっ。下らない」
 ユーリは鼻で笑った。
「何それ、それで満足したつもりなの?」
 僕はゆっくりと顔を上げる。
「べつに許されると思ってないよ」
「そんなんじゃないよ!」
 ユーリは声を荒らげ、こっちを振り向いた。
 その勢いで周りの水も不規則に跳ねる。
「下らないんだよ! 全部全部!」
「よかったじゃん、お母さんと仲直りできて」
「もう私は必要ないんだね、じゃあ!」
 ユーリはそう言うと、どんどん海の深い方へと進んでいく。
「なっ……何してんだよ!」
 ユーリは濡れていく服も気にせずさらに進み続ける。
「や、やめろって!」
 僕は深い方へと進むユーリの肩を掴んで止めようとする。
 僕に肩を掴まれたユーリは必死に抵抗する。
「やっ……邪魔だよ!」
 僕も負けじと、ユーリを海の浅い方へ引き戻そうと力を込める。
「やめろっ……! 離せよ!」
 必死に抵抗するユーリを僕はなんとか海の浅い方へ引き戻す。
「……っうざいんだよ!」
 気付けばユーリは涙を流していた。
「ゆ、ユーリ……」
「うるさい!! 近付くな!!」
 するとユーリは持ってきていたのか、ポケットからカッターナイフを取り出した。
 僕の方へカッターナイフを向けるとユーリはカチカチと刃を出し始めた。
「鬱陶しいんだよ……!!」
「全部……! 全部……!!」
 ユーリは泣きながら叫ぶ。
「もう嫌なんだよ!! ブスとして扱われるのも、周りに見下されていじめられながら生きるのも……偉そうな顔して心配だけしてくる連中も!」
「あんたらの人生じゃないんだから関係ないじゃん!! あたしを勝手に巻き込まないでよ!!」
 ユーリは怒鳴り続ける。
「サツキ君だって、気付かなかったでしょ!?」
「確かに私も最初は自分を受け入れてほしくて化粧とかもなんにもしないで行ったけど! でも今回は違う!」
「最初会った時みたいにじゃなくて、ちゃんと化粧とかして髪にも気遣って! 腕のニキビもちゃんと隠したりして! サツキ君全然気付かなかったんじゃないの!?」
「そ、それは……」
 僕は言葉に詰まってしまう。
「結局ブスが化粧したって意味ないんだよ! 持ってるものが違うから変わんないんだよ!!」
 なんて言葉を掛けようか思考を巡らせていると、ユーリはなんと持っていたカッターナイフを大きく振り上げ自分の腕に深く突き刺したのだ。
「なっ……!!」
 その瞬間ユーリの顔が苦痛に歪む。
 痛々しくカッターナイフが刺さった腕から真紅色の血が流れ出てくる。
「い……いたっ……!!」
「おい!! やめろって!」
 僕は必死に声を上げながら、ユーリを止めようと近付く。
「来ないでよ!」
「このまま来たら死ぬからね!!」
 ユーリはカッターナイフが刺さった腕を僕に見せつけるように突き出すとそう言った。
 ユーリの言葉に動揺し、ユーリの体を傷付けないようにと僕は動きが止まってしまう。
 ユーリはさらに声を上げる。
「もう死にたいんだよ!! サツキ君もその死んじゃったカノさんみたいに死んじゃえばよかったんだよ!」
 ユーリは僕に向かってそう言うと、カッターナイフを腕から勢いよく引き抜き、もう一度同じ箇所へと突き刺した。
「いった……!!」
 僕はその光景を見て、我慢できずにユーリに向かって勢いをつけて近付く。
 なんとかユーリの体を掴んだ僕はカッターナイフをユーリの腕から引き抜き、ユーリを浜辺の方まで引き戻した。
「痛っ……!!」
 浜辺まで戻った僕らは引き戻した時の勢いでそのまま二人で倒れてしまう。
 お互いの体は波でずぶ濡れになってしまう。
「痛……!!」
 ユーリは出血した腕を押さえながら起き上がると、大粒の涙を流しながら泣き始めた。
「うぅ……もう嫌……」
「こんな醜い顔で生きたくない……」
 僕はユーリのその言葉を聞いた瞬間、両手で肩を掴んではっきりと否定した。
「そんな事ない!! ユーリは可愛いよ!!」
 それを聞いたユーリは泣きながら反論する。
「嘘つかないでよ!! そんなその場しのぎの事言ったって意味ないよ!!」
 ユーリの反論に僕はさらに声を上げる。
「その場しのぎなんかじゃねぇよ!! お前はこんなに可愛いだろ!!」
 そう言いながら僕はユーリの髪に手を伸ばす。
 その髪を撫でた途端、僕はそれまでユーリの事で必死だった事もあり、一気に緊張が解けた事とユーリへの思いで感情がまとまらなくなり、気付けば涙が溢れ出していた。
「なんでそんな事するんだよ……!! お前は一人の人間だろ……! もっと自分を大事にしてよ……!!」
 一気に様々な感情が押し寄せた事によって、僕の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
 僕は心のままにユーリに感情をぶつけた。
「もう泣くなよ……!! 大丈夫だよ……!!」
 僕は衝動的にユーリを抱き締めていた。
「もう大丈夫だから……!! ここにいるから……!!」
 ユーリは泣き喚きながら僕を抱き返す。
「ああぁぁ……!! どうしたらいいの……!!」
 僕は答える事ができない代わりに、抱き締めている腕に力を込める。自分の存在を知らせるかのように、精一杯の力を込めて抱き締めた。
「大丈夫だから……! 泣かなくていいから……!!」
 ユーリも感情をあらわにして大声で泣いていた。
「わあぁぁぁ……!! ずっとそばにいてよぉぉ……!! 辛かったよおぉ……!!」
 ユーリに応えるように僕も全力で抱き締めた。
 僕らは濡れた体も人目も気にせず、抱き合いながら二人で泣き喚いていた。
「醜くなんかないよ……!! 醜くなんかないよ……!! こんなにも綺麗じゃないかあぁぁ……!!」
 僕らは心のままに叫んでいた。
 全力で抱き締め合う事でお互いの気持ちを、存在を伝え合う。
 僕らは男女の境目を越えて、確かに心で通じ合ったのだ。